主の安息と我らの信仰

KASUMIGAOKA  
2017/12/17 
SERMON: “The Lord’s Sabbath and Our Faith”「主の安息と我らの信仰」  
TEXT: Hebrews 4:1-11     

I. INTRODUCTION

ヘブル書4 章は次のような言葉で始まっています。「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」「神の安息に入るための約束」は、アブラハムとその子孫に、神が平安と繁栄をもたらす地を与えることを約束してくださった、その約束を表しているようです。イスラエルがモーセに導かれてエジプトから出た時、彼らはその約束の地に向かって出かけて、そこに住むことを計画しました。しかし、詩篇95篇によれば、彼らは自分たちの心を神に対してかたくなにして、神を怒らせました。そして神は「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と宣言されたのです。その結果、エジプトを脱出した世代のイスラエル人は、カナンの地に入ることができませんでした。3:19では、「彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであった」と言われます。しかし、荒野で死んだ人々の息子と娘たちは約束の地に入ることに成功しました。モーセの後継者であるヨシュアは、彼らをカナンに導いて、イスラエルをそこに定住させました。もしヨシュアの時代に神の約束が成就したのだとすれば、なぜヘブル書4:1は「神の安息に入るための約束はまだ残っている」と言っているのでしょうか。神が約束されたこの「安息」とは何でしょうか。そして、私たちの信仰と、「神の約束された安息」に入り、それを楽しむこととの関係は何でしょうか。これらはヘブル書が4章で扱っている問題です。今日私たちに与えられた聖書の箇所を深く学び、この2つの問題についてより深く考えていきましょう。

II. GOD’S PROMISED REST AND OUR CHRISTIAN FAITH

まず、安息の約束についてみていきましょう。この「安息」が何であるのかを理解するのに役立つ3つのことが、今日の箇所で言及されています。第一の点は、ヨシュアの時代に約束が完全に成就されなかったということです。ヘブル書が「神の安息に入るための約束はまだ残っている」と言っていることから、約束された「安息」は、単にカナンにある住む場所ではないことが分かります。ダビデ王の時代以前にも、その約束された地はすでに400年もの間イスラエルによって所有されていました。イスラエルはその間ずっとカナンに住んでいたのです。しかしヘブル4:7-9ではこう言われています。「神は再びある日を『きょう』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」つまり、神の約束された「安息」とは、単なる住む土地ではなく、荒野をさまようことからの安息でもなかったのです。むしろそれは、働くことからの安息でした。9節で使われている「安息日」という言葉は、このことを裏付けています。この言葉は珍しい名詞で、「安息日を守ること」、つまり「わざを休むこと」を意味する言葉です。このことは、4:10で、さらに説明されています。「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」エジプトで、イスラエルの人々は奴隷の生活を経験しました。彼らがどれほど頑張って働いても、彼らは報われませんでした。彼らがどんなに努力しても、進歩も利益もなかったのです。彼らの働きは報われず、望みがなく、虚しいものでした。 伝道者の書は2:22-23で、終わりのない働きや報われない働きについて、同じようなことを言います。「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。」しかし、神はそのような困難で無意味な仕事からの安息を約束してくださったのです。そして詩編95篇とヘブル書は両方とも、安息に入るという神の約束が今日も残っていると私たちに伝えているのです。

ヘブル書が、神の約束した安息について私たちに語る二番目の点は、人々が福音の説教を通してこのことを学ぶということです。 2節と6節で用いられているギリシャ語の単語は、「福音の良い知らせを述べ伝える」という意味の特別な言葉(evangelizomai)です。2節はこう言います。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」この驚くべき言葉を考えてみてください。ヘブル書は、モーセの時代でさえ、「福音」がイスラエルに宣べ伝えられたとはっきり言っているのです。救い主イエス・キリストによる罪の赦しと贖いという福音の希望は、はるか昔にイスラエルに宣べ伝えられたように、私たちに宣べ伝えられました。もちろん、イエス・キリストの生涯と宣教との詳細、すなわちキリストの誕生、神の王国についての教え、十字架上の苦しみと死、そして復活などは、むかしのイスラエルには明らかにされませんでした。しかし、イスラエルが頻繁に聞いたメッセージは、彼らの罪を悔い改め、神の救いを信頼するという必要性についてでした。神様は義なる、憐れみ深い神であるため、救いのために神を仰ぎ見るように教えられました。この理由で、ヘブル書の記者は、イスラエルの人々が千年以上前に福音を聞いたように、当時の彼らにも福音が宣べ伝えられたと言っているのです。もちろん、住む地の約束は、モーセの時代、ダビデの時代、そしてヘブル書が書かれた初代教会の時代のいずれにおいても、福音の本当の希望ではありませんでした。神の安息に入るという約束は、自分の良い行ないによって神の報いにふさわしくなるように自分で努力するのではなく、神の恵みを信じるという希望だったのです。ヘブル書は、神の恵みのメッセージを受け入れ、救い主を通して永遠のいのちの希望を受け入れるようにと私たちに勧めます。さもなければ、私たちは心をかたくなにしたイスラエルの世代のようになり、決して神の約束された安息に入ることはできないのです。

