幸せな教会になるための助言

KASUMIGAOKA 2017/05/21

SERMON:  “Advice for Becoming a Happy Church” 「幸せな教会になるための助言」  
TEXT: III John 1-14    

I. INTRODUCTION イントロダクション
前の手紙と同じく、ヨハネはこの手紙のはじめでも自分のことを「長老」と呼んでいます。しかし他のヨハネの手紙とは異なり、この第3の手紙は特定の名前の人物に宛てて書かれています。親しい友人である「愛するガイオ」に対して書かれているのです。この名前はよくあるローマ人の名前で、「デルベ人ガイオ」、別のマケドニア人ガイオ、そしてまた別の、コリントに住んでいたガイオが使徒の働きやパウロ書簡に言及されています。ヨハネの友人であったガイオはおそらくまた別人なのでしょう。このガイオについて私たちはほとんど知りませんが、ガイオに宛てられたヨハネの短い個人的な手紙は、新約聖書の一つの書として教会に受け入れられているのです。使徒パウロが個人にあてた手紙、つまりテモテ、テトス、ピレモンへの手紙、と同じように、このヨハネの手紙もまた、霊感された使徒の手紙として、全ての教会に対して重要な意味を持つのです。この手紙はキリスト教会にとって、どの時代でも大変助けになるものでした。なぜなら、この手紙の中でヨハネは、全ての真実な教会が経験してきたような問題や緊張を取り扱っているからです。初代教会は内部の争いに直面していました。今日の教会もそうです。このような緊張の中にあって、使徒ヨハネは全てのキリスト教会が平和、真理、そして愛の中で霊的に成長するための励ましを与えています。もし忠実に従うなら、ヨハネの助言はどんな教会をも、みのりある奉仕とキリストにある幸せへと導くことができるのです。ヨハネがガイオに書き送った内容について注意深く見ていきましょう。

II. JOHN’S ADVICE FOR GAIUS AND HIS CHURCH ヨハネのガイオと彼の教会に対する助言

ヨハネはガイオに対して、ガイオへの個人的な励ましと、教会で他者に対するふさわしい取り扱いかたを助言しています。ガイオ以外に、2人の人物の名前がこの手紙で出てきます。デオテレペスとデメテリオです。この二人の人物が教会の中で職務についていたかどうかはわかりません。そして、もしかするとそうかもしれませんが、ガイオ自身も牧師や長老といった教会のリーダーであったかどうか、確かではありません。デオテレペスも、もしかすると教会のリーダーであったのかもしれません。なぜならヨハネが10節で、デオテレペスが「教会から追い出した」人たちがいることを言及しているからです。デオテレペスは教会の中で教会員を「除名」できるほどの大きな影響力を持っていたようです。しかしもしデオテレペスが牧師や長老だったとするなら、彼はとても悪い人物でした。もう一人のデメテリオという人物は、真のクリスチャンの兄弟として、ヨハネがガイオに推薦しています。デメテリオはもしかすると巡回教師や巡回伝道者のような人物で、ヨハネはガイオに彼を温かく迎え、その働きを助けるように促しているのかもしれません。この手紙の中でヨハネがガイオに対して言っている内容は、教会が互いに励ましと矯正をするために有益な手引となるのです。使徒ヨハネの指導に従うことは、教会はその幸せと調和を脅かすような対立を乗り越える助けとなるのです。

