キリストとその新しい契約

KASUMIGAOKA
2018/04/08
SERMON: “Christ and the New Covenant”「キリストとその新しい契約」
TEXT: Hebrews 9:15-22

I. INTRODUCTION イントロダクション

キリストの復活の知らせは、キリスト教会の初期の時代に、ローマの世界に急速(きゅうそく)に広まりました。復活はとても信じられないようなものなので、今日の多くの人々を驚かせます。しかし、少なくとも、当時のユダヤ人にとっては、キリストの復活は信仰の最大の障害(しょうがい)ではありませんでした。使徒パウロが逮捕(たいほ)され、ユダヤ教の議会の前に連れて来られたとき、使徒23:6で彼はこう叫びました。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」評議(ひょうぎ)の中のパリサイ人は、それを聞くと、パウロを擁護(ようご)し始めました。「死者の復活」は彼らが信じる聖書の教えだったからです。しかし、キリストの死は重大(じゅうだい)な障害でした。パウロはコリントの教会にこう書きました。(Iコリント1:23)、「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが・・・」キリストが十字架上で死なれたという宣言が、福音のメッセージを多くのユダヤ人があざ笑った理由でした。キリストの死が彼らのおもなつまづきだったのです。ヘブル書はユダヤ教の背景(はいけい)を持つ人々に書かれていたため、キリストの死の意味と重要性が丁寧に注意深く説明されていることは、驚くことではありません。ヘブル書は、今日の箇所で、神の契約との関係に基づいてキリストの死を理解しなければならないと述べています。今朝は、この契約についての関係性について、ヘブル書がどのように語っているのか
を注意深く見ていきましょう。

ヘブル書は、キリストが死ななければならなかった理由は2つあると言います。これらの2つの理由は、15節で示されています。キリストは「召された者たちが永遠の資産(しさん)の約束を受けることができるため」の、「新しい契約の仲介者(ちゅうかいしゃ)」です。しかし、まず「初めの契約」の要求が満たされなければなりません。15節では、「初めの契約のときの違反を贖うための死が実現した」と述べられています。イエス・キリストの十字架上の死は、次の二つのことを両方成し遂げました。まず、キリストの死は初めの契約の要件(ようけん)を満たし、そしてさらに、永遠のいのちを保証する新しい契約を成立(せいりつ)させたのです。この手紙を最初に受け取ったヘブル人クリスチャンは、神の契約と死との関係を非常によく理解していました、しかし今日の私たちにとっては、このことはあまり馴染(なじ)みがなく、奇妙(きみょう)に思えるかもしれません。なので、ヘブル書がここで言っていることを理解するために、まず私たちは神の契約の意味について考える必要があります。

II. AN OVERVIEW OF GOD’S COVENANT IN SCRIPTURE 聖書の中の神の契約の概要(がいよう)

ヘブル人に対する神の契約の重要性は、計り知れないものがあります。神様は創世記15章でアブラハムの信仰を励ますために、契約を結ばれました。しかし、ヘブル人への手紙の中で、「初めの契約」という言葉は、常に、モーセの時代に神様がイスラエルと結ばれた契約を指しています。それでは、「契約」とはなんでしょうか。聖書に見られる神の契約は、ある学者(O・パーマー・ロバートソン)によって、「主権的に結ばれた血による結びつき」と定義されています。つまり、神様はご自身と特定の人々との間に特別な関係を結ばれ、そこには満たされなければならない特定の条件や、守られなれければならない特定の約束がありました。この神様とその民との間の契約、もしくはきずなは、いのちをかけた誓(ちか)いによって結ばれました。この契約関係が結ばれると、死によってしかその義務は終わらないのです。この契約は、単なる約束以上のものでした。契約とは生涯神様に忠誠(ちゅうせい)を誓うことの約束だったのです。この契約を破(やぶ)る者は、誰でも自分の命を失うということに、皆が同意したのです。 そしてこの契約は、その深刻(しんこく)さを示す特別な儀式によって結ばれました。契約は、その条件と約束を公に宣言することによってまず確立(かくりつ)され、いけにえの動物の血を注ぐことによって結ばれました。聖書では、「血」はいのちを表しています(レビ17:11)。出エジプト記24章では、神様とイスラエルとの間の「初めの契約」のための締結(ていけつ)の儀式が記録されています。それは、まずモーセが集まったイスラエルの人々の前で、すべての主の言葉と定(さだ)めを朗読(ろうどく)するところから始まりました。そして民はこう答えました。「【主】の仰せられたことは、みな行います。」(3節)そこでモーセは主のすべての言葉を書(か)き記(しる)し、祭壇(さいだん)を築(きず)き、若者たちに若い雄牛(おうし)を祭壇でいけにえとして捧げるために用意させました。そしてモーセは、ほふられた雄牛の血を2つの部分に分け、血の半分を祭壇に振りかけました。そしてもう半分の血は鉢(はち)に入れておかれました。出エジプト記24:7-8を見てください。「そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」」神の契約の条件を受け入れることで、イスラエルの民は、死の痛みでもって、主に忠誠(ちゅうせい)を誓い、主の従順(じゅうじゅん)なしもべとなることを誓ったのです。血を注ぎかけることは、彼らがいのちをかけて神に従うことを約束していたことを、視覚(しかく)的に思い起こさせるものでした。この「契約の血」こそが、契約を結び、成立(せいりつ)させるものだったのです。今日の箇所の18節ではこうあります。「したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

