信仰における忍耐

KASUMIGAOKA
2018/05/06
SERMON: “Perseverance in Faith”「信仰における忍耐」
TEXT: Hebrews 10:26-39

I. INTRODUCTION イントロダクション

先週、私たちは、主イエス・キリストを信じることによって神様の臨在に入るという、クリスチャンとしての大きな自信について学びました。キリストは私たちが神に近づくための「新しい生ける道」となってくださり、神の裁きの御座の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。それゆえ、私たちはクリスチャンとして新しい人生を送ることができ、神に近づき、私たちの希望の証を他の人たちと分かち合い、キリスト教会のメンバーとして互いに励まし合うのです。これが、19-25節で見てきた、クリスチャンの新しい生き方です。クリスチャンの人生は、周囲(しゅうい)の人々の生活とは目に見えて違うはずです。しかし、時にはクリスチャンの生き方や交わりが、キリストを救い主、そして主として服従することを望まない人々を、引きつけることがあります。このような人々は自分の人生を自分で管理したいと思い、真(しん)のクリスチャンではありません。しかし、それでもなお彼らは、クリスチャンの積極的な生き方に魅力を感じるのです。なぜクリスチャンの生き方は、キリスト教徒以外の人々を引き付けるのでしょうか?

新約聖書のいくつかの箇所で、クリスチャンの生き方がどのように説明されているのかを考えてみましょう。(エペソ4:17, 19-20)「そこで私は、主にあって言明(げんめい)し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。・・・道徳的に無感覚となった彼らは、好色(こうしょく)に身をゆだねて、あらゆる不潔(ふけつ)な行いをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。」(エペソ4:25a)「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」(エペソ4:29)「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳(とく)を養うのに役立(やくだ)つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:31-32)「無慈悲(むじひ)、憤(いきどお)り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ5:3-4)「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品(げひん)な冗談(じょうだん)を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」クリスチャンがこのように生きる時、そこに他の人と本当の違いが生まれるのです。エペソ5:8はこの「違い」について、こうまとめています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 −−光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです−− そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」クリスチャンの人生には違いがあるべきです。そして、このような生き方に他の人が惹(ひ)かれても、それは驚きではありません。クリスチャンの人生は、良い生き方なのです。 しかし、そこには危険もあります。その危険とは、ある人々はこのような人生を経験したいと思いつつ、まず最初にキリストのもとに来なければならないということを理解していないということです。このような人々は、新しい服(ふく)を着るように、「クリスチャンの生き方を身につける」ように試みるかもしれません。しかし彼らは真の霊的な回心と心の新生(しんせい)を経験していません。彼らは、クリスチャンたちとともに過ごし、教会に加(くわ)わることもあるかもしれませんが、自分の罪を本当に悔い改めたり、救いのためにキリストに信頼することはないのです。真の悔い改めとキリストへの信仰がなければ、本当のクリスチャンとしての生き方は不可能です。クリスチャンの人生は、イエス・キリストとその贖いの御業という、堅い基盤(きばん)の上に築(きず)かれなければならないのです。クリスチャンの生活に「近道(ちかみち)」はありません。近道で他の人を欺(あざむ)くことは可能(かのう)かもしれません。しかし、神様をだますことはできないのです。そして、私たちが自分自身を欺かないということは非常に重要です。真のクリスチャンでなければ、最終的にクリスチャンとしての生き方を生きることはできないのです。

今日の箇所で、私たちは自分とイエス・キリストとの関係を吟味(ぎんみ)するように求められます。キリストを信じる信仰は、あなたの人生を内側から変えます。ヘブル書は、私たちの人生の真(しん)の基礎(きそ)を調べるように求めます。まず第一に26-31節で、ヘブル書は非常に明確(めいかく)な警告を与えています。キリスト教は、自分がそれを「好きかどうか」を「試してみる」ことができるような、一つの「宗教」ではないのです。もしクリスチャンでないのなら、誰もクリスチャンのようにふるまうべきではありません。次に、32-39節では、ヘブル書は信仰によって歩み続けることをクリスチャンに励まします。なぜなら、そこにはとても価値(かち)のある報いがあるからです。まず、その警告を見ていき、その後で後半の積極的な励ましについて見ていきましょう。