まず始めに、使徒ヨハネがガイオに与えた励ましの言葉について考えましょう。最初の1-8節は、この手紙の読み手に対しての温かい励ましと賞賛で満ちています。クリスチャンの兄弟としてのこの2人の間の親密なきずなに気付くでしょうか。ヨハネはガイオのことを「愛する者」と1,2,5,11節で呼んでいます。ヨハネのガイオに対する愛は、彼らが共通して「真理」に仕えていることによっています。ヨハネはガイオを「真理によって」愛していると言っています。日本語の訳に「本当に愛しています」と書いてありますが、原語によればその愛が「真理」に基づいているということが強調されています。彼らの真理への愛、すなわちイエス・キリストその人への愛と、キリストの救いの福音への愛が、彼らの兄弟としての愛情のきずなの基礎なのです。ヨハネの信者同士への愛は、ガイオのために祈るようにヨハネを導きます。ヨハネはガイオの健康と幸いのために祈っています。「あなたが、 たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、 また健康であるように祈ります。」(v.2)彼らの真理への愛こそがこの2人を兄弟として結びつけ、互いの幸せと繁栄をもとめさせているのです。真理に根ざすクリスチャンの愛の必要性こそが、ヨハネがすべての手紙の中で繰り返し強調しているテーマです。
ヨハネが「喜び」についてガイオにどう書いているかについても注目してみましょう。「兄弟たちがやって来ては、 あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、 私は非常に喜んでいます。(3節)」ヨハネはどのようにしてガイオが真理に忠実であったかを知ることができたのでしょうか。それは他の人の証言によってです。この堕落した世界のくらやみの中で、真理への忠実なあかしは明るく輝き、他の人に見過ごされることは決してありません。クリスチャンは他のクリスチャンが真理をしっかりと握って、忠実に携えているのを見て喜ぶのです。真理への忠実なあかしは、ガイオのように、クリスチャンが本当に真理に生きている時に最もはっきりと示されます。他の兄弟がこのようにヨハネに伝えたのです。「ガイオはいつも真理に歩んでいます。」どのような状況にあったとしても、ガイオはキリストの教えを自分の生き方に適用しようとしたのです。ガイオは「見せ物」のように、または他の人間を喜ばせるためにそうしたのではありません。ガイオは彼の主であるイエス・キリストを喜ばせるために真理に生きようとしたのです。そのことがヨハネに「非常な喜び」、「大きな喜び」を与えているのです。「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、 私にとって大きな喜びはありません。」とヨハネが4節で言っています。これが、真のクリスチャンに最も大きな喜びをもたらすものです。自分の教会が「有名」になることではなく、礼拝に大勢の人が集まることでもなく、経済的に安定することでもなく、社会により大きな影響力を及ぼすようになることでもありません。本当のクリスチャンに大喜びを満たすものは、教会の兄弟姉妹が神の子どもとして「真理に歩んでいる」ことの証拠なのです。これは、キリストにあって神が私たちに与えてくださる新しい霊的ないのちという奇跡です。普通の男性、女性、子供たちが、この世界に生きる限り、真理のうちに歩み、キリストご自身の光をもって、暗やみの中で輝くのです。キリストの御言葉に従うことが、彼らを変えるからです。信じない者は、これを見て混乱し、ある者は怒り、ある者は反対するでしょう。しかしクリスチャンは兄弟姉妹が真理のうちに歩んでいるのを見て喜ぶのです。真理を喜ぶことが、幸せな教会の一つのしるしです。

