真の礼拝

KASUMIGAOKA
2018/03/18
SERMON:   “True Worship”   「真の礼拝」     
TEXT: Heb. 9:1-14

I. INTRODUCTION イントロダクション

真の礼拝とは何でしょうか?これは、ヨーロッパでの宗教改革の時期にはよく議論された内容でしたが、今日(こんにち)の人はほとんどこのことを問題にしません。現代において、礼拝について語る人たちのほとんどは、それが「個人的な」ものであり、自分で勝手(かって)に定義できるものだと考えているようです。礼拝は、その人の自由になるものであり、「正しい」または「真実なもの」として、守られる必要はないと言います。礼拝は検証(けんしょう)できるものではなく、「正しいと証明できる」ようなものではないので、皆がやりたいように自由に、どんな方法ででも礼拝することができる。もしくは、全く礼拝しないことも選ぶことができる。このような考え方は、いわゆる「ポストモダン」の特徴的(とくちょうてき)な視点(してん)ですが、神の御言葉とはまったく矛盾(むじゅん)しています。聖書は「真の礼拝」と「偽りの礼拝」があることを教えており、私たちはその違いを理解しなければなりません。このことについて、注意深く考えてみましょう。

先週の説教の中で簡単に見たヨハネ4章の箇所を覚えていますか。イエス様はヨハネ4:22-23でこうおっしゃっています。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがた[サマリヤ人]は知らないで礼拝しています。 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者(れいはいしゃ)として求めておられるからです。」イエス様は、「真の崇拝者」とは、神様がお求めになる方法で唯一まことの神を礼拝するものたちであると教えられました。使徒パウロがアテネの人たちに説教をしたとき、このように始めました。「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇(さいだん)があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(使徒17:23)」もし聖書が正しく、人々がご自身を知り、礼拝することを望んでおられる神様がいるなら、ほかの偽りの神々を礼拝することは、愚かなだけでなく危険なことです。現代の民主主義の社会の中に生きている人々は、自分のやりたいように自由に礼拝をしたり、まったく礼拝しなかったりします。そして政府(せいふ)も、皆さんがなにを礼拝するかを気にしません。しかし神様はそのことを気にされます。神様は人々がご自身を、ただご自身のみを、「霊とまこと」によって礼拝することを望んでおられるのです。このことを、真のクリスチャンは常に信じてきました。このことが、私たちがイエス様のことを世に伝えていきたいと願う理由の一つです。ヘブル書はこう言います。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」である(1:3)。イエス様は「道であり真理でありいのち」です(ヨハネ14:6)。神の愛する御子イエス様を知ることによってのみ、私たちは神様が本当にどのようなお方であるのかを知ることができます。そして、イエス・キリストを通してのみ、真の神を礼拝し、真の神に仕えることができるのです。今日の箇所であるヘブル書9章を見ていきながら、このことについて考えていきたいと思います。

実際、「真の礼拝」は、この箇所の中心のテーマであると言えるでしょう。この箇所の中には、「礼拝」という言葉が名詞と動詞の形で合計4回現れます。これは、ギリシア語の “latreia”(n.)または“latreuo”(vb.)であり、1、6、および9節では「礼拝」と翻訳されていますが、14節では「仕える」と訳されています。1節は、神様がご自身の民に与えられた古い契約と新しい契約には、「礼拝の規定(きてい)」が含まれていたと言います。もちろん、古い契約にはそのような規定があり、ヘブル書は今日の箇所の中でそのいくつかを説明しています。しかし、新しい契約にも礼拝のための「規定」があるのです。これは、1節の「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所(せいじょ)とがありました。」の中の「初めの契約にも」という小さな言葉から明らかです。「にも」という言葉が意味しているのは、新しい契約がいま、礼拝の規定を含んでいるように、かつては古い契約も礼拝の規定を含んでいたということです。9節を見ると、古い契約で与えられた礼拝の規定は、「礼拝する者の良心を完全にすることはできません」と言われています。しかし、新しい契約の規定に従って神様を礼拝するものは、きよめられるのです。この新しい契約に基づく礼拝は、私たちが本来すべきなように神様を礼拝することを可能にします。もしギリシャ語の「礼拝」という単語を4つの節で同じように訳すと、14節はこうなります。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神を礼拝する者とすることでしょう。」これがこの箇所のメッセージです。神様が私たちの心をきよめ、キリストとの関係に従って、新しい契約に基づいて神様を礼拝する者としてくださるということです。これが「真の礼拝」です。ヘブル書が「真の礼拝」について何を言っているのか見ていきましょう。まず第一に古い契約の中で、つまり旧約時代のイスラエルの礼拝がどのようなものだったのか、そして次に、新しい契約に基づいて、新約時代のキリストの教会の礼拝がどのようなものであるべきなのかを見ていきましょう。
II. OLD TESTAMENT REGULATIONS FOR WORSHIP 神礼拝に関する古い契約の規定(v.1-10) 1-10節は、旧約時代にイスラエルが従った礼拝の「規定」について教えています。まず第一に、「地上の聖所」がありました。地上の聖所は、神がシナイ山でモーセにお与えになった 型(かた)に従って建てられ、整えられました。このことは2-5節で書かれています。この地上の聖所について、私たちが注意すべき2つのことがあります。第一に、ヘブル書は、この聖所はモーセの考えに従って建てられたのではなく、神様が彼に示した型に従って建てられたと教えています。(8:5b)「神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』」真の礼拝は、神様の指示に忠実なものです。地上の聖所を建てたときに。モーセが神の指示に従ったのと同じようにです。真の礼拝は、人間が作り出すものではなく、神様から教えられるものなのです。

