キリストへの最後の裏切り行為

KASUMIGAOKA   2016/10/09

Sermon: 「キリストへの最後の裏切り行為」
“The Last Treachery Toward Christ”

Text: Matthew 27:11-31   

I. Introduction     主イエス・キリストの地上の最後の日々には、イザヤ書の預言が成就しました。「主のしもべは苦しみを受ける」という有名な預言を覚えておられるでしょう。特にイザヤ書53章はよく知られています。今日私たちが学んで行く箇所では、イザヤ書50:5-8の預言が主イエスの体験によって成就したのです。主イエス・キリストが出現される約800年前に、預言者イザヤはキリストのみことばをこう伝えました。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。しかし、神である主は、わたしを助ける。それゆえ、私は侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打ち石のようにし、恥を見てはならないと知った。私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に供に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。」

今日の聖書個所で「苦しみを受けるべきしもべ」として、主なるキリストは異邦人の裁判官の前で裁かれます。イスラエルの指導者たちも平民もローマの総督ポンテオ・ピラトのさばきの座に立って、キリストを訴えるのです。預言されたとおりにイエス様はキリストとして苦しみを受け、罪深い人間よりその状態が低くされました。しかし、キリストの体験が預言されたからと言っても、聖書のメッセージの要点を考えてみれば、この場面は、期待に全く反することでしょう。聖書によれば、人間は、最初のエデンの園の時代から創造主なる神様に逆らって、神様の示してくださった道からそれて、堕落した人生を送るようになったそうです。不正な人間は、すべてを支配しておられる神様の正しい裁きを受けるべきでしょう。それなのに、神様の選ばれた民と呼ばれるイスラエル人は、この時、聖なる神様の送ってくださったキリストを縛って異邦人の裁きの座の前に連れ出し、悪事で訴えようとしています。この場面を心に留めてみてください。旧約聖書の歴史の中で、神様は代々に渡って何回も人々にご自分の力あるわざを現したり、みこころを啓示したり、人々の誤りや無知を直して、あわれみ深い真の神様を知り、従うように召してくださいました。しかし、神様の選民と呼ばれるイスラエル人さえも、神様の特別な御恵みをよく味わっても、繰り返して聖なる神様に逆らってしまいました。どうしても、イスラエル人さえ、罪の状態から立ち直ることが出来ませんでした。イザヤ書はこの陰気な状態の断言で始まります。イザヤ書1:2-4にこう書いてあります。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。私の民は悟らない。』ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」

マタイ伝のメッセージを理解するために、この基本的な事実を認めていなければなりません。特に今日の聖書個所の意義を理解するために、この歴史上の背景が必要だと思います。イスラエルの指導者たちがキリストを最終的に拒絶し、異邦人の手によって殺されるようにイエス様を渡しましたが、実はその時、キリストご自身の潔白と全人類の堕落した状態とを立証しているのです。この真実は、次の三つのことで示されると思います。    

II. THREE PROOFS OF MAN’S GUILT BEFORE GOD

まず、第一に、イエス様は潔白ないけにえとして描かれています。「いけにえ」ということばを主イエスに適用したくないかもしれません。主イエスが無力になられたことは想像しがたいからでしょう。それに、ヨハネの福音書10:18で主はこう言われました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」しかし、マタイがこの箇所でイエス様を「いけにえ」として描いたことについて何の疑いはありません。丁度、イスラエル人が「傷もなく汚れもない小羊」を群れの中から連れ出し、いけにえとして祭司に引き渡すように、この度、祭司長、民の長老たち全員は、「イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した」と27:1に書いてあります。そして、イエス様は、「祭司長、長老たちから訴えがなされた時は、何もお答えにならなかった。」「どんな訴えに対しても一言もお答にならなかった。」と12、14節に書いてあります。それを見ると、ピラトは非常に驚きました。主の弟子たちしか悟れませんでした。イエス様は自ら、人類のいけにえとしてご自分自身を提供しておられます。数年たってからペテロは、その場面を振り向いて、こう書きました。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せになりました。」(1Pet.2:22-23)預言者イザヤは大昔に、キリストをいけにえと比較してイザヤ書53:7で書きました。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」イエス・キリストは全くいけにえの小羊のようにお振る舞いになりました。多くの人々は、敵に傷つけられたら、復讐の計画を考え始めるでしょう。しかし、主イエスは、悪に悪を報いることをなさいませんでした。イエス・キリストは、いけにえとして取り扱われて、ののしられても、口を開かないで、「善をもって悪に打ち勝つ」ことをお図りになりました。主イエスはご自分から「いけにえ」になって、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」そう、ペテロがその第一の手紙2:24で書きました。イエス・キリストは、自ら潔白ないけにえになって、私たちがまだ罪人で、弱かった時、不敬虔な者のために、すなわち私たちのために、死んでくださいました。(Rom.5:6,8)ペテロは、こう言いました。(1Pet. 1:19) 「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によって」父祖伝来のむなしい生き方から贖いだされたのです。ピラトの前で告発された時、イエス様のふるまいから、主の無罪であることも、イスラエルの罪深さも分かります。

