神に喜ばれる信仰

KASUMIGAOKA   2018/05/13 
SERMON: “Faith That Pleases God” 「神に喜ばれる信仰」       
TEXT: Heb. 11:1-7   

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日から何週間かにかけて、ヘブル書11章を学びつつ「信仰」について考えていきます。特に、神様が私たちにお求めになる信仰とはどのようなものかについて考えたいと思います。日本語で「信仰」というと、常に「宗教的な信仰」を意味するように思ってしまいます。しかし本来「信仰」という言葉は、英語でも新約聖書のギリシャ語でも、より幅(はば)広い意味を持ちます。ギリシャ語で「信仰」という言葉は、信じている誰かもしくは何かが、自分を失望させないという信頼を意味します。ヘブル書11章はこのような言葉で始まります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」人々は、さまざまなものに信仰を置いています。信仰の対象は、別の人物、思想(しそう)、もしくは自分自身になる場合もあります。しかし、私たちを決して失望させない信仰の対象が、たった一つだけあります。そのただひとつの信仰の対象とは、神様ご自身です。「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11、イザ28:16)」神様が、私たちが神様に信仰を置くことを望んでおられ、そうすれば、私たちは失望させられることがないと約束しているのです。このような信仰、つまり神様が私たちから求めておられる信仰について考えるにあたって、まずよくあるキリスト教信仰に関するいくつかの間違った考え方について検討したいと思います。次に、4-7節で示される、信仰によって生きることの3つの具体例を見ていきます。

II. SOME MISUNDERSTANDINGS ABOUT FAITH 信仰についてのいくつかの誤解(ごかい)(11:1-3)

一部の人々は「無神論者」です。彼らは、神に対する信仰は合理的ではないと主張します。彼らは、私たちが見たり触(さわ)ったりして、理解できるものだけを信じるべきだと言います。名ばかりのクリスチャンを含む他の人達は、神を信じる信仰は、未知(みち)のものを考える「飛躍(ひやく)」のようなものだと主張します。しかし、キリスト教信仰に関するこれらの考えはともに間違いです。信仰とは、望んでいる事がらの保証、目に見えないものの確信です。目に見えないものを信じることは、私たちの常識(じょうしき)に反するかもしれません。しかし実際、目に見えなくても、すべての人たちが信じているものはたくさんあるのです。私たちは、次の日の朝に起きると信じて、夜に寝ます。これは一種の信仰です。私たちが病気になると、薬を飲みます。それは、それが回復の助けになると信じているからです。それも信仰の一種です。私たちはしばしば、他の人が語るものを信じるように求められます。それはつまり、自分の目で見たことがなく、自分の手で触(ふ)れたことのないものを信じることです。このような信仰は非合理的(ひごうりてき)でしょうか?過去にだまされたり、失望させられたりした人を信じ続けるのは、たしかに非合理的です。しかし、神様は私たちを失望させることもなく、偽(いつわ)られることもないお方なのです。

1-3節についてもうすこし注意深く考えてみましょう。ヘブル書は、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と言います。一方で、信仰は、私たちが「望んでいる事がら」の保証です。つまり、私たちは将来について確信しているのです。信仰によって、私たちは神様がすべての約束を守られることを、確信しています。聖書に記録されているイスラエルの歴史をみると、神様がいつもイスラエルとの約束を守られたことは明らかです。しかし、イスラエルの民は、約束をお互いに、あるいは神様との間で守っていませんでした。1節には、信仰は「目に見えないものの確信」であるとも書かれています。ここで言われているのは、目で見ることができない霊的な現実(げんじつ)のことだと思います。私たちは神様を見ることはできません。なぜなら、神様は霊的な存在だからです。しかし私たちは、自分自身や、生きているこの世界を含め、神様がお造りになったものを見ることができます。3節はこう言います。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟(さと)り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟(さと)るのです。」私たちは「信仰によって」、神様が創造主であることを理解します。これは、私たちがこの世界で見るすべてのものについての、最も良い説明であると思います。いま存在するすべてのものが、デザインや原因なしに、偶然(ぐうぜん)に存在すると考えるのは、ばからしいことです。私たちは、物理的な宇宙の起源(きげん)についての理論(りろん)がそうであるように、神様の創造についての私たちの理解が、信仰に根ざしていることを認めます。神様は私たちの目には見えませんが、神様が宇宙のすべての物質やエネルギーを創造され、そこに秩序(ちつじょ)と美しさをお与えになったと信じています。神様は、私たちを含め、この宇宙の全てをお作りになったのです。ウエストミンスター小教理問答は、神様はご自身の永遠の目的、すなわち「聖定(せいてい)」を実行されるのは、「創造と摂理のわざにおいて」である(問8)」と言います。信仰によって、私たちはこの世界の歴史における出来事の中に、神様の継続(けいぞく)的な支配と御業を認識することができるのです。これは神様の「摂理」と呼ばれています。創造の場合と同様に、私たちは摂理の働きを通してご自身の目的を実行されている神様ご自身を見ることはできません。しかし、私たちはこの世界の中で、神様の御業の影響(えいきょう)を見ることができます。イエス様は、疑(うたが)い深(ぶか)いユダヤ人だったニコデモにこうおっしゃいました。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」私たちは風を見ることはできませんが、その影響を見たり感じたりすることができます。同様に、神様の御霊は私たちの周りの世界で働いておられます。私たちは神様ご自身を見ることはありませんが、その主権の力の影響を見ることはできるのです。その影響の1つは、イエス様がニコデモに説明された、新しく「御霊によって生まれること」です。信仰によって、私たちは神様が人を再び生まれさせてくださることを理解します。目に見えない神様は今日もこの御業を行なっておられるのです。

