我らの大祭司となられたイエス・キリスト

KASUMIGAOKA  
2018/01/28 
SERMON: “Jesus Our High Priest”「我らの大祭司となられたイエス・キリスト」
TEXT: Heb. 5:1-10

I. INTRODUCTION イントロダクション

ヘブル人への手紙の内容と題名を考える時、この手紙の主なテーマの一つは、ヘブル人の宗教の中で最も尊敬されるすべての要素に対して、イエス・キリストが勝っているということです。実際、イスラエルの宗教は、イエス・キリストの御業によって、その目的が成就しています。この手紙の中で私たちが既に見てきたことを考えてみましょう。第一に、御使いは神の創造物の中で最も栄光あるものとしての栄誉を与えられましたが、イエス様は御使いよりはるかに優れています(1:3-4)。イエス様は神の御子であり、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ(1:3)」です。第二に、モーセは、民を一致させ、エジプトでの奴隷状態から導き出した、イスラエルの最も優れたリーダーとして尊敬されました。しかし、イエス様はモーセよりも優れたリーダーです。イエス様は従う者を、神の約束された「安息」に導かれるからです。今日の箇所では、イエス様は、イスラエルの最初の大祭司であるアロンよりも優れた大祭司であると描写されています。

5章から7章には、イエス・キリストがイスラエルの大祭司の中で最も優れた方であり、他の大祭司は必要ないことが示されます。実際、イエス様は、旧約聖書のイスラエルの宗教が示す人間の霊的な必要や宗教的な必要を全て満たされるお方です。最初の人アダムは、聖なる創造主である神に反抗し、自分自身とその子孫のすべてを、傷つき、堕落した罪深い状態へと導きました。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちを神の恵みに戻してくださいます。この偉大な大祭司を通して、私たちは神の前に大胆に進み出て、ヘブル書4:16に記されているように、「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受け」ます。偉大な大祭司であるイエス様を信じる信仰は、最初の先祖が不従順によって失った、私たちの創造主との祝福された関係性を回復します。これが、旧約聖書の祭司といけにえの目標です。生ける神との交わりに私たちを戻すのです。そして、イエス様はこれを達成してくださったのです。

大祭司とその働きのテーマは、先週の箇所であるヘブル4:14-16で最初に出てきました。この箇所で、イエス・キリストは私たちの完全な大祭司であることを学びました。キリストは完全で究極の大祭司です。なぜなら、第一に、キリストは神の御子であり、罪を犯されなかったからです。しかし、イエス様が「私たちの弱さに同情できない方ではない(4:15)」ことと、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」という事実も重要です。言い換えれば、イエス様は神の御前で自分が代表となっている人々を理解されているということです。イエス様は私たちの弱さと、私たちが毎日直面している誘惑や罪の強力な影響力を理解されています。しかし、イエス様は私たちのような弱くて罪深い人々を拒否されることはありませんでした。使徒パウロがローマの教会にこう書いているとおりです。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:6)。今日の箇所では、ヘブル書は1-4節で大祭司の義務について教えています。これは、旧約聖書の礼拝の様式の中での祭司の奉仕に関する一般的な記述です。そして5-10節では、なぜイエス様が偉大で最後の大祭司なのかが語られます。この箇所でヘブル書が私たちに語っていることを、さらに詳しく見ていきましょう。

II. GENERAL DUTIES OF A HIGH PRIEST IN ISRAELイスラエルにおける大祭司の一般的な義務 v. 1-4

まず第一に、1節は、大祭司が人々を「代表する」者であると言います。「大祭司はみな . . . 神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。」大祭司は、幕屋もしくは、後 の神殿に入って、神の御前にイスラエルの民のためのあわれみと助けを懇願する「代理」のような存在でした。この代表するという考え方は、旧約聖書におけるイスラエルの宗教を通して見られるものです。この考え方の一つの効果は、霊的な傲慢という誘惑に抵抗することでした。大祭司でさえ、彼が代表する人々よりも「良い」というわけではなかったのです。忠実な大祭司は、「人々の中から選ばれる」べきでした。大祭司は自分自身の民の一員であるため、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」他の多くの宗教あるいはいくつかのキリスト教の、尊敬される霊的な指導者とは異なり、イスラエルの大祭司は、彼が代表する人々の近くにいる必要がありました。彼は、「普通の人々」からはるか遠い、近づくことのできない「象牙の塔」に立っていたわけではないのです。大祭司は自分の弱さと罪深さを決して忘れてはいけません。「その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。」(3節)。

