モーセよりも優れた救い主

KASUMIGAOKA  
2017/12/03 
SERMON: “A Savior Greater Than Moses” 「モーセよりも優れた救い主」  
TEXT: Hebrews 3:1-6

I. INTRODUCTION:Think About Jesus!

ヘブル人への手紙は、クリスチャンたちが神への信仰にとどまるように繰り返し励ましを与えます。はるか昔の信徒たちも今日と同じように、神の御国で生きていくことを諦めさせるような妨げや誘惑に直面していました。だからこそ、ヘブル書の記者は3:6で、クリスチャンたちは、「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続け」なければならない、と言った忠告を繰り返し書いているのです。ヘブル2:1で記者は、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」と言います。「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」(2:3)という理由があるからです。クリスチャンたちは、自分たちの前の道が荒れた、けわしいものであり、落胆させるようなものであったとしても、信仰を保ち続けないといけないのです。「もっと簡単な道があるだろう」と思うかも知れません。そして、実際にそういう道は存在します。しかし、その道は私たちが望む場所に連れて行ってはくれません。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)キリストが私たちに歩むように召される人生は、困難で、大変な時もあります。しかし、諦めてはいけません。ヘブル書は、どのようにして私たちが信仰によってこの堕落した世界の中で生きていくことができるかについて、示します。積極的な励ましと、避けるべきものについての警告の両方が与えられているのです。3章の1-6説は、積極的な励ましが含まれています。この励ましについて、詳しく見ていきましょう。

II. ENCOURAGEMENTS TO PERSEVERE IN FAITH 信仰を保つ 上での励まし   

 A. イエス様のことを考える  (Set Your Mind on Jesus!)

これらの励ましのうち最初のものは、3:1にあります。これは、本当に最も大きな励ましなのです。ここでは、イエス様のことを考えるように言われています。私たちはしばしば、自分の注意をこの世のことがら、つまり自分の健康や容姿、家族や仕事などに向けてしまいがちです。そしてこれらのことを考える時、私たちは自分の成功に誇りを持ったり、失敗に落胆したりします。ヘブル書はこう言います。「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」イエス様について考えることで、私たちは励ましを与えられるはずです。イエス様は、父なる神が私たちを導くために与えてくださった「使徒」でした。父なる神は御子イエスを通してお語りになったのです。そしてイエス様は私たちを代表してくださる「大祭司」です。イエス様は神と人間との間の唯一の仲保者なのです。イエス様は私たちのために御父にとりなしてくださり、私たちの罪を贖うことができる唯一のいけにえを捧げてくださったのです。神様が私たちに与えてくださったこの救い主のことを考えましょう。使徒パウロも同じ助言をコロサイ3:1-3で与えています。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

イエス様ご自身も弟子たちにこう教えられました。「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(マタイ6:20)「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)イエス様がここで言われているのは、どのような宝のことでしょうか。それは、多くの人たちが求めるような金や銀や裕福な生活ではありません。これらのものを天国に持っていくことはできないのです。そして、地上に生きているうちにも、そのような宝を失ってしまって挫折した人たちが多いのです。クリスチャンとして私たちが持っている宝とは、永遠の命、永遠の喜び、そして神との平和という希望です。私たちの宝は、天の父の右に座しておられるキリストご自身の中にあるのです。「天からの召し」を受けた私たちは、私達自身のことではなく、イエス様のことをもっと考えないといけないのです。私たちの周りの人達が求めている富や楽しみではなく、キリストにあって天で私たちのために蓄えている希望について、私たちはもっと考えないといけないのです。このことは、「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司である」キリストへの信仰を励まします。イエス様のことに心を留めることで、信仰を保つことが励まされるのです。ヘブル書12:1-3にはこう書いてあります。「私たちも、いっさいの重荷と、まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」もし私たちがイエス様のことに注意を払い、高く上げられたイエス様の栄光と力を考えるならば、イエス様に仕える私たちは信仰生活に進歩するように励まされるのです。