それに、第二に、地上の聖所とその内容は、天に本当に存在するものの「写(うつ)し」であることに注意するべきです。ヘブル書は、聖所と呼ばれる第一の外(そと)の部屋(へや)と、その聖所から垂(た)れ幕(まく)で仕切(しき)られた「至聖所(しせいじょ)」と呼ばれる第二の部屋について説明します。 2つの部屋のそれぞれには、特別な貴重(きちょう)な物が置かれていました。外側の聖所には、燭台(しょくだい)と机(つくえ)と供えのパンがありました。至聖所には、香(こう)を燃やすための金の香壇(こうだん)と、全面を金でおおわれた契約の箱がありました。至聖所の中のものについては、注意深く記述(きじゅつ)されています。契約の箱は、神様がイスラエルとの間に建ててくださった契約の関係を記念するものです。その契約の箱の「蓋(ふた)」は 「贖罪蓋(しょくざいがい)」と呼ばれました。そして箱の上には、2つの天の存在であるケルビムの翼(つばさ)が広がっていました。創世記3:24によると、ケルビムはかつていのちの木への道を守る存在として置かれていました(cf. 出エジプト25:18-22; エゼキエル10:1-20)。契約の箱の中には、神様がイスラエルの人々に対して、民としての歩みの初めから、奇跡的な方法で彼らに恵みを与えられたことを思い起こさせる物がおさめられていました。まず、十戒が刻(きざ)まれた「契約の二つの板(いた)」がありました。そしてイスラエルの民に対して荒野の中で神様が用意された「天からのパン」である、「マナの入った金のつぼ」も入っていました。さらに、アロンが本当の神の大祭司であることを証明するために、神様が普通の杖(つえ)に芽(め)や枝(えだ)、花や果実を生(は)えさせたのが、「芽(め)を出したアロンの杖」でした。

それでは、なぜこれらの物が地上の聖所に置かれたのでしょうか?これらは、イスラエルが過去に神様のもとで経験したことの「記念品」であるだけではありません。これらの物は、神様の真のご性質の、物質的な象徴(しょうちょう)だったのです。それぞれの物は、天の現実(げんじつ)の「写し」もしくは「影(かげ)」でした。地上の聖所のそれぞれの物には、神様の個々(ここ)の性質があらわされています。神の聖さ、真実、義、良(よ)さ、あわれみ、いのちを与える力です。神様がこれらの物を幕屋に置くように命じられたのはこのためです。これらは、神様の目に見えないご性質についての証拠だったのです。真の礼拝は、天の神様が本当に存在し、すべての人を支配されていることを、地上の人々に示すものなのです。