ヘブル書が語る、神が約束された安息についての3つ目の点は、それが「神ご自身の安息」であるという点です。1節と10節は、それが「神の安息」であると言います。そして3節と5節で神様はそれを「わたしの安息」と呼んでいますが、なぜ神様は、ご自身の安息と呼んでおられるのでしょうか。神様が私たちに提供してくださっているからというだけで、これが「神の安息」と呼ばれているわけではありません。神様ご自身が、自分の模範によってそれを始めるからこそ、これを「わたしの安息」とお呼びになっているのです。神様ご自身がこの安息を楽しんでおられ、私たちにも神様とともにそれを楽しむように勧めておられるのです。3節の終わりから5節をもう一度見て下さい。「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた』と言われました。そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない』と言われたのです。」神様ご自身が、約束された安息とは何なのかをここで示してくださっているのです。神様は創造の御業のすべてを6日間で終らされ、7日目に休まれることで、このことをお示しになりました。そして、神は私たちにも、自分の仕事を脇に置いて、私たちの救いのための神の完全な恵みの中における安息に入るように求められているのです。それが9-10節が言っていることの理由です。「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

それでは、どのようにしてその神様が約束されたすばらしい「安息」に入ることができるのでしょうか。11節はこう言います。「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」このことは、ヘブル書4章の二つ目の問題である、私たちの信仰と、「神の約束された安息」に入り、それを楽しむこととの関係につながります。

もう一度2節と3節前半を見てみましょう。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。 信じた私たちは安息に入るのです。」先週、私たちはヘブル書3章の、私たちが神様に対して心をかたくなにすることに対する警告を読みました。この4章では、ヘブル書は、神が私たちにどのような信仰をお求めになるのかをさらに説明しています。それは神の安息に入ることができるようになるためです。まず第一に、自分の努力で何とか自分を救うことができるという「希望」を、最後の一欠けらまで、すべて捨てなければなりません。イザヤはこう言います。「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ64:6b)。なぜ私たちは神の安息へ入るために、自分で何かをすることができないのでしょうか。聖書は創世記の最初にその理由を示しています。私たちの最初の祖先であるアダムとエバは、神の永遠の安息への入り口を自分で獲得する機会が提供されていました。神様は彼らに、エデンの園を耕して保護するだけでなく、エデンの園での特定の働きをお命じになりました。神様は彼らに一つの単純な命令に従う責任をお与えになったのです。しかし、アダムもエバも、それを守ることができませんでした。彼らは二人とも神の戒めを破り、神が食べることを禁じた木の実を食べたのです。神はこう言われました、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」アダムとエバは神に背くことを選び、その瞬間に、自分の良い行ないにもとづいて神の安息に入るという希望を失ったのです。こういうわけで、使徒パウロがエペソの教会にこう書きました。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、・・・今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1-2)。イスラエルが神の約束の安息に入ることに失敗した理由は、神がアダムとエバに言われたことを彼らが信じなかったからです。彼らは、最初の父祖の不服従のために、彼らが本当に「自分の罪に死んでいた」とは信じていなかったのです。神が「私に信頼せよ。私の恵みとあわれみにあなたの希望を置け」と言われた時、彼らは神に背いたのです。彼らは、約束された地や神の永遠の安息いずれにも、彼ら自身の働きによっては決して入ることはできないと信じることを拒否しました。今日においても、多くの人達が、神様が言われるように、彼らの霊的な状態は絶望的であるとは信じていません。彼らは、自分の良い行ないによって、どうにかして「神の安息」に入ることができると考えているのです。さも、アダムが決して失敗しなかったかのように、また人類が基本的に「良い」ものであるかのように、です。しかしこのような希望は無駄に終わります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」「義人はいない。ひとりもいない。」 しかし、アダムとエバの失敗はすべての希望を終わらせたわけではありませんでした。「神の安息に入るための約束はまだ残っている。」これは、神の驚くべき恵みに根ざした神の約束です。アブラハムは、モーセの時代の何百年も前に神の恵みの素晴らしい力を発見しました。神がアブラハムと妻サラに、年老いてから子供を与えると約束された時、創世記15:6はこう言います。「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」神の約束を受ける道を開いたのは、アブラハムの信仰でした。 これは、神が私たちすべてにお求めになっている服従、つまり信仰の服従です。罪深い者を義と認めてくださる神様を信じる信仰を持ち、あなたのためにご自身のいのちを捧げてくださった贖い主を信じるならば、あなたは神の安息に入るのです。これが、神様が私たちのために開かれた唯一の道です。しかし、私たちが必要なのはこれだけです。イエス・キリストのうちにある神の恵みの良い知らせです。これは、私たちのために残っている、神の安息に入るための約束なのです。

