みことばをしっかりと守る長老

KASUMIGAOKA
2017/09/10
SERMON: 「みことばをしっかりと守る長老」
“An Elder Holds Fast the Word of God”  
TEXT: Titus 1: 5-2:1    

I. INTRODUCTION  イントロダクション

この使徒パウロのテトスへの手紙の中で、ある人物が長老職に選ばれるための3つの種類の条件が示されています。そのうちの2つの条件については既に見てきました。まず第一に、自分の家庭の中で非難されるところがない者であること。そして第二に、神の家である教会の管理者として非難されるところのない者であること。そして今日は第三の条件について考えます。それは「聖書の教えにおいて非難されるところのない者」であるということです。テトス1:9でパウロはこう言います。監督は「教えにかなった信頼すべきみことばを、 しっかりと守っていなければなりません。」1テモテ3:2では、長老は「教える能力」がないといけないと言われています。

長老が教えるということの重要性について、2つのことを知る必要があります。一つ目は、長老が教会を導く権威は、その長老と神の御言葉との関係性にすべてかかっているということです。つまり、もし長老が聖書のみことばを信頼して、しっかりと守らなければ、主イエスの教会に対する指導権を失うということです。そして二つ目は、その長老は聖書の教えを自分の生活と、仲間のクリスチャンの生活とに適用できる必要があるということです。長老の御言葉の働きについての、これら2つの側面を注意深く見ていきましょう。    

II. THE AUTHORITY AND TEACHING OF A FAITHFUL ELDER 忠実な長老の権威と教え

A. 聖書における長老の権威の源

教会の中の権威について、多くの誤解がずっと長い間、教会の中で見られます。それは私たちが全て罪人だからです。成熟した信仰者でさえ、誘惑に会い、罪に陥ることがあるのです。私たちはプライドという罠に陥り、自分のアイデアや意見が他の人のアイデアより優れていると考えてしまいます。この世の中で権威を持っていた人たちは、自分たちが教会でも同じように権威を持つべきであると誤解します。しかしイエス様は、使徒たちにそのような誤りに陥らないように警告しているのです。マルコ10:42-45でイエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたも知っているとおり、 異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、 また、 偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、 あなたがたの間では、 そうでありません。 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、 みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、 みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、 仕えられるためではなく、 かえって仕えるためであり、 また、 多くの人のための、 贖いの代価として、 自分のいのちを与えるためなのです。」キリストの教会のリーダーたちは学校や職場や政府の未信者のリーダーたちのように振る舞ってはいけません。長老たちはそれとは異なるべきなのです。

このような、長老の権威の行使に関する誤解は、按手に関する間違った考え方から来ている場合があると思います。多くの人は、長老は按手の際にキリストの教会の中の権威が与えられると言います。長老派の人でさえ、長老は彼を選んだ人たちから権威を委ねられると考えます。政治における民主主義のようにです。しかしそのような証拠は聖書には出てきません。按手はその長老に権威を授与するものではないのです。私の聖書の理解によると、按手礼というのは、長老となる人に対して賜物が与えられる際の儀式なのです。1テモテ4:14-16で、使徒パウロはテモテにこう書きます。「長老たちによる按手を受けたとき、 預言によって与えられた、 あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、 しっかりやりなさい。 そうすれば、 あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、 教える事にも、 よく気をつけなさい。」それでは、テモテが按手を受けた時に与えられた「聖霊の賜物」とはなんだったのでしょうか。もしかすると、それは長老職自体という賜物だったのかもしれません。それとも、長老職を務めるために必要な「聖霊の賜物」という意味も可能でしょう。ローマ12:8でパウロは御霊の賜物を幾つか挙げていて、そこには「奉仕」「教え」「勧め」「指導」が含まれています。これらの御霊の賜物は全て長老にとって必要なものですが、「権威」というものはここでも、そして聖書の他の箇所でも、「賜物」としては言及されていないのです。

