キリストの御霊による実

KASUMIGAOKA  (Communion Service)  
2018/01/07 SERMON: “The Fruit of Christ’s Spirit” 「キリストの御霊による実」   
TEXT: Galatians 5:16-26    

 I. INTRODUCTION

イエス様は、ご自身がこの世界に来られたのは、弟子である私たちが豊かないのちをもつためであるとおっしゃいました(ヨハネ10:10)。それでは、この「豊かないのち」とは何でしょうか?この問いを私たちは考えてきました。豊かないのちというのは、単に快適で豊かであるということ以上の意味を持ちます。悲しいことに、裕福で物理的な快適さを持ちつつ、幸せではない人々がたくさんいます。彼らのいのちはむなしく、目的がありません。彼らは物質的な豊かさを持っていますが、霊的には不毛なのです。本当の「豊かないのち」とは、そのようないのちではありません。もし皆さんがキリストの豊かないのちを持っているならば、裕福でも貧しくても、信仰によってキリストに結び付けられたすべての人は、霊的な天の宝に満ちているのです!キリストの豊かないのちは自己中心的ではありません。つまり、私たち自身が楽しむだけのものではありません。むしろ、それは他の人が認識して楽しむことができる、超自然的な美徳、すなわち「霊的な実」で溢れている人生です。このようにして、神の善と力は、神の民によって世界に示されます。

先週、私たちはヨハネ15章のイエス様の有名な「まことのぶどうの木とその枝」のたとえを見ました。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」これは私たちが自分で作ることができるような「実」ではありません。それは、キリストが私たちの中にとどまってくださり、私たちもまたキリストのうちにとどまることの結果です。それは、イエス・キリストが私たちに与えてくださる「豊かないのち」の実なのです。私たちが信仰によって「キリストのうちにとどまる」ことによってのみ、キリストは多くの実を結ばせてくださるのです。

今日の箇所では、イエス様の使徒であったパウロが、クリスチャンが「キリストにとどまる」ときに結ぶ「実」について、さらに教えています。この手紙で、パウロはガラテヤの教会の信徒たちに対して、彼らのクリスチャンとしての生活が、どのように他の未信者たちと異なるべきかについて説明します。宗教における究極の試験は、信じる者がどのように生きるかです。本当のクリスチャンは「御霊によって歩み」、その中に「御霊の実」を結ぶのです。しかし、キリストを知らない人は、単に自分がしたいことをするだけです。道徳や律法を守ろうとする者でさえも、最終的には「肉の欲望」に従います。彼らは、その肉の欲望に抵抗するために助けてくださるキリストの御霊を持たないからです。パウロは19-21節で、「肉の行ない」のいくつかを挙げています。そして21節でこう警告します。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」肉の欲望を行なう者は、神の律法の刑罰の下にあります。なぜなら、彼らの創造主なる神に反抗しているからです。しかし、16節でパウロは「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と言います。そして18節では再びこう言っています。「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」キリストに信頼を置く者はすべて、神の道徳律法の刑罰から解放されます。ガラテヤのクリスチャンの中には、かつての律法主義的な生活に戻ろうと誘惑されていた人もいました。パウロは5:1で彼らにこう言います。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」パリサイ人は、すべての律法を厳格に守っているユダヤ人だけが神の御国に入ることができると教えていました。しかし、イエス様は、単に規則に従うだけでは、誰も神の完全な道徳的基準を満たすことができないと説明しました。すべての人は、生まれつきの罪人と言う状態で、肉の欲望に抵抗する力はありません。だからパウロはエペソ人への手紙の中で「人間は自分の罪過と罪との中に死んでいた者」だと言いました。全く無力の状態でした。しかし、神様は人間をこの惨めで無力の状態のままにされることはありませんでした。あわれみと恵みによって、神様は罪の力から私たちを贖い、新しいいのちを与えてくださる救い主を送ってくださったのです。私たち自身の努力ではなく、ただ救い主を信じる信仰によって、私たちは律法の刑罰から解放されているのです。救い主なるイエス様を信じる信仰によって、私たちは新しいいのちと新しい御霊を与えられるのです。

