神様がお忘れにならない愛

KASUMIGAOKA    2017/1/1

SERMON: 「神様がお忘れにならない愛」 “The Love God Never Forgets” 

TEXT: Hebrews 6: 9—12

I. INTRODUCTION 

皆さん、「明けまして御目出とうございます。」この挨拶をもって2017年を迎えますね。けれども、開いたばかりの今年は本当にめでたい年になるかどうか、だれも分からないでしょう。今年は、めでたくなることを望んでいますが、どうなるかが分かりません。人生行路の中でどのようなことが起こるかをだれも確実に知ることが出来ないでしょう。不確実なことは多くあります。前もって知ることのできないことが多いです。日本の場合は、他の国と比べれば、裕福な状態でしょうが、今年には、必要に応じてお金が十分あるかどうかだれも分からないでしょう。多くの人々はお金に関して心配するでしょう。肉体的な状態についても、多くの人たちが心配しています。健康な一年になるかどうか分かりません。今年は、学校や仕事、家庭などにおいて人間関係がうまく行けるかどうか、だれも分かりません。政治的な事情も全く不確実でしょう。去年のアメリカの大統領の選挙を思い出すと、国の方向がどんなに不確実であるかが分かるでしょう。

そんなに多くの事情が不確実であるなら、いったいどのように新年のための計画を立てることが出来るのでしょうか。確実なことがあれば、まず、その確実なことを認めて、それをしっかりした人生の基礎にすればいいでしょう。今日の聖書の箇所は確実なことを一つ明らかにします。確かに変わらない、信頼できるものは、神様の御性格でございます。へブル人への手紙のあらゆる勧めと励ましのことばは、神様の確実な性格に基づいています。13章8節で言っているように、「イエス・キリストは、きのうも今日も、いつまでも、同じです。」主イエス・キリストがお変わりにならないので、主イエスとその救いに頼りながら、将来に向かって、確信することが出来るのです。6章17-19にこう書いてあります。「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、 ――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません―― 前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし」ます。それでは、真の神様の変わることのない御性格について、この手紙は何を教えてくれるのでしょうか。      

II. GOD’S UNCHANGING CHARACTER GIVES US HOPE

今日の箇所で教えられる最初の点は、人間と違って、神様は、「正しい方であって、あなたがたの行いを忘れない」と10節に書いてあります。正しい神様は私たちの行ないをお忘れになりません。私たちは違いますね。あらゆる大切なことを忘れてしまう者です。あるキリスト信者さえ神様について見聞きしたこと、聖書から学びましたことなどをすぐ忘れてしまうようですね。この手紙を最初に受けた信者たちも、そのような者でした。5:12に次の批判的なことばが書いてあります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」その信者たちは、大切な教えを受けましたが、すぐ忘れて、もう一度教えてもらう必要がありました。彼らは、なかなか教師の段階になりえませんでした。信者たちであるのに、成長していない幼子のような者です。「ですから、」6:1にこう書いてあります。「私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」 皆様の中のだれかが、「ああ、私はもうだめだ。年をとって、惚けた者になった。」というかも知れません。(私も、そのように思った時がありますよ。)しかし、聖書によると、用心すべきことは、記憶力が悪くなった状態ではなく、神様の福音を全く無関心で聞くという態度です。または、自分の罪の悪を認めないで、告白もせず、自分の犯した悪い行ないをだれでも忘れることは当たり前のことだと思うことです。出来るだけ、キリストのみことばを心に納めて、そのみことばに喜んで従って、「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」は成熟したクリスチャンです。そのような人は、自分の罪を簡単に忘れることより、むしろその罪の赦しを切に求めるはずです。 そのような成長したクリスチャンにならなければ、何か霊的な経験があっても、人は、主イエスを信じる信仰を持たない、回心されていないままでいるでしょう。未信者は、イエス様の十字架上でなさった贖いのわざについて何回聞いても無関心でしょう。そのような人は、主イエスの福音を繰り返して教えてもらっても、福音の意味が心に染み込まないでしょう。6:6に書いてあるように、「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」そのような人々にならないために、この手紙の警告のことばが書かれたようです。神様は正しい方であられるから、私たちの行いを良くても悪くても、お忘れになりません。それなのに、ヨハネの手紙第一1:9で言っているように、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