第二に、大祭司は「罪のために、ささげ物といけにえとをささげる」ために任命されたと書かれています。祭司は定められたささげ物やいけにえ無しに、神の御前に入ることはできませんでした。罪のための捧げ物は、イスラエルの人々が霊的に「傷がある」ということを常に思い起こさせるものでした。毎日、祭司は民の罪のために、朝と夕のいけにえをささげました。ささげ物といけにえは、人々の罪の深刻さを示したのです。彼らの罪は、血を注ぐことによってのみ消されることができました。神に対して罪を犯す、すべての人は死ななければならないのです。それが、神がお定めになった基本的なルールでした。神様はアダムに対して、わたしに背くなら、すなわち、「善悪の知識の木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃいました。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)。いけにえとなったすべての子羊や山羊や雄牛、そしてその日々のいけにえの一滴一滴の血は、すべての人が神への不従順によって被る刑罰を思い起こさせるものなのです。祭司の仕事は、人間の罪深い状態の深刻さを常に思い起こさせるために、神様が定められたものです。人間は誰も、祭司でさえも、のんきに神の御前に出て、恵みを求めることはできません。神からの恵みを求める前に、祭司はまず自分の罪と民の罪とを告白しなければならず、ふさわしいいけにえを捧げなければなりませんでした。「罪のためのささげ物といけにえ」は、祭司のへりくだった、悔い改めの心のしるしとして要求されたのです。そして、祭司は民の代表だったので、いけにえの血は、礼拝者の悔い改めの心を示すことも意図されていました。神がご自身の民からお求めになるのは、へりくだった、悔い改めを伴う、従順な心です。この真理は、しばしば預言者のメッセージの中で繰り返されました。ダビデも詩篇51:16-17でこう書いています。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

大祭司について言われている三番目のことは、「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。(4節)」ということです。すべての人の心をご覧になる神は、ご自身に仕えるように大祭司を召されます。言い換えるなら、大祭司として奉仕するには、まず神によって承認されなければなりません。それは、通常の祭司が自分の努力によって「得る」ことができるような職務ではなかったのです。ヘロデのような王が勅令によって任命することができるような職務ではありませんでした。(実際ヘロデは在位中に大祭司を自ら任命しました。)むしろ、モーセの兄であるアロンが、神によって最初の大祭司として働くように任命されたのと同じように、後に続くすべての大祭司は、同様に、人間ではなく神によって召され、その地位で仕えるようになったのです。   

 III. JESUS OUR GREAT HIGH PRIEST 私たちの偉大な大祭司であるイエス様 v. 5-10

5-10節では、なぜイエスが私たちの偉大な大祭司と呼ばれているのかを学ぶことができます。イエス様はどのようにして大祭司の職務の要件を満たしているでしょうか。第一に、ヘブル書の著者は、「キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではない」と言います。実際、神様は御自身に仕え、イエス様に従う者の代表となるように、イエス様を召しておられます。このことを証明するために、2箇所の詩篇の引用がなされています。詩篇2:7で、神様はキリストにこう言われます。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」この宣言がいつ行われたのかといえば、それは世界が造られる前、すなわち永遠の昔になされたと結論づけなければなりません。ご自身の御子が大祭司として仕え、神の民を贖うためのいけにえを捧げるというのは、神様の永遠の目的でした。二番目に引用された詩篇は110:4です。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」ここでは二つの事がらが宣言されています。第一に、神の御子であるイエス様は、大祭司として永遠に奉仕できる唯一の者であるということです。なぜなら、イエス様は神の御子であるからです。そして第二に、イエス様が属する大祭司という職務の分類です。ユダヤ人は、アロンの子孫である祭司職しか知りませんでした。しかし、この箇所は、アロンとその子孫のはるか前に生ける神から召された祭司が、少なくとも一人はいたことを思い起こさせます。それは祭司メルキゼデクでした。彼は、軍事的な働きを成功させて帰ってきたアブラハムと会った、いと高き神の神秘的な祭司でした。メルキゼデクはアブラハムを祝福し、アブラハムは戦闘で得た戦利品の十分の一を捧げることで、メルキゼデクの祭司としての働きを認めました(創世記14:18-20)。ヘブル書7章で、メルキゼデクについては、もっと聞くことができます。著者がここで強調している点は、これらの2つの詩篇の預言の言葉が、イエス・キリストを指し示し、イエス・キリストが彼自身で大祭司の栄誉を得られたのではないということを示しています。むしろ、イエス様は、短い期間だけではなく、永遠に、父なる神によって召され、大祭司の職に任命されました。メルキゼデクの位に従い、「永遠に」祭司なのです。だからこそ、キリストの後に、別の大祭司が必要になることはありません。キリストこそが完全で最後の大祭司なのです。