II. THE FRUIT OF CHRIST’S SPIRIT IN US 私たちのうちにあるキリストの御霊の実 

イエス様が約束してくださった「豊かないのち」を私たちが楽しむことができるのは、この新しい御霊のおかげです。クリスチャンの新しいいのちとは、信仰によってイエス・キリストに結び付けられ、キリストの霊で満たされるのです。他の方法で神様を喜ばせることはできません。だからこそ、パウロはガラテヤの人々に律法主義的な生活に戻らないように警告しているのです。律法は、ユダヤ人に救いの希望を与えたことはありませんでした。神の恵みによって真の救いを見つけた者が、なぜ律法の絶望に戻るのでしょうか?恵みと律法を一緒にすることはできません。律法の行ないによって自分自身を義としようとして失敗するか、神の恵みによって人生をキリストに委ね、生きるかのどちらかなのです。どちらかを選ばなければなりません。しかし、このことは明確にしなければいけません。キリストとの結合のみが私たちに希望を与えるのです。パウロは4-5節で、「律法主義」を信仰と混同していたガラテヤ人にこう警告します。「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」私たちの、豊かに祝福された正しい人生に対する希望は、神の律法を守るための必死の努力ではなく、むしろ信仰による、キリストとの結合にかかっています。キリストに対する私たちの信仰がしっかりしている時、私たちはキリストの御霊で満たされます。良い義の実を生み出すのは、わたしたちの中のキリストの御霊なのです。

信仰によってキリストに結ばれているとき、皆さんは「多くの実を結」びます。肉の欲望を行うのではなく、御霊の実を結ぶとパウロは言います。その実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この実りある豊かないのちの約束を考えているとき、私たちは自分の生活がこの「実」を生み出しているかどうか、問わなければなりません。コリントの信徒が集まって主の晩餐にあずかった時、パウロは彼らにこう書き送りました。(Iコリント11:18)「まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。」(20-21節)「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」主の晩餐は、「キリストのからだ」とも呼ばれる教会に属するクリスチャンの霊的な一致をあらわす礼典です。しかし、コリントで「聖餐」を分かち合うために集まった教会員の間には分裂がありました。どのような分裂でしょうか。教義に関する分裂ではありませんでした。コリント教会の教理的な分裂について強調する説教者たちを、しばしば聞いたことがありますが、ここでパウロが言っているのは教義上の問題ではありません。問題は、コリントの教会員たちが、本当にイエス様に従う人々にイエス様が約束された霊的な実を欠いていたことです。彼らが互いにどのように接していたかという点で、キリストのからだにおける分裂があったのです。キリストの御霊の実は分裂を回復させますが、その実がコリントの教会では欠けていたのです。

コリントの教会員たちの態度はどのように表現できるでしょうか。彼らは自己中心的で、貪欲で、不親切で、自制を欠いていました。それぞれが自分自身を先に置くことを望んでいたのです。彼らはイエス様の言葉を覚えていませんでした。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:44)。彼らは自分の主であるイエス様が弟子たちの前に腰を下ろして足を洗ったことを忘れていました。イエス様は弟子たちにこう言われました。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)。しかし、コリント教会はイエス様の言葉と模範を忘れていました。彼らは愛と優しさと敬意とをもって互いに接してはいませんでした。彼らは自分の生活の中でキリストの御霊の実を欠いていたので、分裂に至ったのです。このコリントの信徒たちに、パウロはこう書いています。「私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。」(Iコリント11:17)。このことについて少し考えてみましょう。使徒パウロは、コリント教会があまりにもひどくお互いを扱うのなら、集まらない方が良いと言います。そしてIコリント11:27でパウロはこう付け加えます。「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」教会で互いと接する時に御霊の実を示さない者たちは、礼典に参加すべきではない。なぜなら、彼らは実は、キリストを離れている者だからです。御霊の実は、主イエス・キリストの教会を維持し、たてあげていくために必要不可欠なのです。