神様のみことばをよく聞き、心に納めて、日常生活に適用するのなら、成長したクリスチャンになるはずです。主イエス・キリストがご自分の弟子たちに言われましたように、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」これはすべてのキリスト信者の目標です。私たちは皆、成長した性格をもって、父なる神様のような、完全な者になるように召されているのです。あるキリスト信者たちは忘れがちであるのにもかかわらず、本当の信者たちは結局、神様のように完全なものになるという約束があります。クリスチャンたちはみんな、神様の完全な性質に与ると聖書が約束しています。使徒ペテロは、その第二の手紙1:4でこう書きました。「尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質に与る者となるためです。」こういうわけで、へブル人への手紙6:9で、こう言っています。「だが、愛する人たち、私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」

日本では、忘年会などの活動が行われるでしょう。忘年会の目的は、過ぎ去った年を忘れるためであれば、聖書の教えに合わないでしょう。神様がお忘れにならないように、私たちも過ぎ去った一年間の行いを覚えて、罪である行いを神様に告白して赦しを求めなければなりません。良い行いも思い出して、神様の助けによってそのような行ないが新年に増えるように努力します。確信を持って、この新しい年を有益に過ごすことができるように、まず神様の不変の御性格を覚えてください。神様は正しい方ですから、私たちの行いを一つもお忘れになりません。ですから、私たちも自分の行いをすぐ忘れてはいけません。もう去った年を忘れることより、その出来事を十分反省しながら、自分の心を吟味すればいいでしょう。これは覚えるべき第一のポイントです。

第二に、励ましを与えるようにこの手紙が10節の後半で、正しい真の神様が「あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならない」と言っています。すなわち、あなたがたの行いをお忘れにならない神様は、特に信者の愛による行いにみこころを留められるのです。皆さんがご存知のように、神様が与えられた最も大切な戒めは、まず「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。」それから、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という二つの戒めだとイエス様は言われました。それに、ここで「聖徒たち」と言われるキリスト信者たちが互いに仕え合うことは、神様の御名のために示す愛と見なされると書いてあります。神様は信者たちの間で兄弟愛を示す行いを求めておられます。愛をもって互いに仕え合うことは、神様がご覧になって必ず報いてくださるという意味も含まれていると思います。ですから、神様に喜ばれる日常生活を送るために、どのように他のキリスト信者に仕えることができるかを十分考えて、計画を立てた方がいいでしょう。他の目的があれば、完全に果たしても、神様に喜ばれて、神様に報いられるかどうかが分かりません。しかし、互いに愛し合って、互いに仕え合うという目的を立てて、達成するのなら、神様はお忘れになりません。主なる神様は、必ず、あなたがたの行いに報いて、祝福してくださいます。これは確実です。

これは本当に大切なポイントです。なぜなら、先に言ったように、罪人である私たちは人の良い行いを忘れがちだからです。人が愛によって仕えてくれても、私たちは、その愛も行いも正しく評価しない場合が多くあるでしょう。皆さんは、どう思いますか。あなたの骨折りでだれかに仕えた時、もし何のお礼もなく、その行いが認められたこともなかったら、骨折りがいがなかったと思い、がっかりしたことがありませんか。自分の愛による行いに応じて、少なくともお礼の言葉を期待するでしょう。でも、クリスチャンの場合は、自分の愛も行いも、人に認められなくても、それで終わって、また手伝ってあげないと決めるわけではありません。なぜなら、人に仕えるのは、人に報いてもらうためではないからです。かえって、人に仕えるのは、神様のみ名のために愛を示すためです。神様はあなたがたの愛による行いを決して忘れることがありません。もし神様がその行いを覚えてくださるのなら、その行いは無駄ではありません。神様はあなたがたの行いも、その行いを生じた心の中の愛も認めて、お忘れになりません。

