天の故郷にあこがれる信仰

KASUMIGAOKA   2018/05/20 
SERMON: “Faith Longs for Heaven” 「天の故郷にあこがれる信仰」
TEXT: Heb. 11:8-22   

I. INTRODUCTION イントロダクション

先週から、ヘブル書11章に書かれている「信仰」についての学びを始めており、前回は最初の8節を見ました。そして前回は特に6節に注目しました。なぜなら、6節は聖書信仰の2つの中心的な内容を説明しているからです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」まず第一に、キリスト教信仰は、見ることが出来ない神様の現実に堅く根ざしたものでなければなりません。それは神を中心とした信仰です。そして第二に、キリスト教の信仰は、私たちのすべての必要を与えてくださる神様に目を向けるような信仰でなければなりません。このような信仰は神様を喜ばせます。今日の箇所は、アブラハムとサラ、そしてその子孫のイサク、ヤコブ、ヨセフの具体例から、真のキリスト教信仰のもう一つの重要な側面(そくめん)を示しています。信仰について、今日の箇所の中心的な内容は、16節に見ることができます。「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷(こきょう)、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」言い換えるならば、真の信仰はこの世界の物質的なもので完全に満足することは決してありません。真の信仰は、この堕落した世界の中で見つけることができるもの以上の何かを求めるのです。このことの意味について考えていきましょう。

II. REAL FAITH SEEKS “SOMETHING” MORE 真の信仰はこの世の物以上のものを求める

まず第一に、真の信仰は天の現実に対して私たちの目を開きます。信仰によって、私たちは、「いのち」自体が物理的、物質的な存在以上のものであることを理解するのです。人間は生物学の工場で科学者がいつか作ることができる非常に複雑(ふくざつ)な「機械(きかい)」ではありません。もちろん、一部の人々はこれに同意しません。彼らは、人工知能(じんこうちのう)や人間の五感を持った「よりよい人間」を、将来科学が実験室(じっけんしつ)で生み出すことができると考えます。しかし、実際には、それは決して「ロボット」以上のものではありません。神様だけが人間のいのちを創造することができます。なぜなら、人間のいのちの本質は「神のかたちに創造された」ということだからです。神様のかたちに造られた人間は、堕落した罪の状態にあってもなお、その創造主の似姿(にすがた)としての性質を持っています。この神の似姿という性質を持っているからこそ、人間は自分より劣(おと)る存在とのかかわりだけでは満足しません。人間は肉体以上のものであるため、満足して幸せになるためには、「霊的な存在」とのかかわりが必要なのです。このような憧(あこが)れは、他の人間との関わりとの中で、部分的に満たされます。ちょうど神様がエバをお与えになった時に、「ふさわしい」助け手が与えられて喜んだアダムのようにです。しかし、究極的(きゅうきょくてき)には、この霊的なかかわりを求める信仰の欲求(よっきゅう)は、神様ご自身によってのみ満足されなければなりません。

第二に、人間は物質的なものだけで完全に満足できないため、神様が人間と約束を結ばれる際には、その約束には霊的、あるいは天国的な「要素」が含まれています。神様は人間に物理的な祝福をお与えになった時、それは 、主に信頼することを学ぶために、そして同時に提供されたさらに偉大な霊的な祝福を彼らが求めるようになるためでした。ヘブル書で既(すで)に、地上の神殿における動物のいけにえは、天の現実の単なる「影」と「写し」であることを見てきました。雄牛(おうし)や山羊、子羊のいけにえは、イエス様が十字架上で死なれたときに与えてくださった本当の贖いのいけにえのしるしでした。この11章でヘブル書は、アブラハムやサラに大いなる物質的な祝福を神様が約束されたとき、信仰によって彼らは「さらに」何かを求めていたということを示します。彼らは約束の地(ち)、物理的な子孫、そして繁栄(はんえい)がしるしとして示した霊的な祝福を求めたのです。このことについての証拠(しょうこ)は、少し後に見ていきます。

