信仰のみによる義認

KASUMIGAOKA
2017/10/29 
SERMON: 「信仰のみによる義認」  “Justified By Faith Alone”
TEXT: Galatians 2:15-21

I. INTRODUCTION: マルティン・ルター、ローマ・カトリック教会、義認

1517年の10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルグの教会の門に「95箇条の提題」を掲げた時、彼はローマカトリック教会の中の「免罪符の販売」という特定の誤りについて批判をしました。ルターの宗教改革において重要な「信仰義認」というテーマは、95箇条の中では特に言及されていませんでした。しかし「信仰のみによる義認」という真理は、ルターの魂を既に掴んでいたのです。当時ルターは、ローマやガラテヤの教会に対するパウロ書簡の講義を大学でしていました。ルターはパウロの福音の解説に困惑していました。パウロはローマ1:16-17でこう書きます。「私は福音を恥とは思いません。・・・なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、 その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。 『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」福音は神の義を示します。そして神は聖なる方であるがゆえに、完全な義以外のどのような義でも満足されないのです。しかし、それでは単なる人間がどのように神の完全な義を達成することができるでしょうか。そして「信仰によって生きる」とはどういう意味なのでしょうか。

ルター自身もこの問題に葛藤しました。彼は誠実なアウグスチノ会の修道士だったにもかかわらず、日々誘惑と葛藤し、自分の毎日の行ないが神の完全な義の基準を満足させるには不十分であることを知っていたのです。パウロがローマ3:23で、「すべての人は、 罪を犯したので、 神からの栄誉を受けることができず、」と書いていることを、ルターは理解していました。ルターはパウロの生涯や書簡を学ぶにつれ、人間が神の完全な義を達成する唯一の希望は、神の御業であり、人間の行ないではないことを理解するに至ったのです。「神の義」は、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる神の恵みの賜物です。教会は私たちをキリストに導くことで助けることはできますが、私たちが罪を犯す時、キリストご自身のみがそれを赦してくださるのです。私たちが神の御前で義とされる希望を与えてくださるお方はキリストのみです。なぜなら神様は、イエス・キリストを信じる者を義と認めると定められたからです。誰も、神の律法を自らの努力で守ることによっては、義と認められません。このことをパウロはローマ3:21-22で言っています。「しかし、 今は、 律法とは別に、 しかも律法と預言者によってあかしされて、 神の義が示されました。すなわち、 イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 それはすべての信じる人に与えられ、 何の差別もありません。」

ルターの時代、アウグスチノ会の修道士たちは、ほとんどの人より「義」であると考えられていました。彼らは注意深く、すべての神のおきてを守ろうとしました。彼らはとても厳格で、訓練された生活を送っていました。しかしルターは、「義人」であっても、救い主を信じる信仰に生きなければならないということに気が付きました。人間自身の「義」は、神の要求を満たすには全くもって不十分なのです。このことを使徒パウロはガラテヤ2:16で教会に説明しています。「しかし、 人は律法の行いによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、 ということを知ったからこそ、 私たちもキリスト・イエスを信じたのです。 これは、 律法の行いによってではなく、 キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。 なぜなら、 律法の行いによって義と認められる者は、 ひとりもいないからです。」それでは、この義認におけるローマ・カトリック教会の役割とはどのようなものだったのでしょうか。教皇は私たちの罪を許すことができるのでしょうか。教会はその教会員に、神の義を与えることができるのでしょうか。もちろんできるわけがありません。しかし、教会は人々に、どこで赦しを見出すことができるかを示すことができます。教会は人々を、キリストの十字架へと導くことができるのです。教会は神の恵みの福音を宣べ伝え、イエス・キリストを信じる信仰の歩みがどのようなものかを示すことができるのです。今日の箇所を見ていく中で、どのようにしてこの、イエス・キリストを信じる信仰による救いという知らせが使徒パウロを変えたのかを考えましょう。そしてその同じ知らせが500年前にルターを変え、かたくなな教会に改革をもたらしたのです。

II. THE MEANING OF JUSTIFICATION BY FAITH 信仰義認の意味(ガラテヤ2:15-18) まず第一に、神の目に義と認められるために要求される信仰とはどのようなものなのかを理解することは、必要不可欠です。聖書は、「信仰」という言葉を、キリスト教会が持っている教えを指す言葉として用いることがあります。例えば、使徒6:7では、ユダヤ人の祭司たちが「信仰を受け入れた」と原語で言っています。それにガラテヤ1:23では、「以前...滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と言っているのです。ユダの手紙3節もまた、「信仰」という言葉をキリスト教の教えの内容を指す言葉として、私たちが使う「信仰告白」という言葉と同じような意味で用いています。宗教改革当時のローマ・カトリック教会もまた、同じように「信仰」という言葉で、個人と教会との関係を表していました。つまり、教会員は信仰を持っていると言われたのです。しかし、信仰義認という表現のなかでの「信仰」という言葉は、このような意味ではありません。教えの集約であったり、何かの教えを正しいと受け入れるというような意味での信仰ではないのです。義認は、そのような種類の信仰によるのではありません。救いに至る信仰の対象は、何かの教えではなく、またその教えを教える教会でもありません。救いに至る信仰の対象はただ一人、イエス・キリストその人です。ガラテヤ2:16でパウロはこう言います。「しかし、 人は律法の行いによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、 ということを知ったからこそ、 私たちもキリスト・イエスを信じたのです。 これは、 律法の行いによってではなく、 キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。」この信仰は、イエス・キリストという人格に集中した信仰です。これは個人的な信頼の関係です。すなわち、救いに導く信仰とは、生きておられ、私たちと関係を持ってくださるイエス・キリストを信じる信仰なのです。このキリストへの信仰は、個人的で、かつ主観的な信仰です。

