神様の御ことばを受け入れる人

“Welcoming the Word of God”  
聖書: テサロニケ人への手紙第一2章13節   

I. 序論

アメリカに出発する前に、未信者の方がスーザンに尋ねて言いました。
「なぜクリスチャンになりましたか。何か奇蹟などを見たから信じたのでしょうか。」
皆さんは、いかがでしょうか。そのように質問されましたら、どのように答えるでしょうか。
ある人は何回も福音を聞いても信じないかも知れません.他の人は、聖書のメッセージを聞いて、主イエスを信じるように導かれるでしょう。なぜ聖書を受け入れてクリスチャンになるのでしょうか。確かに、それは聖霊の働きによりますが、奇蹟的な業が必要ですか。なぜ福音のメッセージは、人間の作り話しではなく、信用できる神様からのみ言葉として、受け入れらるのでしょうか。聖書を聞いて、主イエスを信じるために、奇蹟を見せてもらう必要がありますか。

テサロニケ人への手紙の中で、使徒パウロがこの問題を取り上げて、大切なことを教えてくれます。
もちろん、これは新約聖書の問題だけではありません。大昔、モーセの時代に、神様はみことばをイスラエルにお与えになりました。その時、イスラエル人は、そのみことばを神様の御ことばとして受け入れたのです。それに、今日の聖書個所によると、使徒パウロの言葉を聞いた人々も、その話を神様の御ことばとして、すなおに受け入れたそうです。大昔のイスラエル人も、紀元後の第一世紀のテサロニケ人も、聖書に記録されている言葉を神様の権威ある御ことばとして受け入れて、信じました。しかし、モーセの出来事とパウロの出来事を比べてみれば、大きな違いが明らかでしょう。大昔は、シナイ山のもとでイスラエルの民は、雷と、いなずま、角笛の音とその他の奇跡的なしるしを目撃したので、彼らは恐れおののきながら、シナイ山の頂を覆っている雲の中から神の御声を聞きました。その時、民はモーセに言いました。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話にならないように。私たちが死ぬといけませんから。」昔のイスラエル人は、聞こえた声が、神様の御声であり、その言葉が神様からの御命令であることを認めて、いささかの疑いもありませんでした。

しかし、テサロニケ人は、シナイ山で起こったような不思議な現象を見ませんでした。使徒の働き17章1‐4で使徒パウロがどのようにテサロニケに来て、ユダヤ人の会堂で主イエス・キリストによる福音を宣べ伝えたかが記されています。使徒パウロは、そこで何の奇跡的な業(わざ)もしませんでした。ただ、2節にこう書いてあります。「パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日(あんそくにち)にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。』と言った。」すると、「彼らのうちの幾人かはよく分かって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシャ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。」と書いてあります。現在の人々は、多くの不思議なしるしとともに、神様のみ言葉を雲の中から聞くことではなく、聖書による説教を聞いたテサロニケ人と同じような機会が与えられるでしょう。今日の箇所を初めて読んだテサロニケ人は、パウロから「神の使信(ししん)のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れた」と書いてあります。

もう少し、この不思議な結果を考えてみてください。まず、第一に、なぜ彼らがパウロの話を神様のみことばとして受け入れたかと言うことを心に留めてみてください。それから、第二に、その話を神様のみことばとして受け入れた人々が、どのように変化されたかということも心に留めてください。神様のみことばを信じる原因とその結果を考えてみたいと思います。

