メルキゼデクの位に等しい大祭司

KASUMIGAOKA  
2018/02/25 
SERMON: 「メルキゼデクの位に等しい大祭司」 “High Priest in the Order of Melchizedek”
TEXT: Heb. 7:1-14

I. INTRODUCTION イントロダクション
 

ヘブル書の著者は、すでに5:11でメルキゼデクについて述べています。そこではこう書かれています。「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍(にぶ)くなっているため、説き明かすことが困難(こんなん)です。」今日の箇所では、ヘブル書は旧約聖書の歴史から、この神秘的(しんぴてき)な人物についての「困難な」教えを説明(せつめい)しはじめています。旧約聖書の中で2回しか登場(とうじょう)しないこの人物はなぜ重要なのでしょうか?なぜアブラハムとの少しの出会いが、聖書に記録されたのでしょうか?メルキゼデクと救い主イエス・キリストとはどのような関係があるのでしょうか?著者は5:9-10でこう言っています。「[イエス様は]完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位(くらい)に等(ひと)しい大祭司ととなえられたのです。」これはどういう意味でしょうか?これは難しい質問です。しかし、ここでのヘブル書の説明を注意深く見ていくと、神の御言葉を理解するための、重要な原則を学ぶことができます。そして、私たちは救い主イエス・キリストに関する重要な事柄(ことがら)を学ぶのです。
 今朝(けさ)の箇所を理解するために、まずメルキゼデクという名前の、この歴史上の人物が誰であるかを知る必要があります。 1-3節は、創世記でメルキゼデクについて何が記録されているかを思い起こさせます。次に、4-10節は、メルキゼデクは、記録は少ししかないにもかかわらず、アブラハムのような有名な旧約聖書の登場(とうじょう)人物と同様に、偉大なものであるとしています。そして最後に、11-14節では、詩篇110篇でダビデが、古(いにしえ)の祭司メルキゼデクと「キリスト」と呼ばれる約束された救い主をどのように結(むす)びつけているかを教えています。

II. THE HISTORICAL MELCHIZEDEK, HIS GREATNESS, AND HIS PRIESTLY ORDER

歴史上のメルキゼデク、彼の偉大さ、祭司の教団

 まず、メルキゼデクという人物に関する聖書の記録を見てみましょう。歴史的な証拠は創世記 14:18-20にのみ、見ることができます。この記録によれば、メルキゼデクは、シャレム(またはエルサレム)の王であり、「いと高き神」の祭司でした。(「いと高き神」という名前は、22節でアブラハムが主なる神と同じように用いています)。創世記14:1-12は、北と東の4人の王の同盟(どうめい)による死海周辺(しかいしゅうへん)の軍事(ぐんじ)活動を描いています。侵略者(しんりゃくしゃ)の王たちは、5人の地元(じもと)の王の軍隊(ぐんたい)を敗北(はいぼく)させました。創世記14:11-12にはこう書かれています。「そこで、彼ら[4人の王]はソドムとゴモラの全財産(ぜんざいさん)と食糧全部(しょくりょうぜんぶ)を奪(うば)って行った。 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪(うば)い去った。ロトはソドムに住んでいた。」アブラハムはロトが捕(つか)まったことを聞き、すぐに、小さな軍隊を率(ひき)いて追(お)いかけました。夜に敵を攻撃(こうげき)し、アブラハムは彼らを打ち負(ま)かしました。アブラハムはロトとその所有物(しょゆうぶつ)を、他のすべての捕虜(ほりょ)と多くの略奪品(りゃくだつひん)と共にとりもどしたのです。アブラハムがその救出(きゅうしゅつ)を成功させ戻ってきた時、メルキゼデクはシャレムから出てきて彼に会いました。パンとワインをアブラハムに持ってきて、そしていと高き神の祭司として、メルキゼデクは神の御名によってアブラハムを祝福しました。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された、いと高き神に、誉(ほま)れあれ。」(創世記14:19-20)。祭司の祝福を受けた後、アブラハムは敵から取り戻したすべてのものの10分の1をメルキゼデクに与えました。これがメルキゼデクについて聖書に記録されている唯一(ゆいいつ)の情報(じょうほう)です。

