真理にあって一致するように

KASUMIGAOKA 2017/02/12
SERMON:「真理にあって一致するように」 “United in the Truth”

TEXT: 1 John 1:5-10

I. INTRODUCTION:私たちの交わりの基礎
先週私は、私たちが分裂した世界に生きていると申し上げました。はるか昔、使徒パウロは宗教的な問いで分裂をしていた人々に対して手紙を書き送りました。ガラテヤ書5:15でパウロは「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」と言っています。また19節で罪深い「肉の行ない」として「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」を挙げています。このような人間の間の分裂は、その裏の原因を解決することなしには解決することができません。聖書はその原因を私たちの罪であると言います。私たちの罪が、人々の間に壁を生み出し、分裂した社会を作るのです。そして罪は人間と神様との間にも壁を作ります。しかし、それなのにヨハネは、3節で「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と書いているのです。

先週、ヨハネが、人間がどのようにして(父なる)神との交わりに入ることができると言っているかについて考えました。そのためには、まず神様ご自身のことを個人的に知る必要があります。神様と個人的に会うことによってヨハネは変えられました。ヨハネ3章で「新しく生まれる」と言われていることをヨハネは経験したのです。神様との交わりに入るためには、個人的な心の変化が必要です。ある人達は、信仰にとって最も重要なのは「個人的な経験」であると考えます。その信仰の対象が正しくなくてもです。しかしそれはクリスチャンの信仰ではありません。このような心理的な経験が神様との交わりに私たちを導くことはできません。ヨハネの信仰は実際の人間であったイエス・キリストによっていました。ですから私たちもそうあるべきです。イエス・キリストが人間と神様の間の仕切りを取り去られたので、彼こそ人間同士の分裂を解決してくださる方なのです。

II. THE PROOF OF OUR FELLOWSHIP 私たちの交わりの証拠
 今日はヨハネが1章の5-10節で言っていることについて考えたいと思います。5-7節でヨハネは、神との交わりにいると言っている人が正しいかどうかを、どのように判断できるかについて述べています。そして8-10節でヨハネは私たちに、自分たちの 神様との関係性について正直でいるようにと求めています。まず5-7節を見てみましょう。
 

キリスト教会の一番初めの段階から、教会のリーダーたちにとって、自分はイエス・キリストに従っていると言う人を注意深く審査することは不可欠でした。使徒の働き20:29-31では、エペソの教会に対して、自己中心的な理由で教会に入ろうとする「にせクリスチャン」についての警告があります。使徒パウロは「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。」と語っています。それでは、教会はどのようにイエス・キリストを真実に信じる者を見分けるのでしょうか。私たちは人間の目で神を見ることはできず、また他の人の心のうちを見ることもできません。この理由で、ある人は「信仰告白」のことばを正しく言える人はだれでもキリストの教会の交わりに受け入れられるべきだと考えます。確かに正しい信仰告白は重要ですが、言葉だけではその人が神との真実な交わりの中にいることを示すのに充分ではありません。それでは教会の長老たちは、どのように嘘をつく人を教会の交わりに入れることを防ぐために「用心する」ことができるのでしょうか。5-7節でヨハネは、その人の信仰告白が正しいかどうかを「テストする」方法を示しています。6節でヨハネは、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」と言っています。キリスト教会は、個人が神との交わりを持っているという主張の確証(または証拠)を求めなければなりません。5説によると、イエス様は「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」というメッセージを弟子たちに語りました。それゆえに、「神が光である」から、真のクリスチャンは常にその光の中を歩みたいと願うはずです。ご存知でしょうが、蛾のような昆虫は光に引き寄せられますが、他の虫、例えばゴキブリなどは光が点くとそこから逃げてしまいます。イエス様はヨハネ3:20で、「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」とおっしゃいました。神を知り、神を愛する人は神の光のほうに来るのです。その人は神の光のもとで隠れることなく生きることを望みます。しかし神を知らなかったり、神に従うことを望まない人は暗やみの中で生きることを望むのです。

