クリスチャンはどう生きるべきか

KASUMIGAOKA
2018/04/29
SERMON: “How Should Christians Live?”「クリスチャンはどう生きるべきか」  
TEXT: Hebrews 10:19-25

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日の箇所までの9章半にわたって、ヘブル書はキリストの栄光ある人格と御業に焦点(しょうてん)を当ててきました。これまで私たちは、イエス・キリストがどのようなお方で、人間のために何をしてくださったのかを学んできました。しかし今日の箇所からは、著者はキリストが私たちから 何をお求めになるかに私たちの注意を向けていきます。今から、私たちは、キリストの贖いととりなしの働きを受ける者たちとして、何をしなければならないのかを考えていく必要があります。ヘブル書10:19から手紙の終わりに至るまで、多くの実践的(じっせんてき)な励ましが与えられています。そこで私たちは、どのようにクリスチャンとして生きるべきかを示されるのです。これは、「クリスチャンのライフ・スタイル」がどうあるべきかです。使徒パウロはエペソのクリスチャンに対して次のように書いています。「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1)」これはヘブル書が書かれた真の目的でもあります。それは、私たちが栄光に満ちた救い主にふさわしく生きて行くための励ましなのです。 クリスチャン、ノンクリスチャンを含め、多くの人々は、クリスチャンの人生がどうあるべきかについて、前提(ぜんてい)を持っています。ある人達は、信徒たちが「してはいけない」ことによって、クリスチャンとしての人生が定義(ていぎ)できると考えます。彼らは、クリスチャンは人生におけるほとんどの喜びや楽しみを避けなければならないと考えています。しかし、このような考え方を聖書は教えていません。イエス様御自身は、日々の生活や人間関係において「制限的」あるいは「保守的」とは思われていませんでした。イエス様の敵は、彼を「食いしんぼうの大酒飲(おおざけの)み、取税人や罪人の仲間」と呼びました(ルカ7:34)。もちろん、イエス様は食いしんぼうでも大酒飲みでもありませんでした。しかし、イエス様は祭(まつり)や晩餐(ばんさん)の食事を避けたりはされませんでした。そしてイエス様ご自身はカナの婚礼(こんれい)のためにぶどう酒を提供されました。私たちは、自分たちの現代の文化の前提から、クリスチャンがどのように生きるべきかを学ばないように注意するべきです。むしろ、聖書から、キリストが私たちに求めておられるものを学ぶべきです。

今日のヘブル書の箇所は、クリスチャンの歩みのオープンさ、自信について描(えが)き出(だ)すことから始まります。まず第一に、19〜21節で、再びイエス・キリストが私たちのために何をしてくださったのかがまとめられており、このことは真のクリスチャンの人生についての揺(ゆ)るぎない基礎(きそ)になります。そして次に、22-25節で、救い主を喜ばせ、栄光を表すクリスチャンの人生についての、3つの積極的な指示が与えられているのです。それではこれらの節をみていきましょう。