II.FAITH AND PERSEVERANCE IN CHRISTIAN LIFEクリスチャンの人生における信仰と忍耐A.
Warning to nominal Christians 名(な)ばかりのクリスチャンに対する警告

26-31節でヘブル書は、自分の人生をキリストに従うことにささげることなしに、キリスト教を少し「かじる」ことの危険性を説明しています。これは、聖書の良い知らせを誠実(せいじつ)に調べ、真面目(まじめ)に探求(たんきゅう)している人にとっては、警告ではありません。むしろ、すでに福音を信じてキリストの道に従っていると告白している人に対する警告なのです。言い換えるなら、「名ばかりのクリスチャン」、つまり、真面目にキリストに人生を捧げておらず、キリストの教会のメンバーとしての誓約(せいやく)を守る努力をしていない教会員にとっての警告なのです。このように「クリスチャンのふりをしている」人は、霊的に最も危険な状態にあります。彼らの状況が非常に恐ろしい理由は3つあります。

第一に、26-27節でヘブル書は、このような人々は、聖霊の力ある回心の御業を本当は経験したことがないと言っています。この警告は、特定の教会のメンバーに対して与えられていることがわかります。なぜなら、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば」と言われているからです。この警告は、聖書の教えを聞き、それを知識として受け入れた教会の人々に与えられています。しかし、彼らは神の聖霊の御業によって、内側から変えられていません。彼らは罪に対する真の悔い改めと、救い主への真の信仰に導く、霊的な「新生」を経験したことがないのです。彼らにとってのキリスト教は、単に聖書の教えを知識として受け入れることに過ぎません。公に彼らの信仰を告白し、バプテスマを受けた後でさえ、彼らは自分勝手で罪深い人生を生き続けます。そして、その罪に対する結果を彼らが身に受けることはないと考えているのです。彼らは、自分の罪がすべてキリストのいけにえによって支払われているので、神様は自分の罪を裁かないと思っています。だから、彼らは「ことさらに罪を犯し続ける」のです。しかしヘブル書は、このような「名ばかりのクリスチャン」は、キリストのいけにえから益を得ることはできないと言います。このような者たちのために、「罪のためのいけにえは、もはや残されていません」。彼らはキリストの血によって内側からきよめられていないので、その罪は残っているからです。彼らにとっては、故意(こい)の、意識的な罪の罰則(ばっそく)を減(へ)らすような、いけにえは何もないのです。そして彼らは意識的に罪を犯し続けることによって、毎日その罰則を増し加えているのです。彼らの罪の習慣(しゅうかん)は、神の恐ろしいさばきを招(まね)きます。このような「名ばかりのクリスチャン」は、キリストが永遠の安息と栄光に迎え入れてくださることを期待することはできません。むしろ、神の義の裁きに直面するとき、彼らは「さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」このような人たちは「逆らう人」、すなわち神の敵なのです。

このような「名ばかりの教会員」の状況が非常に悲惨(ひさん)であることの第二の理由は、彼らが拒否した恵みは、とても大きいということです。古い契約のもとでのイスラエルは、モーセの律法が彼らに素晴らしい生き方を示したことを認識(にんしき)していました。神様はご自身の律法と契約の約束でもって、民を祝福されたのです。しかし、神様が新しい契約のもとでご自身の民にお与えになる恵みの祝福は、古い契約の祝福よりはるかに大きいのです。神様はご自身の愛する御子を、私たちの救い主として、主として送ってくださいました。神様は、「世の罪を取り除く神の小羊」を与えてくださり、その血を流すことによって、民のために新しい契約を結んでくださったのです。そして、神様はご自身「霊をすべての人に注(そそ)いで」くださり、御霊の実と賜物をご自身の民全てにもたらしてくださいました。古い契約の下では、「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑(しけい)に処(しょ)せられます。」これは、神の恵みの律法を拒否するものに対する、厳(きび)しい刑罰(けいばつ)でした。それでは、神様の恵みによる新しい契約の下でのはるかに大きな祝福を拒否することに対して、神様のさばきはどれほど恐ろしいものになるでしょうか。単にクリスチャンのふりをしている人は、神様に対して三つの大変な罪を犯しています。まず、彼らは新しいいのちの恵みを無視して、「神の御子を踏みつけ」ています。そして、自分たちをきよめてくださる「契約の血を汚れたものとみなし」、さらに、神様の素晴らしい恵みの賜物を見る目と、受け入れる心を与えてくださる「恵みの御霊を侮(あなど)る」のです。このような者が、「どんなに重い処罰(しょばつ)に値(あたい)するか、考えてみなさい。」

