成熟を目ざして進みましょう

KASUMIGAOKA  
2018/02/04 
SERMON: “Press On To Maturity!” 「成熟を目ざして進みましょう」
TEXT: Heb. 5:11-6:8

I. INTRODUCTION イントロダクション

ヘブル書はどのような手紙でしょうか?手紙の最後で著者自身は、この手紙を「勧めのことば」と呼んでいます(ヘブル13:22)。この手紙の中のすべての教理の教えは、非常に実践的な目的を持っています。つまり、信じる 者が神への信仰と従順において成熟するのを助けるためです。クリスチャンの皆さんは、自分の霊的な成長が遅くなった時を体験したことがありませんか。最初は、イエス・キリストを信じた時、すべては新しくなって、キリストとともに歩むのは、何よりも面白くて興奮させる生き方だと思ったのではないでしょうか。その時、自分が速くクリスチャン生活に進歩し、霊的に成長していたでしょう。しかし、しばらくしてから、最初の熱心がちょっと冷めるようになったでしょう。大抵の信者はそのような時、すなわち霊的な成長が一時にも中断した時を繰り返して経験したことがあると思います。もしかすると、今はあなたの霊的な成長があまり進んでいないのなら、今日の聖書個所は助けてくれるかも知れません。それは、特にこのヘブル書の箇所の目的は、クリスチャンが霊的に成長するのを助けることであるからです。赤ちゃんが成長するために栄養価の高い食べ物を食べるように、「新しく生まれた」クリスチャンは、成長し、育つために必要な、霊的な食物を受け取る必要があるのです。ペテロは第一の手紙の2章2節でこう言います。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」純粋な乳が、赤ちゃんを養うための最良の食物であるように、神の御言葉という純粋な「乳」は、御霊の力によって「新しく生まれ」、キリストを信じる信仰という新しいいのちに導かれた人々のための、適切な食物です。十分な乳を与えていなかったり、純粋な乳を飲まずに、何か他のもの、例えばブドウジュースを好む赤ちゃんは、強く、健康的には成長しません。神の御言葉という純粋な乳がなければ、新しいクリスチャンは成長することができません。そしてもし成長しなければ、死ぬことになるのです。

しかし、ヘブル書は、神の御言葉、すなわち聖書には、赤ちゃんが必要とする「乳」以上のものが含まれていると語ります。聖書には、クリスチャンが一生の間必要とする「堅い食物」も含まれているのです。ヘブル書は6:1でこう勧めます。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。…」クリスチャンは、人生のそれぞれ段階で必要となる、霊的な「食物」、つまり聖書からの指導を受けている限り、成熟に向かって成長し続けます。このことを、今日のヘブル書の箇所は比喩的に説明しています。私たちは、生涯を通して神の御言葉という純粋で栄養のある霊的な「食物」を求め続けなければならないのです。私たちは、神の御言葉が与える良いもので自分を満たす必要がなくなるほど、「賢く」なったり、「成熟」したりすることはありません。私たちは、どのように「成熟を目ざして進む」べきかを考える上で、まず私たちの目標を考える必要があります。つまり、「成熟したクリスチャン」とは何かということです。そして第二に、霊的な成長を妨げようとする障害について考える必要があります。この二つのことを考えながら、今日の箇所を見ていきましょう。

II. OUR GOAL OF CHRISTIAN MATURITY クリスチャンの成熟という目標

まず第一に、成熟したクリスチャンとはどういう 者であるのかを理解する必要があります。エペソ人への手紙4:12-13を少し見てみましょう。ここで使徒パウロは、キリスト教会における牧師もしくは「教える長老」の目標について語っています。「…それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」神様が私たちに求めておられる成熟は、イエス・キリストという人格の中に示されています。神様は私たちに、イエス様のようになることを願っておられるのです。イエス様が考えられるように考え、イエス様が愛されるように愛し、イエス様が仕えられたように仕えることを望まれるのです。そして神様は私たちに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ、(ピリピ2:7)」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた(ピリピ2:8)」「キリスト・イエスのうちに見られるような心構え(ピリピ2:5)」を持つことを望まれるのです。私たちは、「キリストの満ち満ちた身たけに達する(エペソ4:13)」とき、このようになるのです。私たちは、まだそのような、成熟したキリストのようなクリスチャンにはなっていません。しかし、神様は、私たちがキリストのようになることを約束されました。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29)」これは真の信じる者全てのための神のご計画です。私たちが霊的に成熟するのにしたがい、私たち一人一人はますますイエス・キリストのようになっていくのです。
そして、私たちがキリストのようになるのは、個人としてだけではありません。エペソ4章では、私たちが教会として成長し、よりイエス・キリストのようになると言われています。教会は「キリストのからだ」と呼ばれていますが、実際にはほとんどの教会はイエス様に似てはいません。クリスチャンの交わりを台無しにするような嫉妬や誇り、疑いやつらさがしばしばあります。これは、霊的に成熟していない教会で見られるものです。成熟していない教会員は、新しい教えや不信仰な教師によって容易に影響されるので、成熟していない教会は安定性に欠けています。しかし、教会がキリストのように、より霊的に成熟すると、安定性、真理についての確信、一致、そして愛の中で成長を見ることができるのです。エペソ書4章14-16節の、霊的に成熟した教会についての御言葉を聞いてください。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」これは、成長するクリスチャンで満たされた、成熟した教会についての美しい記述です。これは、私たちが信仰と愛とに成熟していくにつれ、教会がこのようになっていくという神様のご計画なのです。しかし、その目標を達成するためには、私たちが克服しなければならない多くの障害があります。

