世の救い主なるキリスト

KASUMIGAOKA
2017/08/13
SERMON: 「世の救い主なるキリスト」  “The Savior of the World”
TEXT: ヨハネの福音書4:27-42    

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日の箇所は、聖書の中で伝道について書かれているもっとも重要な箇所の一つの、終りの部分です。今日の箇所の最後の部分では、この村の多くの住人が、イエス・キリストを信じる信仰を告白する様子を見ることができます。42節で彼らはこう言います。「この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」ヨハネの文書の中で、イエス様が「世の救い主」と呼ばれるのはここが最初の箇所です。この驚くべき証言はイエス様のユダヤ人の弟子たちの口から出たのではなく、サマリヤ人の口から出たのです。ユダヤ教のように、キリスト教会もまた「狭すぎる」「排他的だ」と批判されることがあります。しかしイエス様は希望や救いという良い知らせを、一つの民族や一つの社会のグループに対してもたらされたのではなく、全ての世界にそれを提供されたのです。正しく理解するなら、福音のメッセージはむしろ「包括的」なのです。イエス・キリストが本当に「世の救い主」であるからこそ、キリスト教会は伝道し、世界中の全ての人々を教会に迎えなければなりません。今日の箇所では、イエス様が弟子たちに、地の果てまで福音をもたらすという偉大な働きがどのように成し遂げられるかについて、示しておられるのです。

イエス様は人間の贖いを、自らの十字架上での贖いの御業によって成し遂げるようにされました。しかし、その良い知らせを世界中に広めることに関しては、他の人、普通の人間たちにそれをお任せになったのです。このヨハネ4章でイエス様に出会ったサマリヤ人の女性も、このような普通の人間の一人でした。彼女は新約聖書の中で最初の「宣教師」の一人になったのです。今日の箇所は特に、イエス様と弟子たちとが通り過ぎようとしたサマリヤでたまたま会ったこの女性との会話が中心です。なぜイエス様はこの女性と話をし始められたのでしょうか。弟子たちが村からの帰りに、主とこの女性とが話しているのを見て、この問いを思い浮かべたことでしょう。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。」(v.9b)この会話はこのサマリヤ人の女性ひとりのためだけではありませんでした。イエス様と彼女との会話は、イエス様の弟子たちが世界に福音をもたらすための手引きとなったのです。

今日の箇所には3つの部分があります。1つめと3つめの部分にはサマリヤ人の女性が出てきますが、真ん中の2つめの部分では、イエス様は弟子たちに伝道について教えられます。35節でイエス様はこうおっしゃいます。「あなたがたは、 『刈り入れ時が来るまでに、 まだ四か月ある』と言ってはいませんか。 さあ、 わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。 色づいて、 刈り入れるばかりになっています。」これらのそれぞれの部分では、イエス様が教会に委ねられた伝道の働きについて、とても重要なことが示されています。1つめの部分では、キリストの弟子としての私たちの責任の中での、この福音の働きの優位性について示されています。2つめの部分では、福音の働きの緊急性について示されており、3つめの部分では、クリスチャンが忠実に良い知らせを他者に伝える時、福音がかならず良い結果を生むということが示されています。これらの3つの部分についてより深く見ていき、伝道について何を教えているのかを学びましょう。   