B. イエス様の御父への忠実  Jesus’ Faithfulness to His Heavenly Father

ヘブル書は励ましについての二つ目の理由を2-4節で示します。「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです」と言っています。このことがなぜ、私たちがキリストに仕えることを保ち続ける励ましになるのでしょうか。神様がモーセとイエス様の働きをどのように祝福されたかを考えると、このことが理解できます。ヘブル書はイエス様と、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を連れ出し、イスラエルの国としての創立を導いた偉大な預言者であるモーセとを比較しています。モーセは神様に忠実であったため、主なる神様はモーセを祝福され、成功を与えられました。そしてモーセが神の家全体に忠実であったように、イエス様もまたご自身を任命された方に忠実だったのです。もちろん、モーセは彼が導いた民に対しても忠実でしたが、モーセは主なる神に忠実であったからこそ、偉大なことを成し遂げることができたのです。このことも私たちは覚えなければありません。モーセが忠実であったからこそ、イスラエルの民は奴隷状態から開放され、安全に約束の地へとやがて導かれたのです。神様はご自身に忠実な者たちを祝福されます。モーセが、彼を召された主に忠実だったからこそ、主はモーセに従った者たちにも祝福を与えられたのです。モーセを通して、神の祝福が民にも与えられたのです。2節にも5節にもモーセの忠実性のことが書かれていますが、日本語の訳によると「神の家全体のために忠実であった」と書いてあります。それもそうですが、原語によれば、「モーセは神の家全体において忠実であった」という意味です。イスラエルのために忠実であったのではなく、イスラエルという民の一人として忠実であったと原語で言っています。つまり、モーセはイスラエル人の代表者と見なされたので彼の忠実性のゆえにその民全体は祝福されたという意味だと思います。 それではモーセはどのように神の家全体に忠実だったのでしょうか。モーセが神に対してどれほど忠実であったかは、2つの事実によって示されています。まず第一に、モーセが若い時代に、難しい選択をしたことから、彼の神に対する忠実が分かります。モーセはアブラハムの子孫でしたが、エジプトの王家で育てられ、教育を受けました。成長したモーセは、神の民とともに歩む貧しい人生を送るのか、それともエジプトの王家の一員として、裕福で特権に満ちた人生を楽しむのかという選択を迫られました。その時モーセは神に仕え、イスラエルの民に加わることを選択したのです。ヘブル11:25-27はモーセについてこう言います。彼は「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」モーセは、王宮の楽しみや富を諦めてでも、主なる神に従うことを選んだのです。このことは、モーセの神への深い信仰と、神への忠実のための「代償」を示します。しかしモーセは正しい選択をしました。神の家族に属することを選んだのです。

モーセの神に対する忠実はもう一つの事実によって示されています。この二番目のことは、非常に難しい状況の中でも、モーセは神に長い間従いぬいたということです。モーセの人生にとって最も困難な出来事は、彼が80歳になってから始まりました。そしてモーセの生涯の最後の40年は、肉体的な、そして霊的な大きな試練のときでした。この時期、モーセは荒野で過ごし、頑固で文句ばかりいう「神の民」を導いていたのです。もしモーセが信仰を保てなかったとしたら、神の約束の地に誰も無事にたどりつけなかったでしょう。しかしモーセは忠実でした。多くの困難な経験をしながらも、神の命令のとおりに民を導いたのです。民は飢え乾き、野の獣や敵の軍隊に直面しました。このような困難な状況はイスラエルの民の良い土地での新しい人生の希望を捨てさせるように誘惑したのです。彼らはしばしば諦めて、かつてのエジプトでの生活に戻ることを望みました。しかしモーセは神様に注目し続けました。そしてモーセは神様と神に与えられた約束に注目し続けていたからこそ、荒野で民と向き合うという日々の困難や苦難に耐えることができたのです。そしてモーセは神に忠実だったからこそ、神は民を旅の終わりに約束の地の「安息」へとやがて導かれました。神様がどのようにご自身の約束を成就されたかについては、ヘブル書の3章と4章でさらに詳しく学びます。モーセが主に忠実だったからこそ、神様はイエスラエルの民を気にかけてくださったのです。しかし、今日の箇所の中心点は、モーセや過去のイスラエルの民についてではありません。

 今日の箇所の中心は、イエス様がご自身の民のための忠実な救い主であったという点です。かつてモーセが主の民を自由へと導いたようにです。しかしイエス様はモーセよりもさらに偉大な栄誉にふさわしいお方です。その理由が2つあります。まず第一に、イエス様は神の家を建てる者として神に忠実でしたが、モーセは神の家の一員として神に忠実だったのです。「家」というギリシャ語は、「建物」という意味と、そこに住む人という意味の両方があります。つまり「家」という言葉には「家族」という意味があるのです。モーセは「神の家」、つまり「イスラエルの家、もしくは家族」の一員として神に忠実でした。しかしイエス様はご自身の家を建てる者として、天の父なる神様に忠実だったのです。イエス様がペテロに対してマタイ16:18で言われているとおりです。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」賢い建築家として、イエス様はご自身の教会について注意深く計画されます。教会を建てる場所をお選びになり、建てる材料を集められます。そして堅い基礎をすえて、その「建物」の全ての要素をデザインされるのです。どのような家も、そしてどのような教会も、自分たちで勝手にたつことはできません。イエス様が神の家を建て上げるのです。家を建てる者が、注意深く一つ一つの石を、壁の正しい場所に置くように、イエス様はそれぞれの人を、「生ける石」として教会の中でその人のために用意された場所へと置かれるのです。キリスト・イエスがお建てになる「家」について説明している次の箇所を心に蓄えておきましょう。(エペソ2:22)「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(Iテモテ3:15b)「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」キリストが建てておられる教会は何と素晴らしいものでしょう。

