神の御使いよりも偉大な御子

KASUMIGAOKA
2017/11/19 
SERMON: 「神の御使いよりも偉大な御子」 “Greater Than the Angels”
TEXT: Hebrews 1:4-14

I. INTRODUCTION イントロダクション

先週私たちは、ヘブル人への手紙が、イエス・キリストの神の御子としての計り知れない栄光を宣言するところから始められているのを見ました。御子はまず第一に、父祖たちに、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語った預言者たちより優れています。第二に、御子は御父と等しい栄光と力を持っています。なぜなら御子は「神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられる(v.3)」からです。第三に、ヘブル書は御子が御使いよりもはるかに優れていることを説明します。この三番目の対比を、今日は見ていきたいと思います。

なぜヘブル人への手紙は御子と御使いを比較しているのでしょうか。それは、単純に、ユダヤ人たちが、御使いは神の被造物の中で最も栄光に満ち、力のある存在だと考えていたからかもしれません。天の星は神の御使いからなる「天の軍勢」の象徴だと考えられていました。神の御使いは旧約聖書のいくつもの物語中で、神の力ある代理人として、またメッセンジャーとして現れます。御使いはハガルやアブラハム、ヤコブ、モーセ、バラム、ギデオン、そしてサムソンの両親に現れました。主の御使いはダビデ、エリヤ、ダニエルやゼカリヤにも現れました。神の御使いは良い知らせと希望の知らせをある人に語り、また死や破壊の知らせをある人に語ったのです。詩篇34:7はこう言います。「【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」しかしII列王記19:35にはこのような御言葉があります。「その夜、【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。」主の御使いは恐るべき外見を持ち、圧倒する力があるのです。御使いと直接会った人の通常の反応が、恐れのあまりに倒れるというものであっても、不思議はありません。 しかしヘブル書は、御子はどの神の天の御使いよりも優れており、栄光に満ちていると言います。どのようにして、御子の栄光は御使いの栄光にまさるのでしょうか。4節から14節を注意深く見ていきましょう。   

 II. THE SON’S SUPERIORITY TO THE ANGELS 御子の御使いに対する優越性  

 1)より優れた御名

4節はこう言います。「御子は、御使いたちよりもさらに優れた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」御子は御父と同じ御名をお持ちになるのです。それは、御子が御父と同じ「性質」を持っているということです。当時では、「名前」はその名前を持っている人の性質を反映すると考えられていたからです。もし御子が御父と同じなのであれば、御子は御父の栄誉ある御名を相続するということです。それは、御子が、御父に対してと同じ敬意を受けるべきお方であるということでもあります。それが、御子が御名を相続されたということの意味です。

しかし4-6節にはもう一つの重要な内容があります。それは、任命された使命を果たされた御子が、その達成を御父によって賞賛されているという事実です。4節は単に御子が御使いより優れていると言っているだけではなく、御使いよりもまさるものになられたと言っているのです。これは、前の箇所で御子が御業を達成され、栄誉を受けられたということと関係しています。「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」これは、キリストの「仲保者的王権」の明確な宣言です。言い換えるならば、御子イエス・キリストは新しい称号を受けられたのです。それは、贖われた人たちの「仲保者なる王」としての称号です。そして御父なる神は、この御子の完成された御業の究極の報酬を受け入れられたのです。神は御子にこう言われています。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」それでは、なぜ神様は「きょう、わたしがあなたを生んだ」と言われているのでしょうか。これは神様が御子の仲保者としての御業を最終的に承認されているのだと思います。キリストがご自身の民の罪のためにいのちを捧げられた御業です。御子は、神に反抗した、「失われた」人々を、彼らが拒否した神様のところに連れ戻されたのです。この御子の御業を御父は完全に賞賛されたのです。御子は、御父の御名を与えられるのにふさわしいものであるということが完全に示されたのです。そして御父は御子をご自身の右の座につかせることで、そのことを宣言しています。使徒パウロは同じような内容を使徒13:32-33で述べています。「私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。」ここでパウロは、御父はイエス様を死者の中からよみがえらせたことで、キリストの贖い主としての御業を完全に承認されることを宣言されたということを説明しています。御父は、イエス様が神の御子と呼ばれる権利を承認されたのです。御子イエスキリストは、「御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、御使いよりもまさるものとなられた」のです。  