ここで問いたいのは「『神は光である』とはどういう意味か」ということです。「光」は聖書でたびたびメタファーとして登場します。そして光は様々な観念をあらわすのに用いられます。それでは今日の箇所でヨハネは光のメタファーをどのように用いているのでしょうか。この箇所でヨハネは「真理」が光のようなものであると言っています。真理はこの世界が本当はどのようなものであるかをあらわします。人間が作り上げたり捩じ曲げたりするイメージとは違います。光はこの世の現実をあらわすものです。
私たちはこの分裂した世界に生きるとき、それぞれの部分や集団は真理の「一部分」を示すにすぎないことが多く、また自分自身の立場を高めるために真理を「曲げる」こともあります。ヨハネはこのような、ゆがめられた、もしくは部分的な「真理」を別の名前で呼びます。ヨハネはこのことを「やみ」と呼んでいます。神様にはこのようなやみはありません。神様は真理であり、すべての真理、真理のみです。もしあなたが神様との交わりの中にいると言いながら、まだ暗やみの中を歩んでいるなら、あなたは偽りを言っており、真理を言ってはいません。例えば、特定の政党に属することは必ずしも悪いことではないかもしれませんが、クリスチャンであるなら、神様と真理をその政党よりも優先させるべきです。神が光の中におられるから、あなたもその光の中を歩まなければならないのです。部分的な、ゆがめられた真理だけを語るのではなく、本当の真理を語らなければならないのです。
「光の中を歩む」とは、真理に従って生きるということです。聖書では「真理」は私たちの生き方を導くものです。真理は私たちが単に知っているだけでなく、私たちの日々の生活の中に適用されるべき知識です。私たちの行動や決定を導く知識です。詩篇の119:105で詩篇記者が述べているとおりです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」そしてイエス様もこう言われました。「わたしは、 世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)」神の御言葉、聖書は私たちを導く「光」を与えてくれます。イエス様に従えば、真理を知ることができ、この暗やみの世界を生きるときにもつまずくことはありません。イエス様が私たちを全ての真理に導いてくださるのです。神との交わりの中にいる者は、「神が光の中におられるように、光の中を歩み」、そして「互いに交わりを保つ」のです。(7節)
これがヨハネの言う、真のクリスチャンを見極める「テスト」です。真のクリスチャン世界の意見は、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私た、このや基準ではなく、神の御言葉という真理にもとづいて生きるはずです。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであってちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」クリスチャンにとって、光の中を歩むことは特権であると同時に、「義務」でもあるのです。キリストの教会の一員は、真理と過ちを区別し、光の中を歩んでいる者とそうでない者を見極める義務があります。神様が私たちに、神のみ言葉によって生きる、「光の中を歩む」者と交わりを持つように召されています。この基準に従うことを拒むものは、やみの中を歩んでいるのです。やみの中を歩むものはイエス・キリストの教会の交わりの中には属しません。パウロがコリントの教会に書き送ったとおりです。「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」(Iコリント5:11)またパウロはこうも書いています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(IIコリント6:14)これは、キリストの教会が、「神のみ言葉の光」からはぐれてしまった者たちに忠告し、正すことに励まなければならない理由です。聖書はクリスチャンたちにとって「信仰と生活の唯一の基準」です。私たちは互いにこの光によって歩むことを励まし合わなければなりません。なぜならこうあるからです。「聖書はすべて、 神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(IIテモテ3:16-17)」もし罪を悔い改めることを拒み、神様のみ言葉を聞くことを拒むなら、神の民の交わりにとどまることはできません。神様は光であり、ご自分の民に光を与えてくださいます。神の光によって歩むなら、神と神の民との交わりを保つことができます。
5-7節では、ヨハネは私たちに、神と他のクリスチャンとの交わりについて、自信を持つことができることを教えてくれています。私たちの自信の基礎は、神の光の中を歩み、聖書の御言葉によって生きる中でキリストに従うことです。そして続く3節では、私たちが自分を欺くことの危険についての警告をヨハネは与えています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」

