全うされた人々

KASUMIGAOKA
2018/04/22
SERMON: 「全うされた人々」 “People Made Perfect”  
TEXT: Hebrews 10:1-18

I. INTRODUCTION How to fix the world’s problems? この世の問題をどう改善するか

先週、私たちは天の現実について見ました。今日は、「完全にされた人」というさらに不思議にも思える現実について考えたいと思います。私たちは「完全」や「完璧」という言葉を、何か特定の必要や要件を満たすものという意味で用いることがあります。例えば、「彼は質問に完全に答えました」「彼女は彼のために完璧な妻になるでしょう」「彼は完璧な上司(じょうし)です」という具合(ぐあい)にです。しかし、もちろんこのような記述(きじゅつ)は文字通り正しいわけではありません。私たちは完全な世界には住んでいないのです。すべての物、そしてすべての人には、欠陥(けっかん)があります。私たちは自分が「完全」ではないことを知っているのです。誰もが自分の性格や能力に欠けがあります。この世界において、不完全な人間が、苦しみや悪の多くの原因になっています。感謝なことに、私たちのほとんどは、おそらく戦争の恐怖を経験したり、暴力的な犯罪の被害者(ひがいしゃ)になることはありません。しかし、私たちはみな、自己中心的で、人を中傷(ちゅうしょう)し、嫉妬(しっと)深い、正直(しょうじき)ではない、道徳的に堕落した人々によって起こされる痛みに耐えなければならない時があります。また、私たち自身も道徳的に不完全であるため、自分が他の人に苦しみを与える時もあります。この不完全な人間の社会の中で、このようなよくない状況に、私たちはどのように関われば良いのでしょうか。

ほとんどの人は、ひどい人間の行動を制御(せいぎょ)するために、規則や法律が必要であることを理解しています。しかし、誰が、我々が従うべき規則を作るのでしょうか。道徳的に堕落した人々は、良い法律を作ることができるでしょうか。そしてもし完全な法律があったとしても、それを誰が守ることができるでしょうか。法律は執行されなければなりませんが、その法の執行自体がしばしば堕落していることもあります。不完全な人間は、自分の行動ではなく、他の人をコントロールするために法律を用いる傾向(けいこう)があります。最も良い法律でさえ、人間の心の不完全さを修復(しゅうふく)することはできないのです。

人間が「黄金律(おうごんりつ)」に従う、すなわち自分がして欲しいことを相手にするということを行えば、私たちの社会の問題のすべてが解決すると信じている人と話したことがあります。もちろんこれは、心に留めて、従うべき良い規則ですが、人間の魂の不完全さ、くらやみを修復することはできません。同じように、イスラエルの良い、義なる律法も、それを受けた人々を完全にすることはできなかったのです。イスラエルの律法の一つの問題は、それは石版(せきばん)に書かれていましたが、民の心に書き記されてはいなかったということです。言い換えれば、イスラエルの人々は律法を知っていましたが、常にそれに従いたいと思っていたわけではなかったのです。ヤコブは4:17でこう書いています。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」これが、良い律法が人間の社会の道徳的な欠陥(けっかん)を修復できない一つの理由です。単純に、人々は律法に従わないのです。

しかし、人間の道徳的な問題を解決するために律法に頼っている人たちが、失望するもう一つの理由があります。この理由が、今日の箇所であるヘブル10:1で述べられています。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」まず第一に、なぜ神の律法さえも、人間の道徳的な欠陥を修復できないのかの理由を考えたいと思います。そして第二に、神様がご自身の民を完全にするために与えてくださった解決について見ていきましょう。そして第三に、新しい契約を通して神様のもとに来る人々全てに与えられる励ましについて見ていきたいと思います。

