神の子どもたちのための励まし

KASUMIGAOKA 2017/04/16
SERMON: 「神の子どもたちのための励まし」 “Encouragement for God’s Children”
TEXT: 1 John 5:1-5

I. INTRODUCTION: 落胆した教会への慰め

  ヨハネがこの手紙の中で残してくれている手がかりを見ると、教会内の分裂に落胆したクリスチャンたちを励ますために彼がこの手紙を書いたようです。多くの人が教会から離れ、残った者たちも大きく揺り動かされるような経験をしました。キリストの御国で共に働いていた友人を失ったり、支援者を失ったり、親族をさえ失ったりしました。キリストのからだの中の分裂は常に悲しいものですが、避けられない場合もあります。ヨハネは2:19で読者に重要なことを思い出させてこう確認します。「彼らは私たちの中から出て行きましたが、 もともと私たちの仲間ではなかったのです。 もし私たちの仲間であったのなら、 私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。 しかし、 そうなったのは、 彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」忠実なクリスチャンは、使徒ヨハネがこの手紙の中で書いているしっかりした霊的な勧告を覚えなければなりません。気落ちしてはいけません。離れた者たちの例に従ってはいけません。なによりも、教会を決してお見捨てにならない主を疑ってはなりません。ご自身の御名の栄光のために、教会を強く、実り多いものへと立てあげてくださる主を疑ってはならないのです。

  ヨハネの手紙の最後の章を読み始めるにあたって、神が忠実な教会に対して与えてくださるすべてのものを思い起こします。3:1でヨハネはこう書いています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、 −−事実、 いま私たちは神の子どもです−−御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」5:1-12でヨハネは再び教会に対して、「神の子ども」として与えられる計り知れない特権について思い出させています。今朝みなさんと考えたいこの特権の最初の一つが、キリストの教会の「交わり」という特権です。

II. THE PRIVILEGE OF CHRISTIAN FELLOWSHIP クリスチャンの交わりという特権

  イエス・キリストの教会に受け入れられる者は誰でも、とても特別な「交わり」に入ります。それは「霊的な家族」という交わりです。私たちは生物学的な家族の中でもさまざまな多様性があります。皆が同じ外見ではありません。皆が同じように考えるわけでもありません。私たちは異なる賜物、才能や興味、そして経験を持っているのです。しかし、そこには家族のメンバーを一致させる何かがあります。帰属意識があり、アイデンティティの意識があります。これが神が造られた家族というものの姿です。神は教会をも造られ、家族の中で見られるような親しい交わりのきずなを教会に祝福として与えてくださいました。教会の交わりは、広がった家族のようなものなのです。

  1-5節でヨハネは、教会員に大きな励ましを与える理由となる、教会の交わりの3つの特徴を示します。まず最初のものは、お互いへの愛です。イエス様はこの愛が、キリスト教会の最もはっきりした「しるし」であるとおっしゃいました。「もし互いの間に愛があるなら、 それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、 すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)今日の箇所の1節でヨハネはこう説明します。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、 神によって生まれたのです。 生んでくださった方を愛する者はだれでも、 その方によって生まれた者をも愛します。」ヨハネは特に好んで、子どもとして神の家族に「生まれる」という表現をよく用います。キリストの教会の一員になることが、クラブや社会的な組織や会社に入ることとは違うということを、ヨハネは理解していました。キリストの教会に属するためには、「神の子ども」の一人でなければならないのです。そしてこの霊的な家族に加わるためには、新しく生まれなければなりません。もちろん、子供が生物学的に誕生するのが、その子の決断や意思によっているのではありません。同じように、御霊によって生まれることも、あなたや私の決断によっているわけではありません。それは神様ご自身の御業です。しかし、あなたが神の御霊の御業によって新しく生まれたなら、かならずそれに伴う結果があります。ヨハネはその結果のうち幾つかを1節で述べています。イエスがキリストであると信じるようになる。神をあなたの父として愛するようになる。神の家族の全ての他の子どもたちを愛するようになる。神の家族の愛されている子どもとして、私たちは長子である(ローマ8:29)イエス・キリストの姿へと成長し始めていきます。私たちの父なる神は私たちを気にかけて下さいます。私たちは、その神様が私たちを守ってくださり、私たちの全ての必要を満たしてくださることを信頼するのです。私たちは互いに愛する者として、互いにゆるしあい、互いに助け合い、互いに励まし合うことを学ぶのです。これが教会です。クリスチャンの愛というきずなで一致した「家族」なのです。キリストの霊的な家族として愛を共有することは、教会が落胆に直面した時の慰めや励ましの大きな源になります。愛は、キリストの教会における私たちの霊的な交わりの第一の不可欠な要素です。