II. み言葉を歓迎すること :「私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれた」

それでは、不思議な力ある業がなくても、なぜ、多くの人々がパウロの説教を聞くと、その話を神様のみことばとして受け入れたのでしょうか。理由は三つあると思います。第一に、パウロの説教は聖書に基づいた話だからです。自分の意見とか自分の思想だけではありませんでした。パウロの説教はいつも神様のみことばである聖書に基づいていました。聖書の解き明かしでした。そうでなければ、人の説教は面白い、魅力のある話と思われても、普通の人間のことばに過ぎません。パウロの説教は、聖書に基づいていたので、権威のある神様のみことばとして受け入れられたわけです。それは、第一のポイントです。使徒パウロの説教は聖書に従って、聖書を明らかにして、聖書の教えを人々の日常生活に適用しました。だからこそ、テサロニケ人が、パウロの言葉を、事実どおり、神様のみことばとして受け入れたのです。
第二の理由を考えて行きましょう。多くの人々がパウロのりっぱなふるまいに、深く感心したので、その説教を神様が与えてくださった御ことばとして受け入れたと書いてあります。特に、使徒パウロがみんなに示した忍耐と慈(いつく)しみは、第二の理由です。今日の箇所の2:1節から11節まで、パウロは、「あなたがたが知っているとおり」、「ご承知のように」、「ご存知のとおり」、「あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう」と言って、どのように福音を宣べ伝えていたかを思い出させているのです。パウロとシラスとテモテは、りっぱなふるまいによって、福音のことばは、全く信頼すべき神様の真実であることを証明しました。4節で言ったとおりです。「私たちは神に認められて、福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」10節にも、「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。」パウロは自分の模範によって、福音のことばは、単なる人間のことばではなく、実は、神様からの御ことばであることを証言したのです。神様のみことばを伝える人、また証する人は、自分のふるまいに十分注意しなければなりません。パウロとその仲間のふるまいは、主イエス・キリストによる忍耐、愛と恵みで満ちあふれていたので、彼らのメッセージは神様のみことばとして受け入れられたのです。
第三に、使徒パウロが、神様の聖霊の力によってその福音のメッセージを伝えたので、多くの人々は、そのことばを神様の御ことばとして受け入れたそうです。1:4?5にこう書いてあります。「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」どうしてだれでも使徒の話を神様の権威ある御ことばとして受け入れたかと言えば、その第三の理由は、そのことばは聖霊の力によって伝えられたからです。これこそ、最も基本的な理由でしょう。この原則は、コリント人への第一の手紙2:4?5で次のように説明されています。「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われた者ではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
こういうわけで、これらの三つの理由で、テサロニケ人がパウロとその仲間から「神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれた」とパウロが言えるでしょう。しかし、一番大切なのは、この三つ目の理由だと思います。聖霊の力によってでなければ、だれも福音のことばを信じて、それを神様の真実として受け入れることは出来ません。

III. みことばによって一変されること:「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

それでは、もしだれかが聖書に基づいた説教のことばを、信頼できる人から受けて、聖霊の力のよってそれを信じるように導かれたのなら、その人は、どのように変化されるのでしょうか。2:13で使徒パウロが言っているように、「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」神様の御ことばがあなたのうちに働いているのなら、まず第一に、「キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者」となるはずです。でも、「神の諸教会にならう者」とは、どういう意味でしょうか。14?16節では、キリスト者の大きな希望が強調されています。主イエスを信じる人たちは永遠の望みのある共同体に迎えられます。苦しめられても、奪われることのない永遠の望みをしっかりと持つことが出来るのです。ユダヤにある最初のキリスト教会と同じように、キリスト信仰に対する反抗、悪意、や迫害さえも会うでしょうが、残酷に迫害されても、キリスト信者の望みは奪われることはできません。キリストの弟子たちは、主イエスのように迫害されても、神様のみことばから慰めと励ましを受けて、この世にある色々な試練に会っても、あきらめず、絶望せず、神様の御ことばによって支えられます。そして、信者は、試練に会ったとき、ただ一人だけではなく、同じキリスト信仰のある兄弟姉妹とともに苦しみに与(あずか)るでしょう。キリスト教会は、教派を問わずに、永遠の望みのある共同体です。だから、互いに励まし合ったり、慰め合ったりすることが出来るのです。福音のメッセージを神様の御ことばとして受け入れた人は、救いの確信を持って、望みを奪われることが出来ない教会に入り、ほかの信者たちとともに神様のみことばによって、互いに励まし合うはずです。こういう方法で、神様の御言葉を受け入れた人は、その御言葉によって変化されて、永続できる望みが与えらるでしょう。
第二に、使徒の説教を人間のことばとしてではなく、神の御ことばとして受け入れた者たちは、新しい人生の主が与えられます。テサロニケ人への手紙第一1:9をご覧ください。テサロニケ人は、「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるように」なったと書いてあります。以前は、真の神様を知らずに、自分勝手な道を歩んで、自分の思うままにあらゆる偽神(にせかみ)を考え出して、それらを拝んだり、仕えたりしていました。しかし、今は、生けるまことの神様を知り、神様のみこころは何であるかが明らかにされています。神様の御ことばをとおして、生ける神様との新しい関係に導かれたのです。真の神様は、三位一体の神様であり、父、子、聖霊と言う三つの人格として存在しておられる方です。ですから、父なる神様の永遠のご計画に従って、御子イエス・キリストによって贖われ、聖霊によって新しく生まれた者として、テサロニケの信者たちは、生けるまことの神様に仕えることが出来ました。福音のことばを人間のことばだけで受けたのなら、生ける真の神様さまに仕える確信はありません。神様の御言葉を受け入れたテサロニケ人は、必要な確信を持って、大胆に主に仕えて、終わりまで救い主を待ち望むことができました。
第三に、使徒パウロの言葉を神様の御ことばとして受け入れることによって、そのテサロニケの信者たちは、新しい人生の目的が与えられたのです。彼らは、多くの苦難の中であっても、聖霊による喜びをもって、主イエスの証人になりました。こういうわけで、1:8に次のように書いてあります。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響(ひび)き渡っただけではなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」キリストについての福音のメッセージを受けたとき、人間のことばとしてではなく、事実どおりに神様の御ことばとして受け入れたテサロニケ人は、すぐ模範的な証人(あかしびと)になりました。神様の御ことばを他の人々にも伝えることは、すべての信者に与えられた責任です。神様の御ことばについての確信をもつ者は、自分の人生を全く変化させた神様の御ことばを、活発的に伝えようとするはずです。