にもかかわらず、治める長老は権威を確かに持っています。しかし、その権威は按手から来るものではないのです。その権威は、彼らの教えの内容から来るのです。長老は、神の御言葉を宣言したり教えたりする時に、偉大な権威をもってそれを語るのです。長老の権威は、彼が何を語るかにかかっています。もし彼が聖書、すなわち神の御言葉に従って語るならば、権威をもって語ることになります。もしそうしなければ、その長老に、他の教会員以上の権威はないのです。だからこそ、長老は、ある事柄に関する自分の個人的な意見と、神の御言葉の権威によって行う宣言とを、区別できなければいけません。ある時には、長老は立ち上がって、「神はあなたにこう言っているのです」とはっきり言わなければいけませんが、またある時にはへりくだって、「これは私の個人的な意見にすぎません」としか言うことができないのです。賢い長老はこの区別をしっかりとします。そしてそれに従う信徒たちは、彼の良い判断に信頼するのです。

 教会の中での権威の行使について正しく理解するためには、真の権威の源について知らなければなりません。主イエス・キリストご自身から始めないといけないのです。マタイ28:18-20でイエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「わたしには天においても、 地においても、 いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、 あなたがたは行って、 あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして、 父、 子、 聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、 わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、 彼らを教えなさい。」全ての権威はキリストに属するのです。そしてキリストは使徒たちに権威をお与えになりました。彼らが主の御名によって行き、あらゆる国の人々を弟子とするためです。イエス様は彼らに、バプテスマを授けるという具体的な権威をお与えになりました。つまり、神の契約の家族に入れるという礼典を執行する権威です。また、イエス様は、キリストが命じたすべてのことを新しい弟子たちに教える権威もお与えになりました。この権威を使徒たちに与えることによって、キリストは、世界中で彼らがキリストの御名によって教会をたてる権威をお与えになったのです。キリストは使徒たちに、キリストの御名によって教える権威をお与えになりました。その使徒たちの権威のもとで、聖書は完成され、「キリストの言葉」として教会に受け入れられたのです。しかし、使徒たちは、普遍的な権威を与えられたわけでは決してないことを覚えなければなりません。彼らの権威は、キリストによって厳密に制限されていました。彼らは、キリストの言葉に従い、その言葉を語ることによってキリストの弟子をたてあげることにおいてのみ、キリストの権威を講師したのです。その使徒たちは、そのリーダーとしての責任を、教会に選ぶように教えた長老たちに引き継いでいきました。長老たちは、使徒たちがキリストから与えられた権威と同じ権威が与えられているのです。教会の中で、礼典の執行や、神の御言葉の説教や教えを監督し続けてきたのは長老たちだったのです。使徒の働きを見ると明らかなのは、エルサレムに集った使徒たちと長老たちは、キリスト教会の問題を監督するにあたって、同等の権威を持っていたということです。(使徒15:2,4,6,15,22,23)彼らの権威は、キリストが彼らに命じた教えに根ざしていました。だからこそ使徒パウロはコリントのクリスチャンにこういっているのです。「こういうわけで、 私たちを、 キリストのしもべ、 また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、 管理者には、 忠実であることが要求されます。(1コリント4:1,2)」使徒たちと長老たちは両者とも、彼らに委ねられた神の御言葉を守らないといえないのです。キリストの教会のリーダーたちは、キリストが彼らに委ねられた以上の権威を決して主張してはなりません。何節か後の1コリント4:6,7でパウロはこう書きます。「さて、 兄弟たち。 以上、 私は、 私自身とアポロに当てはめて、 あなたがたのために言って来ました。 それは、 あなたがたが、 私たちの例によって、 「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、 そして、 一方にくみし、 他方に反対して高慢にならないためです。いったいだれが、 あなたをすぐれた者と認めるのですか。 あなたには、 何か、 もらったものでないものがあるのですか。 もしもらったのなら、 なぜ、 もらっていないかのように誇るのですか。」パウロがアポロより優れているわけではなく、アポロがパウロよりも優れているわけでもなく、彼らは両者とも、与えられた神の御言葉を語らないといけないのです。そして、だれも書かれていることを越えてはいけません。書かれた神の言葉である聖書は、使徒たちの時代でさえ、唯一の真理の基準であり、権威の源だったのです。誰も、パウロですら、聖書に書かれていることを越えることはゆるされませんでした。教会において、聖書がただ一つの私たちの権威の源です。長老ではなく、牧師でもなく、人々でもなく、教皇でもなく、神の御言葉こそが、全ての権威の源なのです。神の御言葉こそが私たちの人生を支配すべきです。そして長老の権威は、その言葉を語るところからくるのです。

