御国を求めること

KASUMIGAOKA

2017/07/16 SERMON:  「御国を求めること」 “Seeking God’s Kingdom” 

TEXT: I Sam. 18:1-30    

I. INTRODUCTION 

ダビデの生涯の今日の箇所の部分を思う時、新約聖書の中の2箇所が思い浮かびました。一つ目はマタイ6:33にあるイエス様の約束です。「だから、 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、 それに加えて、 これらのものはすべて与えられます。」ダビデはサムエルから油を注がれた時に神が約束された国を求めていたのです。ゴリヤテとの戦いに大きな勝利をおさめたのち、その王国はまさにダビデのものとなりそうなところまできました。しかし実際は、それから何年もの間、ダビデは試練と不確実さの中を通らなければならなかったのです。二つ目の箇所はヘブル人への手紙12:1-2の勧告の言葉です。「こういうわけで、 このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、 私たちも、 いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、 ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。」神様はダビデに、王座を与えるという約束を与えました。しかしその王座は、ダビデの競争の究極的なゴールではありませんでした。ダビデは「神様の心にかなう人」(Iサムエル13:14; 使徒13:22)であり、彼のゴールは、真のイスラエルの王として、神様の栄光に満ちた臨在に入ることでした。ダビデにとって、その競争は王になってからさらに40年間続いたのです。そしてこの期間、ダビデは「神の国を求め」続け、彼の信仰は、彼の勝利や彼の欠けの中で徐々に完成されていったのです。

II. HOW DAVID SOUGHT GOD’S KINGDOM どのようにダビデが神の国を求めたか

サムエルによってダビデが油注がれたあと、聖書はこう語ります。「【主】の霊がその日以来、 ダビデの上に激しく下った。」(1サムエル16:13)これによって、ダビデは何の問題もなく目標を達成できるように思えます。ダビデは全てにおいて成功をおさめたように見えます。まず、ダビデはその音楽の才能によって、思いがけず王の宮殿に呼び出されます。サウル王が悪い霊におびやかされるたびに、ダビデは琴をひき、サウルを癒やしました。ダビデはその苦しんでいるサウルに仕え、サウルはダビデを非常に愛したのです(16:21)。それからまもなく、神様はダビデに戦場で戦士としての技能を示す機会をお与えになりました。ペリシテ人の代表戦士ゴリヤテがイスラエルから対戦相手を要求したときです。ダビデは石と石投げだけで、その巨人の挑戦に応え、神はダビデに驚くべき勝利を与えたのです。結果的に、ダビデの戦士としての評判は確かなものとなり、すべての人に賞賛されるようになったのです。

ある人は、このダビデのような成功を収めたら、もうそれで満足して、もうその後の人生でなにもなくてもいいと思うかもしれません。また、もっと野心的な人は、このような成功や、社会的なコネクションを利用して、さらに高い権力や名声、富の目標を目指すかもしれません。ゴリヤテを倒したあとのダビデはヒーローとなり、有名人として、多くの機会が彼の前には用意されたでしょう。そして神様は預言者サムエルを通してダビデが王になると約束されました。しかしダビデはその有名人としての地位を、王座を求めるために用いようとはしなかったのです。ダビデは、サムエルの預言を成就させるために、彼の周りの有力な人たちを利用することはしなかったのです。今日の箇所では、ダビデに与えられた、通常とは異なるような前進の機会が書かれています。 ① まず最初に、王の息子であるヨナタンとの友情。② 第二に王の弱さを個人的に知っていたこと、③ そして第三に王の娘である王女ミカルとの結婚です。これらの機会をそれぞれ見ていき、どのようにダビデが神の約束された王国を求める中で、それらにどのように応答していったのかを見ていきましょう。

