宗教改革と聖書

KASUMIGAOKA
2017/11/05 
SERMON:「宗教改革と聖書」 “Reformation and the Bible”
TEXT: マタイの福音書4:1—11; ペテロの手紙第一1:22-25    

I. INTRODUCTION: 改革派神学の源

最近私たちは、1517年にヨーロッパで始まった宗教改革について、特にマルティン・ルターの働きから学んできました。まず最初は、ルターがヴィッテンベルグで95箇条の提題を掲げた理由について学びました。その学びは特に悔い改めと罪の赦しが中心になりました。次の週は、ルターの神の恵みのみによる救いという教理の再発見について。そして先週は、ルターの教えの最も中心である、「キリストを信じる信仰のみによる義認」という教理について学びました。これらの事柄について、ルターは唯一の権威のよりどころを持っていました。それは教皇でも昔のローマ・カトリック教会でもなく、聖書でした。宗教改革は、ルターの徹底的な聖書の御言葉への信頼の決断なしには起こりえなかったのです。今日は、そのルターの決断について、そして聖書が私たちの信仰と生活の手引きとして唯一の完全に信頼のおけるものである理由について考えていきたいと思います。

II. MARTIN LUTHER AND THE BIBLE マルティン・ルターと聖書

福音派もしくは改革主義を曲げない教会で育ってきたクリスチャンにとって、聖書の権威を受け入れるのは当然のことのように思われます。改革長老教会の「教会員の契約」の最初の誓約として、聖書信仰について誓います。「旧新約聖書が、神のことばであって、信仰と生活の唯一の誤りのない基準である」ことを信じます。聖書の教えを信じることは、クリスチャンの信仰の根本的な要素ではないでしょうか。教会には常に、聖書は神の言葉であるという究極の権威を守ってきた、真のクリスチャンたちがいました。この理由で、あるクリスチャンたちにとっては、聖書は誤りなき神の言葉であるという権威が常にキリスト教の教えの中心だったわけではないということは、驚くべきことであるかもしれません。実際、聖書の権威は1500年ほど前からずっと考えられてきたにもかかわらず、ルターの時代には、聖書の人間の教えと道徳を導くという役割は、どの教会の会議でも正式に説明されることはなかったのです。

16世紀のはじめ、ほとんどの教会の人々は、宗教の信仰や道徳の事柄の最終的な権威は教皇にあると言っていました。彼らは、教皇がこの世界の教会を、キリストの代理人として治めると教えられてきたのです。教皇の権威の象徴は、主イエスが使徒ペテロに与えると約束された「御国のかぎ」でした。そして教会の伝承は、ペテロは最初のローマの司教、すなわち初代の「教皇」であるとしていました。ペテロの時代から、この世の教会を治める権利は、ローマの司教に受け継がれていったと考えたのです。教皇は「キリストの代理人」であり、教皇の言葉には、キリストご自身が語られているかのように従わないといけなかったのです。ローマ・カトリック教会によれば、ローマ教皇の究極の権威に唯一対抗できたのは、教会会議の権威でした。ルターは自分の意見が批判されると、まず教皇の権威に訴えました。そして教皇がルターの意見を支持するのを拒むと、次にルターは教会の公会議に意見を訴えたのです。しかし昔の教会の会議さえも、ルターのような意見に対して矛盾する判断を下したのです。昔の教会の公会議の決断にすら頼ることができませんでした。ルターは自分の意見を支持するものをたった一つしか見つけられませんでした。それは聖書そのものだったのです。ある意味で、ルターは神自身という最高裁判所に訴えたのです。だからこそ、ルターは教会会議や教皇に支持されるような意見ではなく、直接聖書の基礎に立った立場を保ったのです。当時、ルターは聖書のみという究極の権威に立った立場を保つことに成功した最初の人物でした。彼は、教会の議場だけでなく、ドイツの一般の支配者たちや市民たちとも議論をしたのです。

