KASUMIGAOKA 2017/03/12
SERMON: 「あなたのアイデンティティを知ること」 “Knowing Your True Identity”
TEXT: 1John 2:28–3:6
I. INTRODUCTION
みなさんは「私はだれなのか?(Who am I?)」という問いかけを自分にしたことがあるでしょうか。多くの人は、自分自身の「アイデンティティ」について心配します。これはインターネットで調べられるような問いではありません。ある人達は、「自分がこうなりたい」という人物になれていないので、このような問いを持ちます。私たちはこの世界に、本当の自分ではない「自分」を見せようとします。時には自分の外見を恥ずかしいと思うかもしれません。太すぎる、痩せ過ぎている、顔のしみや髪の毛のうすさなど・・・。私たちは自分が欠点だと思うことを隠そうとします。私たちは自分の気に入らない状態について、それを食事や運動などで改善することができる場合があります。化粧やかつらなどでそれを覆うこともできるかもしれません。しかし最も深刻な欠点は肉体的なものではなく、むしろ道徳的、そして霊的なものです。私たちは心に根ざすその問題をどのように「なおす」ことができるでしょうか。おおくの人たちはこのような内的な欠点を本当になおすよりも、単に隠そうとするのです。
クリスチャンとして私たちは、私たちの思いを横切ることのある自己中心、高ぶり、悪意や不純な思いについて、きちんと恥ずかしいと思います。クリスチャンでない人々さえ、自分たちの心に存在する不純な思いをなくし、「より良い人」になりたいと考えます。本当の自分を隠すことから来る心配や罪の意識や劣等感を好まないのです。聖書では、神を信じる者が、同じ問題に悩んでいる例を見ることが出来ます。はるか昔、イスラエルの王だったダビデは「自分の心に語る」ことで自らを従えるように言っています。詩篇4:4でこう語ります。「恐れおののけ。 そして罪を犯すな。 床の上で自分の心に語り、 静まれ。」使徒パウロもまた、自分の罪深い心に葛藤しました。ローマの教会への手紙の7章でこの経験についてパウロは書きます。(7:15)「私には、 自分のしていることがわかりません。 私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、 自分が憎むことを行っているからです。」(7:19)「私は、 自分でしたいと思う善を行わないで、 かえって、 したくない悪を行っています。」(7:21-24a)「そういうわけで、 私は、 善をしたいと願っているのですが、 その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 すなわち、 私は、 内なる人としては、 神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、 それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、 私を、 からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、 ほんとうにみじめな人間です。」ここでパウロは、クリスチャンとしての経験ではなくユダヤ人であった時の経験について語っているのだと思います。しかし、多くのクリスチャンは同じような経験を語ります。もし皆さんが誘惑に葛藤し、自分が本当にクリスチャンかどうかを悩むことがあるなら、このヨハネの手紙が助けになるかもしれません。ヨハネの手紙は、私たちがなりたいと思うような人にどのようにしてなれるかについて語るのです。そして更に言うならば、ヨハネは私たちが、神がこのようになってほしいと願うような人にどのようにしてなれるかについて示しているのです。
II. HOW TO ESTABLISH YOUR CHRISTIAN IDENTITY
クリスチャンとしてのアイデンティティをどのように立て上げるか
クリスチャンとしての真のアイデンティティの確信を得ることができるための第一歩は、28-29節に示されています。ヨハネは「キリストのうちにとどまっていなさい。」と言います。どのような意味でしょうか。それは「イエスキリストをあなたの救い主であり、主であると信頼し続けなさい」という意味だと思います。信仰に基づく、あなたとイエス・キリストとの関係を他の何物にも邪魔させてはいけません。あなたの救いはあなた自身の完全な義に基づくものではなく、あなたの贖い主の義に基づくものです。もしイエス・キリストの信頼を持ち続けるなら、あなたは「その来臨のときに、 御前で恥じ入るということ」がなくなります。神が求めるような人になるための第一歩は、信仰によってキリストと堅く結び付けられることです。キリストとの交わりによって、さばきの時に神の御前に自信をもって立つことができるようになります。なぜなら、キリストにあって、あなたは「義」とされるからです。さばきの日に私たちはキリストの義の上に立つべきなのです。キリストによってあなたは「義」と認められるのです。しかしそれ以上に、あなたはキリストによって「聖化」されます。もしキリストともに歩むならば、詩篇23:3が言うように、キリストは「御名のために、 私を義の道に導かれます。」私たちはこれを自力で行うことはできません。しかし私たちが信仰によってキリストのうちにとどまるならば、キリストは私たちを導き、周りの霊的な誘惑から守ってくださるのです。キリストを信頼し、そのうちに留まりましょう。そうすればキリストがそうであるように、あなたも義とされ、聖とされるのです。