III. SOME SERIOUS OBSTACLES TO SPIRITUAL GROWTH 霊的な成熟に対する深刻な障害

ヘブル書は、クリスチャンの霊的成長を妨げる恐れのある4つのことを述べています。まず第一に、著者は5:11で、「話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です」と言います。クリスチャンが神様の御言葉に対して「耳が鈍くなる」とき、霊的に成長しなくなります。「鈍い」と訳された言葉は、ギリシャ語では「怠けている」ということを意味します。神の御言葉は理解しやすいとは言えません。だからこそ、私たちは、聖霊の導きを祈りながら、聖書を勤勉に読むべきです。聖書を読むときには、これが神が霊感された御言葉であり、単なる人間の意見ではないことを覚えておく必要があります。 「あなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる(2テモテ3:15)」神の言葉なのです。しかし、クリスチャンが、神が御言葉を通して私たちに何を語っておられるのか、慎重に考えるのをやめるとき「耳が鈍くなる」のです。そして耳が鈍くなると、御言葉を通して語ってくださる神様を聞くことができなくなります。イエス様は、ご自身の話を聞くために来た多くの人々がそうであると言いました。イエス様はマタイ13:14-15でこうおっしゃいました。「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」霊的な成長を妨げる一つ目の障害は、神の御言葉に勤勉に注意を払うことに失敗することです。

第二に、ヘブル書5:12はこう 言います。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」この節で示されている、霊的な成熟を妨げる障害は、自分たちの信仰を他の人に伝えることに失敗することだと思います。その年になったら、他の人を教えなければならないのにもかかわらず、それをしていないのです。実際に、他の人と分かち合わないので、福音の初歩の真理を忘れているのです。ここでの「教師」という言葉は、教会の公式の職務としての「牧師や教師」に言及しているわけではありません。むしろ、全ての信じる者に、責任や特権として与えられた、周りの人に対して主イエスの忠実な証人となるということを意味しているのです。男性も女性も、さらには子供たちですら、私たちがイエス・キリストによって与えられた、希望、赦し、神との和解というすばらしい知らせを他の人に伝えるように召されているのです。この良い知らせを他の人と分かち合うとき、それは私たち自身の心の中にも、もっとしっかり植え付けられます。これらのことを他の人に説明しようとするとき、より完全に理解するようになるのです。神の御言葉のすばらしい真理について誰にも決して言わないならば、私たちは霊的な「赤ちゃん」のままになります。福音の真理を何度も何度も説明してもらうことになるのです。皆さんが信仰を分かち合わないことは、霊的な成長の障害になります。しかし、私たちの信仰について他の人に話すならば、私たち自信はもっと霊的に成熟します。Iペテロ3:15で言っていることを覚えましょう。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」もちろん、証する前に必要な心の用意をしておかなければいけません。