ルターの議論の根拠を示すために、彼はまず信用できる聖書の翻訳を備えなければなりませんでした。1100年前からローマ・カトリック教会でラテン語の聖書だけ用いていました。たいていの人々はラテン語が分かりませんでした。だから、ルターは自ら元のヘブル語、ギリシャ語から聖書をドイツ語に翻訳し始めました。彼は新約聖書の翻訳を1522年に完成させ、聖書全体を1534年までに翻訳しました。ルターの翻訳は最初のドイツ語訳聖書ではありませんでしたが、ラテン語のヴルガタ訳聖書ではなくの原語から訳された最初の聖書でした。ルターは聖書を当時の一般の人たちが理解できるようにドイツ語に訳したのです。そして彼が訳したドイツ語訳聖書はすぐに「ベストセラー」になりました。ヴィッテンベルグの一つの印刷所は、1534年から1574年の間に、ルターの聖書を約10万部印刷したと言われています。そしてその聖書は何百万人もの人々に読まれました。(Phillip Schaff)聖書が一般的になったことにより、新しい疑問が生まれてきました。例えば、聖書にはどの書が含まれないといけないかということです。ルターの聖書には、いくつもの「経外典」の書が含まれていました。しかしそれらは旧約聖書とは区別され、「聖書と等しいものではないが、役に立ち、読むのによい」という注釈つきで含まれていたのです。ルター自身は、全ての新約聖書の書を、聖書に含まれるのにふさわしいかを判断するために調べました。彼の第一の判断基準は、「信仰のみによる義認」の教理がそこに含まれているか、どうかでした。ルターはヤコブの手紙にはその教理が欠けていると判断し、ヤコブ書を「藁の書簡」と呼び、価値が少ないとしました。原語からの聖書翻訳という作業は、1000年の歴史の中で初めて「聖書正典」という深刻な課題をもたらしたのです。聖書の権威が宗教改革の運動の基礎だったからこそ、宗教改革の指導者たちはこの課題に慎重に取り組んだのです。ウエストミンスター信仰告白のような信条もそうですし、反宗教改革的なトレント公会議ですら、どの特定の書が「聖書」として認められるべきかという一覧を提示したのです。カトリック教会のトレント公会議は、ローマ・カトリック教会の権威に基づいて、どの書が聖書に含まれるのにふさわしいかを判断するという立場でした。彼らの判断によると、経外典もそこに含まれました。しかし宗教改革者たちは、聖書そのものの「内なる証言」や聖霊の導きを強調しました。宗教改革の終わりの頃(1648)に書かれたウエストミンスター信仰告白は、この原則をこのように述べています。(WCF, 1:4)「聖書が信じられ、従われるべき、その根拠となる聖書の権威は、いかなる人間あるいは教会の証言にも依拠せず、それの著者である神(神は真理そのものである)に全く依拠している。そしてそれゆえ、聖書はそれが神の言葉であるという理由で受けいれられなければならない。」究極的には、宗教改革の教会は、聖書を、人間の権威や教会の伝承によってではなく、神が「自ら証言する」神の御言葉であるという立場に立ったのです。