III. CONCLUSION 結論

結論に入っていくにあたり、神を信頼し、神の約束された安息に入るように私たちを招いてくれる二つのことを覚えましょう。まず第一に、神様が依然として恵み深い方であるということです。神の恵みは、今日でもイエス・キリストの福音を通して宣言されています。あなたの周りの人々は、いまも神の恵みによって変えられていっています。彼らは「きょう」神の声を聞いており、私たちの救い主である主イエスの与えてくださる安全に人生を置いています。福音は古いメッセージですが、アブラハム、モーセ、そしてダビデの時代にそうであったように、今日の人をも救うことができるほど力強いものです。聖霊は、良い知らせの真実をお用いになって、人々が罪人としての悲惨で無力な状態であることに目覚めさせ、彼らにキリストへの信仰をもたらされます。「神の安息に入るための約束はまだ残っている。」「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」 第二に、ヘブル書が9節で語っていることを覚えましょう。「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」多くの人々は、安息日を聖なる休息の日としておくという原則を嫌っています。多くのクリスチャンは、神がアブラハムの子孫に、この特別で素晴らしい機会を与えた理由を理解していません。彼らは、安息日は、負わなければならない「重荷」であったり、もしくは、安息日を守る規則は完全に過去のものになったと思っています。安息日をクリスチャンとして守ることは、救われるために必要な「良いわざ」であるとは誰も考えてほしくありません。これはこのヘブル書が私たちに教えてくれていることと正反対です。それでは、なぜヘブル書は、「神の安息に入るための約束はまだ残っている」というのと同じように、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」と言っているのでしょうか。答えは、私が思うに、安息日は神の約束を指し示しているからです。私たちは、クリスチャンとして安息日を、毎週実際に神様の恵みに私たちが本当に信頼するように思い起こさせてくれるものとして、守るのです。安息日を聖なるものとして守る、つまり、安息日に私たちのすべての仕事を取り除くためには、神の約束を信じる信仰が必要です。自分が成功するために自分の労苦だけを信じるならば、安息日は重荷にしか、なりません。しかし、この世の人生と、後の世における成功のために、神の恵みを信じるクリスチャンがいます。そのような人たちは、主が与えてくださる全ての賜物を用いて、毎週6日間一生懸命働きます。しかし、安息日には、彼らは「仕事を終えるための日」として安息日を使いません。彼らの仕事をやめて、「安息」という素晴らしい特権に主ご自身とともに加わるのです。このような人たちにとって、安息日は「喜び」であり、重荷ではありません。神の恵みのうちに安らぐことが神の聖なる安息日の目的であることを覚えていれば、それぞれの安息日を会議や活動でいっぱいにすることはありません。どれほどそれが便利であったとしてもです。神は、私たちのために用意してくださったキリストのうちにある永遠の安息を思い起こさせるために、安息日の安息を私たちに与えてくださいました。そして私たちがキリストに属し、自分自信ではなくキリストの恵みに信頼しているということのしるしのために、神様は安息日を与えてくださったのです。神様が私たちに、神の民として安息日を覚え、守ることによる喜びと平安を与えてくださいますように。アーメン。

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