KASUMIGAOKA
2017/11/12
SERMON: 「神の御子のご栄光」 “The Glory of God’s Son”
TEXT: Hebrews 1:1-3
I. INTRODUCTION イントロダクション
ヘブル人への手紙については、まだ答えの出ていない課題がたくさんあります。しかし、キリストの働きについての証言や、忠実なクリスチャンの生活についての力強い勧告など、この手紙の価値については疑いようがありません。この手紙自体は、誰が著者であるのかについて、ほとんど手がかりを与えてくれませんが、何人かの初代教会の指導者たちは、これが使徒パウロによるものだと考えました。3世紀のはじめには、カイザリアのオリゲネスが、ヘブル人への手紙の正典性をみとめつつ、「この手紙を書いた著者は、神様のみが知っている」と宣言しました。新約聖書の他のパウロ書簡と比べて、ヘブル人への手紙はとても上品で、洗練されたギリシャ語で書かれています。そして著者だけでなく、もともとの手紙の宛先についてもはっきりしていません。手紙のはじめに挨拶はありませんが、最後の章は、多くのパウロの書簡と同じような形で終わっています。個人的な要件や祈りの課題、挨拶があってから、最後に「恵みが、 あなたがたすべてとともにありますように。」という祝祷の言葉で終わります。
「ヘブル人への手紙」という題は、2世紀の終わりにテルトゥリアヌスによって初めて明確に言及されます。この題がつけられた理由を理解するのは簡単です。なぜなら、この手紙の中には、旧約聖書、ユダヤ人の儀式やいけにえ、そしてユダヤ人の祭司の役割についての言及が多くあるからです。しかし、この手紙が、ユダヤ人クリスチャンに対して特に書かれたのかどうかについてははっきりしません。なぜなら、この手紙はヘブル語やアラム語から翻訳されたわけではなく、もともときれいなギリシャ語で書かれたからです。さらに、旧約聖書の引用は全て、ギリシャ語の七十人訳聖書から取られています。そしていくつかの箇所では、ヘブル語の言葉やユダヤ人の習慣が、読者に対して翻訳されたり説明されたりしています(e.g. 7:2; 9:2,3)。つまり、この手紙を最初に受け取ったのは異邦人の教会だった可能性もあるのです。しかし、この手紙は、キリストの御国のために戦うことをあきらめてしまったり、「私たちの前に置かれている競走」(12:1)から脱落してしまうような思いに駆られるような、あらゆる背景のクリスチャンに対しての、励ましに満ちた手紙です。手紙の記者が13:22で書いているとおりです。「兄弟たち。 このような勧めのことばを受けてください。 私はただ手短に書きました。」この手紙は、クリスチャンたちがキリストへの信仰と忠誠を保ち、確固たる希望を持ち続けることを励まします。ヘブル人への手紙は、あらゆる世代の「疲れた、重荷を負っている(マタイ11:28)」クリスチャンたちに希望と励ましを与えてきました。このヘブル書の最初の章を通して、この手紙がどうして信じるものに希望を与えることができるかを考えていきましょう。
II. THE GLORY OF THE SON OF GOD (Whom we serve!) (私たちが仕える)御子の栄光
最初の福音の証言と同じく、この手紙もまた、神のひとり子である主イエス・キリストの独自の力と栄光について、絶対的な自信を持って語ります。使徒の証言の目的は、ヨハネがヨハネ20:31で書いているとおりです。「しかし、 これらのことが書かれたのは、 イエスが神の子キリストであることを、 あなたがたが信じるため、 また、 あなたがたが信じて、 イエスの御名によっていのちを得るためである。」これと同じように、ヘブル人への手紙も、御子の主権的な栄光という勝利に満ちた宣言から始まります。これが1章のメッセージです。もしかすると、イエスという名前が1章に出てこないのは意外かもしれません。しかし、これらの節で説明されている賛美にあてはまるお方は一人しかいません。そして、キリストの苦しみや死の言及がないことも、興味深い点です。3節で御子は「罪のきよめを成し遂げた」とあり、6節では神が「長子をこの世界にお送りになった」と書いてあります。しかし、この最初の章には、御子の栄光を暗くするような、キリストの「へりくだり」については、一切触れられていないのです。ヘブル書は御子の栄光を、3つの具体的な関係性で説明します。まず第一に、記者は御子の栄光を、神の最終的な人間への啓示の声であると宣言し、第二に、御子の栄光を「神の本質の完全な現れ」であるとし、第三に、御子の栄光が、神が造られた最も栄光に満ちた被造物である天の御使いよりも、どれだけ優れているかを語ります。これらの説明を順番に考えていきましょう。
A) 神の最終的な啓示の声