第三に、たとえ約束された物質的な祝福が彼らの期待を満たさなくても、約束を受けた者は落胆(らくたん)しませんでした。彼らは神様が約束を守らなかったとは思わなかったのです。彼らは、神様の最高の祝福が、天国で彼らのために確保(かくほ)されていることを理解していました。これらのことを念頭(ねんとう)に置いて、今日のヘブル書11章に示される信仰の例を見ていきましょう。

III. THE FAITH OF ABRAHAM, SARAH, AND THEIR DESCENDANTS アブラハム、サラ、そしてその子孫たちの信仰

8〜12節は、アブラハムとサラがどのようにして神様の召命(しょうめい)と約束に応答(おうとう)したのかを示しています。アブラハムとサラは信仰によって、二つのことを行なう必要がありました。まず第一に、神様の指示に従うことを通して、信仰を証明しなければなりませんでした。神様が要求されたのは、簡単な要求ではありませんでした。彼らは自分の持ち物を荷造(にづく)りし、親(した)しみのある家や友人を後(うしろ)にしなければならなかったのです。彼らは長い旅に向けて出発しなければなりませんでした。地図やナビも持たずにです。「信仰によって、アブラハムは、相続財産(そうぞくざいさん)として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」つまりアブラハムは自分のカルデヤの地の自分の相続地を残して旅立ち、その行動によって信仰を示したのです。なぜならアブラハムは、より良い遺産(いさん)を与えてくださる神様を信じていたからです。アブラハムとその家族は、恵まれた肥沃(ひよく)なメソポタミアの土地に、遊牧民(ゆうぼくみん)として暮らす必要はありませんでした。メソポタミアには、アブラハムの時代にも、進(すす)んだ文明(ぶんめい)があり、都市(とし)や豊かな経済がありました。しかし、神様によって導かれた土地で、アブラハムはどのような人生を送ったでしょうか。9節は、それがいままでとは全く異なった、非常に困難な生活だったと言います。それにもかかわらず、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕(てんまく)生活をしました。」アブラハムは、カナンの地で長年(ながねん)の間(あいだ)他国人のようにして生活しながら、その行ないによって神様への信仰を証明したのです。しかしアブラハムとサラは、その行動に基づく従順によって信仰を示す以上のこともしたのです。

彼らは待つことによって信仰を示しました。実際、行動をおこすよりも待つことのほうが難しい場合もあります。皆さんはどう思いますか?何かをすることのほうが簡単でしょうか。それとも、忍耐深く待つことのほうがやさしいでしょうか。多くの人にとって、神様が約束を守ってくださるのを待つことのほうが、より難しいと思います。神様はアブラハムとサラに対して、住むための土地を与え、家庭に子供を与え、そして世界の全ての民と祝福をともにすることを約束されました。神様がこの約束をお与えになったとき、彼らはすでに年老(としお)いていました。創世記12章4節は、ハランを出発してカナンに行くとき、アブラハムがすでに75歳であったことを示しています。そしてサラはわずか10歳年下(としした)なだけでした。約束された土地への旅は数ヶ月以上はかかりませんでした。しかし、待つことは何年もかかったのです!サラが最初の子供を産んだ頃、彼女は90歳で、夫のアブラハムは100歳でした!彼らは神様が子供を与えるという約束を守られるのを、カナンで25年間も待っていたのです。そしてその時になってもまだ、彼らは自分の土地を持っていませんでした。待つことは難しいのです!時折(ときおり)、彼らの信仰は失敗しました。たとえば、サラがしもべのハガルを妻にし、子供をもうけるようにアブラハムに促したときなどです。しかし、神様は約束を繰り返しになり、アブラハムに約束された息子をもうけるのはサラであることを明らかにされました。そして、ついに、神様は年老いたサラに子供を生む力をお与えになることで、約束をお守りになったのです。彼らの信仰は、息子イサクの誕生によって報いられ、さらに強められました。しかし、もし私たちがアブラハムの立場にいたとしたら、神様が約束をお守りになる方法によって、時には失望したり落胆したりするのではないでしょうか。

