天国の実在

KASUMIGAOKA
2018/04/15
SERMON: “The Reality of Heaven”「天国の実在」  
TEXT: Hebrews 9:23-28

I. INTRODUCTION イントロダクション

聖書はしばしば、聖なる霊的な「場所」として「天国」に言及します。天国は「神や聖なる御使いの御住まい」です。そして天国は、昇天された主イエスの栄光に満ちた霊的な御住まいでもあります。ヘブル書は1:3ではこう言われています。「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」そしてヘブル9:24はこう言います。「キリストは、本物(ほんもの)の模型(もけい)にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。」天国は、また、救い主イエス・キリストを信じて義と認められた、人間の魂の住まいでもあります。この者たちは、キリストのおられる天の御住まいに招(まね)かれるのです。キリストは弟子たちにこう約束されました。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)使徒パウロはこう願いました。「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(IIコリント5:8;ピリピ1:23)

このような理由で、天国は、雲や月、太陽や星をはるかに超えたところにある、物理的な場所であると考える人がいます。しかし聖書は、この世界の中の物理的な場所として天国のことを言っているわけではありません。実際「天国」という言葉は、この世界の物理的または物質的な現実とは対照的(たいしょうてき)に、超自然的で霊的な現実を表すのによく使われます。パウロはエペソ1:3で、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と言います。天は人の目には見えない、霊的な、いのちや霊的な現実の領域(りょういき)です。しかし、クリスチャンとして、私たちは頻繁(ひんぱん)に天の霊的存在、良いものとも悪いものとも、かかわることになるのです。「天にまします我らの父よ」と祈るとき、私たちは霊的な現実として神様と交わりを持ちます。そんな時、天におられるのに、神様は私たちと遠く離れてはおられません。またエペソ6:12では、私たちが悪魔(あくま)に抵抗(ていこう)しなければならないとも語られます。「私たちの格闘(かくとう)は血肉(けつにく)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」私たちは、天にいる、この霊的な敵との戦いに日々身を置いているのです。

それにもかかわらず、私たちを取り巻く物質的な社会の中で、このような霊的な事柄(ことがら)が本当であり、慎重(しんちょう)な注意を払う必要があるということを、人々に説得することは困難(こんなん)になってきました。今日、多くの人々は天国や地獄(じごく)の存在を信じていません。実際、私は先週、ローマカトリック教皇(きょうこう)が「地獄」と呼ばれる霊的な領域(りょういき)が存在しないということを表明したことを読みました。天や地獄に関するイエス様の教えや、他のすべての聖書の教えを受け入れることは重要でしょうか。この現代的な時代において、天の現実についての聖書の教えを保つことは可能なのでしょうか。今日のヘブル書の箇所は、天国という主題に光を当て、なぜそれが聖書の教えとして重要なのか
を理解することを助けてくれるのです。    

II. THE BIBLICAL VIEW OF HEAVEN—AND WHY IT MATTERS 聖書の中の「天」

現代的な意見とは対照的に、聖書は、天について理解しなければ、私たちの現実についての理解は全く不十分であると教えています。聖書の世界観によれば、物質的な世界を構成(こうせい)する多くのものは、天の世界の「現実」の単なる「模型(もけい)」にすぎないのです。この考えは、ヘブル書8:5で、イスラエルの祭司の働きと結びつけて、示されています。祭司たちは「天にあるものの写しと影(かげ)とに仕えている」のです。すなわち、祭司が奉仕した「聖所」とは、天の現実の中での神の御住まいなる真の聖所の「写し」もしくは「影」なのです。もし人々が、この天の御座から天と地を支配される神様の現実を忘れると、この世界における捧げ物や他の宗教的な行ないは、単なる虚(むな)しい、意味のない儀式になってしまいます。このことは、イスラエルの礼拝においての問題にたびたびなりました。そして今日においても、一部のクリスチャンの礼拝において問題となるのです。

多くの人々は、日々の生活において、天の神の主権という現実を忘れてしまいます。彼らは、自分を見守っている神の御前に毎日生きていること、そして終わりには彼らの行ないに従って裁かれる神様のことを、実際には信じていません。そのような人たちは、他人からあきらかに非難(ひなん)されるような犯罪(はんざい)を公にしない限り、自分の好きなように、自由に生きていけると考え始めるかもしれません。このような人々の中には、たとえ天国や地獄、あるいはすべてを支配する神様を信じていないとしても、宗教的な活動に参加し続ける者もいます。このような人々にとって、礼拝は、単なる「演技(えんぎ)」にすぎなくなります。彼らは特定の儀式を行い、捧げ物をささげ、賛美を歌い、説教を聞くかもしれませんが、その心は神から遠いのです。