ダビデの戦場での勝利による第一の重要な結果として、ダビデとサウルの息子ヨナタンとの間の親密な友情が結ばれたということが挙げられます。ヨナタンはダビデのような人物でした。ヨナタンもまた、勇敢で若い戦士であり、軍事的なヒーローでした。ヨナタンはダビデに最初に会った時、ダビデの戦場での技能や勇気だけに感心しただけではなく、ダビデの個人的な性格に感心したようです。ダビデがゴリヤテを倒したあと、18:1はこう語ります。「ダビデがサウルと語り終えたとき、 ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。 ヨナタンは、 自分と同じほどにダビデを愛した。」ヨナタンは契約の誓いによってダビデとの友情を結び、主の御前でダビデの生涯の友となることを約束したのです。さらにヨナタンは名誉と友情のしるしとして、ダビデに、自分が着ていた上着を与え、 自分の防具や武器も与えたのです。ダビデはもはや王宮に、田舎の羊飼いの服装で行くことはなくなりました。そしてダビデは戦場で、石投げと杖しか持たない「羊飼いの少年」としてばかにされることも、もはやなくなったのです。ヨナタンとの友情は、ダビデのこれからにとって大きな励ましとなりました。多くの者が裏切るなかで、ヨナタンは生涯の最後まで、ダビデの忠実な友人であり続けたのです。これはヨナタンが王の息子であり、跡継ぎであることを考えると、非常に驚くべきことです。もし誰かがダビデの突然の人気によって脅かされるとするならば、それはヨナタンでしょう。しかし、サウルがダビデと敵対関係になったあとも、ヨナタンとダビデとの友情は堅いものとして続きました。しかしダビデはヨナタンとの友情を利用して、王国で特別な特権を得ようとしたことは一切なかったのです。

ダビデがゴリヤテを倒した後、サウル王はダビデを戦士たちの長としました。ダビデの指揮のもとで、イスラエルの軍隊は侵略者たちを退けるのに成功します。しかしサウル王のダビデに対する満足は長くは続きませんでした。サウル王はやがて人気のある若い戦士ダビデを憎むようになります。しかしそれはダビデに欠点があったからではありません。サウルは悪い霊によって度々苦しめられました。時折、サウルは深い落胆に襲われました。不安や恐れや疑いに苦しんだのです。時には、彼に仕えるものに対して暴力的に振る舞いました。ダビデの琴と歌は、かつてサウル王に癒しを与えましたが、やがてその王の不安や疑いはすべてダビデに向くようになっていったのです。王のダビデの最初の怒りは、ダビデが敵に勝利して帰ってきた際の歌を聞いた時におこりました。彼が行く所行く所で、王は歓喜に満ちた群衆の歌や踊りによって迎えられました。7節。「女たちは、 笑いながら、 くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」人々がサウル王よりもダビデを賞賛しているのを聞き、サウルは怒り、ダビデに疑いを持つようになったのです。サムエルの言葉がサウルの心に思い込まれたのでしょう。15:26でサムエルはサウルにこう言っています。「あなたが【主】のことばを退けたので、 【主】もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」そしてこうもいいました。「【主】は、 きょう、 あなたからイスラエル王国を引き裂いて、 これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。(15:28)」サウルは、主が王国を自分とは違う者に与えようとしていることを知っており、その知識が彼を疑いや恐れへと向かわせたのです。サウルはダビデにどれほど人気があるかを見て、ダビデこそが彼の代わりとして神が選ばれた者ではないかと疑ったのです。しかしサウルは簡単には彼の王座を手放そうとはしませんでした。サウルは自ら、神の目的から、そしてダビデから敵対する者になっていたのです。

18章を見ていく中で、サウルの対立が進んでいったことを診ることができます。まず、ダビデへの賞賛に対して、サウルは嫉妬を感じました。8節。「「ダビデには万を当て、 私には千を当てた。 彼にないのは王位だけだ。 」 その日以来、 サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」サウル王の精神的な不安定さは急激に進みました。後に、ダビデが苦しむサウル王のために琴を弾いていたとき、サウルは悪い霊の影響のもとで狂いわめきました。そして槍を取ってダビデに投げつけたのです。ダビデはそれをかわし、逃げました。「サウルはダビデを恐れた。 【主】はダビデとともにおられ、 サウルのところから去られたからである。」その時から、ダビデはサウル王がいかに不安定であるかを知ったのです。

サウル王はその精神的な不安定さにもかかわらず、賢く、狡猾でした。彼は公には人気のあるダビデに対抗しませんでしたが、巧妙な手段によってダビデの破滅を計画しようとしたのです。サウル王はダビデが宮殿で自分の近くにいることを望まず、ダビデを千人隊の長に任命したのです。これはサウルがダビデを滅ぼそうとした最初の計画でした。サウルはダビデを戦場の危険にさらし、戦いの中で死ぬことを望んだのです。しかしダビデが行く所どこでも、主がダビデを守り、助けました。15-16節。「ダビデが大勝利を収めるのを見て、 サウルは彼を恐れた。 イスラエルとユダの人々はみな、 ダビデを愛した。 彼が彼らの先に立って行動していたからである。」