IV.  結論と適用

終わりに、この話の最初の質問に戻どって、また少し考えたいと思います。クリスチャンになるために、何か奇蹟を見ることが必要ですか。昔のイスラエル人がシナイ山で見た奇蹟は必要ではありません。また、水をぶどう酒に返ること、盲目の人に見える目を与えること、死者を生き返らせることなどのような、主イエスが行われた奇蹟は必要ではありません。しかし、ある意味で、聖書のことばを本当に神様のみことばとして受け入れるために、聖霊の超自然的な力とその恵みによって私たちの心を開(あけ)けていただけなければなりません。そのような働きは、奇蹟的なわざではありませんか。多くの人は、自分がクリスチャンだと言いながら、聖書を神様のみ言葉として受け入れていません。そのような人は、多くの大切なことについての確信がないでしょう。偽りのない真の神様の代わりに、人間の思いに従って、神様のみこころは、知りません。色々な道徳的な問題に関して、自分の意見は人間の社会によって左右されますので、全く迷ってしまいます。「神様はこう言っています」、または「神様は『こうしなさい』と仰せられた」とは、彼らは言えません。彼らは、ただ、人間の異なった「聖書の解釈」の中で混乱するでしょう。でも、聖書を読めば、聖書の教えはあいまいであると思って、混乱するのは、神様のみこころではないことが分かります。テサロニケ人が聖書の話を神様のみことばとして受け入れて確信を持つことは、間違いではありませんでした。むしろ、彼らは、その確信を得たゆえに、ほめられたのです。そのために、パウロは、「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。」と13節で言ったのです。聖霊による確信を持っていなければ、だれも神様に大胆に従って、仕えることが出来ないでしょう。皆さんは、いかがでしょうか。神様の御心は何であるかをご存知ですか。確信を持って、自分の好きな偶像を捨てて、生けるまことの救い主なる神様を信頼し、大胆に神様に仕えて、大きな望みを持って将来を迎えることができるために、まず第一に、神様の純粋なみことばとして聖書の教えを受け入れなければなりません。その確信を聖霊から求めながら、聖書を学びましょう。そうすれば、神様のみことばにより、あなたがたの心が変化されて、主イエス・キリストのみこころに似るように新しく造られるでしょう。お祈りいたします。

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