イエス様は、その礼拝がむなしい儀式と化(か)していた、当時の宗教指導者たちと向かい合いました。マルコ7:6で、イエス様はこうおっしゃいました。「この民は、口先(くちさき)ではわたしを敬(うやま)うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」イエス様は、本当の問題は彼らの心のありかたであると語られました。人の心を満たしている誘惑(ゆうわく)や、嫉妬(しっと)、欲望(よくぼう)や貪欲(どんよく)、誇(ほこ)りなどは、他の人には見えませんが、神様はそれをすべてご覧になっています。心の内面の本当の状態こそ、対処(たいしょ)する必要があるものです。イエス様は弟子たちに、この基本的な、そしてしばしば見過(みす)ごされる問題を、マルコ7:20-23で説明されました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗(ぬす)み、殺人(さつじん)、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、よこしま、欺(あざむ)き、好色(こうしょく)、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」神様が現実の中心に置かれている聖書の世界観を放棄(ほうき)するとき、彼らは自分の根本的な問題、すなわち心の堕落、汚れた状態に対処できなくなるのです。

今日多くの人々は、社会の堕落した状態を目の当たりにします。すなわち性的な不品行を公然(こうぜん)と誇示(こじ)している人々、強力な指導者や腐敗(ふはい)した裁判官の傲慢(ごうまん)、悪質(あくしつ)な犯罪(はんざい)や殺人(さつじん)、弱い無力な者からの搾取(さくしゅ)などです。にもかかわらず、彼らはこの邪悪(じゃあく)な
状態と、彼らの世界観との間の関係性を理解しないのです。彼らは、神様、天国や地獄の現実、霊的な敵との戦いの必要性、そして心の内面がきよめられる必要性を拒否しました。いま残っているのは、堕落した人間が、自分の罪深い方法で生きている現在の物質の世界です。天の現実を拒否する人間には希望はありません。聖書はこのような人々について、こう言っています。「その場合、この世の神(すなわち悪魔)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」(コリント4:4)。さらに、ローマ1:28で、「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」と言います。 しかし、神の御言葉は私たちに何を伝えているでしょうか。人間の霊的な問題に対処するには、天の現実に対応(たいおう)する方法を用いなければなりません。先週ヘブル書9:19-22で、モーセが「神があなたがたに対して立てられた契約の血」を取って、それをイスラエルの民と、礼拝の儀式に用いられたすべての物に注いだのを読みました。この儀式は、イスラエルの人々に深い印象を与えましたが、これは他の何かの外的な象徴(しょうちょう)にすぎませんでした。それでは、これは本当は何を意味していたのでしょうか。 22節の最後と23節を見てください。「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。」「天にあるもの」は、雄牛(おうし)や山羊の血よりも優れたものできよめられなければならないのです。それでは、この汚れていてきよめられる必要のある「天にあるもの」とはなんでしょうか。そして、それをきよめるために捧げられる「さらにすぐれたいけにえ」とは何でしょうか。ヘブル書の9:14で、既に答えは示されています。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」汚れているのは、私たちの良心なのです。言い換えるならば、きよめられないとならないのは、私たちの内側の、目に見えない人間の心の部分なのです。そして、このきよめを達成(たっせい)できる唯一のものは、キリストご自身の血です。キリストがご自身のいのちをいけにえに捧げてくださったからこそ、私たちの内側はきよめられるのです。神の霊的な方法によって対処しなければ、人の心の汚れという問題を解決することができません。

外側のいけにえの儀式、血の注ぎ、そして祭司によるとりなしは、天の現実の「しるし」もしくは「写し」にすぎません。私たちの内面がきよめられ、罪の束縛(そくばく)から解放(かいほう)されることの希望は、天でイエス・キリストが達成してくださった贖いにかかっています。「キリストは、本物の模型(もけい)にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです」(24節)。ユダヤ人の大祭司は毎年、あがないの日に雄牛の血と山羊の血をとり、神殿の至聖所(しせいじょ)の中にある「めぐみの座」にその血を振りかけました。大祭司にとって、これは一年の中で最も重要な儀式でした。そしてこの儀式は毎年繰り返されました。しかし、イエス・キリストは、どの大祭司や儀式も成し遂げることができなかった、2つのことを達成されたのです。まず第一に、キリストは実際に神様ご自身の臨在(りんざい)のもとに入られたのです。人の子であるキリストは、人間として、自分自身のいけにえの血を取り、彼の民を贖うことができる唯一のなだめの供え物として、それを神に捧げてくださいました。キリストはこのことを「私たちのために」行なってくださった、と24節の最後は語ります。このようにして、キリストは私たちの自由を、私たちの罪の結果から買い戻してくださったのです。私たちに対する神様の義の裁きは取り除(のぞ)かれ、代わりにキリストに置かれたのです。