真理のうちを歩むためには、もちろん、まず真理を認識できるようになる必要があります。この手紙の中でヨハネは、ガイオに、誰が真理を語っているかを見分け、その者たちを教会の交わりに招き入れるように求めています。5-8節でヨハネは「旅をしているあの兄弟たち」について言及しています。つまり、ガイオや他の教会の人たちが知らない兄弟たちのことです。ほとんどの神学者は、ヨハネがここで言っているのは、イエス・キリストの真理を広めるために世界中に出ていっている「巡回伝道者」たちのことであると考えます。7節でヨハネは「彼らは御名のために出て行きました。」と言っています。つまり、イエス・キリストの御名のためにです。この「旅をしている兄弟たち」は、イエス様がどのようなお方であるかという真理を述べ伝えているクリスチャンたちなのです。イエス様は「生ける神の御子であるキリスト」です。第一ヨハネと第二ヨハネでは、「世に出ていった」という表現は、「惑わすもの」や「にせ預言者」の活動に対して用いられている言葉です。(e.g. 1ヨハネ2:19; 4:1; 2ヨハネ7)これらの「惑わすもの」は、福音やイエス・キリストについての偽りの教えを広めるために教会を離れました。しかしここでヨハネは、真の信者たちが「世に出ていった」ことを語っているのです。それは、惑わすものによって広められた誤りを正すためでした。ヨハネ自身がこの兄弟たちを遣わした可能性もあります。5-8節で、ヨハネはガイオがこの「旅をしている兄弟たち」をもてなしていることについて賞賛しています。5節で「愛する者よ。 あなたが、 旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、 真実な行いです。」と言っています。第2ヨハネでヨハネは手紙の読者に「惑わすもの」に気を付けるように書きました。「あなたがたのところに来る人で、 この教え(正しい教え)を持って来ない者は、 家に受け入れてはいけません。 その人にあいさつのことばをかけてもいけません。」(2ヨハネ10)ヨハネは教会に対して、訪問者がどのような内容を教えるか、注意深く見分けるように求めているのです。真理を語る者は受け入れられなければなりませんが、誤りや偽りを教えるものは退けられなければならないのです。クリスチャンの間の友情は、彼らが何を信じ、何を教えるかによらなければなりません。真のクリスチャンの交わりは、真実と偽りを見分けることによっているのです。だからこそ、私たちは聖書を勤勉に学ぶ必要があるのです。ガイオは、この来訪者たちが信じていた真理を認識し、彼らを温かく迎え入れました。ヨハネが8節でこう言っているようにです。「ですから、 私たちはこのような人々をもてなすべきです。 そうすれば、 私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」幸せな教会とは、神のみ言葉を勤勉に学び、真理を教える者を受け入れてもてなし、誤りを教えるものを退けるような教会です。ガイオがそうしたように、このことを忠実に行うことで、教会はこの世界に福音の真理を広めるという偉大な働きに携わることができるようになるのです。

しかし、すべての教会が、そしてすべての教会のリーダーたちがガイオのような真理を見分ける能力を持っていたわけではなかったようです。ヨハネはこのような者としてデオテレペスという人物を挙げています。教会はこのような、真理に対しての識別力や経緯をほとんど持たないような教会員、ましてや教会のリーダーをどのように取り扱うべきでしょうか。悲しいことに、多くの教会で、真理よりも個人の利益や都合や影響力を求めるような者がいます。使徒パウロは、エペソ教会の長老たちへの助言の中でこのような人について、こう警告しています。「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。」(使徒20:30-31)このような理由で、ヨハネはガイオに対してこういう人たちをどう扱うべきかについて、重要な助言をしています。ヨハネは「これが誰なのかを理解しなさい」と言っています。そしてためらうことなく、教会の一人の人物の名前を挙げているのです。このような、個人の利益を神のみことばの真理に優先させるような者を見分けなければなりません。それはどのようにして見分けられるのでしょうか。ヨハネはデオテレペスの悪い人物像について3つのことを述べています。

まず第一に、デオテレペスは使徒の教えを退けたとヨハネは言います(9節)。「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、 彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、 私たちの言うことを聞き入れません。」御霊によって霊感された使徒たちの言葉は、キリストの教会の全ての者によって真実であると受け入れられなければなりません。真理の御霊は霊感を与える御霊であり、御霊は偽りを言うことができません。もし使徒の教えが信頼できないとして、自分の意見をその代わりにするような人がいれば、その人物には十分注意しなければいけません。教会の信仰と生活において、使徒の教えこそが基準として受け入れられなければなりません。これはイエス・キリストご自身が使徒を、この世界に置ける代理として任命されたときから意図されていることです。デオテレペスは、使徒の教えを退けただけでなく、「意地悪いことばで私たちをののしった」ともヨハネが10節で言っています。使徒の教えを拒否するだけでなく、それを受け入れる者を悪く言うのは、見過ごすことができない、悪い、不信仰な人物像の証拠となります。