へブル人への手紙6:10は、特に教会の交わりの中で互いに愛し合うことについて教えています。しかし、教会の中で兄弟愛を互いに示し合うことは、キリスト教のすばらしい特徴の一つです。ヨハネの福音書13:34—35で、主イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」教会の中で兄弟愛を示し合うことは、本当に珍しいことです。普通の社会の中で見えないはずです。主イエスの愛を知らない人々は、主の弟子たちのように互いに愛し合うことがありえないのです。でも、未信者は教会の中の兄弟愛を見れば、その信者たちが本当に主イエスの弟子たちであることを認めて、彼らと同じような交わりに迎えられたらと思うようになるかも知れません。実は、私も若い頃、教会の間の兄弟愛によって導かれました。キリスト信者の間の兄弟愛は、キリストを信じるように導く聖霊に用いられる効果的な伝道の方法の一つです。  

ですから、あなたがたの間で互いに愛し合って、互いに仕え合うことによって、主の愛をこの世の人々に示すことができるのです。そして、聖徒たちに仕えることによって主のみ名のために示した愛を、神様は決してお忘れになりません。その愛に必ず報いてくださいます。これも確実なことです。今年の計画を立てるうちに、私たちがどのように愛し合うべきか、またどのように有効に仕え合うことができるかをよく考えてみましょう。これは神様を確かに喜ばす、何とすばらしい目的なのでしょう。

最後に、6:11—12に書いてあることを心に留めてみてください。「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」ここで、主イエスを信じている者として、私たちが絶えず愛し合ったり、互いに仕え合ったりし続けるべきであると書いてあります。使徒パウロは、テサロニケ人への手紙第二3:13で同じようにこう書きました。「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい。兄弟たちよ。」また、ガラテヤ人への手紙6:9。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期がきて、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」なぜ、他の人を愛するか、またはなぜ、人に仕えるかと言えば、たいていの人はこう思うでしょう。「もしだれかを愛するなら、その人は私を愛してくれるでしょう。」または、「もしだれかに仕えて、善を行うなら、その人は私に仕えてくれて、善を報いるでしょう。」でも、愛に応じて、愛を報いることがなければ、がっかりでしょう。愛するのをやめようと決めるかもしれません。良い行いに応じて、良い行いを報いてくれなければ、良い行いをやめてしまうでしょう。しかしキリスト信者にとっては、そのように考えてはいけません。「あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで」確信をもって、主キリストからの報いを待ち望むように勧められています。他の人、他の信者さえも、私たちの愛や良い行いを忘れてしまうでしょう。しかし、神様は少しもお忘れになりません。神様の変わらない御性格を信頼することができます。ですから、他の信者を愛したり、仕えたりするのは、神様の御性格と神様の約束にかかっているのなら、失望することはありません。最後に、「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」ということは確実です。

III. CONCLUSION

終わりに、この世の人生においては、確実なことは少ないです。しかし、この真実を信頼することができます。キリスト教会の兄弟姉妹に示す愛、すなわち愛による行いは、神様が決してお忘れになりません。ですから、互いに助け合ったり、励まし合ったり、徳を高め合ったりするように、ますます努力しましょう。偽りのない真の神様は、神様を愛する信者たちに罪の赦しと永遠のいのちを約束されました。それに、模範として主イエス・キリストも私たちに与えてくださいました。主イエスの例にならい、主の聖霊の助けに頼りながら、互いに愛し合うように今年も進んで行きましょう。今日、今年の最初の日に当たり、主の晩餐に与ることによって、ますます主の愛を互いに示すことが出来るように強められ、導かれますように祈りましょう。以上です。

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です