神様の約束を覚え、アブラハムとサラの生涯にわたって、神様が約束をどのようにお守りになったのかを考えてください。神様は彼らに土地を所有することを約束しましたが、サラが死んだ日に至るまで、彼らはカナンの土地を一坪(ひとつぼ)も所有していませんでした。サラが死んだ後になってようやく、アブラハムはサラの墓(はか)としてわずかの土地を手に入れました。大金(おおかね)を出してその土地を購入(こうにゅう)したのです。地上での人生の終わりに至るまで、アブラハムは、神様がお与えになることを約束された地で、寄留(きりゅう)者のように、天幕の中に住んでいました。そして、アブラハムとサラに対して、神様は「天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数(かず)多い子孫」(12節)を約束されていました。しかし、サラが死んだ時、彼女には神様の祝福によって与えられた一人の子供しかいなかったのです。アブラハムは175歳で死にましたが、彼は息子のイサクとその双子の息子であるエサウとヤコブの3人の子孫しか見ることができなかったのです。約束された土地、数え切れない子孫、そして彼らが世界中にもたらす祝福はどこにいったのでしょうか?それでも13節は、約束のものを手に入れることがなくても、父親の信仰に従わなかったエサウを除いて、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。」と伝えているのです!この事実は彼らの信仰にとって、何を示しているでしょうか?

もし、神様が約束されたことを彼らが受けなかったのだとすれば、どのように彼らは神様を信頼し続けることができたのでしょうか?ヘブル書はこの難しい問いに対して、次のように答えています。これらの人々はすべて、信仰によって、ほとんどの人々が希望を置くような世的なもの以上のことがらを、神様の約束が含んでいることを理解していたのです。10節によれば、アブラハムが神様を信頼し続けたのは、「堅(かた)い基礎の上に建てられた都(みやこ)を待ち望んでいたからです。その都を設計(せっけい)し建設(けんせつ)されたのは神です。」この意味は、アブラハムがカナンのどんな家よりも栄光に満ち、安全な家を求めていたということだと思います。そして13節によると、アブラハム、イサク、ヤコブはすべて「信仰の人々として死んだ」と言われています。つまり、彼らは人生の終わりの時でさえ、落胆したり失望したりしなかったということです。なぜでしょうか。彼らは、自分の一生の間に約束を受けなかったにもかかわらず、その約束のものを「はるかに見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していた」からです。言い換えると、彼らは地上で生涯にわたって「物質的な方法」で神様が約束を果たされるとは期待していなかったということです。実際、ヘブル書が14-16節で説明するように、アブラハムとサラは、息子イサクとその息子ヤコブとともに、より高い、より優れた目標に目を留めていたのです。彼らは、「地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いました。なぜなら、彼らは信仰によって、神様のご計画が自分たちの夢よりも優れていることを理解していたからです。彼らは、カナンの天幕(てんまく)やメゾポタミアのウルの町のかつての家よりもはるかに貴重(きちょう)な価値(かち)のある家庭と相続財産(そうぞくざいさん)を、神様が与えてくださると信じていました。彼らはこの地上の生涯において、「旅人や寄留者」となることをいといませんでした。それは、彼らが希望を「さらにすぐれた故郷(こきょう)、すなわち天の故郷」(16節)に置いていたからです。 しかし、この天の故郷への希望は、アブラハムが信仰によって17-19節にある神様の「試練(しれん)」に応答した時に、さらに明らかになりました。この奇妙(きみょう)な試練は、創世記22章に記録されています。今日はこの箇所を詳しく見る時間はありません。要約(ようやく)すると、神様は、アブラハムの若い息子イサク、アブラハムが愛し、サラが25年間も待ち望んだ息子イサクを、取っていけにえにささげるようにアブラハムに命じました。このことによって神様はアブラハムの信仰をお試しになったのです。私たちがアブラハムの立場にあったら、どうにかして神様の命令に従うことを避けようとすると思います。しかしアブラハムは、神への信仰のゆえに、神様が命じられたとおりのことを行う準備をしました。アブラハムは、イサクを殺すための刀(かたな)と、全焼(ぜんしょう)のいけにえとしてささげるためのたきぎを持って、イサクを連れて、離れたモリヤという山に行きました。しかし、まさにアブラハムが最愛(さいあい)の息子の命を奪(うば)おうとしたその時、神の御使いが現れ、アブラハムがイサクをいけにえにささげるのを止めさせました。神様はアブラハムの信仰を試(ため)され、アブラハムはその試験に合格したのです! 19節では、なぜアブラハムの信仰が、人生における最も困難な試験に合格したのかを説明しています。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型(かた)です。」アブラハムは、自分たちが地上で生きている時にのみ、神様が助けてくださると考えてはいませんでした。アブラハムは、神様がかならず約束をお守りになることを信じていました。たとえ、死んだ人をよみがえらせることによってもです。神様ははっきりと、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」とアブラハムに約束されました。イサクはまだ若く、結婚もしておらず、子供もいませんでした。だからこそ、神様がイサクを死者の中からよみがえらせることによって、アブラハムへの約束を守られると信じたのです。このアブラハムの自信(じしん)は、彼の神を信じる信仰の堅(かた)さを示しています。アブラハムは約束を守ってくださる神様を常(つね)に信頼できると思っていました。しかし、神様は私たちが期待するような方法やタイミングで、常に約束を守られるとは限(かぎ)らないのです。