  ヨハネが言及する、クリスチャンの交わりの2つめの要素は、神の完全な律法が私たちの信仰と生活のために提供されているということです。全ての共同体は、どこかの段階で社会的な秩序のための権威やルールが必要であることを認識しなければなりません。このような理解は始めにどこから受けるのでしょうか。入学した時から始まるわけではありません。権威を敬うこと、規則を守ること、命令に従うことなどは、家族の中で学び始めます。神様が定められたように、子どもたちは親たちを敬うべきであるからです。法則やスケジュールを親がつくり、子供がそれに従うのです。家族の一人々は自分の「きまぐれ」に従うことはできません。もしそうすれば家族は機能しなくなるからです。それぞれが自分の役割を学び、自分の責任を実践しなければならないのです。私たちは家族の中で社会的な秩序のための権威やルールの重要性を学ぶのです。社会秩序や道徳のための良いルールがなければ、家族生活は混沌とします。教会は、ある社会秩序のためのルールを守る人々の交わり、もしくは家族です。父なる神は私たちに、自分の生活を治めるための様式やルールを与えて下さいます。もし私たちが神を父のように愛し、互いを神の家族の兄弟姉妹のように愛するなら、私たちは神の与えてくださる指示に従うことになるのです。ヨハネが2節で書いている通りです。「私たちが神を愛して、その命令を守るなら、 そのことによって、 私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。」

  神の家族の霊的な交わりを経験していない人たちは、神の命令を好まないことが多いです。彼らは自分のルールを作る方を好みます。私たちも、神の霊的な家族の中に生まれる前は、同じように思っていたでしょう。私たちは、聖なる神、義なる神に従うことはとんでもなく難しいことだと思っていました。神の律法はとても制限的に見えていたかもしれません。神のルールは融通の聞かないものであるように見えました。キリストの教会の交わりの中に迎え入れられたものだけが、ヨハネが3節で言っていることが理解できるのです。「神を愛するとは、 神の命令を守ることです。 その命令は重荷とはなりません。」ここでのポイントはこうです。もしあなたが神の息子もしくは娘となったら、あなたは父を愛するがゆえに、神の命令に従いたいと思うのです。神の律法はひどいもの、不当なものには見えなくなるのです。神の子どもとして、あなたは神の律法が私たちのためのものであるということを信頼するのです。人間の作った法律は、ばからしい、重荷になる場合もありますが、神の律法はそうではありません。イエス様はユダヤ人の律法学者やパリサイ人をこう言って批判なさいました。「彼らは重い荷をくくって、 人の肩に載せ、 自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(マタイ23:4)これはクリスチャンの生き方ではないのです。そのかわりに、イエス様は人々に対して自分のところに来て、もしそれに愛する心で従うならば、神の律法がどれだけ簡単で軽いものであるかを学ぶように言われました。「すべて、 疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、 へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)私たちはイエス様から、どのように神の律法に心から従うかを学び、その忠実が重荷ではないことを発見するのです。実際、私たちは神の道徳的な基準が私たちの益のために与えられていることを学びます。私たちは、神の民の交わりの中で神のルールに従って生きる時に、祝福を受け、励まされるのです。