III. CONCLUSION 結論

今日の私たちの学びを終えるにあたり、一つの重要な問いについて考えてみたいと思います。「教会において御霊の実の証拠がほとんど見えないときに、何ができるのか」という問いです。現在の私たちの教会の特定の問題について考えているわけではないということは強調しますが、遅かれ早かれ、すべての教会がこの問いに対処する必要があると思います。だからこそ、私たちが必要な時にこの問いに向き合うために、今から準備をしましょう。

教会員どうしの人間関係が困難になったとき、どうすればいいでしょうか。教会やその指導者を批判し、すぐに教会を離れてしまう人もいます。しかし、このことについて使徒パウロはIコリント11:28-29でこう教えています。「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」誰かを批判する前に、まず自分自身を吟味するべきです。そこに皆さんは何を見出すでしょうか。皆さんはキリストのからだの中の関係性において、常にキリストの御霊の実を見出しているでしょうか。イエス様は言われました。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)。愛から始まる御霊の実は、キリストの御霊が私たちの中に住んでくださっているという証拠です。私たちの生活が御霊の実を結んでいないならば、正直にこう問わなければなりません。「本当にイエス・キリストは信仰によって私の中に住んでくださっているのだろうか。」イエス様はこうおっしゃいました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。(ヨハネ15:5)」そしてパウロはこう書いています。「…愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。…愛がないなら、何の値うちもありません。(Iコリント13:1,2)」人間関係において「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を一貫して示していないなら、まずはあなたの失敗をキリストに告白して、キリストがあなたの人生の主になってくださるように求めるべきでしょう。あなた自身では、御霊の実を生み出すために、何もすることができません。キリストがあなたの人生を支配し、御霊の実をあなたにもたらすように願う必要があるのです。

時々、神の御前で自分自身を本当にへりくだらせたことがなく、本当にキリストにある新しいいのちを体験したことのない人が、クリスチャンであるふりをすることがあります。彼らは、自分のいのちが新しくされ、聖霊で満たされたふりをするのです。このことを示すために、彼らは自分自身が作った「実」で彼らの人生を「飾ろう」とするかもしれません。しかし、それはクリスマス ツリーにカラフルなかざりを施すような、人工的なものです。それらのかざりは短い時間なら展示することができますが、持続することはありません。人工の飾りは、キリストの御霊の働きによって変えられた心から生み出されるものではなく、ずっと続くものではないのです。このような「実」を示すのが不便になったとき、例えば、仕事に行くときやノンクリスチャンと時間を過ごすときなどは、この「人工の実」をこっそりしまってしまうのです。しかし、御霊の実は、私たちの意思で、今日はしまっておいて、明日また飾ることができるようなものではありません。本当の御霊の実は、皆さんの心の中に住んでくださるキリストの御霊の証拠として、常に成長し、常に目に見えるものなのです。

最後に、この御霊の「実」という言葉がギリシア語では単数名詞であることに注目しましょう。ある人は、1つまたはいくつかの御霊の「実」は持っていると思うかもしれませんが、御霊の実の全ての領域を生み出すことを求めはしません。しかし、この単数形の「実」が重要な真実を表していると思います。すなわち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の、これらすべての美徳が、キリストの御霊によってキリストの民それぞれに生み出されるということです。これらのすべてが互いに重なり合って影響を及ぼします。これは、それぞれ異なる特定の「実」を表しているのではなく、むしろ一つの「御霊の果実」を表わしているのです。義というおいしい「味」はすべて、このすばらしい実の中に調和しています。キリストが信仰によってあなたのうちに住んでくださるとき、皆さんは確かにこのすばらしい御霊の実を豊かに結ぶのです。そしてキリストにあって、いのちの豊かさを知ることができるでしょう。

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