人が罪について自らを欺くのには、主に二つの理由があります。まず第一に、ある人々は罪が何であるのが本当に理解していません。ウエストミンスター小教理問答には、「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、または、これを犯すことである」と書いてあります。ヨハネ自身も、Iヨハネ3:4で「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」と言っています。多くの人は、神の命令のうちで一番大切なものを忘れています。律法学者はかつてイエス様に聞きました。「すべての命令の中で、 どれが一番たいせつですか。」 イエス様はこう答えました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」罪は、殺人や銀行強盗など、なにかとんでもないことをすることだけではありません。人はこの「いちばん大切な」命令に気をとめないとき、罪を犯し、神の律法を犯しているのです。あなたは神をあなたの存在の100%をかけて愛しているでしょうか。あなたは周りの人々を自分自身を愛するように愛しているでしょうか。私はそれができていません。つまり、私はその段階で律法を破っており、他の律法に完全に従うことができたとしても(そしてそれは不可能ですが)、私は罪人なのです。私たちはみな神の律法を破っており、私たちはみな罪を犯しているのです。イザヤが言っているとおりです。(イザヤ59:2)「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」だれも、神と自分を隔てる罪をなんとかしない限り、自分が神と「良い関係」にいるなどと思ってはなりません。まず自らの罪を認識し、自らを欺かないようにしましょう。

人々が罪がないと言う2つめの理由は、彼らが自分たちの罪という悪い行為を、何かの良い行為によって帳消しにできると考える点です。確かに、ある罪は他の罪よりもっと悪いですが、「小さな罪」は簡単に返済できるというのは正しくありません。罪に報いるためにはたった一つの方法しかありません。神様は、罪に対する適切な罰は死のみであるとおっしゃいます。ヘブル書9:22はこう語ります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」これは、祭壇で動物のいけにえの血を注ぎかけるような宗教的な儀式をあらわしているのではありません。ここで用いられているギリシャ語は「血を流す」という意味です。つまり、自分のいのちを流すということです。ローマ書6:23では使徒パウロは同じことをこのように言っています。「罪から来る報酬は死です。」私たちの罪の代価を支払うには、一つの方法しかありません。それは、死ぬことによるしかないのです。多くの人は、死という刑罰が課せられるほどの罪を自分が犯したと認めようとはしません。しかし、それが神の律法なのです。神の律法の要求は、神に罪を犯した者は死ななければならないということなのです。

私たちはみなこのことを真剣に受け止めて、自分を欺かないようにしなければなりません。遅かれ早かれ、私たちはみな自分の罪の代償を支払わなければなりません。だれかが代わりにその代価を払ってくれない限りです。聖書の良い知らせが語るのは、神様が既にその「誰か」を送ってくださり、その「誰か」が私たちの身代わりとして代価を支払ってくださったということです。ヨハネはこのことを7節で既に述べています。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」イエス・キリストは、私たちの罪の代価を払うために、ご自身の血を流してくださったのです。ヨハネが2:2でイエス様について「この方こそ、私たちの罪のための−−私たちの罪だけでなく、世全体のための−−なだめの供え物です。」と書いている通りです。神様は私たちに贖い主として、ご自身の御子であるイエス・キリストを送ってくださいました。しかしヨハネは私たちの罪についてさらに多くを語っています。
1:9では、ヨハネは罪を否定するかわりに「自分の罪を言い表」さないといけないと言っています。これが、イエス・キリストという贖いのいけにえに与ることができる唯一の方法です。これが、私たちの罪の刑罰の代価が代わりに支払われる唯一の方法なのです。これが、私たちを神様から隔てる障壁を取り除く唯一の方法なのです。ヨハネは9節で言います。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」私たちは神様と交わりができるほど、自分たちを清めることはできません。私たちは自分の功績によって罪の代価を払い、神の赦しを得ることはできません。神様が与えてくださる唯一の選択肢は、最も素晴らしい選択肢です。自分の罪を認識し、それを神に言い表し、イエス・キリストによる無償の救いを受け取る。もちろんこれが、御子なるイエス様との交わりがない限り、父なる神との交わりもありえないということの理由です。パウロはローマ書5:6で、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」と書いています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださ」いました(5:8)。イエス様が弟子たちに言われたとおりです。「「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに
来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

III. CONCLUSION 結論
 ヨハネの手紙1章の最後まで読んできましたが、私たちへの素晴らしい希望が述べられています。神との交わりが回復させられ、他の人々との交わりが新しくされるという希望です。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは他のクリスチャンと互いに交わりを保つのです。私たちは自分たちの罪を否定し、自らを擁護するなら、神様や人と和解することはできません。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、イエス様の御業によって私たちは赦されるのです。なんという良い知らせでしょうか! 感謝して祈りましょう。

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