しかし、救いに至る信仰は、単なる主観的な経験だけではありません。この個人的な信頼関係は、歴史上の真のイエスを信じる信仰でなければなりません。すなわち、およそ2000年前にイスラエルに生きたナザレのイエス、弟子たちを教え、聖書があらかじめ示したように十字架上で死なれ、三日目によみがえられたイエス様です。言い換えるならば、救いに導く信仰とは、私たちが空想上で作り出した「架空の友人」を信じることではなく、また遠い昔の単なる歴史上の人物を信じることでもありません。クリスチャンはイエス・キリストを生ける主であり、ともに歩む時に私たちの声を聞いてくださり、求める時に助けを与えてくださる方であることを知っています。信仰とは、客観的に現実であり、生きておられるお方を信じ、信頼するものなのです。 真のクリスチャンに求められる信仰は、イエス・キリストにある信仰です。私たちはキリストのご性質と御力に信頼を置きます。私たちは聖書に記録されているイエス様の生涯から、そして個人的に経験するイエス様の憐れみ深い取扱いから、イエス・キリストのことを知るのです。イエス・キリストを信じる者は、キリストのご性質や、その御業を否定することはできません。それに、キリスト信者であれば、イエス・キリストのご性質と御業を知らずに、キリストを信じるはずではありません。私は昔、ある人に「あなたはクリスチャンですか」と聞いたことがあります。すると、「まあ、神さまのことは信じています。そういう意味で聞かれているんでしたら」という答えが返ってきました。もしイエス・キリストに信頼をおき、蘇られた救い主に希望を置いているなら、このような返答が返ってくるはずはないのです。

III. FAITH OR WORKS OF THE LAW? 信仰か、律法の行いか

信仰義認を理解するには、信仰と神の律法との関係を理解する必要もあります。ガラテヤの教会にパウロが手紙を送った理由をご存知ですか。それは、キリストを信じる信仰に加えて、ある程度の従順な行ないも救いのために神から要求されていると主張する教師たちによって、多くのクリスチャンが誤った方向に流れているという状況からでした。パウロは厳格なパリサイ派に所属する真面目なユダヤ人でした。イエス様はしばしば彼らの偽善について非難されました。しかしすべてのパリサイ人が偽善者だったわけではありません。パウロ(もしくはサウロ)は忠実に神の律法を守ろうとしていました。しかしそれは成功することがなかったのです。ローマ7:22-24でパウロは、神の律法を守り、罪の力を退けようとする葛藤について書いています。「すなわち、 私は、 内なる人としては、 神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、 それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、 私を、 からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、 ほんとうにみじめな人間です。 だれがこの死の、 からだから、 私を救い出してくれるのでしょうか。」この言葉は、パウロがまだイエス・キリストを信じておらず、熱心なパリサイ人として神の律法を守ろうとして葛藤している様子を書いているのだと思っています。当時、ユダヤ人だったサウロは、周りの異邦人社会の道徳的なだらしなさとは対象的に、強い道徳的な意識を持っていました。しかし、そのように何が正しくて何が間違いかという思いを持ち続けても、罪の力に打ち勝つことはできなかったのです。神の律法によってパウロの良心がとがめることはあっても、律法によって誘惑への葛藤はさらに困難になっていったようです。ローマ7:5でパウロはこう言います。私たちが肉にあった時は、 律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、 死のために実を結びました。」当時のサウロはまだユダヤ人として「肉にあり」、神の御霊によって新しく生まれてはいませんでした。思いを尽くして神の律法に従おうとしても、ユダヤ人としてそれは不可能であることに気付いたのです。その代わりに、サウロは肉によって「罪の律法に仕えて」(ローマ7:25)いたのです。神の律法は、サウロですら登ることができなかった、高い山でした。しかしイエス様はその山に登ってくださったのです。人間にこの義を達成する希望があるとすれば、それは神の律法を守ろうとする人間の努力を通してではありえません。イエス・キリストを通してのものなのです。