第二に、10節でヨハネはデオテレペスが「兄弟たちを受け入れない」とも言っています。デオテレペスが真理を見分ける能力に欠けていたとしても、単に彼自身の考え方に異議を唱える者を受け入れることを拒んだだけだったとしても、どちらにしても彼はもっとも重要なクリスチャンとしての美徳を示すことに失敗しています。それは兄弟を愛する愛です。どうやらデオテレペスは、自分の教会に対する自身の影響力を保ち、より強固にするために、「他の信者たち」を受け入れることを拒んだようです。これ以降の時代においても、他の教会の知恵や勧告を受け入れるような態度は、教会が正しい聖書的な教理を保つために重要でした。一方で、もし教会が「狭く」なりすぎて、一人の人間の独自の教えに集中しすぎるなら、その教会は徐々にカルト化していきます。このような理由で、教会が他のクリスチャンの世界に扉を開くことは必要なことなのです。
第三にヨハネは10節の最後に、デオテレペスが「受け入れたいと思う人々の邪魔をし、 教会から追い出している」と言います。デオテレペスは、教会の全ての人が自分自身の知恵や権威に従うように求めました。彼らはデオテレペス個人の意見に従わなければ、「彼の」教会に受け入れられなかったのです。ここで重要なのは、この教会は「デオテレペスの」教会なのではなく、主イエス・キリストの教会であるということです。にもかかわらず、歴史を見ると、しばしば国家に独裁者が現れるように、教会にも独裁者が頻繁に現れました。一人の人の独裁によるうぬぼれや権力は、教会が避けなければならない重大な危険です。(だからこそ、聖書は教会政治の方法として長老制を教えているのかもしれません。)キリストの教会の唯一の権威の源は、キリストのご自身の御言葉である聖書のみなのです。

これらの理由で、デオテレペスには反対しなければなりません。ゆえにヨハネは、もし自分がその教会に行けることがあれば、彼と直接向かい合って、その行為を取り上げて、誤りを暴露したいと願っているのです。「悪を見ならわないで、 善を見ならいなさい。」とヨハネは言います(11節)。デオテレペスによる悪い行いは、彼がクリスチャンであるという彼自身の主張を少しも支持しません。むしろ対照的に、それは彼が信仰の目で「神を見たことのない者」であることを示すのです。教会の戒規(訓練)の目的は、悪を取り除くことであり、キリストの教会の幸せとあかしを促進することです。そして神の恵みにより、戒規は罪人を悔い改めに導くこともできるのです。
このヨハネの手紙に出てくる3人目の人物はデメテリオです。ヨハネは情熱をもって彼をガイオに推薦しています。「デメテリオはみなの人からも、 また真理そのものからも証言されています。」(12節)使徒ヨハネの紹介によって、デメテリオはどこの教会の集まりでも歓迎されるべきでした。デメテリオは、この第三ヨハネの手紙をガイオに届けた人物だったのかもしれません。彼は信頼に値する兄弟で、真理を信じ、真理を持っている人でした。おそらく彼は、御名のために世界に出ていった兄弟たちの一人だったのでしょう。彼はその忠実な宣教の働きのゆえに、賞賛ともてなしを受けるに値する人物だったようです。
ヨハネはこの手紙の結びで、ガイオの教会を近いうちに訪問し、顔を合わせて多くのことを語りたいという希望を書いています。現在にも、このような手紙で多くの重要なことを書くこともできるのでしょうが、牧会の働きの上では、「会う」ということは重要です。主イエスはヨハネの福音書10:3で良い牧者は「自分の羊をその名で呼んで連れ出します」と言われました。この長老ヨハネはイエス様のような良い牧者で、彼の羊を一人ひとり知っており、彼ら一人ひとりに「よろしく」言ってくださいとガイオに願って、この手紙を締めくくっています。    

III. CONCLUSION 結論

デオテレペスのような深刻な欠点を持つ人物がいたにも関わらず、イエス・キリストの教会が自分の助言に従うならば、教会に真の平和が来るとヨハネは確信していました。それは今日においてもそうです。健全で幸せな教会とは、その教会員が真理を受け入れ、誤りを見分け、悪が彼らに根をはることをゆるさないような教会です。しかし、みことばの真理を適切に重んじる教会は、互いに励まし合う必要性を忘れてはいけません。誤りを批判しながら、兄弟姉妹のほめるべき忠実な行ないを覚えて賞賛しなければなりません。本当に幸せの教会は、非難と賞賛の釣り合いを保とうとします。幸せな教会は受けた福音の真理を忠実に守ります。そして、その真理のゆえに、愛のうちに一致し、互いに励まし合い、喜びに満たされるのです。私たちもそのような教会になりましょう。

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