II. THE FOUNDATION OF A CHRISTIAN LIFE クリスチャンの人生の基礎

ヘブル書は1章から9章までの教えを3つの節でまとめています(19-21節)。私たちには、主イエス・キリストによって与えられた2つの大きな強(つよ)みがあります。まず第一に、私たちは神の御前に自信や大胆さがあります。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」この箇所の聖所とは、エルサレムの神殿の聖所ではなく、神御自身が住まわれる天にある真の聖所のことです。クリスチャンは将来と大胆に向き合うことができます。つまり、人生における困難(こんなん)に対して恐れや不安を感じること無く歩むことができるのです。キリストが私たちに自信を与えてくださるからです。私たちは日々、キリストが神の聖所で私たちのために用意してくださった最終的な目的地に近づくことを知っています。私たちは、死んで神の御前に立つとき、その神の臨在から追い出されないことを知っているのです。なぜなら、キリストが私たちのために、個人的に天国の場所を「予約」してくださったからです。キリストはご自身の血によってその代価を支払ってくださったのです。 20節はこう言います。「イエスはご自分の肉体という垂(た)れ幕(まく)を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」この垂れ幕とは、神の神殿の中で、外側の聖所の部屋(へや)と内側の至聖所(しせいじょ)を隔(へだ)てていた垂れ幕を指しています。イエス様が十字架で死なれたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ27:51)」と書かれています。人と神様を隔てていた、分厚(ぶあつ)い垂れ幕は裂かれ、神様の臨在への新しい道が開かれたのです。神殿の垂れ幕は、人間を神の至聖所から隔てた、真の障壁(しょうへき)の象徴(しょうちょう)または「影」にすぎませんでした。その本当の障壁(しょうへき)とは、私たちの罪です。しかしヘブル書は、垂れ幕はイエス様の肉体でもあると言います。もし、パウロがイエス様と私たちの罪について、IIコリント5:21で書いていることを覚えていれば、この箇所を理解する助けになるでしょう。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」イエス様は私たちの罪を負って、私たちの代わりに死んでくださいました。イエス様が死なれた時、私たちと神様との間を隔てていた罪は、神殿の垂れ幕のように裂かれたのです。イエス様の十字架上の死は、私たちが神様に近づくための「道」になったのです。私たちのために開かれた、永遠のいのちに至る道です。

しかし、イエス様は私たちの罪のために死ぬことのみによって、私たちのために道を開かれたわけではありませんでした。イエス様はそれ以外にも同じように重要なことをしてくださったのです。イエス様は死からよみがえられ、肉体を伴(ともな)って天国に戻られました。神の右の座でイエス様は私たちを待っておられます。イエス様は私たちのためにとりなしてくださり、私たちの大いなる敵である悪魔の告発(こくはつ)から私たちを守ってくださいます。よみがえられた主イエスは、私たちを父なる神の御前で弁護してくださる方です。 21節では、「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」と言われます。イエス様こそがこの大祭司です。このような強力(きょうりょく)な味方がいてくださるからこそ、私たちは神様の聖なる裁きを恐れる必要はありません!だからこそ、私たちはキリストの贖いの御業に自信を持っており、イエス様が神の御前で私たちの偉大な大祭司としていてくださるからこそ、私たちは新しい生き方で歩むことができるのです。イエス様が成し遂げてくださった御業、そしていまもなお行なってくだっている御業は、私たちのクリスチャンとしての新しい人生の基礎なのです。そして次に、ヘブル書は私たちが、キリストによって贖われたクリスチャンとしてどのように生きなければならないかを教えています。

III. THE CHARACTER OF A CHRISTIAN LIFE クリスチャンの人生の特徴

ヘブル書は、私たちが行なうべき3つのことを勧めます。まず22節では、私たちは全き信仰をもって、真心(まごころ)から神に近づくべきだと言います。それでは、「神に近づく」とはどういう意味でしょうか?私たちが神様に近づくことができる一つの方法は、祈りの中で神様の御名を呼ぶことです。本当に祈るためには、神様が私たちの祈りを聞いてくださり、最善のものを与えてくださることを信じる、全き信仰を持つべきです。へブル書は11:6でこう言います。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」しかしヘブル書は、神様に祈る以上のことをするように私たちに求めています。私たちが本当に「神に近づく」ためには、意識的に神様をよく知ろうとする必要があります。日々御言葉を読んで、神のみこころを行いたいという態度を持つ者は、神に近づくことができるでしょう。そして私たちは兄弟姉妹とともに賛美と感謝のいけにえをささげることを通して神を礼拝する時、神に近づくのです。しかし、神様に近づくために、私たちがしなければならない最も重要なことは、自分の心を探(さぐ)り、不純(ふじゅん)で聖くない思いを告白することす。神様は聖なるお方です。私たちが神様に近づきたいなら、私たちは神様のようにならなければなりません。これはパウロがエペソの教会に対して説明した原則です。(エペソ4:23-24)「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理(しんり)に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

