なぜ安息日を守るか

KASUMIGAOKA    2017/1/15

SERMON: 「なぜ安息日を守るか」 “Why Keep the Sabbath?”  

TEXT: Exodus 20: 8-11; Deuteronomy 5:12-15

I. INTRODUCTION: 
皆さん、去年の教会の標語を覚えていらっしゃるでしょうか。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」新しい標語をもって進んで行きたいんですが、去年の標語を忘れないため、もう一度去年の標語を反省してみたいと思います。実は、去年の休暇で帰国するために、安息日を守ることについて思ったほど解き明かすことができませんでした。だから、今日安息日をもう少し考えて行きたいと思います。今日の説教は、「なぜ安息日を守るか」という主題です。安息日を守る理由を考えたいのです。しかし、まず、どうして主の戒めは、現在よく守られていないかを考えてみたいと思います。皆さんは、どう思われるでしょうか。     

II. WHY IS THE SABBATH COMMANDMENT NOT KEPT TODAY?   

なぜ安息日という戒めは現在よく守られていないでしょうか。理由は色々あるでしょう。しかし、理由の一つは、その戒めの目的について、多くの人々が誤解しているということです。その戒めが人間の自由を制限して、幸せな生活に干渉するから好まないと思われるでしょう。安息日の目的とその社会的な役割を正しく理解するために、私はまず、「法律」の意味について考えてみました。神様がお授けになった十戒は、イスラエルの基本的な「法律」になったと言えるでしょう。安息日は、神様が定められた「法律」の一つです。でも、「法律」はなぜ必要なのでしょうか。「法律」という言葉の意味を少し考えてみましょう。この言葉の意味が直感的に分かるでしょうが、辞書を調べてみれば、次のような定義が書いてあります。「法律は、ある国、または、共同体が社会の行為を規制するため、その共同体が認める規則の制度です。この規則を施行するための罰も定められます。」この定義について、二つのことに心を留めてください。

① まず、法律は、共同体によって認められる必要があります。認められた法律は、ある程度、国や社会によって異なるでしょう。それは、法律を立てる方法は国によって違うからでしょう。たとえば、独裁権が定まった国の場合、一人の独裁者が出す命令が法律として認められます。昔は、王のことばは法律だと言われました。現在の王の権威が通常、民主主義の進歩によって限られています。民主主義の国は、ただ一人の大統領とか総理大臣が出した指令さえ、法律として見なされていません。こういうわけで、たとえ、トランプ選挙大統領に反対するアメリカ人があったら、トランプ氏の言った命令に公に背いても、逮捕されて罰せられる恐れがありません。それに、もう一つのたとえを考えてみてください。もし、「イスラム教は偽りの宗教であり、アラーという神はマホメットの作った偶像だ」と言いたい日本人やアメリカ人は、それを自分の国で言えば、不法ではありません。個人的な意見を公にも宣べる自由が法律によって守られていますから。しかし、同じ意見をイランやパキスタンやサウジアラビアで公にすれば、すぐ死刑を宣告されるかも知れません。そのような国においては、言論の自由は人権として社会によって認められないからです。共和国であっても、王国であっても、大切なのは、ある規則は社会によって認められるかどうかということです。現在、神様とそのみことばなる聖書の権威 があんまり認められないので、安息日を守る義務は認められません。

② 気づかなければならない二つ目のことは、法律の定義によると、法律を守らない人は確かに罰せられるということです。法律は、だれかの権力によって施行されなければなりません。法律を破った者が罰せられなければ、その法律は有効ではないでしょう。さらに、もし法律を施行する意志、または権力がなくなったら、その法律は無効になってしまいます。罰によって施行されなければ、多くの人が安息日の戒めに従わないでしょう。でも、法律を施行したくない、または、できないその社会は、どんどん混乱に陥ってしまうでしょう。現代の内戦中のシリヤでは、そのような大変な状態になって来たようです。法律を施行できる政府がなくなったので、戦っている兵士たちも普通の平民も、自分勝手な思いに従い、力のある人は法律を無視して、わがままを通すのです。旧約聖書の士師記の中で記された社会はそのような状態でした。(Jud.21:25)「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」やはり、法律は社会の平和と安全を守るために必要です。

神様は、人間の社会の平和と安全を守るために法律を授けてくださいました。イスラエルの法律として、十戒を与えてくださいました。生活の様式と人間関係を規制するその戒めを守っている限り、イスラエルは神様によって守られ、祝福されたのです。しかし、イスラエル人は、時々その戒めを忘れたり、無視したり、軽蔑したりしてしまいました。それはなぜかと言えば、イスラエル人は、先祖のためになさった大いなる御業を忘れて、目に見えない神様とその主権を疑ったからでしょう。すなわち、神様への信仰は薄くなったからです。ウエストミンスター小教理問答書によれば、「神様、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」ということです。まことの神様を信じないようになったイスラエル人は、神様のご性格を反映する戒めも捨ててしまいました。現在の人々もそうだと思います。西洋の国においては、神様を信じない者はその戒めも軽蔑するのです。大昔から社会の道徳的な土台として守られた十戒は、現在、「それは不寛容な、昔の文化や時代に限られた、偏狭な考え方なので、好まない。いらない。今日の前進的な社会に合わない。」という意見がよく聞こえるのです。社会によって認められないこの戒めが無効になっただろうと多くのキリスト教会も思うようになって来ました。十戒の中で、一番早く捨ててもいいと思われた戒めは第四の、安息日という戒めです。でも、本当に、安息日を始め、神様が授けられた戒めは無効になったのですか。「安息日を覚えて、それを聖なる日とせよ」という主の戒めは、昔も、現在も、いつまでも、有効ではありませんか。さて、なぜ安息日を守るべきなのでしょうか。次の三つのことに心を留めてみてください。まず第一に、安息日を守ることは、神様を信じる民のしるしです。第二に、仕事を定期的に休むことが健康にも家庭の幸せにも必要です。第三に、安息日を守ることは大切な証になります。   