「名ばかりのクリスチャン」の状況が非常に深刻(しんこく)な第三の理由は、その人達が自分自身のような人間からさばかれるだけでなく、生ける聖なる神様のさばきに直面するということです。彼らは、自分の罪が明(あか)るみになった時に、仲間の教会員からの非難(ひなん)を恐れるのではなく、思いを全てご存知の、全能の神からの非難を恐れるべきなのです。神様はそのような者の罪を、一つたりともお見過(みす)ごしにはなりません。すべての罪にたいして神様に答えなければならないのです。なぜなら、主なる神は「あわれみ深く、情(なさ)け深(ぶか)い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富」んでおられますが、「罰(ばっ)すべき者は必ず罰して報いる」お方でもあるのです。(出エジプト34:6,7)この神様に、私たち一人一人はやがて直面するのです。「主がその民をさばかれる」のです。神様はご自身の牧場で「羊」と「山羊」を分けられます。そして、ご自身の畑で「麦」と「毒麦」を分けられるのです。その日に、皆さんはどこに立っているでしょうか。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」しかし、もしあなたの贖い主であり、生ける時も死ぬ時もあなたの友でいてくださるキリストが、あなたの側(かわ)に立ってくださるなら、恐れる必要はないのです。ヘブル書がこの警告を述べているのには理由があります。それは、私たちの霊的な状態を確かに確認(かくにん)するためです。誰も自分自身を欺(あざむ)かないようにしましょう。むしろ、信仰によって、キリストに心を支配していただきましょう。皆さんのキリスト教を、表面的な「ショー」のようなものにしないでください。自分の友人や家族だけでなく、生ける神様に喜んでいただく必要があるのです。

B. Positive Encouragements 積極的な励まし

ここまで、「名ばかりのクリスチャン」に対するヘブル書の警告を見てきましたが、今日の箇所には積極的な励ましも見ることができます。真の信徒は「主のすばらしさを味わい、見つめている」ので、落胆する必要はないのです。私たちは、クリスチャンとしての信仰の歩みを忍耐する必要があります。これは、32-39節にある励ましのメッセージです。私たちの励ましは、過去の経験、将来の希望の両方に基づいています。32-35節は、すべての真のキリスト教徒が、思い出せるはずの過去の経験に焦点を当てています。それは特に、困難(こんなん)や苦難(くなん)の際に味わった神様の誠実さという経験です。前の警告は、「真理の知識を受けた」名ばかりのクリスチャンに対してのみ与えられていましたが、この次の励ましの言葉は、「光を受けた」真の信徒に向けられています。これは、パウロがエペソの教会に対して書いた手紙の中にも書かれている、霊的な「目覚め」を意味するかもしれません。パウロはこう書きました。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照(て)らされる。(エペソ5:14)」異邦人の中の未信者は、「その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れて」いました(エペソ4:18)。しかし、真のクリスチャンは、キリストを信じる信仰と真理の光をキリストにあって受けたのです。真の信徒は霊的な死からよみがえり、キリストにあって新しいいのちを与えられました。彼らは、「励まし主」、そして「助け主」として自分の内に住んでいる、キリストの御霊を受けたのです。それは、私たちの心を内からきよめ、試練や困難の中にあっても、信仰によって歩むように促(うなが)してくださる聖霊です。皆さんはいかがでしょうか。このような思いではありませんか。人間よりも神様に従うように、神様から力と勇気は与えられたことを、皆さんは覚えていますか。皆さんは、神様に喜ばれない簡単な道ではなく、困難ではあっても正しい道を選ぶように、神様が助けてくださった経験を覚えているでしょうか。これらは、真の信徒にとって、貴重(きちょう)な思い出なのです。このような、困難に直面した時の神様の忠実な保護(ほご)と、あふれる恵みの思い出は、皆さんをキリストの証人として立たせ、暗やみの世界においてキリストの真の光を輝かせることを助けるのです。だからこそ、ヘブル書は私たちに「思い起こしなさい」と言うのです。辱(はずかし)めや迫害にもかかわらず、信仰を通していかに大胆であったかを思い起こしなさい。仲間のクリスチャンが苦しんでいた時、どのように互いに励ましあったか思い起こしなさい。イエス・キリストのために、そしられ、憎まれ、財産が奪(うば)われることを選んだことを思い起こしなさい。このような時のことを思い起こしなさい。なぜなら、この時に主ご自身が共に立ってくださり、助けてくださったからです。この思い出は、神様の恵みについての貴重な思い出なのです。ダビデの詩篇もまた、困難の時の神の誠実な助けの思い出で溢れています。例えば、詩編63:6-7でダビデはこう言います。「ああ、私は床(とこ)の上であなたを思い出し、夜(よ)ふけて私はあなたを思います。あなたは私の助けでした。御翼(みつばさ)の陰(かげ)で、私は喜び歌います。」もし皆さんがこのような思い出を持っていないなら、自分自身に「なぜなのか」と尋ねるべきかもしれません。聖書は、私たちがクリスチャンとして苦しむことを予期(よき)しないといけないと言っています。なぜなら、私たちは、キリストに逆らう、暗やみの堕落した世界に住んでいるからです。しかし、主に信頼す者は、助け出されるのです。イエス様は弟子たちにこうお語りになりました。「あなたがたは、世にあっては患難(かんなん)があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」これはヘブル書が私たちを励ます方法でもあります。神様があなたのそばに立ち、試練の中であなたを助けたことを忘れないでください。あなたの信徒としての確信はそのような経験によって強められます。そして、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」と、ヘブル10:35は述べています。これは、忠実なクリスチャンに約束された、過去の祝福(しゅくふく)から将来の祝福への移行(いこう)です。