しかし、古い契約には他にも「礼拝の規定」があり、ヘブル書は続く6-10節で、地上の聖所における祭司の職務(しょくむ)についての細(こま)かく規定(きてい)された内容を説明します。この箇所では真の礼拝について2つのことが言われています。まず第一に、真の礼拝は「規則的(きそくてき)」です。つまり、真の礼拝とは、規定に従った、繰り返しのパターンに従って行なう、人間の活動です。6節では、すべてが幕屋に適切(てきせつ)に配置(はいち)されたとき、「前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行う」と言っています。祭司の礼拝は毎日、朝と晩に行われなければなりませんでした。彼らは「地上の聖所」があった間、毎日、朝と夕べに子羊をいけにえに捧げなければならなかったのです。そして祭司は毎日聖所に入り、燭台(しょくだい)に油を加え、燭台の芯(しん)を取り替ました。そして一週間に一度、12個(こ)の聖別されたパン(「供えのパン」)を取り除き、新しいパンと置(お)き換(か)えました。神様は、真の礼拝は、ほとんど行わないものでもなければ、バラバラに行なうものでもなく、規則的に、常に行われるべきであると命じられたのです。

ヘブル書が真の礼拝について示しているもうひとつの事柄は、それが明らかに「限定的」であるということです。礼拝のために、神様の臨在(りんざい)の前に入るための道は、ただ単に皆に「広く開(ひら)かれている」わけではありません!これは、まず第一に、古い契約の地上の聖所での礼拝が、イスラエルの人々に限られているという事実によって示されています。さらに、イスラエルの部族(ぶぞく)の全員が聖所に入ることを許されたのではなく、レビ族のアロンの祭司の一族(いちぞく)だけに入ることが許されました。そして、祭司たちでさえも至聖所に入ることは許されませんでした。「大祭司」だけが入ることが許されたのです。そして大祭司でさえ、望むときにいつでも至聖所に自由に入ることができたわけではありません。 7節にある、大祭司の礼拝についての制限(せいげん)を見て下さい。「第二の幕屋には、大祭司だけが年(ねん)に一度(いちど)だけ入ります。そのとき、血を携(たずさ)えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」しかし、なぜ神の礼拝に関して、このような厳(きび)しい制限が置かれたのでしょうか?なぜ大祭司について皆が至聖所に入って神を礼拝することができなかったのでしょうか。答(こた)えは、神様が絶対的に聖なるお方であるからです。聖なるものでなければ、神の臨在の前に存在することはできないのです。イスラエルが約束のカナンの地に入る準備をしていた時、モーセは彼らに警告して、こう言いました。「気をつけて、あなたがたの神、【主】があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、【主】の命令にそむいて、どんな形の彫像(ちょうぞう)をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、【主】は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(申命記4:23-24)。神様はご自身の栄光を奪(うば)う者を決してお許しにならないでしょう。だからこそ、神様は偶像礼拝を容認(ようにん)されないのです。神様は礼拝のために、偶像や人の作った宗教(しゅうきょう)と競(きそ)うことをお許しになりません。本当の、創造主なる神のみが、礼拝されるべきお方なのです。モーセは神様の聖(きよ)さを理解していたのです。「私たちの神は焼き尽くす火です。」この理由で、至聖所は地上の聖所の中で最も慎重(しんちょう)に制限された場所でした。大祭司でさえ、聖なる神を恐れることなしには、その場所に入ることができませんでした。しかし、一年に一度、贖罪(しょくざい)の日と呼ばれる日にのみ、大祭司だけが至聖所に入り、神の聖(きよ)さの前に歩み出ることが許されたのです。しかし、大祭司は神様が指示されたように、いけにえの血を携(たずさ)えて、神様の命令を正確(せいかく)に守らなければ、至聖所に入ることができなかったのです。

ヘブル書は、このような神の礼拝の方法は、「ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできない」(9節)ということを示すための、「比喩(ひゆ)」もしくは「たとえ」であると言います。古い契約の規定(きてい)に従って神を礼拝する方法は、「真の礼拝」でしたが、この礼拝は最も重要(じゅうよう)なことをすることができなかったのです。この礼拝では、普通の人々が自信をもって神の前に来る道を開くことができませんでした。この礼拝は、全ての罪人の堕落した良心をきよめることができなかったのです。ヘブル書9:8はこう言います。「これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続(そんぞく)しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。」