III. THREE EXAMPLES OF LIVING BY FAITH   信仰によって生きることの3つの具体例(11:4-7)

神への信仰は、アイデアや理論だけではありません。人が本当に神に信仰を置くとき、その人はその信仰によって生き始めるのです。使徒パウロがIIコリント5:7でこう書きました。「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」神様は、ご自身の民が、神様を信頼し服従(ふくじゅう)することを通して、信仰を示すことを望まれます。2節では、「昔の人々はこの信仰によって称賛(しょうさん)されました。」と言われます。つまり、神様を信じた人々は、その信仰の生活のゆえに神様によって称賛されたのです。4-7節でヘブル書は、神様に対して深い信仰を示した、聖書の歴史の中の古代(こだい)の人物を3人挙(あ)げています。この例をそれぞれ見てみましょう。

信仰の人の最初の具体例は、アダムとエバの息子であるアベルです。アベルは、おそらくその生き方ではなく、どのように死んだかのほうが有名でしょう。彼は、肉体の死を最初に経験した人でした。しかし、それなのにもかかわらず、アベルは神様を信じている「義人である」と言っています。アベルは信仰のゆえに苦しんだ信仰者として、聖書に最初に出てくる人物でもあります。そしてアベルは「義人」でしたが、殺されたとき、彼はまだ子供もいない若者でした。そして、彼を殺した兄弟カインは、その罪のために神の呪(のろ)いを受け、追放(ついほう)されたまま生き続けました。しかしここでヘブル書が焦点を当てているのは、アベルが神を礼拝するために選んだ方法です。 「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。(4節)」アベルは神様を信じていたので、神様に喜ばれる方法で神を礼拝しようとしたのです。だからこそアベルは、最も良いものを神に捧げたのです。創世記4:4にはこうあります。「アベルもまた彼の羊の初子(ういご)の中から、それも最上(さいじょう)のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。」神様はアベルとその捧げ物を喜ばれました。カインもまた神様を礼拝しようとし、地(ち)の作物(さくもつ)をいけにえとして捧げました。しかし、神様が「カインとそのささげ物には目を留められなかった」(創4:5)とき、カインはアベルに対して非常に怒(おこ)りました。カインは神様に背(せ)を向(む)け、機会をうかがって自分の弟(おとうと)を殺したのです。このときアベルは、「宗教論争(しゅうきょうろんそう)」の最初の犠牲者になりました。アベルは信仰によって、神様に喜ばれる方法で神を礼拝することができました。アベルのその短いいのちに意味と価値(かち)を与えたのは、神に対する信仰でした。それゆえ、アベルの人生は非常に短かったにもかかわらず、信仰によって神を礼拝したため、彼は神様によって承認(しょうにん)されたのです。その信仰のゆえに、アベルは「今もなお語っています。」とヘブル書は言います。この箇所は次のような人たちに警告を与えていると思います。それは、自分がなにをささげるか、そしてどのような心の状態なのかにかかわらず、神様は私たちの礼拝を常にお喜びになると思っているような人たちです。神様はアベルを喜ばれました。なぜなら、アベルは心からの信仰で神様を礼拝し、神に対する真の信仰を示すいけにえを持って来たからです。私たちの信仰は、神を礼拝する方法で常に示されるべきです。