旧約聖書の預言者たちは、熱心なユダヤ教徒からとてもあがめられていました。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」と書いてあります。ここで言われている主な点は、単純に、はるか昔にエリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤといった預言者を通してイスラエルの民に語られた神が、400年ほどの長い沈黙の後に、再び語られたということです。そして「この終わりの時には、 御子によって、 私たちに語られました。」(1:2)国籍に関係なく、聴く耳を持っている者は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、誰でも、御子を通して語られた神の御言葉を聴くことができるのです。
はるか昔、旧約時代の預言者たちは、権威を持って、「神である主の御告げ」ということができました。しかし今や、神はご自身の御子を通して私たちに語られるのです。イエス様が語られたり、教えられたりした時、常に神の権威を持って語られたのです。イエス様は、旧約聖書の御言葉を破ることができない「成就すべき」神の御言葉だと言われました。例えば山上の説教では、イエス様は群衆にこう言われました。「『自分の隣人を愛し、 自分の敵を憎め』と言われたのを、 あなたがたは聞いています。しかし、 わたしはあなたがたに言います。 自分の敵を愛し、 迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43)」群衆は、「イエスが、権威ある者のように教えられたから、驚いた。」と書かれています(マタイ7:29)。旧約の預言者たちは、神の御霊がその時々に彼らに臨んだ時、神の言葉を語りました。しかし御子は常に神の言葉を語りました。なぜなら、神の御霊が彼の中に住み続けたからです。 御子の言葉は、「この時の終わりに」人間に対して神が語られた最後の啓示の言葉です。」とギリシャ語では書かれています。そしてかつて神様が預言者たちを通してみこころを「多くの部分に分け、 また、 いろいろな方法で」語られたのとは対象的に、今や神は、御子を通して、一つの一致した明確なメッセージをお語りになっています。この、「万物の相続者」であると宣言された御子は、世界の創造の前から御父なる神とともに働かれたお方です。この御子こそ、御父の最後の言葉を、今、私たちにもたらしてくださるお方なのです。
B) 神のご栄光が御子の性質によって完全に現れる
第二に、ヘブル書の記者は、御子が言葉によって御父のみこころを明らかにされただけでなく、神の栄光をご自身の肉体的な、そして霊的な存在を通して明らかにしてくださったのです。「御子は神の栄光の輝き」である。御子の言葉と行ないの両方が、インマヌエルという古い名前、すなわちヘブル語で「神が我らとともにおられる」という表現の意味を示しているのです。御子は人間の形を取られた「インマヌエル」なのです。ヘブル書は、御子が神の栄光を二つの方法で表していると言います。御子を通して、私たちは神の完全なご本質、そして神が万物を保持される力という栄光を見るのです。
3節はこう言います。「御子は神の栄光の輝き、 また神の本質の完全な現れである」私たちはここで、神が臨在される際の輝く「栄光」、つまり、はるか昔にシナイ山や幕屋でモーセが見た、そして荒野で民を導いた栄光のことを思い描くかもしれません。マタイ17の記事によると、それと同じ栄光は、3人の弟子たちの前でイエス様が「変貌」されたときに、御子によって彼らに示されています。マタイ17:2ではこう書かれています。「そして彼らの目の前で、 御姿が変わり、 御顔は太陽のように輝き、 御衣は光のように白くなった。」しかし、御子が神の栄光をあらわされる時の通常の手段は、明るい「輝く光」ではありませんでした。ヨハネは、御子が日常生活の中で示された栄光について、ヨハネ1:14でこう説明しています。「ことばは人となって、 私たちの間に住まわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 この方は恵みとまことに満ちておられた。」御子は神の栄光を、「恵みとまこと」に満ちた人間としての人生という手段を通して示されたのです。この言葉によって、ヨハネはイエス様と、シナイ山でモーセの前にお現れになった主なる神とを同一視しています。モーセが神様に出エジプト記33:18で「どうか、 あなたの栄光を私に見せてください。」と言ったとき、神様は次のようにご自身を明らかにされました。「【主】は彼の前を通り過ぎるとき、 宣言された。 「【主】、 【主】は、 あわれみ深く、 情け深い神、 怒るのにおそく、 恵みとまことに富」んでいる(出エジプト34:6)。神の栄光はイエス様の働きの中で、豊かな「恵みとまこと」という形で示されたのです。だからこそ、「御子は神の栄光の輝き、 また神の本質の完全な現れである」のです。
