神の御ことばと豊かないのち

KASUMIGAOKA    
2018/01/14 
SERMON:  「神の御ことばと豊かないのち」“The Word of God and Abundant Life”  
TEXT: Matthew 13:1-23     

I. INTRODUCTION イントロダクション

 イエス様は、なぜご自身がこの世に来たのかを次のように語りました。「わたしが来たのは、彼らがいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)自分自身を信じ、信頼する者たちに、新しい、豊かないのちを与えるために、イエス様は来られたのです。3週間の間、私たちは、イエス様がお与えになる「豊かないのち」について考えてきました。豊かないのちとは、「実りあるいのち」であることを学びました。つまり、神に仕え、自分のためだけではなく他の人のために、実を結ぶような、いのちです。多くの実を結ぶためには、「イエス様にとどまり、イエス様が私たちにとどまられなければならない」とイエス様はおっしゃいました。そしてそのことを説明するために、ぶどうの木のたとえをお用いになったのです。イエス様がおっしゃったのは、枝がぶどうを生み出すためには、生きたぶどうの木に結び付けられていなければならないのと同じように、私たちクリスチャンはキリストに結び付けられているときだけ、良い御霊の実を結ぶことができるということです。だからこそ、イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とおっしゃったのです。先週、私たちは「まことのぶどうの木」であるイエス様の枝として、「どのような種類の実」を結ぶことができるかを考えました。信仰によってイエス・キリストにとどまるとき、キリストの御霊が私たちに「御霊の実」である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23a)を結ばせてくださるのです。イエス様はこの世に来られ、そのイエス様を信じて従う私たちは、これらの実で満たされた、いのちを持つのです。この御霊の実が皆さんのうちには認められるでしょうか。

今日は、このような「実」を結ぶためにどうしたら良いか、そしてキリストが与えてくださる豊かないのちを経験するにはどうすればよいのかを教えるもう一つの箇所を見ていきます。この箇所は、マタイの福音書13章の、有名な種蒔きのたとえです。イエス様は、実を結ぶことについて、このたとえ話で何を教えているでしょうか。先週の箇所では、私たちの生活の中で御霊の実を結ぶためには、私たちの中のキリストの御霊の働きが不可欠であることを見ました。この種蒔きのたとえ話では、イエス様は、ご自身が話していることばを受け入れる必要性を強調しています。私たちがキリストの言葉を聞いて理解し、キリストの言葉が私たちの中にしっかり根ざされなければ、私たちは実を結ばないでしょう。このたとえ話は、癒しの奇跡や悪霊を追い出す奇跡を見て、イエス様のもとに集まった大勢の群衆に向けて語られました。イエス様は力ある御業によって人々の注目を集めましたが、これらの人々が最も必要としたのは、イエス様が宣べ伝えていた真理、つまりイエス様のことばでした。主のみ言葉はどれほど重要なものでしょうか。ペテロは第一の手紙の中でこう書いています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(Iペテロ1:23)私たちのいのちはすぐになくなりますが、「しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」イエス様が宣べ伝えておられた言葉は、私たちに新しいいのちを与えることができるものです。イエス様の言葉は、私たちに豊かな御霊の実を結ばせてくださるのです。しかし、キリストの言葉がなければ、私たちは不毛な畑のようです。神の御霊の働きと、心の中にしっかりと植えられたキリストの言葉の両方が必要なのです。御霊と御言葉の両方がなければ、私たちは決して「実を結ぶ」クリスチャンになることはできません。この種蒔きのたとえ話を詳しく見てみましょう。

II. THE PARABLE AND ITS PURPOSE たとえ話とその目的

この箇所は3つの部分で構成されています。最初の部分(1-9節)では、マタイはイエス様の聴衆を描写し、たとえ話そのものの内容を記録しています。2つめの部分(10-17節)では、イエス様は、群衆にもっとはっきりと教える代わりに、なぜイエス様がたとえ話を用いることを選ばれたかについて、弟子たちの質問に答えます。3つめの部分(18-23節)では、イエス様は選ばれた弟子たちに対してたとえ話の意味を説明しています。