II. THE LAW OR THE GOSPEL? 律法か福音か

A. The Weakness of the Law 律法の弱さ

1節で言及された律法とは、神様がモーセを通してイスラエルの民にお与えになった律法のことです。具体的には、神様にいけにえをささげることに関する律法の指示を指しています。しかし、この宗教的な儀式と、人間の道徳的な欠陥を修復する、あるいは社会を改善することとは、どのような関係にあるのでしょうか。年ごとに行われるいけいえの儀式は、贖罪(しょくざい)の日に行われたものです。この儀式の目的は、神に対して罪を犯した人間が、神との交わりをどのように回復させられるかを示すことでした。私たちが神のおきてを破ると、自分たちと神様との間に、隔(へだ)たりを作り出してしまいます(イザヤ59:2)。私たちが神様を「他の何か」、つまり神の御言葉よりも高く評価するものと置き換えるとき、私たちは神様に対して罪を犯すのです。神様は完全に聖なるお方であり、御前にどんな罪が残ることもお許しになりません。神様は、罪によって自分自身を汚したいかなる者も、ご自身に近づくことをお許しにならないのです。神様は裏切りを許さず、罪を罰せられないままでおられることはありません。 申命記4:24はこのことを、「あなたの神、【主】は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」と説明しています。神様は、ご自身の民をいかなる偽りの神や偶像とも共有されることはないのです。

しかし、神様は聖なる、義なるお方であるだけではありません。神様はあわれみ深いお方でもあるのです。神様は、罪人が自分のひどい間違いに気づき、主なる神様に立ち帰るための手段をお作りになったのです。贖罪の日は、きよめと和解の儀式です。神様は、罪がどのように取り除かれ、主との交わりへと回復させられるかを示すために、贖罪の日のいけにえの儀式に関する律法をお与えになりました。その儀式は、罪深い人々がどのように「きよめられ」、罪が取り除かれるのかを示しました。道徳的に完全な人だけが神様に近づくことが許されているので、贖罪の日は、その完全がどのように達成されなければならないか、すなわちいけにえの血を流すことによってのみ達成されるということを示したのです。

このことが、いけにえに関する律法がイスラエルの民に明らかにすべきであった事柄です。しかし、ヘブル書10:1が述べているように、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」のです。毎年、定められた動物のいけにえをささげることによって律法を守ることは、神との和解への道を指し示すものです。しかしこの律法に従うこと自体が、その望ましい和解を達成することにはならないのです。いけにえを捧げること自体が、神との和解を願う人々を「完全に」することはできないのです。そして4節もこう言います。「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」律法自体が誰かを神様に近づけることはできませんでした。律法は「後に来るすばらしいもの」を指し示すことができるだけの存在だったのです。この「後に来るすばらしいもの」は、人々を道徳的に完全にすることによって、人々と神様との真の和解を成し遂げられるのです。律法がどんなに良いものであっても、そしてそれをいかに注意深く守っても、律法への従順そのものが誰かを完全にすることはできません。パウロはローマのクリスチャンにこう説明ました。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)」

B. God’s Method for Perfecting Man 人間を完全にする神様の手段

しかし、神は大いなるあわれみのゆえに、罪人が神様と和解し、立ち帰る道を提供してくださいました。神様は、罪人がきよめられ、その罪の咎がただ一度取り除かれる道を与えてくださったのです。このことによって、人々は道徳的に完全なものとされ、神の御前に受け入れられる資格を持つのです。これはヘブル書の著者が5-14節で取り上げる二つ目のテーマです。メシヤという代表を通して、ご自身の民を完成に導く神様の手段について、5-14節は説明しているのです。そしてこの説明は、詩篇40篇のメシヤに関する預言に基づいています。ヘブル書は、メシヤ、すなわち「キリスト」がどのようにして、旧約の律法が達成できなかった祭司の働きを成し遂げられたのか、すなわち、神様の聖なるみこころの要求を満たされたのかを説明します。キリストが完全に神様のみこころを満足させたことの結果が、14節で説明されています。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」言い換えるならば、メシヤなるイエス・キリストの御業は、神の民の道徳的な完成を成し遂げるのです。