II. THREE IMPORTANT CONSIDERATIONS CONCERNING EVANGELISM 伝道において考えるべき3つの重要なこと

最初の部分である27-30節では、とくに28節のみことばに注目してみたいと思います。「女は、 自分の水がめを置いて町へ行き、 人々に言った。」この女性が水がめを忘れて行ったか捨てて行ったことをヨハネが言及していることについて、多くの神学者が注目しています。ある神学者は、女性がイエス様が飲むために水がめを置いて行ったのだと考えます。イエス様が会話の最初に水をお求めになったからです。しかしほとんどの神学者は、ヨハネが水がめを象徴として用いていると考えています。この女性は、ヤコブの井戸からの水以上に大切なものを見つけたから、この水がめを置いて行ったのだ。彼女は水を汲むために井戸に来ましたが、イエス様が約束された「生ける水」に満たされて帰って行ったのです。そしてこの女性はすぐに自分の村へ行って、この「生ける水」という良い知らせを、他の人に分かち合い始めたのです。ヨハネが、女性の目的や価値観が変えられたことのしるしとして認識させようとしていると考えない限り、置いて行かれた水がめをわざわざヨハネが言及するのは奇妙です。この女性は「生ける水」を心のなかに運び、キリストの生ける水というメッセージを彼女は口で伝えました。この良い知らせを運ぶのに、水がめは必要なかったのです。ヨハネはこのようにして、イエス様がこの女性にお与えになった、新たな目的、「使命」を示しているのです。貧しい女性にとって、水がめは高価な持ち物だったでしょう。水がめは彼女にとって、いまの皆さんの「スマートフォン」以上に高価でよく使うものだったのかもしれません。しかし彼女にとって、福音はその水がめ以上に重要なものだったのです。だからこそ、彼女はより効果的にその良い知らせを他の人に伝えるために、その水がめを置いて行ったのです。イエス様が彼女に与えた生ける水のメッセージは、彼女にとってヤコブの井戸からの水よりもはるかに重要なものとなったのです。この箇所から明らかなのは、キリストの良い知らせを広めることが、この女性の人生にとって優先順位の高いものになったということです。

続く何節かにおいて、話の中心は女性からイエス様の弟子たちへと移ります。サマリヤ人の女性が離れて行った後、彼らはイエス様に、村から持ってきた食べ物を食べるように勧めました。しかしイエス様はこうお答えになりました。「わたしには、 あなたがたの知らない食物があります。(32節)」彼らは、イエス様が霊的な現実に言及しておられることに気づかず、この答えに困惑しました。しかしイエス様は34節でこう説明されます。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、 わたしの食物です。」言い換えるならば、イエス様は自分が父のみこころを行なうことで力づけられ、元気づけられるとおっしゃっているのです。しかしイエス様はここで、一般的に神様のみこころを行うことを言っておられるのではなく、直前のサマリヤ人の女性との伝道の会話についておっしゃっておられるのだと思います。伝道は天の父がその子どもたちにこの世界で与えておられる働きです。私たちがこの働きを忠実に担う時、私たちは神の霊的な食物にあずかることができるのです。私たちのからだが、物理的な食べ物によって満たされ、力づけられるように、この霊的な食物によって、私たちは力づけられ、魂が満たされるのです。おそらく、この説明によって、その前の節からそのあとの節へと、移行がなされているのでしょう。イエス様は、弟子たちが考えているほど、からだへの食物は重要でないということを弟子たちに示されました。むしろ、イエス様が御父のみこころを行う時にお受けになる霊的な「食物」のほうが、からだへの食物よりもはるかに重要なのです。ちょうど、「生ける水」が女性の水がめより重要だったように、父のみこころを行うという霊的な「食物」は、弟子たちがイエス様のために持ってきた物理的な食物よりも重要だったのです。ですから、ここでもヨハネは伝道の「優位性」について強調しているのです。