 2)御使いによる礼拝

御子が御使いより優れている二つ目の点は、礼拝に関することです。聖書は、神のみが礼拝されるに値するお方であると主張しています。だからこそ、偶像礼拝は堅く禁止されているのです。神様のみが、神の被造物からの礼拝をお受けになるのです。新約聖書の最後の書の最後の章である黙示録22:8-9でヨハネはこう言います。「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」」神の被造物は礼拝されるべき存在ではありません。そして、ヘブル書は独特にこう言います。「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」御子は礼拝されるにふさわしい方であり、人間によって礼拝されるだけでなく、偉大な神の御使いによってすら礼拝されるというのです。 ヘブル書1:6にこう書いてあります。神様は「長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』それは、イエス・キリストがお生まれになった夜に、ベツレヘムの近くの羊飼いたちに現れた主の御使いがしたことです。(ルカ2:9—10)「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』・・・すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。 『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」この長子とは、受肉された神の御子です。最初にこの世界に人間の身体を持ってお生まれになった時にすでに、御子は神の御使いの賛美と礼拝をお受けになるのにふさわしいお方だったのです。そしてもし御子が御使いによって礼拝されるのにふさわしいお方であるなら、受肉された神の御子は、どれほどすべて人間から礼拝されるのにふさわしいお方なのでしょうか。   

 3)主権者としての権威

御子が御使いより優れている3つ目の点は、7-8節にある、その主権的な権威です。「また御使いについては、『神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが、御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。』」この箇所で最初に気がつくのは、御使いが、彼らをお造りになった神から独立して業を行う権威がないということです。神の御使いは、力強い神の代理人ではあっても、神に仕える者に過ぎないのです。7節のイメージは、力強い風や雷かもしれませんが、この風や「炎」のような雷は、神の絶対的な支配の下にあるのです。しかし、御子はすべての神の被造物を支配する権威を持っておられます。御子は永遠の王座に着かれ、天と地をその主権的な権威を持って支配し、裁き主なる神として正義を執行されるのです。言い換えると、御子は御父と同じように、御使いに指示を与える権威があるのです。御使いは御父に仕えるように、御子にも仕えるのです。

8—9節のことばは詩篇45篇から引用されています。この詩篇がもともと永遠の王としての神の栄光を賛美しましたが、ここでその詩篇が御子なるイエス・キリストに適用されているのです。「神よ。あなたの御座は世々限りなく」という御言葉は、「御子について」書かれていると言っているのです。すなわち、御子は「神」と呼ばれています。9節の「あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」という言葉は「神の御子」についての言葉です。永遠の王座についておられる御子が、油を注がれ、メシヤとして神によって高く上げられているのです。意外にも、「神」と呼ばれる御子は「神」と言う御父によって高く上げられています。しかし、ユダヤ教はもともと一神論の宗教であり、複数の神々の存在を認めません。このへブル人への手紙の箇所は、その昔からの謎を解決する方法を示しています。この箇所は、御子と御父は二つの区別される位格でありながら、神としての栄光と御力を持っておられると言っているのです。ですから、三位一体と言う教理はこの箇所によって示されているのです。御子キリストは智識、義、きよさ、や力において、父なる神と全く同じ性質であられます。御使いよりも優れておられるお方なのです。

 4)永遠の造り主

10-12節ではヘブル書は御子が御使いよりもまさっている4つ目の点を述べています。それは、御子が永遠の造り主であるという点です。御使いは神の被造物の一部です。御使いにも最初に創造された瞬間があったように、もし神様がそうされるなら、彼らには終わりもあるのです。しかし御子ご自身には始まりも終わりもありません。実際、ヘブル書は御子についてこう言います。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。」この詩篇102篇は「エホバ」とか「ヤハウェ」とも呼ばれるヘブル語の「主」の個人的な御名を用いています。しかし、ヘブル書はこの詩篇の箇所を、神の御子イエス・キリストにあてはめているのです。御子が神の創造の前から存在されたように、御子は万物の終わりにも存在されます。「[天と地]は滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」創造主が被造物より優れているのと同様に、御子は御使いよりも優れているのです。     