サウルのダビデを滅ぼす次の計画は、自分の娘をダビデと結婚させることでした。17節。「サウルは、 自分の手を下さないで、 ペリシテ人の手を彼に下そう、 と思ったのである。」モーセの律法には、新婚の男性は1年間、軍隊で戦うことを免除されるという規定があります。しかしサウルが上の娘との結婚をダビデに持ちかけたのは、「ただ、 私のために勇敢にふるまい、 【主】の戦いを戦ってくれ。(17節)」という条件のもとででした。サウルは、王の義理の息子となったダビデが、ペリシテ人の軍隊の特別なターゲットになり、戦場でいのちが危なくなることを望んでいたのです。しかしダビデの謙虚さがその計画から彼を救いました。ダビデは、彼が王の義理の息子になる大きな栄誉を受けるのにふさわしくないと答え、サウルの計画はまたも失敗しました。しかし、サウル王にはミカルという下の娘があり、ミカルは密かにダビデへ思いを寄せていました。サウルはそれを知り、再びダビデに提案を持ちかけます。この時には、ダビデはその申し出について考え、サウルの家来たちの勧めにも耳を傾けています。もしかするとダビデはミカルの彼ヘの愛に気づいていたのでかもしれません。しかしダビデはもう一度、サウルが与えようとしている栄誉に自分はふさわしくないと繰り返します。ダビデはこういいました。「私は貧しく、 身分の低い者だ。(23節)」サウルは、ダビデがこの話に乗り気でないことが、王女ミカルと結婚するためのふさわしい花嫁料を払えないことによるものだと気付きました。なのでサウル王は、ダビデが申し出を受け入れると同時に、ダビデのいのちを脅かすことになるような計画を勧めました。サウルはこのような答えをダビデに送ったのです。「王は花嫁料を望んではいない。 ただ王の敵に復讐するため、 ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる。」ペリシテ人は当時常にイスラエルと戦っていたため、この提案はダビデにとって正当なものです。ダビデは敵と戦い、充分な敵を殺し、その勝利のしるしとして陽の皮を持ってくるでしょう。しかしもちろん、サウルは「ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた(25節)」のです。しかし再び、ダビデはこの使命を成功させます。実際、ダビデは陽の皮を200人分持って、戦いから帰ってきました。これによってサウルはダビデに自分の娘を結婚させたのです。しかしサウル王にとって、結婚の祝いで喜びはありませんでした。28-29節。「こうして、 サウルは、 【主】がダビデとともにおられ、 サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、 また、 知った。 それでサウルは、 ますますダビデを恐れた。 サウルはいつまでもダビデの敵となった。」

このサウルの常軌を逸した振る舞いや、狂いわめき、恐れは、彼が徐々にイスラエルの王国を治める力を失ってきていることを示しています。ダビデはそのサウルの衰えに気付いていました。サウルに近い家来たちも知っていました。おそらく家来たちも、サウルが王座を脅かす存在になること恐れていることに気付いていたのでしょう。ダビデはサウルの精神的な不安定さに気付いていながらも、サウルを恐れませんでした。ダビデは王とともにいて、王の食卓で食事をし、呼び出された所どこででも王に仕えたのです。サウルが衰えていく一方で、ダビデはより強くなっていきました。主がダビデとともにいたのです。ダビデの名声は一般の人々や王宮の人たち、軍の戦士や長の間でより高まっていきました。ダビデは全ての人たちに愛され、その名前はイスラエルで賞賛されました。もし誰かが王座を望むなら、主がダビデに与えられた以上の機会はないでしょう。しかしダビデは反乱軍を組織して、弱く恐れているサウルの王座を転覆させようとはしませんでした。ダビデは自分の目的を達成するために、内戦をしかけて、神が自分より前に油を注がれた王を攻撃することはしなかったのです。
18章の中でダビデに与えられた3つめの大きな機会は、王の娘の婿になってほしいという申し出でした。ダビデ以前には、王の家族と結婚することで、権力を主張しようとした人物はたくさんいたでしょう。しかしダビデは、結婚を次の王になるための手段としては考えませんでした。ダビデは忠実に、そして謙虚に王の申し出を一度ならず二度も断りました。もし次の王になるためにミカルと結婚したのではないとしたら、なぜダビデはミカルと結婚したのでしょうか。今日の箇所からは二つの可能性しかないと思います。一つ目は、ダビデが王の名によってペリシテ人を懲らしめるという王の要求を守りたかったからかもしれません。もうひとつは、もしかすると、ミカルがダビデを愛したように、ダビデもまたミカルを愛していたのかもしれません。しかしこのことは明らかです。つまり、ダビデは権力を主張するために王女と結婚したわけではないのです。