7-8節は、イエス様が本当に私たちのような人間だったので、ご自身の民を代表する資格があるといいます。イエス様は一人の人間としてこの地上で生涯を送られました。そしてイエス様は他の人たちと同じ種類の弱さによって苦しまれました。イエス様は神の御子でしたが、同時に人の子でした。そして、すべての人が従順を学ばなければならないために、「苦しみによって」従順を学ばれたのです。それは、イエス様が、この地上で成長され生涯を過ごされる中で、私たちと同じような種類の訓練に耐え忍ばれたということだと思います。イエス様は私たちが人間として学び、成長するためのあらゆる形の訓練をお受けになりました。しかし4:15を読むと、イエス様は罪をおかすことなく苦しむことによって、従順の重要性を学ばれたという点で、私たちとは異なっていました。何よりも、イエス様は天の御父に常に従順でした。イエス様の最終的な従順の行為において、私たちが想像できないほど苦しまれました。イエス様は十字架上で死ぬことによって、ご自身の命を私たちの贖いのためのいけにえとして捧げられたのです。そして、イエス様はそのいけにえを捧げられたとき、「スーパーヒーロー」やロボットではなく、一人の人間としてそうされました。イエス様は完全に人間であり、地上でのご自身の人生の間、「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(7節)」言い換えるなら、イエス様は、神様が私たちのために提供してくださったの、と同じ恵みの手段をお用いになったのです。イエス様は人間としての生涯のすべての課題のために、御父への祈りに頼っていました。そして、イエス様は聞き入れられたのです。それは、天との特別な「つながり」があったからではなく、ご自身の敬虔さ(敬虔な服従)からです。イエス様は地上で生きられた間、天の栄光を放棄されたように、神としての特権をも放棄されました。イエス様が一人の人間として生きられたからこそ、父なる神の御前で私たちを代表することができたのです。私たちと同じように生き、人間がすべきなように服従を学ばれ、私たちが苦しむように苦しみ、私たちが祈る必要があるように祈られたのです。しかし、イエス様は、天の御父が完全に認めてくださるように、これらのことをすべて行なってくださいました。御父は御子に対して何度か、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」とおっしゃったようにです。

イエス様はお働きの中で、ご自身が常に天の御父のみこころを行うことに尽力していたことをお示しになりました。イエス様は、最終的にご自分の民を罪から救う究極の贖いのいけにえを捧げるために、自分が大祭司に任命されたことを理解していました。そして、繰り返し、これが御父の目的であると弟子たちに語られたのです。人の子は苦しみ、死ななければならない。イエス様がこの偉大なご自身のいけにえについて祈られた最後の場面で、弟子たちにこうおっしゃいました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マタイ26:38)そして、イエス様は切に祈られました。「汗が血のしずくのように地に落ちた(ルカ22:44)」ほどにです。しかし、イエス様は十字架に直面することへの悲しみと恐れにもかかわらず、天の御父のみこころを実行するという決心から離れませんでした。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られたのです。イエス様は完全な大祭司の心をお持ちでした。イエス様は天の御父に完全に従順で、御父を愛されました。そしてイエス様は御自分のいのち以上に、弟子たちを愛されたのです。私たちの偉大な究極の大祭司として、イエス様は御父の贖いのご計画に完全に従われました。そして、「完全なものとされ」、すなわち、御父の完全なみこころを実行した後、「彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者」となられたのです(9節)。

IV. CONCLUSION 結論

だからこそ、ヘブル書は4:14でこういうのです。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブル書7:26-27はこう言います。「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」私たちは、神の永遠の栄光への道を開いてくださった偉大な大祭司を持っているので、大胆に神の恵みの御座に近づこうではありませんか!

ローマ5:8にはこう書かれています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」神と人への大きな愛のゆえに、イエス様は大祭司の職を喜んで受け入れられ、その務めを果たされました。他のすべての大祭司はいけにえとして動物を神に捧げましたが、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのためにご自身の肉と血のいけにえをささげてくださったのです。この大祭司を通してのみ、私たちは神様と和解させられ、ついに罪が赦されました。私たちの誰もが自分自身のためにできなかったことを、キリストが私たちのためにしてくださったのです。こういう訳で、我らの偉大な大祭司なるイエス・キリストの御名前が永遠にほめたたえられますように!アーメン。

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