キリストを離れる危険

KASUMIGAOKA  
2018/02/11 
SERMON: 「キリストを離れる危険」“The Danger of Falling Away From Christ”
TEXT: Heb. 6:4-12  

I. INTRODUCTION イントロダクション

かつては熱心なキリスト教徒でありながら、献身的なクリスチャンとしての生活に興味がなくなってしまったような人は皆さんの周りにいるでしょうか?イエス様は、マタイ13:20-22で、そのような人々について「種まきのたとえ」でこう述べました。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとが、みことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」このたとえ話では、福音を聞き、しばらくはそれに応答しますが、最終的には離れてしまい、実を結ばない2種類の人たちについて言われています。彼らは最初はクリスチャンのように見えますが、そのキリスト教信仰に立ち続けないのです。実際には、キリストを公然と捨てて、かつてのクリスチャンの兄弟姉妹に背を向ける人もいます。皆さんの周りにはこのような人々はいるでしょうか。クリスチャンが直面しなければならないのは、ひどく悲しい痛みを伴う現実です。誰かが、たとえば親しい友人や家族が、キリストに従うことから離れてしまった時、私たちはなんとしてでも、その人たちを連れ戻したいと思うはずです。しかし、私たちには、何をすることができるでしょうか?私たちは何をすべきでしょうか?これが、ヘブル人への手紙6章で取り扱われている問題です。信仰から「離れた」人々の状態を詳しく見て、次に私たちクリスチャンの応答がどんなものであるべきかを考えましょう。

II. THOSE WHO HAVE FALLEN AWAY FROM CHRIST キリストから離れた者たち(6:4-8)

直前の箇所では、ヘブル書はすべてのクリスチャンに対して、「死んだ行いからの回心などの基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう」(6:1)と言って、成熟に向けて進むように勧めました。しかし、4-8節では、私たちは、悔い改めが、常に真のクリスチャンの信仰と人生の堅い基礎であり続ける必要があると言われています。それは、私たちが救い主イエス・キリストを求めるように導く悔い改めです。心から本当に悔い改めるまで、その人は、神の御前に罪深く無力な状態であるという現実を意識できていないのです。人は悔い改めるまでは、自分の問題を自分で解決し、自分のあやまちや悪事をつぐなうことができると通常思っています。この悔い改めとは、「心の変化」をもたらす悔い改めです。実際、ギリシア語で悔い改めを意味するメタノイアという言葉は、「心の変化」という意味の言葉です。ウエストミンスター小教理問答の問87に対する答えはこうです。「生命に至る悔い改めとは、救いの恵みであって、それによって罪人が、罪の自覚とキリストにある神の恵みの理解とから、その罪を悲しみ、憎み、新しい服従への充分な決意と努力とをもって、罪から神へ立ち帰るのである」。この優れた悔い改めについての説明の要点は、罪から離れるということと、神に立ち帰るということです。言い換えるなら、悔い改めは心の根本的な変化です。真のクリスチャンになるすべての人は、この心の根本的な変化を経験します。真の悔い改めの経験は、聖なる神の要求を満たすために、もはや私たちは自分の力や良さに頼ることができないということを示しています。この意味で、今日の箇所の1節と6節で悔い改めという言葉が使われているのです(日本語の訳では1節は「回心」となっています)。これはイエス様がこう述べ伝えられたこととも同じだと思います。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めとは、罪深さと贖いの必要性を認識する心の姿勢です。救いに至る信仰のためには悔い改めが必要です。なぜなら、私たちが自分の罪深さを十分に意識しているときにのみ、自分の人生を私たちの救い主であるイエス・キリストに委ねるからです。

このような理由で、ヘブル書が4-8節で言っていることは非常に重要です。この箇所では、もしクリスチャンとしての信仰から「堕落してしまう」なら、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と強調して言われています。実際、4節から6節までのギリシア語の文章の最初の言葉は、「できません」という言葉です。これは、キリスト教信仰から離れてしまうことに対する、とても強い警告です。もしそうなってしまった場合、悔い改める二回目のチャンスは与えられないのです。ここでヘブル書が悔い改めについて語っていることと、他の聖書の箇所が、私たちの罪を告白し、赦しを求めることについて教えていることを、しっかり区別しなければなりません。例えば、イエス様は弟子たちに、このように祈るように教えられました。「主の祈り」です。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:11-12)。私たちは日々の糧について祈るように、日々、罪、すなわち「負いめ」を神に告白し、赦しを求めるべきなのです。悔い改めとは、私たちの罪深さと、毎日赦しが必要であることを認識する心の姿勢です。もし誰かがキリストから離れたとしたら、その人は、もはや自分が、救い主が提供する赦しと贖いが必要ではないと考えているのです。そのような場合、ヘブル書は、その人を悔い改めに立ち返らせることは不可能であると言います。