III. THREE REASONS TO KEEP THE SABBATH 

最初の理由は、簡単に言えば、主なる神様がご自分の民であるイスラエルに安息日を守るように命じられたからです。主なる神様は、イスラエルを支配する権威を持っておられます。ですから、ご自分の主権によって、ご自分の造られた民を守って、平和に治めるために、この法律をお定めになりました。もし、神様のみこころに従って、主の戒めを守るのなら、神様の御国の国籍を持って、幸せのうちに生きることが許されます。この民は神様の御国の法律を初めから認めて、その戒めを守るように約束しました。(Exodus 24:7) 「そして、[モーセは]契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った、『主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。』そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」その厳粛な契約の儀式によって、イスラエル人は神様の授けられた法律を守るように約束しました。神様のすぐれた基準である戒めに従うなら、なんとすばらしい社会になるだろう。Deut. 4:8 )「また、今日、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」神様の戒めを守ることによって、イスラエル人は本当に真の神様の造られた「偉大な国民」であることを証明するのです。

特に安息日の戒めは、神様とその民との密接な関係を示すしるしです。ですから、イスラエルの中のだれでも、もし安息日を汚す、すなわち、ふさわしく守らないなら、その人は自分の民から断ち切られるべきです。(Exodus 31:13)「あなたはイスラエル人に告げて言え。『あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。』」もし、自分がイスラエル人だと言いながら、神様の安息を汚す人があれば、その人がイスラエルから断ち切られるべきです。自分の行いによって神様に従わない、主なる神様を恐れないということを公に示しているからです。神様に従わないなら、神様を信じて、主に従う国民の中に住むことは許されません。安息日を守らない者は、必ず、その民から逃れなければなりません。イスラエルの地方から出ないと、安息日を守らない者は必ず殺されます。それは、厳しい罰だと思われるでしょうが、神様の御国の国籍を持つことは、神様が与えてくださる特権です。主の戒めを破る者は、主の民の一人としてその社会の中に住む権利を失います。ある意味で、安息日を守ることは、神様の者として、神様の社会のうちに生きる特権を大切に守るということを示しています。こういうわけで、出エジプト記31章16—17節に次のように書いてあります。「イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは、主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」

第二に、仕事を定期的に休むことが健康にも家庭の幸せにも必要です。神様はその善においては、無限、永遠、不変の霊であると小教理問答書が言ってます。神様は全く良いお方です。だから、主イエス・キリストは言われました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(Mark 2:27)安息日は人間の自由や幸せを奪うためではありません。逆に、安息日は、私たちの健康を支えて、実り多い人生を送るために設けられたのです。それに、私たちの家庭生活を祝福するために設けられたでしょう。神様は、あわれみ深いお方であり、私たちのことを心配してくださるからです。安息日の戒めについて、こう書いてあります。「安息日を覚えて、聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければなりません。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(Ex. 20: 8-10a)神様は天地創造の六日目に「人をご自分のかたちとして創造された。」(Gen.1:27)それから、神様ご自身が七日目に、「なさっていたすべての創造のわざを休まれた」と書いてあります。神様の形として造られた人間が、神様の安息に入るように召されたことは何とすばらしいことでしょう。でも、ここで特に理解してほしいことは、神様が七日目に休まれたのであれば、私たちが毎週一日中休むべきということが悪いと思ってはいけないということです。主の安息日を覚えて、その日にすべての仕事を休むことによって、私たちから値打ちのあるものは、少しも奪われていません。実は、大切なものは、設けられています。それは安息です。十分安息がなければ、だれも効果的に働くことができません。現在、過労は大きな社会的な問題です。会社の文化においては、休まない人は褒めるべきと思われるからです。だから、仕事の地位を失わないために、会社員は皆、規定時間を超えて毎日働くように目上からのプレッシャーを感じているそうです。週末にも、祝日にも、休暇にも休まずに、いつものように働く必要があるとよく言われています。過労のために鬱病やほかの精神的な病も、肉体的な問題も増えているそうです。神様が私たちの健康と幸せを支えるために安息日を授けてくださいました。その戒めを知らない社会は、安息日を守る祝福を失ってしまいます。申命記5章14—15節で、安息日の目的は説明されています。それは、自分の安楽を設けるためではなく、他の人々の労苦や悩みを覚えて、思いやりをもって、彼らを休ませてあげるように刺激するためです。聖書にこう書いてあります。安息日に、「あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」ここで、神様の思いやりとそのあわれみが見えるのです。私たちも神様のように、思いやりをもって、他の雇人や会社員に対しても親切やあわれみを示すために、安息日を守るように命じられたと書いてあります。神様の戒めを無視する社会は、そのような思いやりやあわれみを知らないようです。日本の会社は、とにかく、過労という問題を真剣に処理しなければなりません。ですから大きな会社も、安息日を守ることから始めた方がいいと思います。