たとえ話自体は、農夫の手によって種がどのように蒔かれたかの簡単な説明です。大勢の群衆がイエス様のそばに集まったので、イエス様は船に乗って、岸に立っている群衆に向けて語り始めました。群衆の後ろにはガリラヤの丘がそびえ立っていました。もし秋の雨がすでに始まっていたとしたら、冬にむけて、丘沿いの畑で種蒔きをしている農夫たちの姿が見えたかもしれません。当時、ほとんどの穀物は秋に植えられました。なぜなら冬は小麦や大麦を育てるのに十分な雨が降る唯一の季節だったからです。おそらくイエス様は、丘の上でご覧になった様子を見て、この種蒔きの例えを話されたのでしょう。イエス様の前の岸に立っている群衆には、さまざまな種類の人々がいました。そして種が植えられた畑には、さまざまな種類の土がありました。なのでイエス様は群衆を教え始めた時、種蒔きのたとえ話を話されたのでしょう。イエス様はおっしゃいました。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」そして、イエス様はその種蒔きの4つの異なる結果を説明されました。いくつかの種は、畑のそばの道ばたに落ちました。土は硬く、鳥はすぐに来て、それらの種を食べました。ある種は岩地、すなわち硬い岩を覆う薄い土の上に落ちました。その種はすぐに芽を出して成長し始めましたが、暑い日差しが、根が十分でない若い芽を焦がしたので、それらは枯れました。またある種はいばらの中に落ちました。種は芽をだしましたが、すぐにいばらによってふさがれ、岩地の種と同じように枯れました。しかし、別の種は、いばらや雑草のない、良い、深い土に落ちました。この種は芽を出し、すぐに成長し、豊かに実を結んだのです。このさまざまな結果を説明した後、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。イエス様が群衆に対してお語りになったたとえ話は、これだけです。イエス様は聴衆に、たとえ話について考えるように頼みましたが、イエス様ご自身は種を蒔く人、種、そしてその異なる土とその結果についての重要性を説明されなかったのです。

この箇所の次の部分は、イエス様と弟子たちとの間の対話から成り立っています。彼らは、なぜ、イエス様が、解釈するのが難しいたとえ話をお用いになって教えられたのか、イエス様に尋ねました。イエス様は、たとえ話はすべての人に理解を与えることを意図していないとお答えになりました。その代わりに、このたとえ話の目的は、この人々の心が、それほど霊的に目が見えず、耳が聞こえず、鈍くなったのかを示すことでした。このたとえ話は、イエス様の周りに集まった大部分の人々の本当の霊的状態を示すことを意図していたのです。14節でイエス様がおっしゃるとおりです。「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。』この状態では、人々は理解をもってキリストの言葉を聞くことはできませんでした。彼らはこの言葉を、自分自身にあてはめて、ふさわしく応答することができなかったのです。彼らは、イエス様が何を宣べ伝えているかを聞いて理解する必要がありました。なによりも、彼らは神の御国について、そして神がこの世に送ってくださった救い主について聞く必要があったのです。彼らは、神のみ言葉に自分が逆らっていることを、悔い改める必要がありました。彼らが自分自身の悲惨で無力な状態を正しく理解していれば、彼らは主にあわれみと赦しを求めたでしょう。もし彼らがそうしたら、つまり、「彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返ったら」、15節の終わりでイエス様はこうおっしゃいます。「わたしは彼らをいやす。」しかし、彼らは自分の本当の霊的な状態を理解していませんでした。彼らは好奇心のゆえに、あるいは奇跡を見て感銘を受けて、あるいはイエス様がローマの圧政に対してユダヤ人の蜂起を導くことを望んで、イエス様のところに来ました。しかし、彼らは魂の癒しを求めるために、イエス様のもとには来なかったのです。彼らは最も基本的かつ重大な必要性を認識していなかったのです。そして人類は2000年前から、あまり変わっていません。今日においても、自分が霊的に死んでいて、救いを必要としていると認める人はほとんどいないのです。

しかし、その群衆の中には、知らせを聞き、理解するようにイエス様が整えられた者たちもいました。それはイエス様ご自身の弟子たちでした。だからこそ、イエス様は16節でこう言われます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」イエス様の弟子たちが見たり聞いたりして、他の群衆がそうしなかったものとはなんでしょうか。イエス様は17節こうおっしゃいます。「多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」この義なる人たちは、彼らの心のかたくなさではなく、むしろ神様が定められた時に預言が成就するための目的で、見たり聞いたりできなかったのです。イエス様がここでおっしゃっているのは、まさにこの時、神様の昔からの約束が成就しているんだということです。イエス様は14-15節で預言者イザヤを引用しています。イザヤの預言の中の最も偉大なものは、イスラエルやユダ、そして神を信じない周辺の国々に対する、神の義なる裁きについての約束ではありませんでした。イザヤの最も偉大な預言は、メシヤの到来に関する預言です。イザヤは7:14でこう預言しています。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」そして、9:1-2でもこう預言します。後の時代、ガリラヤの地で、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」(9:6-7)。 700年の間、神の約束を信じた者たちは、その成就を待っていました。そして今、イエス様は弟子たちに、この預言は今まさに成就しているとおっしゃっているのです。神の御国が来て、平和の君が今まさにあなたの前に立っている。だからこそ、「あなたの目と耳は、どれほど祝福されているでしょうか。」