 B. 忠実な長老の教え

 もし私たちが長老の権威の真実な源を認識するなら、教会における長老たちの第一の働きの重要性を理解することができます。それは、「御言葉の働き(I’m not sure whether this the right word for “ministry”)」と呼ばれるものです。使徒パウロは9節でこう言います。「教えにかなった信頼すべきみことばを、 しっかりと守っていなければなりません。 それは健全な教えをもって励ましたり、 反対する人たちを正したりすることができるためです。」長老は教会の弱い信徒を、彼らに対する御言葉の「健全な教え」によって励まし、建てあげる準備をしなければいけません。そして長老は、その健全な教えに反対する人たちと戦う準備をすることも必要なのです。

 パウロは、クレテ島には「反抗的な者、 空論に走る者、 人を惑わす者」が大勢いると言いました。彼らの多くはユダヤ人で、自分の権威を示したり、自分の作り話や、異教的な考えに基づく意見を広めようとしました。彼らのうちのあるものたちは、「不正な利(11節)」を得るためにこれをしたようです。パウロはテトスに対して、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守る長老たちのみが、このような空論に走る者、人を惑わす者たちに対して権威を持って語り、彼らを論破し、正すことができるのです。そして長老たちはこれをしなければなりません。家族全員がにせ教師たちによって悩まされているとき、それを止めないといけないのです。かつてのクレテのように、今日においても新しい宗教やカルト、様々な異教の教師たちがいます。彼らは偽りをいい、不誠実で、世的で、肉欲的で、怠惰です。彼らは、簡単にお金持ちになる方法がある、というように偽りを教えます。有名な牧師やテレビの伝道者たちの中にも、このような人たちがいます。彼らをどのように黙らせることができるでしょうか。健全な教えによって、すなわち神の御言葉の真理によって、彼らを論破することによってのみ、それができるのです。パウロは13節で、このような人たちは「きびしく戒め」られなければならないと言います。彼らの誤りに対しては、確信を持った権威にもとづく、神の御言葉の教えによって反対され、正されなければならないのです。これが長老の働きだとパウロは言います。

 忠実な長老たちが神の御言葉を適切に用い、無知で不道徳な人たちの誤りと戦うなら、その迷える子羊たちの幾人かをキリストの群れへと連れ戻すことができるかもしれません。しかし、明白な神の御言葉に直面してもなお、考え方を変えて罪を悔い改めないものたちもいるでしょう。そのようなにせ教師たちは、説得されることがないのです。パウロは15-16節でこう言っています。「彼らは、 神を知っていると口では言いますが、 行いでは否定しています。 実に忌まわしく、 不従順で、 どんな良いわざにも不適格です。」このような人物が教会のリーダーとなる場合、悲劇的なことが起きます。彼らは教会を迷わせ、彼らに盲目的に従うものたちはそれによって苦しむのです。一方で、パウロはテモテに2テモテ3:16-17でこう書きます。「聖書はすべて、 神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、 神の人が、 すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」この神の御言葉によって教会を導こうとする長老たちは、教会に祝福と平安をもたらすのです。これが、長老に与えられた最も重要な働きなのです。この理由で、パウロはテトスに2:1でこう言います。「しかし、 あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」

3.結論

 私たちは長老を選ぶ時、彼は「神の人」であり、神の御言葉との関わりにおいて「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者」でなければなりません。彼は「キリストのしもべ」として、自分自身が主イエスキリストに従い、キリストの羊を牧会しなければなりません。彼は「御言葉の働き人」でなければならず、彼の働きは、私たちの魂を満たさなければなりません。執事が私たちの肉体の物理的な必要を満たすようにです。魂を育てることが、長老の主な働きです。だからこそ、彼は「教えること」ができなければならないのです。彼は、信頼すべきみことば、健全な教えをしっかりと保っていなければなりません。そして、必要な人に神の御言葉を語る勇気と知恵と恵みが必要です。そして何よりも、神の長老は、神の御言葉の人でなければならないのです。彼自身が神の御言葉によって生きるように勤め、他の人を同じ神の御言葉で導くのです。若い友であり、新しい長老であるテモテに対してパウロは1テモテ4:16でこう書きました。「自分自身にも、 教える事にも、 よく気をつけなさい。 あくまでそれを続けなさい。 そうすれば、 自分自身をも、 またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」このような人物をクレテの教会に立てるために、テトスは遣わされたのです。そして、このような人物を私たちは日本の教会でも長老として求めないとならないのです。

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