ヘブル書5:13-14では、霊的な成熟への第三の障害を見ることができます。「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」この場合、霊的な成長への障害は、神の御言葉の教えを自分の人生に適用する経験に欠けているということです。単に人間が作った規則に従うだけでは、霊的な成熟につながることはありません。幼子はもちろん、どのように生きるべきかを決める上で自分が判断をしません。幼い子供たちは、両親の規則や指示に従うように教育されます。しかし、クリスチャンは、他の人に決めてもらった規則に依存するだけの、霊的に幼子のままでいてはいけません。クリスチャンは、自分たちの生活に神の御言葉を適用する経験を通して、霊的に成長しなければならないのです。クリスチャンは成熟するにつれて、「義の教えに通じる」ようになっていきます。御言葉を自分の状況に適用し、御言葉への従順を実践することによって、私たちはより賢く、より成熟した者になっていきます。神の御言葉という「堅い食物」を消化し、良い物と悪い物とを見分けることができるようになっていくのです。クリスチャンの親にとって、自分の子供達を「支配」することを放棄し、子どもたちが様々な状況で神の御言葉を自分自身で判断して適用するように促すことは、とても難しいことです。しかし、皆さんの子供たちが霊的な成熟へと育つためには、彼らが神の御言葉の教えを自分たちの生活に適用しなければならないのです。クリスチャンは、神の御言葉という「堅い食物」を適用するという練習を繰り返し行い、霊的に成長します。なぜなら、それによって彼らは「良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練」されるからです。もし、単に人間が作ったルールに従うだけで満足するなら、霊的に成熟したクリスチャンになることはできません。

最後に、霊的な成熟を妨げる4つめの障害が、6:1-2 で示されます。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」ここでの霊的な成長を妨げる障害とは何でしょうか。それは、神の御言葉についての、堅い、「初歩の教え」の基礎の上に建てあげることに失敗することです。これらの教えは、クリスチャンの人生と希望にとって必要不可欠なものです。それが「基礎的」と呼ばれる理由です。「死んだ行いからの回心」とは、永遠のいのちの希望を私たちに与えることのできない、行ないです。神に対する信仰とは、まさに私たちの永遠のいのちの唯一の希望です。きよめの洗いについての教えや手を置く儀式とは、キリスト教会やその職務に対する個人の関係性を示します。「死者の復活」ととこしえのさばきを含め、これらのことが基礎的なことと呼ばれているのです。これらは確かに神の御言葉によって教えられる重要な教えですが、何度もやりなおす必要のない「基礎的」なものです。成熟したクリスチャンになるためには、この堅い基礎を超えて進まなければなりません。しかし、それは私たちがこの基礎を捨てるという意味ではありません。むしろその上に建て上げなければいけないのです。それでは、この基礎の上に、どのように建てあげるべきでしょうか。Iコリント3:10-15を見て下さい。パウロは言います。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」パウロは、私たちが別の土台を築くべきだと言っているわけではありません。それぞれの人は、このキリスト教の教えの堅い基礎の上に立てなければいけないのです。そして、それぞれは自分が持っている賜物と、最高の材料を使って、自分の能力にしたがって建てなければなりません。ある人は金と銀を使って作ることができるでしょう。他の人は高価な石や木を使うかもしれません。草やわらしか使うことができない人もいるでしょう。あなたが何を受けていたとしても、それを用いて、キリストの土台の上に建てるべきなのです。それでは、私たちは何を建てるのでしょうか。 16節で、パウロは、あなた自身が神の御霊が宿る「神の神殿」であると言います。キリストの土台の上に建てるというイメージは、エペソ2:20-22やIペテロ2:5で言われる、キリストの教会を建てあげるという比喩に、よく当てはまります。しかし、ヘブル6章の要点は、私たちのエネルギー、私たちの賜物、そして私たちの技術を用いて、基礎の上に建てあげるということです。使徒パウロのように、私たちも、計画に従って、私たちの後に建て続ける他の人のために良い、しっかりした教会を残すような、賢い建築家でなければなりません。神の御栄光のために教会を建てあげることによって、私たちは霊的な成熟へと成長するのです。私たちがキリストの教会から離れたり、あるいは教会の基本的な教えの基礎を変えようとし続けると、キリストが愛される教会の働きに何も貢献することができません。しかし、私たちは、神様が私たちのために築いてくださった基礎の上で、イエス・キリストの教会を建てるために私たちに与えられた最高のものを用いて、成熟に向けて進むように求められているのです。  

 IV. CONCLUSION  結論

結論として、私たちが幼子のままとどまるのではなく、むしろキリスト・イエスにますます似たものとして成熟するべきであるという、ヘブル書の勧告を覚えましょう。私たちは、神の御言葉を学び、栄養と力をその勤勉な学びから受けとり、忠実な証人となり、そして日常生活に聖書を効果的に適用するべきなのです。そして、キリストご自身のように、私たちは、キリストが私たちのために敷いてくださった一つの土台の上に、キリストのからだである教会を建てあげるために務めなければならないのです。 これらのことをすべて覚えて、主イエスのご栄光なために、成熟を目ざして進んで行きましょう。

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