 5)約束された勝利

御子が御使いよりもはるかにまさっている5つ目の点は、御父が御子の故に約束された、最終的にかつ絶対的な勝利です。この約束は13節に記されています。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』」御子は仲保者として、贖い主としての御業を全て完了されました。そして御子は神の子として人間や御使いから礼拝されるにふさわしいお方であることを御父から再び承認されました。天と地を支配する主権者として承認されたのです。そして御子は天と地とその中の全てのものの永遠の創造主であることが紹介されました。そして今やこの御子は仲保者なる王としてご自身の永遠の王座についておられ、御父が御子の全ての敵を御子の支配の下に置かれることを約束されているのです。神はこのような約束を、御使いなど御子以外の何者とも、結ばれませんでした。そしていま、御父は愛する御子との約束を成就されているのです。徐々にではありますが確かに、神はキリストの敵をキリストのもとに連れてこられ、キリストの支配を認識させています。御使いは、主なる神がその約束を御子に対して果たされる際の手段の一つに過ぎません。一方で御使いは、まずこの世界でキリストの敵たちに打ち勝ち、そして救いを受け継ぐ者たちに仕えることで、神に仕えているのです。このキリストの敵たちのうち、いくらかは、救いを受け継ぐ者たちの中に加えられるかもしれないのです。       

 III. CONCLUSION

それでは、今日の聖書個所から、神の永遠の御子なるキリスト・イエスのご栄光について学んで来ました。でも、今日学び得たことをどのように自分の日々の生活に摘要することができるのでしょうか。次の二つのことを心に留めてください。まず、第一に、全能の神様が今や、あらゆる手段を用いて、愛する御子に対する約束を成就しておられるということです。神様は、ご自分の御子のすべての敵を打ち勝って、キリストに服従するようにしてくださいます。今日、回りを見ると、すべてのものを既に主キリストに服従させられたことを見ません。しかし、神様は常にこの目的を達成するために活発的に働いておられます。神様は御子に対して約束されたことを必ず成就されます。私たちは見ることができないかもしれませんが、神の御使いもいまだに働いています。14節にあるように、「御使いはみな、救いの相続者となる人々に仕える」からです。神は「御霊の剣」と呼ばれる福音の単純なメッセージをお用いになって、かたくなな心を突き刺し、キリストの敵たちを従順な仕える者へと変えられるのです。私たちもまた、かつては御子の敵であったにもかかわらず、神様が私たちを御子に仕える者としてくださいました。ローマ5:10はこう言います。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」これが福音のメッセージです。これは人間にとって愚かで弱々しく見えるかもしれませんが、神様をこの福音をお用いになり、キリストの敵たちをその足台とされるのです。 今日の箇所は、私たちがこの堕落した世界の中で日々試練と向き合う中で、もう一つのすばらしい励ましを与えてくれます。それは、私たちを愛してくださり、ご自身を捧げてくださったお方が、私たちの救いを保証するために全ての必要なことを成し遂げてくださったということです。神は御子に完全な勝利を約束されました。そして御子は、彼に仕えるものはその同じ勝利にあずかることができると約束してくださったのです。御子の御業は完了し、御子は「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」ています。それは、御子が私たちのために来てくだったすべてのことを成し遂げてくださったからです。御子は私たちの罪のきよめを与えてくださいました。キリストの完成した御業を通して、私たちはかつて遠くはなれていたにもかかわらず、ふたたび神の御そばに連れてきていただいたのです。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ1:13-14)」だからこそ、自信と喜びと希望とを持ち、私たちのわざが主にあってむだにはならないことを確信して御子に仕えましょう。

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