神様に近づくためには、私たちは古い考え方を捨てて、キリストの義を着(き)なければならないのです。モーセが最初に主なる神に会ったとき、何が起こったか覚えていますか?主の使いは燃える柴(しば)の中の炎(ほのお)の中で、モーセの前に現れました。モーセが近づくと、神様はモーセの名前を呼び、モーセは「はい、ここにおります。」と答えました。そして次に起こったことはとても興味深いことでした。出エジプト記3:5を見てください。「神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱(ぬ)げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」」モーセはくつを脱ぐことによって、神の聖さを理解していることを示したのです。汚れたものを捨てることなく、神に近づくことは誰にもできません。このことを神様はモーセに教えたかったのです。イザヤは何百年も後に同じような経験をしました。イザヤは、天の神の宮の王座に座っておられる神様の幻を見ました。そこには神様に仕えるセラフィムという天の存在がおり、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。(イザヤ6:3)」と叫んでいました。そしてイザヤはすぐに、彼がこの聖なる神に近すぎることを理解したのです。イザヤはこう叫びました。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」イザヤは、自分が聖なる神様の御前に立つ準備ができていないことを知っていました。しかし、セラフィムの一人は、祭壇から燃えさかる炭(すみ)を取り、それでイザヤの口に触(ふ)れました。そしてセラフィムはイザヤに言いました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。(イザヤ6:5)」

神の清(きよ)めと聖化の御業を受けることがなければ、誰も神様に近づくことはできません。クリスチャンにとっては、キリストのいけにえが私たちの良心のきよめを達成してくださったのです。ヘブル書は22節でこう言います。「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪(じゃあく)な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた」から、神様に近づくことができるのです。私たちの心をきよめる、内なる働きは、すでにキリストによって行われています。しかし第二の洗いも必要です。それは水による洗礼です。この外側の洗いというしるしを受けて、私たちは聖なるものになりたいという思いを示すのです。モーセは、主の使いの前に立ったとき、くつを脱ぐことを拒否しませんでした。同じように、真のクリスチャンは、バプテスマという礼典のしるしと証印(しょういん)を受けることを怠(おこた)るべきではありません。バプテスマは、私たちの内側の聖霊のきよめの働きの外なるしるしです。私たちはバプテスマの礼典を受けるとき、地域教会の交わりにも受け入れられます。ヘブル書は、もし私たちが全き信仰と真心をもって神様に近付きたいと望むなら、私たちのからだをきよい水で洗うことは重要なステップであると言います。これはクリスチャンとしての人生の第一の特徴です。クリスチャンは神様に近づくことを望むのです。

ヘブライ人が私たちに求めている第二の事は、23節に示されています。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺(どうよう)しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」ギリシャ語を見ると、私たちが保(たも)たないといけないのは、単なる「希望」ではなく、その希望の「告白」であるということがわかります。言い換るならば、ヘブル書は、キリスト教がまだ広まっていないときにさえ、クリスチャンは忍耐深く希望を告白し続けると言っているのです。クリスチャンは簡単に黙らされることはないのです!ヘブル書がここで言っていることは、主イエスご自身が彼を批判(ひはん)する者たちに語られたことと似ています。イエス様がエルサレムに入られ、多くの人がイエス様をダビデの子として歓迎していた時、一部のパリサイ人はイエス様に怒ってこう言いました。「先生。お弟子たちをしかってください。」しかしイエス様はこう答えられました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」真の信仰者を黙らせることはできないのです。クリスチャンの、キリストにある信仰と希望は隠すことはできないのです。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ[なさい]」と言われました(マタイ5:15,16)。言葉と行ないによって、「世の救い主」であるイエス・キリストに皆さんが希望を置いていることを、世界に示しましょう。 日本には「隠れキリシタン」の歴史があります。同じように、今日のイスラム教国家や全体主義の国の中で、多くのクリスチャンたちが信仰を隠すことを余儀(よぎ)なくされています。しかし、これは異常な状況であり、クリスチャンがこれを長い間耐えることは非常に困難です。「忠実な証人」を意味する(martyros)というギリシャ語は、すぐに「殉教者」という意味になったことを忘れてはいけません。真の信仰は、結果(けっか)にかかわらず、見えるようになります。それは、人生の主(おも)な目的だからです。ウエストミンスター小教理問答は言っている通りです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」私たちは、主と、その御言葉の真理に信頼を置くのです。クリスチャンは、この世的(よてき)には愚かなように見えるかもしれませんが、次のようにおっしゃった主イエスの約束に信頼を置いているのです。「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(マタイ10:32-33)。すなわち、「人の前で私を告白する者は誰でも、私は天の御父の前に告白します。」クリスチャンの人生は、私たちを欺(あざむ)くことが決してない、神様の約束の上に立っています。クリスチャンがその救いの希望を他の人と分かち合うことができるのは、喜びであり、特権でもあります。ですから、クリスチャンは「時が良くても悪くても」動揺(どうよう)しないで、しっかりとキリストにある希望を告白しようとするはずです。これがクリスチャンの二つ目の特徴です。