III. JESUS’ TESTIMONY TO THE AUTHORITY OF GOD”S WORD イエス様の証言

ラテン語のヴルガタ訳聖書がローマ・カトリック教会の公式な聖書になる前から、初期のキリスト教会は既に聖書の内容と権威について、100%の満場一致ではなくても、明確な合意に達していました。1世紀の教会は、今日私たちが聖書として持っている、イエス様や使徒たちの教えを、霊感された神の御言葉として受け入れていました。初代教会は、神がご自身の御心を人間の言葉をとおして人間に明らかにされるということを理解していたのです。ヘブル書1:1-2はこう教えます。「神は、 むかし父祖たちに、 預言者たちを通して、 多くの部分に分け、 また、 いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、 御子によって、 私たちに語られました。 神は、 御子を万物の相続者とし、 また御子によって世界を造られました。」イスラエルの人々を通して、神は我々にすべての旧約聖書の書を与えてくださり、これらは贖い主イエス・キリストのご性質や御業を証言するのです。イエス様の復活の直後、イエス様は弟子たちにお現れになり、神の御言葉は成就されなければならないとおっしゃいました。(ルカ24:44-47)「さて、 そこでイエスは言われた。 「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、 あなたがたに話したことばはこうです。 わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、 必ず全部成就するということでした。 」そこで、 イエスは、 聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。 「次のように書いてあります。 キリストは苦しみを受け、 三日目に死人の中からよみがえり、 その名によって、 罪の赦しを得させる悔い改めが、 エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」イエス様ははっきりと、聖書は「神の言葉」であるがゆえに、受けいれられ、信じられなければならないと教えておられます。このことの証拠を様々な箇所から見ることができますが、今回は、公の働きに入られる前に、イエス様がサタンに試みられた時に、どのように聖書をお用いになったかについて考えましょう。マタイ4:1-11を見て下さい。

3つの共観福音書すべては、荒野でイエス様がサタンの誘惑に会われたことを記録しています。この出来事は、イエス様がご自身のお働きの初めに、聖書に対してどのような姿勢を取っておられたかを表しています。イエス様は真理や道徳について答える際に、神の御言葉に常に信頼をおいておられたのです。悪魔は三度イエス様に、自分が神の御子であることを証明するために、悪魔が要求することを行うように誘惑しました。そして三度イエス様は旧約聖書を引用することでお答えになったのです。イエス様は誘惑するサタンに答えるために神の御言葉を用いられただけではなく、引用する御言葉の通りにご自身が歩んでおられることをお示しになったのです。「人はパンだけで生きるのではなく、 神の口から出る一つ一つのことばによる (4:4; 申命記8:3)」と言われました。人間が物質的な食物で身体が元気づけられるのと同様に、イエス様は神の御言葉によってご自身の魂を養われるのです。悪魔が聖書を間違った方法で適用することでイエス様を誘惑しようとした時、イエス様はそのうそを見破られ、神の律法の権威によってお答えになりました。(7節)「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(申命記6:16)最後に、誘惑するサタンはイエス様に、もし彼のメシヤとしての使命を捨てて、悪魔を「ひれ伏して拝む」なら、地上の国々の力と栄華をすべて与えると約束しました。そして三度イエス様は、聖書の言葉に信頼することで誘惑を避けられたのです。「引き下がれ、 サタン。 『あなたの神である主を拝み、 主にだけ仕えよ』と書いてある。(10節)」この出来事の中でイエス様は「書いてある」という完了系の動詞を三度用い、旧約聖書の神の律法を引用されています。ギリシャ語の完了形は、その動作が過去に完了され、今もその効果が続いていることを意味します。イエス様はここで、「これがそのことに関する神の最終的な言葉であり、それは決して変わることがない」とおっしゃっているのです。イエス様は、私たちもまた、変わらない神の言葉に信頼して、この世で日々直面する誘惑に打ち勝つべきであるということを示してくださっています。イエス様は、旧約聖書が「神の口から出る一つ一つのことば」だからこそ、それを信頼しておられるという事実を見過ごしてはいけません。イエス様にある者たちは、聖書を同じように見なければなりません。ルカ8:21でイエス様が群衆に言われたとおりです。「わたしの母、 わたしの兄弟たちとは、 神のことばを聞いて行う人たちです。」

しかし、イエス様は旧約聖書だけの権威を新約時代の教会において確立されたわけではありません。イエス様は使徒たちに権威を与え、イエス様の言葉を同じ権威で宣べ伝えるようにおっしゃったのです。マタイ28:18-20でイエス様は使徒たちを「代弁者」としてお立てになりました。「わたしには天においても、 地においても、 いっさいの権威が与えられています。それゆえ、 あなたがたは行って、 あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして、 父、 子、 聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、 わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、 彼らを教えなさい。 見よ。 わたしは、 世の終わりまで、 いつも、 あなたがたとともにいます。」主イエスは、弟子たちと共にいてくださることを約束してくださいました。彼らの働き、特に教える働きを励まし、力づけるためにです。初代教会は、最終的に「神の言葉」として福音書や書簡、他の新約聖書の書物に記録されていった、使徒たちの教えを受けとったのです。