第二に、ヘブル書は、キリストがこのなだめの供え物をただ一度お捧げになったと語ります。ご自身の全ての民の罪を覆(おお)うために、ただ一つの完全ないけにえが必要だったのです。イスラエルの大祭司たちは、キリストがご自身の完全ないけにえを捧げるまで、毎年この儀式を1000年以上にわたって行なってきました。ユダヤ人の祭司たちは、イエス様を神から送られたキリストとして迎えることを拒否し、キリストの天での務めという究極(きゅうきょく)の価値を認識しませんでした。そこで、彼らは毎年、ヤギと雄牛の血のいけにえを捧げ続けたのです。しかし、その祭司たちがいくらいけにえの動物の血を捧げたとしても、それはそのいけにえの無力さを示すことにしかなりませんでした。このいけいえは、どんな人間の魂もきよめることができなかったのです。そして、そのいけにえはもはや不必要でした。キリストはすでに、その動物のいけにえが、しるしとして指(さ)し示していた現実(げんじつ)を達成されたからです。

今日の箇所で示されている最後の天の現実は、27-28節に書かれています。 27節ではこう言われています。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」この節は、すべての人類にとって最も重要な天の現実を宣言しています。これは、これまで生(せい)を受(う)けたすべての人が、死後に神の裁きに向き合うことになっているという意味です。そしてこれは多くの人々が受け入れたい現実ではありません。しかし、もしこれが真実であり、私が死んだ後に神の義の裁きに向き合わなければならず、そのさばきを避ける方法が全くないならば、今生きている間に、この天の現実に直面する準備をしなければなりません。私は今、天と地獄の現実、裁き主なる神、そして救い主であるキリストの現実を考え始めなければならないのです。私たちひとりひとりに待ち受けるさばきがあり、それに向けて今日から準備する必要があるのです。私たちはそれを先送(さきおく)りにするべきではありません!しかし、どうすれば準備できるでしょうか。私たちはヘブル書が教えてくれている、天の現実を認めることができます。天の現実とは、主イエス・キリストが、彼を信じる私たちのために、究極(きゅうきょく)で完全ななだめの供え物を捧げてくださったということです。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(26節)」すべての人が一度死に、さばきに直面するのが確実なのと同じように、「キリストも、多くの人の罪を負(お)うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(28節)。キリストは古代(こだい)の歴史の本の中の、単なる登場(とうじょう)人物ではありません。キリストは今日も生きておられ、彼に信頼を置くすべての人に救いの完全な祝福をもたらすために、再び来られます。ヘブル7:25ではこう言われます。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」これが、キリストに顔と顔を合わせて会うことを忍耐(にんたい)ぶかく待つ私たちに、慰めと励ましを与える天の現実なのです。

III. CONCLUSION 結論

今日の箇所の学びを終えるにあたり、神が創造された天の現実を私たちがどのように見ているか考えてみましょう。まず第一に、私たちは、自分を取り巻く物質的な社会にどれだけ影響を受けているのか、自分自身に問いかけるべきです。私たちは、天の現実とそこに住む者について、イエス様と聖書が一貫(いっかん)して述べていることを、本当に信じているでしょうか。この物質的な世界が与える快楽(かいらく)のためだけに生きてはいないでしょうか。皆さんの前に天国を置いていないのだとしたら、自分の前に置いているものはなんでしょうか。

第二に、ヘブル書が天の現実について語っていることを理解すれば、それは皆さんの人生を根本的に変化させるはずです。天国が本当であることを知ることは、すべてを変えるのです。それは、神様ご自身が今もなお主権を持ったさばき主として、天の御座につかれているということです。そして、私たちの主なるイエス・キリストが、御父の右の座に栄光を持ってつかれ、彼の民のためにとりなしをし、そこに私たちのための場所を用意してくださることを意味するのです。聖書が天国について明白に私たちに語っていることを信じるならば、それは私たちがこの世に生きるうえでの新しい目標と目的を与えるはずです。それは、キリストが「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者と」(14節)してくださったために、私たちが恐れることなく生きることができるということです。そしてもちろん、天国が現実であることを知ることは、私たちに祝福と希望をもたらします。キリストが私たちのために用意してくださった喜びと平安に迎え入れられることを、私たちが知るからです。天国は現実なのです。そして私たちの贖い主キリストが、私たちをそこで待っていて下さいます。これが、ヘブル書の慰めのメッセージなのです。

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