神がもとめるような人になるための二つ目の段階は、神のあなたへの愛の大きさを認識することです。罪と罪過のなかに死んでいた私たちを神様は愛してくださったということを理解しているでしょうか。(エペソ2:4-5)「しかし、 あわれみ豊かな神は、 私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです−−」 神は私たちを愛し、「私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 御前で聖く、 傷のない者にしようとされました。 神は、 みむねとみこころのままに、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、 愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4-5)そのような神に対して私たちは何も隠すことができません。そして私たちをその大きな愛で愛してくださる方に対して、何も隠す必要はないのです。神様は私たちのうちのすべての過ち、すべての欠点をご存じです。しかし、それでも神は私たちを愛されるのです。ヨハネはこう言います。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−-事実、いま私たちは神の子どもです-−御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(1ヨハネ3:1)」私たちは、私たちを自らの子供としてくださるために選んでくださったほどに愛してくださる神様のみ前で自信を持つべきなのです。
そしてもし世が私たちを受け入れたり、私たちを好んだりしなくても、それに何の意味があるでしょうか。この世はイエス・キリストを受け入れませんでした。世が私たちを受け入れることより、神が私たちを知ってくださり、愛してくださることのほうが重要ではないでしょうか。私たちは神の愛される子供なのです。私たちは、人生に置ける自らの価値や希望を、この世が認めてくれることに置く必要はありません。ペテロは、(1Pet.4:4-5) この世の人々が「あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、 また悪口を言います。 彼らは、 生きている人々をも死んだ人々をも、 すぐにもさばこうとしている方に対し、 申し開きをしなければなりません。」と書いています。この世の友情ははかなく、変わるものです、そしてこの世の愛はすぐに冷めてしまいます。しかし何物も神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。パウロはこのことをローマ人への手紙で書いています。(ローマ8:38-39)「私はこう確信しています。 死も、 いのちも、 御使いも、 権威ある者も、 今あるものも、 後に来るものも、 力ある者も、 高さも、 深さも、 そのほかのどんな被造物も、 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、 私たちを引き離すことはできません。」キリストにあって、あなたは天の父の愛する子供なのです。新しい家族が与えられ、数え切れない新しい兄弟姉妹を持つのです。その愛にあって、あなたは安全なのです。
神が求めるような人になるための3つめの段階は、神があなたを完成してくださるということを認識することです。この成長の課程には何年もかかります。私たちの物理的な肉体も成熟するのに20年ほどかかりますが、霊的な「自分」の成長にはさらに長い時間がかかるのです。実際、私たちのたましいがキリストの似姿へと成長するのには一生涯の時が必要です。しかし神様はあなたを未完成で多くの欠点で傷ついたままではおいておかれません。神はあなたを完成してくださるのです。ヨハネは福音書の中で、盲目の人に対してのイエス様の他とは違う奇跡について語ります。もちろん奇跡はすべて「他とは違う」ものですか、この奇跡はイエス様の行われた他の癒やしのみわざとは異なる点があります。マルコ8:23-25を見てください。「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。 そしてその両目につばきをつけ、 両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。 すると彼は、 見えるようになって、 「人が見えます。 木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。」ここでこの盲人は、まだ彼の視野が完全ではなかったにも関わらず、見えることにうきうきしていたと思います。しかしイエス様はその彼をその状態のままにされませんでした。「(v.25)それから、 イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。 そして、 彼が見つめていると、 すっかり直り、 すべてのものがはっきり見えるようになった。」どうしてイエス様は、いっぺんに癒やしを行われるのではなく、このように段階をふんで癒やされたのでしょうか。それはイエス様が弟子たちに、霊的な理解というものも「徐々に」成長していくものであると教えたかったからではないかと思います。しかし終わりには、キリストは決して彼を信頼する人を未完成で不完全な状態のままにはしておかれません。キリストは必ず、私たちのうちに始めてくださった恵みの御業を完成させてくださるのです。
ヨハネは今日の箇所の3章2節の中で3つの重要なことを述べています。まず第一に、「愛する者たち。 私たちは、 今すでに神の子どもです。」と言われています。神は既に私たちを選び、神の子としてくださり、神の家族に入れてくださいました。私たちは、「神聖な入学試験」のような難しい試験に合格する必要はないのです。私たちは今すでに、神の子どもなのです。
第二に、「後の状態はまだ明らかにされていません。」とあります。これは、私たちはだれもまだ、神がつくり変えてくださる「完全な自分」になっていないということです。私たちは「部分的に完成した」存在です。イエス様が愛された使徒ヨハネですら、まだ完全ではなかったのです。しかし私たちは希望を失い落胆する必要はありません。神がいまも私たちの中に働いてくださっているからです。