死でさえ、神様が私たちに約束を守ってくださることを妨げることはできません。これが、今日の箇所の最後の部分のメッセージです。アブラハムの後の3世代が20-22節で言及されています。「信仰によって、イサクは未来(みらい)のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖(つえ)のかしらに寄(よ)りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終(りんじゅう)のとき、イスラエルの子孫の脱出(だっしゅつ)を語り、自分の骨について指図(さしず)しました。」それぞれの場合において、神様の約束を信じたこれらの人々は、死ぬ前に祝福を次の世代に伝えたのです。彼らの誰もが、神の約束の究極的(きゅうきょくてき)な成就(じょうじゅ)を見てはいませんでした。土地も数え切れない子孫も、世界中の祝福もありませんでしたが、彼らは落胆しませんでした。彼らは、神様が全ての約束を守ってくださることを信じ、主であるアブラハムの神にしっかりと根ざした信仰を持って死んでいったのです。死の間際(まぎわ)においても、この族長(ぞくちょう)たちの信仰はそれまで通(どお)り、強(つよ)かったのです。信仰によって、彼らは自分たちが受けた祝福を、次の世代に渡(わた)したのです。    

IV. CONCLUSION 結論

これらの信仰の具体例から何を学ぶべきでしょうか?もちろん、私たちはこの霊的な祖先(そせん)たちのように、この世が与えてくれる良いもの以上のものを神様から求めなければいけません。これは、信仰が私たちに教えるべき最初のことがらです。物質的なものは重要ですが、神様が約束しておられる霊的な祝福は、それよりはるかに価値があります。これが、イエス様が弟子たちにこう言われた理由です。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人(ぬすびと)が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:20-21)」「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」第二に、私たちが行動するのと全く同じように神様が動(うご)かれると期待するべきではありません。神様が私たちの期待とは異なる方法や時、手段で、約束を守られたとしても、驚(おどろ)いてはいけません。神様がご自身の愛する御子の苦しみと死によって、どのように私たちを贖(あがな)われるかを、私たちはだれも想像(そうぞう)することはできなかったはずです。神様はご自分が用いられる手段やタイミングなどで皆さんを驚かせるかもしれませんが、それでも神様は常に約束をお守りになるのです。第三に、アブラハムやサラのように、従順な信仰を持って行動し、従順な信仰を持って待つことを私たちは学ばなければなりません。信仰によって待つことは、より困難なクリスチャンとしての責任である場合もあります。第四に、私たちは皆、今日神様が私たちに与えてくださっている人生に満足することを、信仰によって学ばなければなりません。アブラハムやサラ、そしてその子孫のように、私たちは皆、この世界を通っている「外国人であり寄留者(きりゅうしゃ)」であることを忘れないでください。キリストが、ご自身を愛する者のために準備してくださった、栄光に満ちた、永遠の住まいに期待しつつ、毎日自信と信頼を持って、歩んでいきましょう。

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