新約聖書を通して、教会が使徒たちの証言の権威を尊重していたことの証拠を見ることができます。例えば、ヘブル2:1-4にはこうあります。「ですから、 私たちは聞いたことを、 ますますしっかり心に留めて、 押し流されないようにしなければなりません。もし、 御使いたちを通して語られたみことばでさえ、 堅く立てられて動くことがなく、 すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、 どうして、のがれることができましょう。 この救いは最初主によって語られ、 それを聞いた人たちが、 確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、 しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、 また、 みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」ここでは、神様ご自身が使徒たちの証言を、「しるしや不思議や力あるわざ」によって証ししてくださったと言われています。使徒たちはこの世における神の御言葉の担い手であり、彼らはキリストが自分たちに与えた驚くべき使命を理解していたのです。例えばペテロは1ペテロ1:23で、あなたがたは「生ける、 いつまでも変わることのない、 神のことば」を聞くことによって「新しく生まれた」ということを語ります。そして預言者イザヤの言葉である「主のことばは、とこしえに変わることがない。」という言葉を引用し、その後に、「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」と言っています。すなわち、使徒たちが伝えている言葉は、神様のみことばであると言っています。そして同じように1テサロニケ2:13でパウロはこう書きます。「こういうわけで、 私たちとしてもまた、 絶えず神に感謝しています。 あなたがたは、 私たちから神の使信のことばを受けたとき、 それを人間のことばとしてではなく、 事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。 この神のことばは、 信じているあなたがたのうちに働いているのです。」この幾つかの例を見ただけでも、新約聖書の記者たちは、自分たちの使命が、「生きて働いている」神の言葉を、この新しい契約の時代に生きる人々にもたらすことであることを理解していたことがわかります。キリスト教会の一番最初の時代から、旧約新約両方の聖書の神の御言葉としての権威が認識されていたのです。当時の人々は、霊感された神の御言葉としてのこの書物全体を、感謝を持って受け入れ、大切にしていたのです。

マルティン・ルターや他の宗教改革者たちが、聖書を調べれば調べるほど、彼らはキリスト教会の中での神の御言葉の独特の権威を理解していきました。パウロがエペソ2:20で書いているように、教会は「使徒と預言者という土台の上」、すなわち旧約新約両方の神の御言葉という土台の上に、「建てられており、 キリスト・イエスご自身がその礎石です。」この確信を携え、宗教改革者たちはローマ・カトリック教会とその伝統からくる反対に向き合い、それらを乗り越えていったのです。   

 IV. CONCLUSION  結論

宗教改革やマルティン・ルターの働きを考える時、今日のキリスト教会において、そしていつの時代もそうですが、私たちが同じ挑戦に向き合っていることを忘れてはいけません。私たちは、何を信じ、なぜそれを信じるのかをしっかりと理解しなければいけないのです。私たちの信仰と生活の土台を確かめなければならないのです。私たちの社会の流行は年々変化します。人々は重要なこと、そしてくだらないことを含め、数え切れない事柄について議論し、戦います。しかしそのような、文化の中の不確かさや、道徳的な不安の中で、私達には確かなことが一つあります。それは変わらない神の御言葉です。神の御言葉は、キリスト教会においてそうであるように、私たち個人の生活においても、土台とならなければなりません。この土台は壊れることがありません。どのような嵐が私たちの周りに吹き荒れても、この土台は堅く立ち続けるのです。神の言葉としての、この聖書は真実で、信頼の置けるものです。この御言葉の上に家を建てる人は、道徳的な相対主義の風に吹き飛ばされることはないのです。預言者イザヤは言います。(イザヤ40:6,8)「すべての人は草、その栄光は、 みな野の花のようだ。・・・草は枯れ、 花はしぼむ。だが、 私たちの神のことばは永遠に立つ。」

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