第三に、ヨハネはこう言います。「しかし、 キリストが現れたなら、 私たちはキリストに似た者となることがわかっています。 なぜならそのとき、 私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」この約束を決して忘れてはなりません。「私たちはキリストに似たものとなる」のです。パウロはピリピ人にこう書きました。(Phil. 1:6)「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」キリストが現れる日まで、神はあなたの中で働き続けて下さいます。しかし、それはいつになるのでしょうか。直前の2:28でヨハネは、キリストが世の終わりにこの世界に再び来られる時に私たちに現れてくださると言っています。しかし、ここでヨハネが言っているのは、私たちが個人的にイエス様に会う、つまり私たちが死に、キリストの臨在に招かれる時であるという可能性もあります。イエス様は十字架で隣の強盗にこう言われました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」そしてパウロはピリピ1:23でこう書いています。「私の願いは、 世を去ってキリストとともにいることです。 実はそのほうが、 はるかにまさっています。」この瞬間が、私たちにとって初めてキリストをはっきりと見る瞬間なのです。この時、私たちはキリストを「ありのままで」、完全な威光と尊厳と栄誉の中で見ることになり、愛を持って忠実な羊飼いでいてくださるキリストを見ることになるのです。そして、私たちはもはや恥じることはありません。なぜなら、その瞬間に私たちも「キリストに似たもの」に作り変えられるからです。私たちはまさに主の霊的な姿と同じ姿に変えられます。つまり知識、義、聖において完全にされるのです。私たちの霊的な欠点に対する不満や心配は、喜びによって全て洗い流されるのです。これが、神様がその子どもたちに計画されていることです。ヨハネはこう言うのです。私たちは「神の子ども」であり、「キリストに似た者となる」。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(3:3)
神様が求めるような人になるための4つめの段階は、4-6節で説明されています。ここでヨハネは、私たちの希望は私たち自身の完全な義ではなく、キリストになければならないと語ります。どれほどあなたが良い人であっても、どれほど注意深く不純な思いから自分の心を守ろうとしたとしても、キリストをありのままで見るまでは完全にはされないのです。あなたが犯す全ての罪は、「不法」なのです。一度でもつまずくなら、その瞬間に律法を破る者になるのです。しかしキリストは神の完全な律法を一度として破ることはありませんでした。そして「キリストが現れたのは罪を取り除くためであった」(v.5)のです。キリストのみが、罪の汚れや咎が取り除かれる希望を与えることができるのです。キリストによってのみ、あなたは完全なものになり、神が望まれるような霊的に美しい者となることができるのです。
6節の日本語の訳は理解するのが難しいです。しかし元のギリシャ語ではその意味ははっきりとしています。このギリシャ語の動詞は、キリストにとどまるものは、「罪を犯し続けることはない」という意味です。つまり、キリストを知り、キリストに信頼を置くなら、かつての罪の生活を続けない、という意味です。もしあなたがキリストのうちにあるなら、キリストとの関係は車の「自動ブレーキシステム」のようになり、罪に向かって行くことからあなたを守るのです。箴言1:16には、悪者にはそのスピードを落とすものはないと語っています。「彼らの足は悪に走り、 血を流そうと急いでいるからだ。」しかし、もしあなたがキリストのうちにあり、救いの希望がキリストのうちにあるなら、そのように歩むことは、もはやできません。悪を行うことを自制し、常に思いを清く保とうとするのです。100%罪を避けることはできませんが、もしキリストとともに歩むなら、それがあなたの目標となるのです。
III. CONCLUSION
結論
ヨハネの励ましの言葉をまとめると、私たちは必ず神が求めておられるような「自分」になることができる、と語ります。私たちの責任は、まず第一にキリストのうちにとどまること、そしてキリストに信頼を置き、キリストの近くにとどまることです。そして第二に、私たちのための神の偉大な愛について思い巡らすことです。そして第三に、私たちが成熟し、私たちの王なるキリストの前で、恥じること無く、立つことができるようになるまで、神様が私たちを育ててくださるということを私たちが覚えるべきです。そして最後に、私たちは全ての希望をキリストに置かなければならないということです。キリストは私たちの全ての罪を取り除き、日々悪を退け、キリストのために生きることを助けてくださるのです。
さて、愛するみなさん、自分が「どのような存在」であるかわかったでしょうか。もし信仰によってキリストのうちにあるなら、あなたのアイデンティティもキリストに根ざしているのです。あなたの人生はキリストにあって安全なのです。そしてキリストご自身の姿へと成長していく歩みは、もう始まっているのです。引き返すことは決してありません。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。 それは、 御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、 召した人々をさらに義と認め、 義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:29,30)」神はあなたのうちに始められた御業を必ず全うし、完成して下さいます。神に栄光がありますように。