III. NEW TESTAMENT REGULATIONS FORWORSHIP 真の礼拝のための新しい契約の規定

先週見たように、エレミヤは、神様が本当に人の心を変えるための新しい契約を立ててくださると預言(よげん)しました。この新しい契約は、古い契約を完全に置き換えて無効にします。実際、ヘブル書8:13は、古い契約が「すぐに消えていく」と言っています。古い契約は、イエス様が私たちのために成就してくださった、新しい、より優(すぐ)れた契約にと置き換えられたのです。イエス様は、古い契約ができなかった3つのことを成し遂げることで、そのことを成就されました。まず第一に、イエス・キリストは「手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通られました」(11節)。イエス様は地上で祭司の働きを終(お)えられた後、天の御父の右の座に昇(のぼ)られました。イエス様のお働きは、一種(いっしゅ)の「たとえ」によって人間の最大の必要を、単に「描写(びょうしゃ)」しただけのものではありません。キリストの務(つと)めは、実際に問題を解決(かいけつ)したのです。だからこそ、キリストは、神の聖(きよ)さによって滅ぼされることを恐れることなく、父なる神の聖なる臨在(りんざい)の前に入ることができるのです。イエス様は自分自身も、天の御父と同じように、聖く、純粋(じゅんすい)で、完全なお方だったのです。キリストは神の契約を守られました。キリストは御父の御心をすべて行われました。そしてイエス様は、栄光の姿(すがた)で御父の右の座に着かれたとき、栄誉(えいよ)をもって、人の手で造ったものではない本当の至聖所に迎え入れられたのです。 第二に、イエス様は「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(12節)」イエス様は私たちのために新しい契約を成就してくださっただけでなく、私たちの過去のすべての罪を贖ってくださったのです。イエス様は自分の罪のために死ぬ必要はありませんでした。罪をお持ちではなかったからです。その代わり、キリストは他者(たしゃ)の罪のための完全な贖いとして、ご自身のいのちを捧げてくださったのです。だからこそ12節は、「永遠の贖い」が成し遂げられたと言っているのです。キリストは私たちのために贖いを成し遂げてくださいました。その犠牲は繰り返される必要はありません。なぜなら、それは永遠に私たちの贖いを保証してくださるからです。

第三に、イエス様の祭司としての務めは、私たちに一種(いっしゅ)の外的な「儀式的(ぎしきてき)な」きよめだけでなく、心の内側(うちがわ)のきよめをももたらしました。イエス様が十字架上で流された血潮(ちしお)には、7節で言われている「知らずに犯した罪」だけでなく、神のみこころに反(はん)して意図的(いとてき)に犯した意識的な罪も含めて、私たちの過去の罪を洗(あら)い流(なが)す力を持っています。そして御霊によって、キリストは私たちの魂を新しくし、罪のすべてをキリストの血が覆(おお)ってくださるということを私たちに確信させてくださるのです。私たちに神との平和を与えるのは、私たち自身の行ないではなく、キリストの犠牲(ぎせい)です。私たちがきよめられた良心で神様を礼拝する道が開かれたのは、キリストのささげ物なのです。これが新しい契約における礼拝の「道」です。キリストの犠牲は、私たちを神様から隔(へだ)てる天幕(てんまく)を引き裂(さ)いたのです。キリストは、すべての人が来て真の神を礼拝する道を開いてくださったのです。   

IV. CONCLUSION   結論

今日の御言葉の箇所の学びを終わるにあたって、私たちが自分自身に問いかけるべき問いがいくつかあります。私たちは、このキリストが開いてくださった、「新しい生ける道」(10:20)を通して神を礼拝しているでしょうか?キリストが私たちのために立ててくださったこの「新しい契約」によって、私たちは神との平和を見出(みいだ)しているでしょうか?私たちは、キリストの血によって与えられる「永遠の贖い」という、言いようがないほどの賜物を受けているでしょうか?新しい契約の礼拝は、聞くほど簡単なものではありません。それは、自分自身や自分の良い行ないに自信を持つことをやめるということを意味します。私たちはキリストの御前で膝(ひざ)をかがめ、砕(くだ)かれた心をもつことで初めて、私たちはキリストの驚くべき愛と恵みを知るようになります!キリストの血によって神を礼拝するために至聖所に入る者は誰でも、自分の誇(ほこ)りを置いて来なければならないのです。礼拝は、神に聞き、神に従う時間です。礼拝は涙と喜び、そして私たちの目を「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス様に向ける時です。そして最後の問いがあります。私たちは無意識(むいしき)に自分の心の中に偶像を立てていないでしょうか?私たちの中に、神様に従うよりも何か重要なことはないでしょうか?私たちが神様の怒りよりも恐れることがあるでしょうか?私たちは全員がかつては偶像に仕えていました。しかし今、イエス・キリストを通して生ける神を礼拝するために、偶像を追(お)い出(だ)す必要があるのです。そして私たちの主キリストを通して、きよめられた良心で神を礼拝しましょう。

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