そしてヘブル書は、わたしたちにクリスチャンの人生の第三の特徴を24-25節で示しています。 この特徴は「勧め」あるいは「励まし」です。これは特に、クリスチャンが他のクリスチャンたちに与える励ましのことです。そしてこの励ましの目的は、お互いにもっと愛を示し、より良い行ないを生み出すことです。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」彼らの「愛と善行」の対象は誰でもよいでしょう。そしてこの愛や善行は、単にクリスチャンやその特定の教会に利益をもたらす手段として勧められているわけではありません。実際、クリスチャンが勧める愛と善意は、クリスチャンではない人にも向けられるのです。ペテロはこのことがなぜ重要であるかを、Iペテロ2:12で説明しています。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人(あくにん)呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」ですから、クリスチャンは、神の栄光をあらわすために、その人の信仰や他のつながりにかかわらず、他の人に対して愛と善行を行なうのです。イエス様ご自身もこのことをマタイ5:16で求めておられます。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

ヘブル書が25節で最後に勧めるのは、クリスチャンが他のクリスチャンとの集まりを保つことです。25節は、クリスチャン同士がどのように励まし合うべきかを説明する、従属節(じゅうぞくせつ)です。キリストに従う者は、他のクリスチャンとの交わりを避ける、孤立(こりつ)した存在ではありません。むしろ、クリスチャンは、普段(ふだん)の教会での生活に積極的に参加するべきです。これはクリスチャンにとって不可欠です。なぜなら、一緒に会うことによってのみ、クリスチャンはお互いに愛と善行を励ますことができるからです。クリスチャンの交わりが困難になったときに、それを諦(あきら)めるのではなく、互いの親しい愛と親切とを励ます方法を見つけるために、忍耐深く共に働かなければならないのです。

IV. CONCLUSION 結論

今日の説教の終わりに当たって、この三つのことを覚えましょう。まず第一に、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人を着つつ、ますます神様に近づきましょう。第二に、困難であっても、キリストへの信仰と希望を告白し続けましょう。主イエス・キリストに頼る者は決して失望しません。そして、第三に、互いに愛と尊敬をもって、私たちの救い主である神様の栄光をあらわすために、すべての人に対して良い行いをするように励まし合いましょう。これら3つのことを、キリストは私たちにお求めになるのです。この3つそれぞれが、心の態度から始まり、他の人との関わりの中で目に見えるものになることに注意しましょう。これらはどれも簡単ではありません。しかし、まさにこのようなクリスチャンとしての歩みのために、キリストは基礎を築(きず)いてくださったのです。キリストは、私たちがどのように生きなければならないかをお示しになりました。そして、キリストは、私たち一人一人がそうできるように、御業を成し遂げてくださいました。キリストはご自身の血で私たちを贖ってくださいました。そして今も御父との間をとりなしていてくださいます。キリストにあって、私たちは大胆にこのような歩みをすることができるのです。キリストにあってのみ、そうできるのです。

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