神の最初の契約は、血の注ぎかけという、象徴的(しょうちょうてき)な行為で始まりました。主にいのちをかけて仕えるというしるしです。この契約から「抜(ぬ)ける」唯一の方法は、不従順(ふじゅうじゅん)に対する罰則(ばっそく)として、自分のいのちを犠牲にすることでした。したがって、血というしるしは、契約のはじめと終わりに位置(いち)づけられるものでした。この厳粛(げんしゅく)な注意にもかかわらず、イスラエルの人々は、喜びを持って主なる神から与えられた契約に入ったのです。なぜでしょうか?おそらくこの問いには2つの答えがあります。まず第一に、人々は、「【主】のすばらしさを味わい、これを見つめ」たのです。「幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(詩篇34:8参照)彼らは主の主権的な恵みと贖いの力を目の当たりにしていました。主は、エジプトに対してご自身のさばきとしての「災害(さいがい)」を送られたとき、主は当時の最も強大(きょうだい)な国や支配者に対するご自身の主権を示されたのです。そして民は、社会を治めるために主が与えてくださった律法の、良さと公平性(こうへいせい)を認識(にんしき)しました。イスラエルの民は、心から「主の民」でありたいと願い、祝福を楽しむことを望んだのです。これが、なぜ民が神様の契約を熱心に受け入れたのかという問いに対する最初の答えです。第二の答えは、彼らが自分自身の罪深さ、弱さ、そして心が変わってしまう可能性を認識できなかったということです。言い換えるなら、民は人間の堕落(だらく)の深刻(しんこく)さを考えなかったのです。彼らは神の契約の祝福を求めましたが、契約を破った人々に対する神の呪(のろ)いの危険性を真剣(しんけん)に考えなかったのです。

III. CHRIST’S NEW COVENANT キリストの新しい契約

ヘブル書はすでに、初めの契約よりはるかに優れた新しい契約の保証人(ほしょうにん)、そして仲介者となるためにキリストが来られたということを説明しています。ヘブル書は8:6で、キリストがご自身の民のために始められる契約は、「さらにすぐれた約束に基づいて制定(せいてい)された、さらにすぐれた契約」であると言っています。エレミヤは、500年以上前に、神の新しい契約は、イスラエルが破った「初めの契約」とは違うということを預言しました。「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:10、11b、12)。この、ヘブル書が私たちに語っている契約こそが、キリストの血によって成立(せいりつ)した契約です。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反(いはん)を贖うための死が実現(じつげん)したので、召された者たちが永遠の資産(しさん)の約束を受けることができるためなのです。」(15節)。
 新しい契約の約束は、特にバビロン捕囚(ほしゅう)の間、イスラエルの人々にとってのすばらしい励ましになったに違いありません。そして、この契約は純粋(じゅんすい)に、神の恵みによる賜物(たまもの)でした。なぜなら、神様が新しい契約を約束した人々は結局、神の呪いと死を受けるにふさわしい、契約を破ったものだったからです。しかし、初めの契約の問題は残っていました。新しい契約が成立する前に、初めの契約の条件が満たされなければなりません。そのためにキリストは来られたのです。民は契約を破ったので、彼らは死ななければなりません。それが初めの契約の合意(ごうい)でした。しかし、イエス・キリストは来て、その契約の条件を満たすためにご自身のいのちを捧げてくださったのです。 14節がこう述べているとおりです。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」神の御子ご自身が、契約を破った者の代わりに、ご自身のいのちを捧げてくださったのです。だからこそ、初めの契約は完全に満たされて終わり、数(かぞ)え切(き)れない、契約を破った者たちのいのちは救い出されたのです。