しかし35-38節の2つめの部分において、イエス様は良い知らせの緊急性に注目するように進んでおられます。まず、35節でイエス様は有名な言葉を引用されます。「刈り入れ時が来るまでに、 まだ四か月ある。」おそらくこの言葉はもともと、ある人の働きの結果を待つ時に、その忍耐を励ます意図の言葉だったのでしょう。しかし、イエス様は弟子たちにこうおっしゃいます。「さあ、 わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。 色づいて、 刈り入れるばかりになっています。 すでに、 刈る者は報酬を受け、 永遠のいのちに入れられる実を集めています。 それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」45節では過越の祭が言及され、おそらくイエス様が最近エルサレムで過越を祝われたことを示しています。もしそうであれば、このヨハネ4章の出来事は、5月の大麦の収穫か6月の小麦の収穫の直前だったと考えられます。しかしイエス様は弟子たちに、畑で収穫をするようには命じられませんでした。イエス様は比喩的にお語りになっているのです。イエス様は畑を、神の御国に集められるのを待っている人々の様子を表すものとして用いているのです。弟子たちは、人々に救いの良い知らせを伝えることで、「大きな収穫」を「刈り取る者」になるのです。「収穫の刈り取り」が伝道の働きの比喩としてイエス様によって用いられる箇所はここ以外にもあります。マタイ9:37とルカ10:2では、神の御国の良い知らせを宣べ伝えるために弟子たちを送り出されます。そこでイエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「収穫は多いが、 働き手が少ない。 だから、 収穫の主に、 収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」同じように、イエス様は今日の箇所で、実った畑のイメージをもって、すぐに人々に神の御国の良い知らせを伝え始めるように促しているのです。待つべきではなく、刈り取る時、つまり積極的な伝道の時は今なのです。もし彼らが単に目を開けて見れば、良い知らせを信じる準備ができている人をたくさん見つけるでしょう。多くの人はまさに今、神の御国に集う準備ができているのです。必要は急務であり、弟子たちは待つべきではないのです。

もちろん、もし弟子たちが目を上げて、あたりを見回したら、実っている畑を見たでしょう。しかしその時、それ以外のものも見えたはずです。それは、村を出て彼らのもとに向かって来る人々です。この人々とはどのような人たちでしょうか。彼らは、サマリヤ人の女性が28-29節で話した相手です。30節ではこうあります。「そこで、 彼らは町を出て、 イエスのほうへやって来た。」つまり、弟子たちが目を上げて見た時、彼らはこのやって来る人々を見たはずです。この人々こそが、「色づいて、 刈り入れるばかりになっている畑」なのです。37節でイエス様はこう付け加えます。「こういうわけで、 『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、 ほんとうなのです。」弟子たちは、その多くのサマリヤ人を迎え入れることによって、他の人が蒔いた種の収穫を刈り取るのです。それでは、種を蒔いた人とは誰のことでしょうか。この人々は、一人のサマリヤ人の女性の証のゆえにイエス様のところに来たのです。伝道の働きは種まきと刈り取りの両方を含みます。一人だけの働きであることはめったにありません。神様は多くの人、経験、そして状況をお用いになり、人々をご自身の御国へと導かれます。収穫を刈り取るには、忠実な証人たちが主の用意された畑に行って刈り取る準備をしないといけないのです。イエス様は弟子たちに38節でこうおっしゃいました。「わたしは、 あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、 あなたがたを遣わしました。 ほかの人々が労苦して、 あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」伝道は多くの人が協力して行う働きです。そして何年にも渡る場合もあります。しかし神の民は目を上げて、どのような収穫があるのかを見なければなりません。収穫が熟した時、すぐ刈り取らなければいけません。クリスチャンは、自分の証人としての働きを遅らせるという誤りに陥ってはいけません。福音は今、急務なのです。

3つめの部分は、準備ができている人々に、忠実に福音が語られた時、どのようなことが起こるかについて語っています。そこには収穫が確かにあるのです。サマリヤの村から来た人々は、井戸でイエス様に会った女性の証によってイエス様のところに来ました。それはどのような証だったのでしょうか。彼女は何を彼らに伝えたのでしょうか。39節を見て下さい。「その町のサマリヤ人のうち多くの者が、 『あの方は、 私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」女性は村の人々に、イエス様が何をして彼女の心を動かしたのかを単純に伝えたのです。イエス様は女性の過去を理解し、彼女の苦しみ、彼女の人間関係、そして彼女の良い行いや罪についてご存知でした。「あの方は、 私がしたこと全部を私に言った」と女性は言いました。そして何よりもイエス様は彼女に「生ける水」を与えると約束されたのです。イエス様は、彼女がサマリヤ人であったり、罪深い人間関係の中にいたからといって、彼女から去ったりはしませんでした。イエス様は彼女をよく知り、それでもなお彼女に希望と赦しと新しいいのちをお与えになったのです。これがその村で彼女が語った単純なメッセージです。彼女は、イエス様が個人的に何をしてくださったのかを語ったのです。そして彼女は村の人達に、「この人こそがメシアではないでしょうか」と聞きました。そして人々は自らイエス様に会いに来たのです。彼らはイエス様に会い、話を聞いたのです。彼らは、女性が井戸でイエス様から与えられたのと同じような歓迎をイエス様から受けました。41節はこう言います。「そして、 さらに多くの人々が、 イエスのことばによって信じた。」