  それでは、次のことに進んで行きましょう。第二のことは、キリストの王の職務との関係があります。現代の私たちは、王様、または大統領、総理大臣のような地位の高い人が徳の高い人でなければならないとは思わないでしょう。昔から、「力は正義」という諺を抱いて、自分の権力を十分増やした人は、自分以外の基準がなくてもいいと思ったようです。普通の人々は、「権力が人を堕落する。」と思う傾向があるでしょう。現実だけを見れば、それは本当だと思うでしょう。けれども、昔から、イスラエルの社会の中では、王様は美徳の模範でなければならないという前提がありました。王様はすべてより神様の道徳律法に従って治めなければならないと聖書に書いてあります。弱い人、貧しい人、支えのない未亡人、外国の寄留人などを、力ある敵から守るべきでした。王様の力によってすべての人々の人権が保障されたのです。申命記17:15から、王の職について次の指示が書いてあります。「あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻をもってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」ちょっと長い箇所でしたが、本当に大切な戒めです。特に、王様は「自分のために」馬、金銀、妻などをふやしてはならないと言う命令を心に留めてください。自分のために支配すべきではなく、王様は同胞のために治めなければなりません。そして、適切に治めることが出来るように、「自分のために、このみおしえ」すなわち聖書のみことば、「を書き写して...一生の間、読まなければならない。」王様は、神様のみこころに従って、治めなければならないという意味ですね。[ところで、私はクリスチャンとして、今年のアメリカの大統領の選挙戦を見ると、本当に困っています。なぜなら、王の場合は、その「心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また、命令から、右にも左にもそれることがない」ように注意しなければならないと書いてあります。でも今年は、候補者は二人とも、高ぶった者で、ひとりは右のほうにに引っ張っているし、そのほかは一生懸命左のほうに引っ張っているからです。

マタイの福音書は始めから終わりまで、イエス・キリストは神様の選ばれた王であることを強調しています。ピラトはイエス様に、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた時、主は、「そのとおりです」と言われました。ほかの質問や訴えに対しては何も言われませんでした。しかしキリストはイスラエルの王の職務をすぐ肯定されました。後で、兵士たちによってイエス様の王の職務をあざけって、キリストに緋色の上着を着せて、いばらで冠を編んで、主の頭にかぶらせたのです。それから、イエス様の前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」最後に、十字架にかかっておられるイエス様の頭の上に、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが付けられました。皮肉のことですが、兵士にさげすまれても、ピラトにさばかれても、このイエス・キリストは本当にすべての王の上の大王であられます。しかし、まことの王であられるキリストは、高ぶることなく、実は、他の人々より、ご自分を低くして、ご自分の民、すなわち主イエスを信じる人々を救い出してくださいました。ご自分の民のために、申命記17章に書いてあるように、王の職務を完全に果たされました。父なる神様に従って、天の御国の律法を完全に守り行いました。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(Phil. 2:9-11).主イエスは、父なる神様のみこころを行なうことにより、ご自分が本当に神様の選ばれた王であることを証明されたのです。ですから、イエス様は真の王でありながら、自分の利益のために権力をふるったわけではなく、かえって、父なる神様のご栄光を現すために治められたのです。