でも、皆さん、主の教会をどう思うでしょう。クリスチャンとしてキリストが建てられている教会を批判したことがあるでしょうか。私自身はしたことがあります。教会は大きな混乱の中にあります。多くの異なる教派があり、教会は分裂し、とても弱いように見えます。これらの教会は、クリスチャンがどのような生き方をし、何を信じるかについて、異なる意見を持っています。そしてキリストの教会は、教養があり、賢いと言われる人達によって見下され、嘲られたりすることもあります。もし私たちが、教会は単なる人間の社会的な発明の一つだと考えるなら、このようなことによる落胆を避けることは難しいでしょう。しかしヘブル書が私たちに語るのは、教会は人間によって建てられるのではなく、神によって建てられるということです。主イエスがご自身の教会を建て上げられるのです。もしイエス様が教会を建て上げてくださるなら、彼の教会は滅びることはありません。イエス様はご自身の教会を強くし、栄光に満たして下さいます。なぜなら、教会は聖霊のみ住まいだからです。この事実は、疲れて落胆したクリスチャンたちに、大きな励ましを与えるのです。キリストはご自身の栄光を表すために、教会をこの世界に建ててくださっています。そして私たちはキリストの完全なデザインに基づいて、ともに建て上げられる、「生ける石」なのです。だからこそ、私たちは落胆するべきではありません。

5-6節で、ヘブル書は、なぜイエス様がモーセにまさる栄誉にふさわしいのかの2つめの理由を語っています。モーセは神の家の「忠実なしもべ」でしたが、イエス様はご自身の家の主人なのです。御子は家のしもべよりもはるかにまさる権威と力を持っています。御子なるイエス様は、天の父の完全な代理であり、神のみが成し遂げられる御業を全うされました。イエス様は私たちの罪の贖いをしてくださることで、ご自身の民を贖い出してくださるのです。「モーセは、しもべとして神の家全体において忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。」当時モーセが主に忠実に仕えるなかで、彼は神が将来のご自身の民のためにどのように贖いを完成してくださるかを預言しました。モーセは忠実に神の言葉を自分の世代に宣言し、忠実にイスラエルをエジプトから連れ出し、荒野を通して民を約束の地に導きました。しかしモーセは自分の民を贖うことはできなかったのです。モーセは神の律法を石の板に書くことはできましたが、その律法を民の心に書き記すことはできなかったのです。キリストのみがそのことを成し遂げられるのです。神は預言者エレミヤを通してこうおっしゃいました。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。−−【主】の御告げ−−わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)キリストはこの新しい契約の仲保者なのです。キリストは神の家の贖いを全うされたのです。だからこそ、へブル書は「キリストは御子として神の家を忠実に治められる」と言っています。

神の家は御子のものなのです。御子は御父が持つすべてのものの相続者です。もちろん、御子はご自身の家を気にかけられます。そしてもちろん、御子はご自身の家を守り、整え、美しくします。なぜなら家はその持ち主とそこに住む者の性質を反映するからです。御父の右に座しておられる神の御子なるキリストは、ご自身の栄光を世に示すためにご自身の教会をお建てになるのです。御子が建てられる教会は永遠に続き、そこにご自身の栄光が現われるのです。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」このことこそが、私たちが信仰を保つための大きな励ましです。

III. CONCLUSION  結論

今日のメッセージの内容は簡単に覚えることができるでしょう。まず第一に、この世界やその中の富という、過ぎ去っていく楽しみではなく、イエス様のことを考えましょう。もし皆さんがそうすれば、からみつく罪を捨て、クリスチャンとしての信仰や従順を保つ大きな励ましを見出すことができます。第二に、モーセの例と、それよりもはるかにまさるイエス様の御業を覚えましょう。彼らは主に忠実で、主は彼らに導かれた者たちを祝福されました。もし皆さんが御子なるイエス様に従うなら、主はこの世界の困難の中であなたを助け出されます。なぜなら、イエス様ご自身が絶対的に忠実なお方だからです。イエス様は神の家、すなわち教会を建て上げるお方です。そしてイエス様はその神の家の主人、すなわちその御子なのです。もしあなたがたが、イエス様に頼り、確信と希望とを、「終わりまでしっかりと持ち続けるならば」、あなたがたも、主の栄光を満たされる神の家なのです。

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