 しかし、ヘブル書がこの聖書の事実をどのように解釈(かいしゃく)するかに注目してください。まず、ヘブル書はメルキゼデクの名前の意味を提供します。ヘブライ語では「メレク」は「王」を意味し、「ゼデク」は「義」を意味します。なので「メルキゼデク」は「私の王は義です。」もしくは単に「義の王」と翻訳されるでしょう。ヘブル書は「シャレム」という町の名前を、「平和」とも訳しています。シャレムという町の名前はヘブライ語の「シャローム」つまり「平和」と関係しているからです。ヘブル書はメルキゼデクの名前と称号(しょうごう)が、彼の本当の性質を反映(はんえい)していると言っているのです。メルキゼデクは義で治め、自分の民に平和をもたらす王です。つまり、ヘブル書が言っているのは、神から約束された救い主の型(かた)をみることができるということです。

 しかしこのことに関してのみ、メルキゼデクという歴史的人物がキリストの「型」の役割を持っているわけではありません。 ヘブル書は3節でこう言います。「父もなく、母もなく、系図(けいず)もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と述べています。ある学者は、ヘブル書のこの節が、メルキゼデクが、実際には「霊的な存在」、すなわち主の御使いや、三位一体の神の第二位格(いかく)である御子の地上への顕現(けんげん)であるとさえ説明します。しかし、ここで使用されているギリシャ語は、神の御子と「似ている」ということを意味しているので、ヘブル書が読者に、神の御子とメルキゼデクを完全に同一視(どういつし)させようとしているとは思われません。 3節のキーワードは「系図」です。聖書に記されている他の、神の祭司たちにとって、その系図は非常に重要でした。祭司として仕えるためには、レビ族の最初の司祭であるアロンからの物理的な血筋(ちすじ)を証明することが必要でした。しかし、祭司メルキゼデクは、系図の情報を全く示していないのです。父親や母親の名前さえも、創世記には記録されていません。私たちは彼の出生(しゅっしょう)や死の記録を持っていないのです。 「いと高き神の祭司」として、メルキゼデクは神秘的な人物です。彼は父親から祭司の職務を受けることも、後の息子にその職務を継(つ)ぐこともしません。創世記の記事(きじ)から判断する限り、メルキゼデクは独自(どくじ)の祭司としての職務を「永遠に」続けています。この点でも、彼はキリストのふさわしい「型(かた)」なのです。彼もまたキリストと同様に、祭司職に就(つ)く権利を証明するための、系図という証明をもっていないからです。もしかすると、この理由で、800年ほど後にダビデは、神のメシヤについてこう書いたのかもしれません。「【主】は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』」

 ヘブル書は、創世記に記されているメルキゼデクの人生の簡単な歴史的記録を取り扱った後、すぐに次の重要な点を説明します。それは主なる神の祭司としての、メルキゼデクの偉大さです。4-10節でヘブル書は、メルキゼデクはレビ族の子孫であるイスラエルの祭司よりもはるかに優(すぐ)れていると宣言しています。この驚くべき主張(しゅちょう)は、次の2つの事実に基づいています。まず1つめは、アブラハムは祭司メルキゼデクに十分の一の捧げ物をしている点です。2つめは、アブラハムはすすんでメルキゼデクから神の御名によって祝福を受けたということです。 4節を見てください。「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長(ぞくちょう)であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品(せんりひん)の十分の一を与えたのです。」モーセの律法によれば、イスラエルの他の部族(ぶぞく)から十分の一を集める権利が与えられていたのはレビ族でした。レビ族はイスラエルの十二部族のうちで、「相続財産(そうぞくざいさん)」としての土地を約束されていなかったので、他のイスラエル人からの十分の一の捧げ物というかたちで収入(しゅうにゅう)を得ることになっていました。この十分の一の捧げ物が、アロンの子孫を含むレビ族の人々を支えていたでしょう。十分の一の捧げ物に支えられることで、レビ族の祭司たちは、幕屋(まくや)(後には神殿)での霊的な奉仕に集中することができたのです。しかし、ヘブル書が6節でメルキゼデクについて語っていることを聞いてください。「ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。」メルキゼデクは祭司であるレビ族の子孫ではなかっただけでなく、レビ族が生まれるはるか昔から、主なる神の祭司として働いていたのです。メルキゼデクは、後でレビの祖父(そふ)になったアブラハムの息子イサクが生まれる前から祭司だったのです。しかし、レビ族の祭司に対するメルキゼデクの優越性(ゆうえつせい)は、彼の年代(ねんだい)の優先性(ゆうせんせい)にとどまりません。ヘブル書は9節でこう言います。「また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納(おさ)めているのです。 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎(でむか)えたときには、レビはまだ父の腰(こし)の中にいたからです。」言い換えるならば、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を捧げたとき、アブラハムは彼の子孫を代表しているのです。アブラハムはメルキゼデクがいと高き神の祭司として仕える権威(けんい)を認めていたのです。そして、ある意味では、アブラハムの行為を通して、子孫であるレビは、祭司としての「メルキゼデクの位(くらい)」の優越性(ゆうえつせい)を認めていたのです。