しかし、ヘブル書はさらに御子は神の力を表すとも言います。御子は、「その力あるみことばによって万物を保っておられます。」創世記1:1はこう言います。「初めに、 神が天と地を創造した。」神は単に言葉を発せられ、それがその通りになったのです。ヨハネの福音書1:1-3には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と書かれています。言い換えれば、御子は神様の言葉です。こういうわけで、ヘブル書は、神は「御子によって世界を造られました。」と言っているのです。そして3節では、御子の「力あるみことば」が万物を保っていると言われます。言い換えるならば、天と地の全てのものが、絶対的な御子の主権的な力によっているのです。毎日、すべてのものは、御子の許可があるからこそ、その通りに存在しているのです。もし御子がそう願われるとしたら、この世界は今この瞬間に終わるでしょう。御子の力あるみことばによって、私たちは生き、一回一回の呼吸をすることができるのです。コロサイ1:16-17で使徒パウロはこう書きます。「なぜなら、 万物は御子にあって造られたからです。 天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの、 王座も主権も支配も権威も、 すべて御子によって造られたのです。 万物は、 御子によって造られ、 御子のために造られたのです。 御子は、 万物よりも先に存在し、 万物は御子にあって成り立っています。」御子は神の栄光の完全さを、万物を保つその力あるみことばによって示しておられるのです。
C)御子のご栄光は、神の御使いの栄光をはるかにまさるものです
第三に、ヘブル書の記者は、御子の栄光を、神がお造りになった被造物の中で最も栄光に満ちている天の御使いと比較することで証言しています。しかし今日はあまり時間が残っていないので、この点は次週に残しておきたいと思います。
III. CONCLUSION 結論
それでは、神のこの世界への最後のメッセージを携えておられる、この「御子」とは誰でしょうか。神の完全な本質の現れであり、神の主権に満ちた御業を示し、全能の創造主なる神ご自身と同じ力をお持ちになる、この御子とは誰でしょうか。御子の「イエス」という名前は、ヘブル書の2章になるまで登場しません。ヘブル書の記者は、まず私たちに、神の永遠の御子の偉大さと栄光を握って欲しいと願っているのです。御子のご栄光を認識するのなら、その時、その記者は私たちに、その栄光に満ちた御子とは誰なのかを語るのです。もちろん、クリスチャンは既に、このすばらしい御子がイエス様であることを知っています。神のことばが、「人となって、 私たちの間に住まわれた」のです。ペテロは、イエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と言った時、真実を告白したのです。
ヘブル書がこのように始まっているのは、かつてペテロが陥った罠に、イエス・キリストの御名を信じる私たちが陥らないようにするためにだと思います。ペテロはこの信仰の告白を御子イエス・キリストにした直後、主の御言葉をいさめはじめました。ペテロと同じ過ちをしないようにしましょう。私たちは、イエス様が本当に、私たちの救い主なるキリストで、ただ一人の神の御子であり、力、輝き、知恵、聖さにおいて完全であることを理解しなければなりません。イエス様は、その御言葉が全く確実である、神の御子なのです。誰もイエス様に反対することはできません。イエス様は、人間の偉大な敵であるサタンを踏み砕き、従う者の救いを確実にする偉大な勝利を勝ち取ってくださったのです。
もしヘブル書がはっきり言うように、ナザレのイエスが本当に御子であるなら、皆さんは何をしなければいけないでしょうか。ふさわしい応答は一つだけです。イエス様を礼拝しなければならないのです。そのために私たちは今日ここに集まっているのではないでしょうか。私たちは、神がお命じになったとおり、聖なる日に集まり、父、御子、御霊なる生ける神を礼拝しているのです。だからこそ、イエス様に仕えなければならないのです。今日神を礼拝することで、私たちは、力を尽くして、思いを尽くして、残りの一週間イエス様に仕えるために、自分たちの心が整えられるのです。そして、生ける神の御子を礼拝し、御子に仕えることで、私たちは永遠に神様を喜ぶことを学んでいくのです。私たちは御子との交わりや御子からの守りという祝福を楽しむのです。私たちは、「疲れ、重荷を負っている」とき、御子のところに来て、御子は私たちに魂の安息を与えてくださるのです。御子は私たちを、ご自身の民、「まきばの羊」としてくださるのです。そして御子は永遠に私たちを守り、私たちの必要を満たしてくださるのです。これが、ヘブル書の与える慰めと励ましです。「罪のきよめを成し遂げて、 すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」だから、「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の前に、ひざまずこう。主は、私たちの神、私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」(Psa.95:6-7a)からです。