ヘブル書は5-6節で、信仰によって導かれた人生の第二の例を示しています。エノクは、創世記5章のアダムの子孫の一覧に記録されている人物です。エノクの人生への言及はとても簡潔(かんけつ)です。私たちがエノクについて知りうることは、創世記5:18-24に記録されています:エノクは、人類の七番目の世代でエレデの子でした。エノクは結婚し、メトシェラや、他の息子、娘の父となりました。彼の父親は962歳まで生き、彼の息子メトシェラは人類の中で最も長い、969歳で死にましたが、エノクはそれより短い365年しか生きませんでした。しかし、エノクについて最も興味深(きょうみぶか)いことは、創世記5:24に記録されています。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」創世記5章には、アダムから息子のセツを経(へ)て生まれた10世代が記録されています。そしてそれぞれの世代は、「こうして彼は死んだ。」という言葉で終わります。時間とともに、神様がアダムの罪のゆえにお与えになったさばきは、人類に対して行われていったのです。しかし、エノクだけは例外(れいがい)でした。この特殊(とくしゅ)なケースでは、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と言われているのです。他の箇所ででてくる「こうして彼は死んだ。」というフレーズはどこに行ったのでしょうか。ユダヤ人は、この不思議なエノクの人生の終わりの記録について、深(ふか)く困惑(こんわく)しました。しかし、ヘブル書は11:5でこの箇所の意味を説明します。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移(うつ)されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」エノクは信仰のゆえに「神とともに歩んだ」と表現されました。これは、エノクが神様との親しい関係を楽しんでいたことを意味しています。旧約聖書の中でこれと全く同じように記されているのは、もう一人だけです。そのもう一つの例はノアです。エノクは神と共に歩んだので、神様は彼を「死を見ることのないように移されました」。言い換えれば、神様はエノクに死を経験させることなく、肉体を天国に連れて行ったのです。もちろん、エノクは完全で、罪のない人間ではありませんでした。しかし、「信仰によって」エノクは、「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」。エノクは信仰によって生き、信仰によって彼は神に近づいたのです。このような信仰を、神様は常にお喜びになります。あなたの信仰は、毎日あなたを神様に近づけているでしょうか?あなたをよく知る人は、あなたを「神と共に歩む人」と表現できるでしょうか?私たちが信仰によって生きる時、私たちは神様に近づきます。私たちは、神様を信頼し、神様に従うことがどれほど祝福されたことであるかを学ぶのです。信仰によって、私たちは神様と会話(かいわ)し、毎日御言葉を読むのです。信仰によって、自分が愛する人たちが神と共に歩むように導こうとするのです。6節は、なぜこのような信仰が重要であるかを示しています。それは、神様が真の信仰のみ、そして救い主なる神を信じる信仰に基づいて歩む人生のみをお喜びになるということです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神様を信じ、従う者たちに神様が約束してくださる報酬(ほうしゅう)は、エノクに与えられた報酬と同じではありません。神様は、誰かを移し、死を見ることがないようにされるわけではないのです。キリストが再臨(さいりん)されるときにこの世で生きている人たちは、「一挙(いっきょ)に引き上げられ、主と会うのです」。彼らは他の人のように死を経験しないでしょう。しかし、神様が、信仰によって歩むすべての人に約束してくださった報酬は、「永遠のいのち」です。イエス様は兄弟(きょうだい)を亡(な)くしたマルタにこう言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

信仰によって生きた人の三番目の例はノアです。創世記6-9章に記録されているノアの物語はよく知られており、ここで繰り返す必要はありません。ノアは、「神と共に歩んだ」人として記されているもう一人の人物です。ノアは、エノクのように天国には移されませんでした。ノアは私たちと同じように死にました。しかし神様は、非常に特別で重要な役割のためにノアを選ばれたのです。神様は道徳的に腐敗(ふはい)した人間社会に、神の真実と正義を宣言するためにノアを召されました。そして信仰によって、ノアは神様が世界を裁かれると警告されたことを信じました。ノアは、人間の邪悪(じゃあく)が神様をどれほど深刻(しんこく)に怒(おこ)らせたかを理解しました。そしてノアは、神様が約束されたことをそのまま行われるお方であり、その時代の人間を滅(ほろ)ぼされるということを理解しました。ノアは神様を信じていたので、すぐに神様に与えられた指示(しじ)を実行し始めました。その準備を完了するのには100年が必要でしたが、神の裁きの雨が降り、洪水の水があふれた時、ノアとその家族はすべての動物と共に箱舟(はこぶね)の中で安全でした。信仰によって、ノアは神様の裁きの警告を真剣(しんけん)に受(う)け止(と)め、家族を滅びから守る働きをしたのです。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続(そうぞく)する者となりました。」この信仰は、洪水からノアとその家族を救った信仰でした。ノアが神様を信頼し、その信仰に基づいて行動したからです。    

 IV. CONCLUSION 結論

信仰はこの3人を特別な者にしました。彼らは自分を創造した神様を信じました。信仰によって彼らは神様を礼拝しました。信仰によって彼らは神様と共に歩みました。信仰によって、彼らは信じないものに下った神の裁きから逃(のが)れました。そして信仰によって彼らは、最終的に神様からの報酬を受けたのです。彼らは信仰によって、永遠のいのちという賜物を受けました。彼らは信仰によって歩んだので、神様に喜ばれたのです。それでは、皆さんは誰を信頼しますか?誰に、何に皆さんの信仰を置きますか?一部の人たちは神様を拒絶(きょぜつ)し、物質的なものを信頼し、安全や快適(かいてき)を保(たも)とうとします。このような人たちは、「十分なお金があれば、私は幸せで安全です!」と思っています。しかし、これは愚かなことです。アメリカでは、貨幣(かへい)でさえこれを宣言しています!すべての米ドル紙幣(しへい)には、「In God We Trust」(私たちは神を信頼する)という標語(ひょうご)が印刷(いんさつ)されています。これは素晴らしい助言です。皆さんの信仰をお金に置かないでください。そうではなく、神様に信仰を置いて下さい。これがヘブル書11章の教えです。皆さんの必要が何であれ、神様は皆さんを助けることができます。私たちが神様ご自身に信頼を置く時、自分たちの人生が絶望で終わらないという自信を持つことができます。「【主】のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(詩篇34:8)

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