 更(さら)に言うと、ヘブル書は、メルキゼデクの祭司職の偉大さを確立(かくりつ)しています。メルキゼデクはアブラハムを、いと高き神の御名で祝福しました。実際、アブラハムはイスラエルの歴史の中でも最も偉大な人物のひとりでした。彼は物理的にも「民の父」でした。そしてまた、偉大な霊的な指導者であり、子孫たちがならうべき例でした。アブラハムは真(まこと)の信仰の人でした。そして、神様ご自身がアブラハムを「わたしの友(とも)」と呼んでいます(イザヤ41:8;ヤコブ2:23)。しかし、アブラハムを祝福したのはメルキゼデクだったのです。ヘブル書が7節で述べているとおりです。「いうまでもなく、下位(かい)の者が上位(じょうい)の者から祝福されるのです。」つまり、メルキゼデクは神の御名によって祝福されたアブラハムよりも、さらに偉大な者だったのです。

 今日の箇所の最後の部分で、ヘブル書はその最大(さいだい)の目的について語ります。つまりイエス・キリストが詩篇110:4の預言の言葉を成就したと示しているのです。ダビデがここで語っているのは、イエス様についてです。「【主】は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例(れい)にならい、とこしえに祭司である。』」まず第一に、ヘブル書は、レビ族の祭司職は一時的であり、不完全なものであったと教えます。実際に、レビ族の祭司たちは、イスラエルと彼らの創造主なる神との間の壊(こわ)れた関係を完全に回復することはできませんでした。レビ族の祭司職は、神様が確立(かくりつ)された一時的なシステムにすぎなかったのです。しかし、神様の完璧(かんぺき)な計画に従って、正しい時期に、神様はもう一人の祭司を遣わしてくださることを約束してくださいました。この一人の司祭は、「アロンの位ではなく」、「メルキゼデクの位に等(ひと)しく」、レビ族の祭司たちができなかったことを完全に達成(たっせい)してくださるのです。

 それでは、レビとアロンの子孫に関するモーセの律法はどうでしょうか。もし誰かが「神の律法によってレビ族の祭司職が確立されている」と主張するなら、「イスラエルに律法を与えられた神様は、律法を変えることができる」と応答(おうとう)するだけでいいのです。「【主】は誓い、そしてみこころを変えない。」と言われるのは、レビ族の祭司職よりさらに古い、この祭司職について言われているのです。完全な大祭司を私たちに「メルキゼデクの位に従って」与えてくださった神は、以前の律法を変えられたのです。これは単純(たんじゅん)なことなのです。

 神様がダビデの預言の言葉を通して、ずっと前に約束された祭司が、今、来られたのです。その祭司の名前は、ユダ族のダビデの子孫、イエス・キリストです。ユダ族の誰もが、これまでに祭司として神に仕えたことはありませんでした。このことについて、ヘブル書は自由に認めています。「私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。(14節)」しかし、イエス様は神様が約束してくださったお方です。【主】は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」と言われた、その人なのです。イエス様は永遠に私たちの祭司であり、私たちが神様と真の平和を持つために、祭司の職務を完璧(かんぺき)に実行してくださるのです。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)」

 メルキゼデクのように、イエス様も私たちの大祭司であり、そして王です。イエス様は私たちの完全な「義の王」、そして「平和の王」です。イエス様は永遠に「ダビデの子」として、そしてさらに、「神の御子」として統治(とうち)されるのです。

III. CONCLUSION   結論

 ヘブル書は、「メルキゼデクの位(くらい)に等(ひと)しくなられた」、私たちの栄光なる完全な大祭司であるイエス・キリストについて、続けて更に多くのことを教えています。みこころならば、来週は、イエス様が私たちのために就(つ)いてくださった、この特別な職務についてさらに考えていきたいと思っています。今、私たちが御言葉の学びを終えるにあたり、信じ、従う皆さんのためにキリストがしてくださった、そしていまもしてくださっていることについて覚えてほしいと願っています。
 キリストこそ、私たちの唯一の永遠の祭司であり、私たちと御父との間をとりなしてくださるのです。そして、私たちはキリストのとりなしが必要です。キリストは救いのための私たちの唯一の希望です。誰もキリストを通してでなければ、御父のもとに来ることはできないのです。ヘブル書5:8-10はこう言います。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順(じゅうじゅん)を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」使徒パウロがピリピのクリスチャンに語ったとおりです。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)」

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