キリスト教会の初期の時代には、迫害を免れるために信仰を否定した、バプテスマを受けたクリスチャンは決して二度と許されないと主張する特定の異端(ノウァティアヌス派やモンタヌス派など)がありました。もしその人達が涙を流して悔い改め、赦しを願ったとしても、このような教会の一部は、その教会員が教会に立ち帰ることを拒否しました。そしてヘブル書の今日の箇所は、彼らの厳しい教会戒規の理由として用いられたのです。彼らの理屈は、悔い改めが回心の時の一回しか許されないのであれば、それ以降の罪は赦されないというものでした。したがって、敬虔な聖徒の間ですら、信仰告白やバプテスマは、ずっと長い間、人生の終わりのときまで先延ばしにされたりもしました。またある人たちは、殉教の血が自分の罪の代価を支払うことができると主張していたので、ある熱心な信者たちは信仰のゆえに殉教して、罪を未来のいのちに持ち越さないようにしたのです。

しかし、ヘブル書はこの箇所で、「通常の」罪に関する告白と赦しについて語ってはいないと信じることができる理由があります。4-5節と6-8節との間の大きなコントラストに注目してください。4-5節は、キリストから「離れた」人々が以前に経験した特権や恵みのいくつかを示しています。これらが何を表しているのか、今全てを説明するつもりはありません。しかし、堕落した人たちは、かつてクリスチャンとしての豊かな生活の中で、完全なパートナーとして愛され、尊敬されていたことは明らかです。彼らは、主イエス・キリストや、御言葉の説教、聖礼典、聖霊の力などによって、神の恵みの多くを味わいました。しかし、これらすべての祝福にもかかわらず、彼らは主キリストを離れたのです。そして今、彼らは悔い改めずに公然と罪の中に生きています。そして、さらに悪いことに、彼らは、かつて従っていた救い主に、恥ずかしげもなく反対しています。ヘブル書は、「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」であると言います。言い換えるなら、堕落した人たちは、今や、主イエス・キリストと、その御国に対して、積極的な敵意の中で生きているのです。そして彼らは、自分たちによって、イエス・キリストの尊い御名が冒涜されていることも気にしないのです。

次の2つの節(7-8節)はもう1つの対照を示しています。今度は、神に仕え続ける、忠実なクリスチャンと、堕落してしまった者との対比です。この箇所の比喩は、イエス様の種まきと土地のたとえに似ています。7節は、忠実な信者がどのようにして神の恵みを受けるのかを、「しばしば降る雨を吸い込む土地」として描いています。この土地は、「これを耕す人たちのために有用な作物を生じる土地」であり、「神の祝福にあずかる」のです。そして8節は、神が望んでいた「果実」をもたらさなかったために、堕落した人たちが受ける、やむを得ない結果を示しています。「しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」このたとえから明らかなように、堕落した人々は、罪の深刻さにかかわらず、単に「罪に陥った」だけではありません。むしろ、これらの人々は、かつて彼らが信じた信仰と救い主を、大胆に放棄したのです。ヘブル書は、このような「かつてのクリスチャン」を悔い改めに立ち返らせ、救いに戻すことは「不可能」であると教えています。それでは、この場合、クリスチャンはどのように教会の元会員と接するべきでしょうか。

III. HOW CHRISTIANS SHOULD RESPOND TO MEMBERS WHO HAVE FALLEN AWAY

クリスチャンはどのように堕落した元教会員に応答すべきか(6:9-12)

いままで見てきた箇所は、キリスト教信仰から離れる危険についての警告を含んでいましたが、今日の箇所のメッセージの中心は、離れる危険のある人のためではないと思います。今日の箇所の主なメッセージは、キリストの教会に残っている忠実な兄弟姉妹のためのものです。それは励ましと慰めのメッセージです。著者が9節でどのように優しく言っているかを見てください。「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」さらに、キリストのからだに属する忠実な教会員たちは、堕落した人々に彼らがどのように応答したかで、「叱責された」と感じるべきではありません。彼らは当然、深刻な悲しみと心配を、離れた者たちに対して感じました。おそらく、彼らは離れた人たちを立ち返らせるために、大きな努力してきたでしょう。しかし、結局それらは効果がありませんでした。彼らは堕落した人たちを立ち返らせることができなかったのです。愛するヘブル人クリスチャンへのこの手紙は、彼らが自分自身を責めるべきではないと伝えています。誰もそのような堕落した人々を、真の悔い改めと救いに立ち返らせることはできないのです。なぜなら、大いに祝福されたにもかかわらず、いまだに堕落している人々は、「悔い改めに立ち帰る」ことが「不可能」だからです。穏やかに語られたこれらの言葉は、かつての教会員たちがキリストに立ち帰るように説得することができなかった、忠実な兄弟姉妹の心を慰めるためだったと思います。