16-17節では、ヘブル書の著者は、キリストによる初めの契約の約束の成就(じょうじゅ)から、エレミヤによって約束された、新しい契約の成立へと自然に進んでいます。その死によって、キリストは初めの契約の下でいのちを失った人々を贖い、解放(かいほう)しました。今や、新しい、はるかに優れた契約の道が開かれたのです!しかし、一部の翻訳(ほんやく)は、16節と17節で「契約」の代わりに他の言葉を用いています。それは「遺言(ゆいごん)」という言葉です。1世紀において、ヘブル語の契約(berith)という言葉の翻訳として用いられたギリシャ語の “diatheke”という言葉は、「遺言(ゆいごん)」という意味に用いられるようになりました。ヒエロニムスは、彼のラテン訳聖書の中で、diathekeという言葉を「遺言」と訳しました。そしていくつかの英語の聖書、そして日本語の新改訳聖書では、16-17節で「遺言」という言葉を用いています。もちろん、遺言を書いた人と、その人の死との間には、つながりがあります。そして、17節は、「遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力(こうりょく)はありません。」と訳せば、たしかに簡単に理解できます。しかし、18節は17節を初めの契約と結びつけて、「したがって、初めの契約も血なしに成立(せいりつ)したのではありません。」と言っています。もし、17節の内容を「遺言」として理解するなら、17節と18節との間に明確(めいかく)な繋(つな)がりはありません。なぜなら、初めの契約はモーセの遺言などではなかったからです。ギリシャ語のdiathekeは、その他の新約聖書の部分や、七十人訳聖書と同様に、ここでも「契約」と翻訳されるべきだと思います。

もしヘブル書の著者が16節と17節で実際に神の新しい契約について続けて語っているのだとすれば、このように理解することが可能です。:(16節)「契約があるところでは、それを結(むす)ぶ者の死を示すことが必要です。」言い換えれば、契約の成立は、契約に入る者の死を表すしるし、すなわち「血の注ぎ」、から始まる必要があるのです。契約を有効にするのは、「死の誓約(せいやく)」です。(17節)「契約は、死んだ者たち(複数(ふくすう)の「死体」)に基づいてのみ制定されます。なぜなら、その者が生きている間は、それが有効にはならないからです。」このように読むと、この箇所は、複数(ふくすう)のいけにえの動物の実際の死体と、契約に入った者の象徴(しょうちょう)的な「死」を指していることがわかります。一言で言えば、それは契約に入った者が、自分の心を変えたり、契約の条件を変える自由はないということです。これは神の契約の基本的な観念(かんねん)に一致しています。 (18節)「したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

十字架で死なれたとき、キリストは初めのモーセ契約を満たしただけでなく、同時にご自身の民のために、新しい契約を打ち立てられたのです。キリストは、雄牛や山羊の血の注ぎかけという、契約を結ぶ者のいのちをかけた誓いを象徴するものを通して契約を打ち立てられたのではなく、神の御子として、ご自身の血を注いでくださることで、新しい契約を打ち立てられたのです。ご自身のいのちを捧げることで、私たちの代わりにキリストは新しい契約を打ち立て、そして満たしてくださったのです。キリストは、ご自身の民全てが契約の祝福にあずかることを保証するために、死んでくださったのです。   

IV. CONCLUSION   結論

この箇所は理解するのが難しい箇所であり、私たちの解釈(かいしゃく)があまりにも独断(どくだん)的になってはいけません。しかし基本的なことは明らかです。第一に、キリストはこの世界に来られた目的を確かに達成されたということです。永遠の神の御子は、私たちと同じような人間になり、私たち人間の代表としての初めの契約の条件を満たしてくださったのです。そして、キリストは神の義を満足させるために、ご自身のいのちを捧げられました。そしてキリストは、私たち自身の過去(かこ)の不従順の結果から、私たちを解放(かいほう)してくださったのです。ご自分の血を流すことによって、キリストはイスラエルの民を、神の契約の最終的(さいしゅうてき)な義務と呪いから解放します。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及(およ)ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13-14)。

第二に、キリストは、私たちが神に忠実であるという証拠として、ご自身の血を捧げることによって新しい契約を成立させてくださいました。信仰によってキリストに結び付けられた私たちは、キリストの死においても主と結ばれているのです。パウロがローマのクリスチャンに書いたように、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)」 私たちは神様の栄光のために生きる、新しい機会が与えられているのです!私たちは、新しい契約の仲介者であるイエス様を通して、父なる神との交わりに迎え入れられて、新しいいのちを持っているのです。キリストは私たちを律法の束縛(そくばく)から解放してくださり、御霊によって歩むようにしてくださいました。そして、私たちは、神の新しい契約の民として、御霊によって歩むならば、神様は私たちに御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容(かんよう)、親切、善意、誠実、柔和、自制」を与えて下さいます!そのためにキリストは死なれ、そのために私たちは生きるのです。

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