  キリストの教会の中の私たちの交わりの3つめの励ましの要素は、4-5節に示されています。それは成功の約束です。キリストの教会の交わりの中で、私たちは世に対する勝利を保証されるのです。「なぜなら、 神によって生まれた者はみな、 世に勝つからです。 私たちの信仰、 これこそ、 世に打ち勝った勝利です。」(v.4)私たちにとって、世が教会よりもよっぽど影響力があるように見えることがあります。世のほうがより多くの人がいて、より多くの名声があり、より多くのお金があり、より良い技術があり、メッセージや影響力を伝えるための、より効果的な手段があります。しかしヨハネは、「神によって生まれた者はみな、 世に勝つ」というのです。あなたが神の家族、キリストの教会の中へ新しく生まれた時、あなたは勝つチームに加わったのです。教会の交わりは時折弱く、影響力が弱いように見えますが、キリストが教会に召されたことを教会はやがて成し遂げるのです。4節の後半は、成功を生み出すのが教会の努力ではないということを思い起こさせます。私たちはこのことをよく覚えておく必要があります。教会の成功を保証するのは、教会の信仰です。なぜでしょうか。なぜなら、私たちは信仰によってイエス・キリストと結び付けられるからです。私たちがどれほど努力しようと、どれほどお金を持っていようと、どれほど大きくとも、どれほど学歴があっても、結局は主イエス・キリストに堅く結び付けられることによってのみ私たちの成功は実現されるのです。イエス様こそが世に対して勝利されたお方です。そして5節でヨハネが言うように、「イエスを神の御子と信じる者」が「世に勝つ」のです。神の御子への信仰によって私たち霞ヶ丘教会のような小さな信じる者の交わりに成功が保証されているのです。イエス様は既にこの世の支配者に勝利されました。イエス様は逆らう全ての敵を退け、主の民のために勝利を得られました。イエス様の十字架、復活、そして神の右の座への昇天を通して、主イエスは既に勝利を得られたのです。ヨハネの福音書16:33でイエス様は弟子たちをこう励まされました。「しかし、 勇敢でありなさい。 わたしはすでに世に勝ったのです。」

  私たちは、霊的な戦いは私たち自身の力や戦略によって戦うのではなく、信仰によって戦われるべきであるということを決して忘れてはなりません。キリストが私たちのチャンピオンなのです。イスラエルのためにダビデがゴリアテと戦ったようにです。キリストのみが私たちの勝利の希望です。なぜならキリストが神の御子だからです。ヨハネは小アジアの西部の教会に対して7つの短い手紙を書きました。そしてそれぞれの手紙は約束で結ばれています。それぞれの教会に対するすばらしい励ましの言葉です。これらの約束を聞いてください。「勝利を得る者に、 わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。(黙示録 2:7b)」「勝利を得る者は、 決して第二の死によってそこなわれることはない。(黙示録2:11b)」「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。 また、 彼に白い石を与える。 その石には、 それを受ける者のほかはだれも知らない、 新しい名が書かれている。(黙示録2:17)」「勝利を得る者、 また最後までわたしのわざを守る者には、 諸国の民を支配する権威を与えよう。…また、 彼に明けの明星を与えよう。(黙示録2:26-28)」「勝利を得る者は、 このように白い衣を着せられる。 そして、 わたしは、 彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。 わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。(黙示録3:5)」「勝利を得る者を、 わたしの神の聖所の柱としよう。 … わたしは彼の上にわたしの神の御名と、 わたしの神の都、 すなわち、 … 新しいエルサレムの名と、 わたしの新しい名とを書きしるす。(黙示録3:12)」「勝利を得る者を、 わたしとともにわたしの座に着かせよう。 それは、 わたしが勝利を得て、 わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録3:21)」

  黙示録に出てくるこれらの教会は、それぞれが大きな挑戦を受けました。そして、その挑戦を乗り越えた教会に対して、それぞれ特別で独特な約束が与えられているのです。この約束には、永遠の命、喜び、平和、栄誉、そして権威がありました。何という素晴らしい約束でしょう。しかしそれぞれの教会はまず、この世で取り囲む誘惑や障壁を乗り越える必要がありました。どのようにして神の民はそうできるのでしょうか。どのようにして私たちは成功できるのでしょうか。それは、神の御子であるイエス様への信仰によってのみです。私たちは世界中にいる大勢のクリスチャンとともに、イエス・キリストがはるか昔のある日曜日によみがえられた時に、罪や死、そして悪魔に勝利されたということを喜ぶのです。よみがえられた勝利の主であるイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちも勝利が与えられるのです。キリストが私たちのために勝利を獲得してくださったからこそ、キリストによって私たちは成功するのです。

III. CONCLUSION 結論

  私たちは世にあっては必ず患難があります。 しかし、勇敢でありなさい。 キリストは世に勝ったのです。そしてキリストは主の民に全ての必要を備えて下さいます。私たちは神の子どもの交わりとして、互いを愛する愛、導き手である御言葉、よみがえられた主イエス・キリストを信じる信仰をもって、大いに祝福されております。落胆する必要はありません。皆さん、いかがでしょうか。このすばらしい交わりを経験したことがありますか。生ける神の御子キリスト・イエスは、ご自分の交わりとその豊かないのちに与るように私たちをお招きになります。おしまいに、ヨハネの手紙1:3—4を呼んで終わりたいと思います。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」 お祈りいたします。

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