ご自身の民に究極(きゅうきょく)の聖化をもたらすために、ヘブル書はキリストが行わなければならなかった4つのことを述べています。第一に、キリストは、アダムの原罪の汚れをその人間のご性質に受けること無く、この人間の世界に入らなければなりませんでした。キリストは処女の母から生まれることで、これを達成されました。キリストは母マリアから肉体と人間のご性質をお受けになりましたが、アダムとその子孫によって伝えられてきた罪の腐敗(ふはい)の要素は、イエス様には伝えられませんでした。だからこそ、キリストが処女誕生によってこの世界に来られたというのは、5節にある通り、神様はキリストのために特別な方法でからだを用意されたということです。キリストはアダムの堕落という致命的(ちめいてき)な欠陥(けっかん)を避けつつ、人間としてお生まれになりました。もちろんこの経験において、イエス・キリストは絶対的に特別でした。

第二に、ヘブル書は7節で、キリストは天の御父の完全なみこころを正確に果たすために来られたということを述べています。キリストは、「聖書のある巻(かん)」にはっきりと示されていた働きを進んで受け入れられました。キリストはなによりもまず、神様の完全なみこころを実行することを望まれたのです。ご自身の人生の目的についての、イエス様ご自身の証言に注目しましょう。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。(ヨハネ4:34)」、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)」、ゲッセマネでイエス様はこう祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」そしてイエス様は十字架で死なれた時、ご自身が成就するために来られた御父のみこころについて、最後に言及されました。「イエスは、酸(す)いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)」イエス様は御父の完全なみこころを進んで行なうために来られたのです。たとえどんな代償(だいしょう)を支払うことになったとしてもです。そして、それはイエス様が弟子たちにも同じように行うように教えたことでもあります。皆さんは、次の主の祈りのことばを、自分が支払うことになるかも知れない代価を考えずにどれだけ祈ったことがあるでしょうか。「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:10)主イエスにとっては、ご自身にかかっている限り、みこころを行なうように固く決心されたのです。

第三に、ヘブル書は8-10節で、イエス様ご自身といういけにえが、民の罪の贖いをするために動物のいけにえをささげるという古いシステムを廃止(はいし)したことを示しています。古いいけにえは、神様が私たちにお求めにる現実の影、そして写しにすぎませんでした。神様が私たちから本当にお求めになっているのはなんでしょうか。神様は私たちがご自身のようになることをお望みなのです!神様は、ご自身と同じように私たちが良く、公正で、憐れみ深くあることをお望みになっているのです。イザヤ書1:16-17で言われている通りです。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習(なら)い、公正を求め、しいたげる者を正(ただ)し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護(べんご)せよ。」残酷(ざんこく)で屈辱的(くつじょくてき)な十字架の死に苦しんでまでも、イエス様は神様をたたえ、喜ばせるような完全な従順を示されたのです。人類の歴史の中で初めて、一人の人間が、実際に神様が要求されることを成し遂げたのです。そして、御父のみこころを行うことによって、9節は、キリストが「後者(こうしゃ)(つまり永遠のいのちにいたる完全な従順の道)が立てられるため」に「前者(つまり象徴的(しょうちょうてき)ないけにえをささげること)が廃止(はいし)される」というのです。イエス・キリストは、御父のみこころへの従順によって、私たちのための道を開いてくださいました。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(10節)」