36節は、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」と言います。神様は常にご自身の約束をお守りになります。しかし、私たちが望む以外の方法でそうされる場合もあるのです。神様は本当に正しい時に、ご自身の民をお助けになります。だからこそヘブル書は37節で、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」と言っているのです。この手紙が書かれた当時、クリスチャンに対する最も深刻(しんこく)な反対(はんたい)は、ユダヤ人の指導者からのものでした。しかし、短期間(たんきかん)で、主はクリスチャンに対する祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たちの迫害に終止符(しゅうしふ)を打たれました。数年後、起源70年に、ローマによって神殿と祭司職(さいししょく)が破壊(はかい)されました。しかしクリスチャンたちはエルサレムの崩壊(ほうかい)から逃(のが)れ、ユダヤ人の迫害者たちからの救済(きゅうさい)を受けたのです。神様は忠実で、ご自身を信頼する者を助け出されるたのです。神様が常にそうであったようにです。

III. CONCLUSION   結論

来週、私たちは偉大な「信仰」の章と呼ばれるヘブル11章を取り上げます。しかし、私たちはすでに、キリストを信じる信仰が何を意味するのか考えてきました。それは、私たちが自分たちを罪人として明確(めいかく)に見ることができるような、新しい霊的な「目覚め」を意味します。信仰とは、神の御国をまず第一に求めるために、私たちの小さな「偶像(ぐうぞう)」や自己中心的な快楽(かいらく)から離れていくことを意味します。信仰とは、私たちの人生を主イエスに委ね、キリストの主権と恵みに期待していくことを意味します。これが、主が私たちからお求めになる信仰です。そしてこれが、私たちの救い主であり、私たちの人生の主である、キリストを信じる信仰なのです。「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と、神様ははるか前に、預言者ハバククを通して語られました。すべての信徒がクリスチャンとしての人生を始めるのは、「信仰のみ」によってです。そして真のクリスチャンは、信仰によって、毎日神様の御前で生きるのです。だからこそ、「恐れ退(しりぞ)く」ことなく、信仰によってクリスチャンとしての歩みに忍耐しましょう。神様は、「恐れ退く」者をお喜びにならないからです。むしろ、自分の心を調べ、キリストに信頼を置き、皆さんのクリスチャンとしての「光を輝かせて」ください。主なる神があなたの前に定めてくださった目標に向かって、大胆に、自信を持って進んで下さい。ヘブル書が39節で言うようにです。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

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