ここに、パウロが理解するに至った「福音」があります。義なるイエス・キリストが、受ける必要のない死を受けてくださった、そして神様がイエス様をよみがえらせてくださったのです。神は御子に、罪、死、そして誘惑する者への勝利を与えられました。今や、復活され、昇天されたキリストが、真の義の源となってくださり、その義に、パウロを含め、他の人があずかることができるようになったのです。パウロはこのキリストの義にあずかることを、ローマ7:4で述べます。「私の兄弟たちよ。 それと同じように、 あなたがたも、 キリストのからだによって、 律法に対しては死んでいるのです。 それは、 あなたがたが他の人、 すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、 神のために実を結ぶようになるためです。」まず第一に、「律法に対して死な」なければなりません。つまり、律法の行いによって義を獲得できるという一切の可能性を放棄しなければならないのです。そして、救い主キリストと結ばれ、義の実が結ばれるのです。キリストとの結合こそが、義の実を私たちの生活の中で結ばせるのです。そして何が私たちをキリストと結びつけるでしょうか。信仰です。イエス・キリストを信じる信仰こそが、神を喜ばせる義の実を結ぶ唯一の道なのです。

パウロは律法に対して死ななければ、キリストとともに生きることはできないと主張します。最も忠実なクリスチャンでさえ、罪を犯します。例えば、尊敬されていた使徒ペテロやパウロの親しい友人で同行者だったバルナバでさえ、罪のわなに陥ることがあるとパウロは直前の11-13節で言っています。しかし、彼らの罪は、キリストを信じる信仰を通して与えられている義を無効にはしません。罪を犯す時も、キリストを信じる者はキリストとの結合によって神の御前に義とされるのです。これは、キリストが罪を犯すことを認めているわけでは絶対にありません。キリストは、罪の助成者ではありません。私たちが罪の中に生き続けるために、救いを保証してくださるわけではありません。キリストを信じる信仰へと新しく生まれた者は、もはや罪の中に生き続けることはありません。罪を犯せば、私たちのうちにあるキリストの御霊が、私たちが罪を悔い改め、救い主キリストを通して神と和解させられるまで、私たちの魂に語り続けられるのです。しかし常に私たちの希望はキリストにあるのです。

よって、信じる者が罪を犯したとしても、失望することはありません。なぜなら救いの希望は自分自身の義ではなく、キリストの義にかかっているからです。クリスチャンが神に対して罪を犯す時、それを悔い改め、キリストにある信仰を再確認します。キリストの義に信頼する者は、余分な自分の行ないによって自分の罪の償いをしようとはしません。誰も自分の罪を、余分な良い行ないによって贖うことはできないのです。パウロが2:18-19で言っているとおりです。「けれども、 もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、 私は自分自身を違反者にしてしまうのです。しかし私は、 神に生きるために、 律法によって律法に死にました。」律法に死んで、信仰によってキリストと結び付けられた者は、律法によって義を獲得しようとするところに戻ることはありません。キリストを信じる信仰による義認は、ただ一度きりの、神の恵みの御業なのです。この理由で、パウロは自分自身の救いの確固たる希望を20節で繰り返しています。「私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が肉にあって生きているのは、 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」これが、信仰義認の本当の意味です。キリストがわたしたちの内に生きてくださり、キリストの義が私たちの罪を覆ってくださるのです。

IV. CONCLUSION 結論

聖書は、パウロがはっきり、いつ、キリストを信じる信仰による義認の重要性を理解したのかを述べてはいません。ダマスコへの途上でキリストがパウロにお現れになった時でしょうか。それとも、ダマスコで主の弟子であるアナニヤの言葉を聞き、「目からうろこ」が落ちた時でしょうか。もしかすると、アラビアの荒野のどこかで静かに暮らしていた時に啓示が与えられたのかもしれません。しかし、キリストを信じる信仰のみによる義認を理解することは、パウロの人生についての考え方を完全に変えました。パウロはもはや、苦労して律法を守ることで神を喜ばせることができるとは考えませんでした。その時から、パウロはキリストを信じる信仰の重要性に気づき、「新しく造られた者」となったのです。マルティン・ルターもまた、似たような覚醒をパウロのおよそ1500年後に経験します。ルターの、キリストを信じる信仰による義認の認識は、当時の教会の誤りに対して立ち向かうように彼を導きました。彼は、この一つの信仰義認という教えによって、キリストの教会は立ちもすれば倒れもすると確信しました。キリストを信じる信仰のみを通して私たち一人ひとりに転嫁されるキリストの義以上に、私たちが知り、宣べ伝える必要のある教えはありません。キリストを信じる信仰によって義と認められたことが、皆さんの人生をどのように変えたでしょうか。パウロ自身の証をもう一度聞きましょう。(ピリピ3:7-9)「しかし、 私にとって得であったこのようなものをみな、 私はキリストのゆえに、 損と思うようになりました。それどころか、 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、 いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、 それらをちりあくたと思っています。 それは、 私には、 キリストを得、 また、キリストの中にある者と認められ、 律法による自分の義ではなくて、 キリストを信じる信仰による義、 すなわち、 信仰に基づいて、 神から与えられる義を持つことができる、 という望みがあるからです。」クリスチャンにとって、信仰を通して与えられる義認という恵み以上の特権はありません。それは、「あなたがたの中におられるキリスト、 栄光の望み(コロサイ1:27)」です。

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