この素晴らしい伝道の刈り取りについて、見逃すことができない一つの重要なことがあります。それは、イエス様が、とても普通な一人の女性を選ばれ、彼女の単純な証によって、ご自身の民に対して福音の種を蒔かれたということです。彼女が種を蒔き、イエス様がそれを成長させ、実を結ばせられたのです。イエス・キリストご自身が収穫を刈り取られました。そしてイエス様のもとに来て、信じた人々は、その救いの祝福を喜びました。「そして彼らはその女に言った。 「もう私たちは、 あなたが話したことによって信じているのではありません。 自分で聞いて、 この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」」彼らがイエス様から聞いたことは、この女性の証を証明するものでした。そして自らイエス様と会うことで、イエス様を信じる信仰がより強められるようなことを学んだのです。人間の目から見たら全く充分でないような単純な証でさえ、主なるイエス様がそれを祝福される時、実が結ばれるのです。イエス様はどのような人の証をも用いて、人々をご自身のところへと招くことがおできになります。イエス様が収穫の主だからです。イエス様は福音の種を蒔くために私たちを送り出され、イエス様は必ず収穫を刈り取って下さいます。    

III.  CONCLUSION   結論

結論として、サマリヤ人の女性の経験を通して、私たちが伝道についてなにを学んだかを考えましょう。まず第一に、質問をさせて下さい。あなたは、キリストについて自分自身が周りの人に示す証の重要性を理解しているでしょうか。あなたにとってもっとも重要な「召し」、もしくは、神から与えられた責任とは何でしょうか。あるクリスチャンたちは、家族や仕事、友人や財産に気をかけることが、彼らのもっとも重要な責任であると考えます。しかしそれは間違いです。このサマリヤ人の女性がイエス様に出会い、イエス様によって変えられた時、彼女は水がめを置いていきました。良い知らせをより効果的に伝えるためにです。私たちはもしかすると、まだ自分たちの重い水がめを持ち続け、それによって良い知らせを多くの人に伝えることが妨げられているのかもしれません。私たちは、キリストの証し人となることを、他の責任によって妨げることがあります。あなたはどうでしょうか。よりよいイエス様の証人となるために、置いていかなければならない「水がめ」を持っていないでしょうか。

第二に、このように思ったことはないでしょうか。「より成熟したクリスチャンになってから、自分のキリストへの信仰について他の人に伝え始めよう。」もしくは「もっと聖書を勉強してからそうしよう。」と思ったことはないでしょうか。多くのクリスチャンはそう思います。しかし、イエス様は、この普通のサマリヤ人の女性の単純な証を祝福されたんだということを覚えましょう。そして、彼女はイエス様や救いについて、わずかな時間しか学ばなかったのです。収穫の主に信頼しましょう。土を準備し、種を蒔く人を送り出し、作物に水を与えて成長させ、また別の人を収穫のために送り出されるのは、キリストなのです。イエス様はあなたを種まきに送り出されるかもしれませんし、刈り取りのために送り出されるかもしれません。しかし、どちらにしても、準備をしておかなければなりません。すすんで伝道の働きをしなければならないのです。目を開けて、その収穫を見ないといけないのです。そして、自分のプライドを忘れ、主に信頼して、キリストがあなたに何をしてくださったかを人々に語ってみてください。イエス様が「世の救い主」であることを最初に人々に宣言するように導いたのは、訓練された宣教師でも牧師でも長老でもなく、一人の普通のサマリヤ人の女性だったことを覚えておきましょう。

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