この理由で、イエスは弟子たちに11節でこう言われました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」ただ神の恵みによってのみ、弟子たちはイエス様に従い、イエス様から学ぶように選ばれました。それに、弟子たちの伝道の使命もここで暗示されているでしょう。王であるキリスト・イエスは、救い主が来たという知らせを伝えるために、彼らを世に送り出します。彼らは、周りの暗闇の中に福音の「光」をもたらしますが、丁度イザヤのように、心がかたくなで、耳が聞こえず、目が見えない人々に会うでしょう。しかし、彼らは落胆してはいけないのです!彼らに見える目と聞く耳を与えてくださった神様が、弟子の知らせを受け取るために、他の人の心をも備えてくださるのです。イザヤがずっと昔に預言していたとおりです。「雨や雪が天から降って、もとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10-11)。イエス様の使徒たちが忠実に福音を宣べ伝えるとき、全ての人が信じたわけではありませんでした。しかし、ある人は信じたのです。今日においても、イエス・キリストの良い知らせが忠実に宣べ伝えられた時、それは聞こえない者の耳に落ちるときもあるでしょう。しかし、それは聞く耳と見える目を持つ人々の心にも届くのです。良い知らせを聞いて理解する者は、自分たちの罪から離れ、平和の君であるイエス・キリストの赦しと贖いを見出すのです。

このことは、今日の箇所の第三の部分につながります。18-23節でイエス様は弟子たちに、このたとえ話の意味を説明されます。農夫が蒔いた「種」は、「御国のことば」です。つまり、神が御子を平和の君として世に遣わされたという良い知らせです。ある人々はこの良い知らせを聞きますが、それについて全く考えません。彼らにとっては、そのことが全く無意味であるかのように、自分の心からそれを消すのです。鳥に食べられた種のように、福音の種はそのような人には何の印象も与えません。またある人は良い知らせを聞いて、最初は熱心に反応します。しかし彼らの信仰が挑戦を受け、家族や友人から反対されたり、迫害に直面したりするときに、彼らはすぐにそれを放棄し、古い生き方に戻ります。このような人たちは、岩地の浅い土に蒔かれた種のようです。また、キリストを通して救いの知らせを聞き、それについて少し考える人々もいます。しかし選択肢、つまりキリストに服従し従うか、この世の快楽を求めるかの選択に直面したとき、彼らは、安らかな生活と世の富を追求することを選択するのです。このような人たちは、誰も神の御言葉の「種」を受けとり、成熟した、実り多い信仰に成長することはありません。しかし、イエス様は、もう一つの種類の人がいるとおっしゃいます。この人たちは、御言葉を聞き、それについて慎重に考え、喜びをもってそれを受け入れる人です!この人たちは、神様の恵みによるイエス・キリストという賜物のすばらしい知らせを理解し、心の中でそれを大切にしています。そして、自分の人生で毎日神の恵みが溢れ出るのを経験しながら、信仰と義の中で成長し続けるでしょう。このような人たちが、多くの実を結ぶのです。

 III. CONCLUSION   結論

結論として、キリストの言葉が心の中にしっかりと植えられるまで、真実に実りのあるような者は誰もいないということを覚えましょう。皆さんが成長して多くの実を結ぶのは、神の言葉によるのです。だからこそ、新年の今の時期に、聖書を毎日読み、神の御言葉をあなたの心に蓄え、知恵ある助言に従うことを目標にしましょう。聖書を神の御言葉として受け取り、その権威に服従しないのであれば、あなたは実り多いクリスチャンになることはできません。イエス様のたとえ話の「良い地」でさえ、神の御言葉の種が植えられるまでは、どんな実も生み出すことができませんでした! そして、あなたの人生の中で神の御霊や御言葉による実を見出し始めたら、まず神に感謝し、神を賛美しましょう。神様はあなたを何もない荒れ果てた人生へとお見捨てになることなく、神の恵みによって、聞く耳と見える目と、イエス・キリストを通しての救いという素晴らしい知らせを理解する心をお与えになりました。

そして最後に、あなたが福音のいくつかの「種」を蒔くとき、無関心や抵抗に直面したとしても、落胆しないでください。種を蒔き続けてください!神の御言葉は、神様がしようとされていることを、確実に行います。私たちは種をまくだけです。神様がそれに実を結ばせてくださるのです。

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