これらの忠実なクリスチャンたちが、もし背教の罪の重大さを認識していなかったとしても、「迷子の羊」を立ち返らせようという彼らの熱意は、賞賛されています。使徒パウロの嘆きを覚えているでしょうか。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい…」(IIテモテ4:10)そして、パウロは友人を失ったことをこのように嘆いています。「ヒメナオとピレトは」...「真理からはずれてしまい…」(IIテモテ2:17-18)しかし、それにもかかわらず使徒パウロはテモテにこう勧めています。「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」同じように、ヤコブは次のような励ましの言葉で手紙を締めくくっています。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」ヤコブ5:19-20)

このヘブル人への手紙の著者は、パウロやヤコブの言葉と同じような愛情を持っています。クリスチャンにとって、堕落した罪人を、かつて告白していた信仰と希望に立ち帰らせるために、自分の行ないであらゆることを試みることは、良いことであり、必要なことです。ヘブル6 :10でこう言われているとおりです。「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」これは、適切な戒規を怠ったことに対する、厳しい叱責の言葉ではありません。むしろ、教会に対して、混乱し迷子になっている教会員を見捨てること無く、キリストの教会の家族としての安全に立ち帰るように努力することを励ます言葉です。確かに、それは常に成功するとは限りません。時には、失われた人々を取り戻そうとする努力によって、無駄な時間やエネルギーをさかれることもあります。私たちは教会に属している、お互いの心を知りません。しかし、神様は私たちをご存じです。そして、私たちが主と救い主とに忠実であり続け、互いに助け合おうとするとき、神様は私たちの行ないと愛を忘れずにいてくださいます。ヘブル6:11-12の言葉もまた、ご自身の教会に対する神の御言葉です。「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

IV. CONCLUSION 結論

今日の箇所の学びの締めくくりとして、すべての忠実なクリスチャンに与えられた、実践的な励ましを覚えましょう。まず第一に、神が望まれる人に無償で与えられる、悔い改めという賜物がどれほど貴重なものなのかを覚えましょう。それは、私たち自身の行ないの無意味さと、堕落した罪深い状態の悲惨さに目を向ける悔い改めです。救い主であるイエス・キリストを求め、受け入れるために、私たちの心を開くのは悔い改めです。

第二に、キリストの教会で私たちが言い、行うすべてのことを導かなければならない、愛の律法を覚えましょう。もし私たちが互いに愛しあっているなら、互いに助け合い、励まし合おうとするはずです。教会で罪深い態度や行動を見たとき、黙ったままではいないのです。しかし、私たちは、仲間の罪人を誤った道から優しく立ち返らせようとするとき、「愛を持って真理を語る」のです(ヤコブ5:20)。言葉や知恵は助けにはならないこともあるかもしれませんが、愛は決して失敗しないのです。

したがって、第三に、このことを行なう愛と勇気を、神の御霊が私たちに与えてくださるように、互いのために祈りましょう。長老として働く私たち二人が、羊飼いのように忠実であり、怠惰で臆病にならないように、私たちのために祈ってください。そして、互いに祈りあいましょう。主が恵みと御力の安全に私たちを結び合わせてくださるためにです。主イエスがご自身の御名の栄光のために、教会を建てあげてくださるように祈りましょう。

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キリストを離れる危険 への2件のフィードバック

  1. 本田 幹夫 のコメント:

    私は、以前はキリスト教会に通っていましたが、現在は教会を離れていってしまった者です。
    その時は、クリスチャンを辞めるすもりで引っ越しをしました。

    通っていたのは、プロテスタントの教会でした。
    因みに洗礼は2002年にその教会で受けました。

    なぜ、クリスチャンを辞めたのかというと、キリスト教では、現在の日本だと一部の人しか救われないのでは思い、仏教の方が良いのではないかと思ったからです。 クリスチャンだった頃から仏教にも関心を持ち、関連する書籍を読んだりしていました。

    しかし、住む場所を変えて3年位になりますが、
    何をしても上手くいかずに、現在生きるのがやっとの状態です。

    一度、信仰から離れた者は、もう悔い改める事は出来ないという事が聖書に書いてあるようですが
    僕の場合も、もう悔い改めは出来ないのでしょうか。

    今、思い返してみると、クリスチャンだった頃の方が苦労は多かったけれども、なにもかもが上手くいっていた様に思います。

    聖書の「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人はもっているものまでも取り上げられる」という箇所が頭に浮かびます。

    一応、洗礼を受けた時に頂いた聖書と後から購入した讃美歌集はなんとかまだ手元にあります。

    お返事貰えると有りがたいです。

    • 平田 裕介 のコメント:

      お返事が遅くなり大変申し訳ありません。
      現在霞ヶ丘教会の牧師をしております、平田裕介と申します。

      個人的なやりとりになりますので、もしよろしければ下記のメールアドレスにメールをいただけますでしょうか。

      kasumigaokarpc@gmail.com

      折り返し返信をさせていただきます。

      主にありて
      平田 裕介

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