第三に、安息日を守ることは、神様を知らない世界に対する大切な証になります。安息日の戒めを含めている十戒は、旧約聖書の二個所に記録されています。出エジプト記20章でも、申命記5章でも読めます。しかし申命記の箇所は、出エジプト記の箇所が書かれた40年以上後に書かれたのです。イスラエル人は荒野の中で40年間を過ごして、その世代が亡くなるまで待っていたようです。やっとう、神様の約束された地の限界に集まって来ました。そこで、モーセはもう一回神様の戒めを朗読し、説明しました。40年前に、安息日の戒めを説明した時、神様が創造主であるので、主が七日目に休まれたように、イスラエル人もその民として安息日を覚えて守らなければならないと言いました。40年間荒野の中で過ごしたイスラエル人は、安息日を守ることによって、主なる神様が自然界を造られて支配しておられることを覚えて、励まされたでしょう。そして、40年間神様はイスラエルのために、マナという日用の糧を初め、すべての必要な物を与えてくださいました。安息日を守る度に、創造主なる神様に頼らなければならないことを思い出して、感謝をささげたでしょう。安息日を守る度に、自分の子どもたちに神様を信頼することができるということを証したでしょう。

約束された地に入る前に、神様がどのようにしてエジプトの中の奴隷の状態から彼らを救い出されたかを、モーセは、彼らに思い出させました。「あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。」と言いました。イスラエルの目の前にその約束された地が見えたが、モーセは、その地に入って、自分の所有の地としても、安息日という戒めは無効になるだろうとは言いませんでした。神様はどのようにあらゆる敵から救い出して、守ってくださったかを覚えて、安息日を守りましょうと勧めました。かえって、これから、安息日を守る度に、創造主なる神様だけではなく、贖い主なる神様も覚えて、証するように奨励したのです。安息日の戒めは古くなり、無効になることはありません。現在までも、安息日を守る度に、神様の天地創造のみわざも、贖い主のみわざも覚えて守ります。

しかし、あるクリスチャンは、信じる私たちの贖い主なる主イエス・キリストがすでに来られましたので、私たちがキリストにあって霊的な安息に入りましたので、安息日を守る必要はないでしょうというかも知れません。そのような信者は、安息日がキリストによる完成した贖いを指したしるしに過ぎないと思うでしょう。キリストによる贖いが実現したので、しるしはいらないでしょう。しかし、安息日は神様の偉大さを証するために定められたのなら、キリストにある完成した贖いのみわざを証する役割が残るでしょう。昔のイスラエル人が約束された地に入って、そこに定住した時、安息日をすぐ捨てたわけではありませんでした。その地で待ち望んだ安息が与えられたけど、それなのに、安息日の守る義務が続いたのです。安息日を守ることによって、神様の民、すなわち、神様を恐れて、神様を信じて、頼る者は、主なる神様の救いのみわざを宣べ伝えたのです。現在のクリスチャンさえ、主イエスによる完成した救いのみわざを覚えて、安息日を守る度に、その救いを証するのです。私たちは、自分の良い行ないによってではなく、主イエスのみわざによって救われたと告白し、自分の骨折りの努力を休んで、からの手で主の救いの御恵みをいただきます。安息日を覚える理由はいつまでも残っていると思います。それはキリストを信じる信仰によって、救われるという真実を証するためです。こういうわけで、主イエスは、「人の子は安息日にも主です。」と言われました。「安息日はもういらない』とは言われませんでした。かえって、新約の時代に入っても、安息日という戒めが残って、いつまでも主イエスによる贖いを指しているのです。主イエスにあって、私たちは完全な安息に入ります。安息日を守ることにより、その事実を証します。

IV. CONCLUSION

結論として、主なる神様が定められた安息日の三つの目的をまとめて言って終わります。てまず第一に、安息日を守ることは、神様を信じる民のしるしとして与えられたのです。第二に、仕事を定期的に休むことが健康と家庭の幸せを支えるために与えられました。第三に、安息日を守ることは回りの未信者への大切な証になるように与えられたのです。すべての必要を値なしに得るために、神様にしっかりと信じて、その戒めを守るべきです。真の神様を信じている私たちが祝福されますので、喜んで安息日を守るのは、当たり前のことでしょう。終わりに、主イエスの招きのことばを読みます。どうぞ、このすばらしい約束を心に納めてみてください。安息日を覚えて、守る度に、この約束を思い出して、安息日を喜びとし、大胆に回りの社会に証しましょう。(Matt. 11:28)「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」お祈りします。

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