III. CONCLUSION   結論

主が約束された王国をダビデが求めるというこの経験から、私たちはどのような教訓を学ぶべきでしょうか。
① まず第一に、ダビデの経験は私達自身の人生における成功を思い起こさせます。つまり、私たちが究極的な、尽きることのない価値のある「神の国」というゴールに到達できるかどうかは、主の祝福にかかっているということです。もし主が私たちとともにいてくだされば、私たちは繁栄します。しかし主が私たちからご自身の霊を取り去られることがもしあれば、私たちは衰えたサウルのように、弱く、不安で、どうにもできないものになってしまいます。主イエス・キリストは私たちに、もし彼に従うなら、彼が世のお有りまでずっと私たちと共にいると約束してくださいました。

② 第二に、私たちは神の御国とその義を求める時に、それに抵抗してくる者と出会う覚悟をすべきだということです。そのような抵抗は、同じ御国を求めると思われる者から来るかもしれません。でも、ダビデの例を覚えて、あなたを召してくださった神様の御国から目を離さないで前進しましょう。あきらめないで、失望せずに頑張りましょう。(1Cor. 10:13)「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません、」

③ 第三に、ダビデのように、私たちは忍耐を持って主のみ前で待たなければいけません。自分たちの希望を近道して叶えようとするのではなくです。ダビデは機会を見ても、それによって自力でなんとかしようとはしませんでした。悪魔は、私たちに主の命令に従うことなしに、望むものに向かうような多くの機会を与えます。ダビデは神に逆らうことに繋がるような機会や手段を退ける必要がありました。彼は人や力を利用して自分自身の栄誉を得ようとはしませんでした。ダビデは何年も待つ必要がありましたが、ついに主はダビデに約束通り、王国を与えてくださいました。主は同じように、神の御旨によって御国を求める者に対して、それを与えてくださるお方です。私たちはダビデのように、自分たちの働きに忠実であり、仕えるうえで謙虚であり、忍耐をもって主の定められた道のりを走るべきです。

④ 第四に、ダビデの経験は私たちに、主が本当に全てを支配され、全ての被造物や歴史を支配されていることを思い起こさせます。イエス・キリストが主権をもつ主であるからこそ、主に忠実に仕えるなら、私たちは失敗することはありません。それは、私たちが主の御旨を知るために聖書をよく調べ、その教え通りに行わないといけないことを意味します。サウルは失敗し、その王国は取り去られました。サウルが主に従わなかったからです。

⑤ 第五に、ダビデが約束された王国を求める際に、信仰と希望によって支えられ守られたことを覚えましょう。私たちも、約束された御国を求めています。使徒パウロはその生涯の最後にさしかかり、御国の約束を思い起こし、それが彼を支えたと言っています。私たちも同じく御国の約束に支えられるのです。IIテモテ2:12。「次のことばは信頼すべきことばです。... 「もし耐え忍んでいるなら、 彼[主イエス・キリスト]とともに治めるようになる。」すなわち、主の忠実なしもべたちは、結局、御国の中で主と供に治める者にされます。それに、IIテモテ4:7-8。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、 義の栄冠が私のために用意されているだけです。 かの日には、 正しい審判者である主が、 それを私に授けてくださるのです。 私だけでなく、 主の現れを慕っている者には、 だれにでも授けてくださるのです。」ですから、皆さん、あなたがたも、ダビデまたは、パウロと同じように「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」そうすれば、キリストの御国の中でとこしえに祝福されるでしょう。私たちも、聖霊に導かれたダビデの模範に倣い、心を込めて御国を求めましょう。

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