第四に、ヘブル書は、キリストがご自身の御業を「ただ一度だけ」成し遂げられたと言っています。キリストが御父のみこころを行なう御業は、ご自身の生涯をかけて行われた御業です。キリストの十字架上の死はそのいけにえとしての人生のクライマックスでしたが、その「捧げ物」は、キリストが母の胎内に宿られた瞬間から始まっていたのだと思います。イエス・キリストは、最後の苦しみと死だけではなく、その生涯全てを天の御父への捧げ物としておささげになったのです。キリストはご自身の神に仕える一度きりの人生を捧げられました。そしてこの捧げ物はもう繰り返される必要はないのです。キリストの30年以上にわたる人生の捧げ物は、神様の要求を満たすのに十分なものでした。 一部の人々は、キリストの神への捧げ物は、十字架上でのキリストの死だけを意味すると考えています。彼らは、主の晩餐はその苦しみと死の経験の繰り返しであると教えてきました。彼らは、クリスチャンが主の晩餐を祝(いわ)う時はいつでも、キリストの自己犠牲を定期的に繰り返さなければならないと主張します。しかしヘブル書は、イエス様が「罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後(のち)、神の右の座に着(つ)」かれたと教えています(12節)。キリストの使命は完成し、キリストの天での支配が始まったのです。神の御子は、再び天での栄光から下って、私たちを贖う必要はありません。キリストは人間の罪のために、決して二度と苦しまないでしょう。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」

C.  Encouragement of the Spirit 御霊の励まし

今日の学びを締めくくるにあたって注目したい最後の点は、キリストがご自身のいのちをお与えになった人々に提供される励ましです。ヘブル書は15節で「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。」と言います。聖霊とは、イエス様が弟子たちのもとを去って天に上られる前に、彼らに約束した賜物です。この聖霊は、私たちがキリストに属し、キリストが私たちを贖うためにご自身をおささげになり、私たちがキリストのようになることの保証です。クリスチャンとしてなお、私たちが誘惑に陥(おちい)りやすく、罪に巻き込まれてしまうのを見るとき、私たちは落胆します。しかしキリストは私たちが完全になるためにご自身の命をお捧げになってくださったのです。しかし、聖徒の本当の完成はどこにあるでしょうか。完全にされたキリスト教会がどこにあるでしょうか。この問いに答えるには2通りがあります。まず第一に、聖霊は「私たちが神の子どもであることを、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)」聖霊とは、ご自身の民の中に住まわれる「キリストの御霊」です。この御霊によって、私たちはキリストに結び付けられるのです。神は私たちの中のキリストをご覧になるので、もはや私たちのすべての罪や失敗を追求(ついきゅう)されないのです。この理由で、ヘブル書はエレミヤ書の言葉を用いてこう言います。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。(17節)」私たちの完成は、私たちの中のキリストの完成です。キリストが住まわれるところには、もはや罪のためのいけにえを捧げたりする必要はないのです。なぜなら、キリストのゆえに私たちの罪は赦されているからです。

さらに、聖徒の完成についての問いに答えることができるもう一つの方法があります。この二番目の答えは、14節に示唆(しさ)されています。「聖なるものとされる人々を、・・・永遠に全うされたのです」という言葉は、ギリシャ語において、神の御霊がキリストの民の中で続けて働いているという事実を強調しています。私たちの内にあるキリストの御霊の聖化の働きは、私たちが生きている限り続きます。御霊は私たちの慰め主であり、励まし主であり、そして助け主です。私たちはあらゆる思い、言葉、行動において「完全」ではありません。しかし、御霊の助けによって、私たちはキリストにあって「成熟(せいじゅく)」するまで成長していきます。私たちは、キリストの満ち満ちた完成の姿にまで成長させられるのです。新しい恵みの契約を通して、キリストは私たちを神との交わりに回復させてくださいました。キリストは神の律法を私たちの心に置き、それを書き記しました。はるか昔、神様は預言者エゼキエルを通してご自身の選びの民にこう約束されました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。(エゼキエル36:26-27)」これによって初めて、私たちは罪に抵抗し、神を喜ばせる思いと能力の両方を持つのです。キリストの御霊が、私たちの心の中に来て、住んでくださるからです。私たちの内におられるキリストの御霊は、信仰と従順を貫(つらぬ)く希望と励ましを与えて下さいます。御霊は証しをし、最後には、私たちが、ご自身を私たちのためにささげてくださったキリストのようになるという確信を与えてくださるのです。

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です