  それに、マタイはもう一つのポイントを強調することによって、イエス様が無罪であるのに、イスラエルのほうが有罪であることを明らかにしています。この三番目のポイントは、堕落した異邦人のピラトは、イスラエルの指導者たちより正しくて、イエス様を釈放しようとしたということです。まず、ピラトはイエス様を犯罪で訴えたイスラエル人の祭司たちや長老たちの本当の動機を知っていました。18節で、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。」と書いてあります。前もって、ピラトはイエス様に対する訴えが偽り証言だと思いました。だから、そこに集まった群衆に向かって、ひとりの囚人を釈放するように提供しました。多分、彼は、バラバという強盗よりも、無罪のイエスを釈放したかったでしょう。しかし、その選択を群衆にゆだねました。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」と言いました。それに、ピラトが裁判の席についていた時、その妻から送られた人が来て言いました。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は、夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」ピラトは多くのローマ人のように迷信的な信仰があったようです。妻の見た夢によると、イエス様は正しい人だそうです。だから、ピラトは色々な理由で主イエスを釈放するつもりでした。まず、イエス様の犯罪を認めなかったからです。それに、妻からの警告を真面目に聞いて、その願いを聞き入れたいからです。「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた」ので、ピラトは困りました。「ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか」とピラトが群衆に尋ねると、彼らは言った。「バラバだ。」イエス様を釈放しようと思ったピラトは、「では、キリストと言われているイエスを、私はどのようにしようか。」と言いました。22節で、群衆の人々はいっせいに言った。「十字架つけろ。」ピラトの答えを見ると、彼の心が分かるでしょう。ピラトは言った。「あの人はがどんな悪いことをしたというのか。」ピラトは、イエス様が無罪だと思いました。しかし、群衆がますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けました。ピラトは本当に公平な正しい裁判官であったら、無罪のイエス様を釈放したでしょう。しかし、ピラトは群衆の要望に負けてしまいました。彼は、水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」そう言ったピラトは、もちろん、そんなに簡単に自分の責任を群衆に渡すことが出来ません。しかしピラトは堕落した役人なので、「イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」と26節で言っています。 ここで私たちが認めなければならないことは、イスラエル人の群衆のほうがイエス様を「十字架につけろ」と叫んで、キリストの死刑を要求したということです。ユダヤ人の群衆がイエス様の死刑を求めたことがなければ、ピラトはイエス様を釈放したでしょう。しかし、群衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言ったのにもかかわらず、十字架の死刑に引き渡したピラトは、自分の責任を避けることが出来ませんでした。実は、ユダヤ人も異邦人も主イエス・キリストを十字架につける責任を負わなければなりません。この場面で見える多くの人々のうちに、罪のない、潔白な人は、十字架の死に定められたイエス・キリストだけです。    

III. CONCLUSION

さて、どのようにこの箇所から学びましたことを自分の生活に適用することが出来るのでしょうか。終わりに、自分の想像力をもって、次の質問を考えてみてください。もし、ピラトの裁判所にいたら、あなた自身は、どこに立っていたのでしょうか。イエス様のそばに立っていたのでしょうか。それとも、ユダヤ人の所に立っていたのでしょうか。または、ローマの裁判官とともに立っていたのでしょうか。昔から、多くの人々は、ユダヤ人の不正をすぐ認めて、すべてのユダヤ人を厳しく非難したことがあります。しかし、正直に言えば、あなたも私も、主イエスに対して逆らった者です。私たちは、その裁判所にいたユダヤ人より、または異邦人より、すぐれた者ではありません。他の人の罪をすぐ非難して、裁くでしょう。でも自分の不親切、自慢、不正、偽り、裏切り行為などを大目に見る傾向がありませんか。イスラエル人の祭司長は、罪のないイエス様を裏切って、それから後悔したユダに言いました。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」自分たちの罪を全然認めませんでした。ピラトも同じように、罪のないイエス様の死刑を要望した時、群衆に言いました。「この人の血について、私には、責任がない。自分たちで始末するがよい。」しかし、祭司長たちも異邦人の総督も、聖なる神様の裁判の御坐の前で自分の責任を否定することはできません。私たちも、罪のない主イエスを十字架の死刑に渡したユダヤ人の悪意とか、堕落した異邦人の役人の不正とかを咎める前に、まず自分の心を吟味した方がいいと思いませんか。使徒パウロはローマのクリスチャンたちにこう書きました。「では、どうなのでしょうか。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです、『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人はが迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。』」(Rom.3:9-12)私たちは、イエス様を死刑に渡した者よりも、正しい者ではありません。

   ピラトの裁判所にいた人々の中で、正しい、罪のない方はおひとりだけです。罪のない主イエス・キリストは、私たちの代わりに、私たちのために、その刑罰をお受けになりました。イザヤが言ったとおりです。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53:5)お祈りしましょう。

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