ルターの95箇条の提題と宗教改革

KASUMIGAOKA
2017/10/15 
SERMON: 「ルターの95箇条の提題と宗教改革」 “Luther’s 95 Theses and the Reformation”
TEXT: Ephesians 4:17-24

I. INTRODUCTION イントロダクション

みなさんは、「改革長老」とはどういう意味か、聞かれたことがあるでしょうか。多くの人は、それは「改革された」長老教会であり、より保守的な、もしくはより革新的な教会であると考えます。私はこの名前を二つの点で説明します。まず第一に、それぞれの教会で選ばれた長老たちによって導かれる教会であるということ。そして第二に、16世紀のプロテスタントの宗教改革の神学を信じ、それを教える教会であるということです。ほとんどの人はヨーロッパの歴史の中でのプロテスタント宗教改革について聞いたことがあると思います。しかし宗教改革の神学についてはあまりご存じない方も多いのではないでしょうか。「改革派神学」のシンプルな定義としては、聖書の教えに堅く立つ、キリスト中心の神学といえばいいと思います。改革派神学が教えるのは、人間の救いは、ただ神の恵みのみにより、贖い主キリストを信じる信仰を通して与えられるものであり、私たちの「善い行い」によるものでは決してないということです。もちろんこれは、イエス様や使徒たちの本来の教えでした。しかし徐々に、何百年もかけて、教会はこの本来の信念から遠ざかっていきました。そして新しい教えが教会の神学の中にはびこっていきました。ローマ・カトリック教会の神学に付け加えられた新しい考え方のほとんどが、教会の権威をより強め、社会への教会の影響力を高めていきました。このような新しい教えは、荒れ狂う中世の時代に、ローマ・カトリックのクリスチャンたちの考え方に植え付けられていったのです。このような新たな教えには、「煉獄」の教えや、全ての霊的な事柄に関する教皇の絶対的な権威や、カトリック教会による罪の赦しの必要性などがあります。このような教えは、ローマ・カトリック教会の威信と権力を広大に増やしたのです。しかしこれらは人間の教えや伝統であり、神からのものではありません。

16世紀の初めになると、多くの人がローマ・カトリック教会の行ないに疑問を持つようになりました。ローマの教皇は贅沢な暮らしを、借りたお金で何年も行なっていました。バチカンの収入を増やすために、多くの計画が立てられました。莫大なお金によって、ふさわしくない人物に教会の役職が与えられました。豊かな人の特権や免税のために、お金が集められました。しかしその中でも、最もひどい教皇の権威の濫用の一つが、「免罪符」(「贖宥状」)の販売でした。一定のお金を支払うことで、教皇自身から罪の赦しの保障を買うことができるという制度です。実際、新しい形の免罪符は、魂を煉獄から開放して、すぐに天国に送ることができると言われたのです。このような免罪符の販売が、1517年10月31日に、マルティン・ルターが95箇条の提題をヴィッテンベルク大学の聖堂の門に打ち付けるきっかけになったのです。ルターが95箇条の提題を出してから500年が経ちますが、今日においても、その日がキリスト教会におけるプロテスタント宗教改革の始まりとして記念されているのです。当時ルターは、アウグスティノ修道会の修道士で、その大学の神学の教授でした。ルターはその提題によって、当時の神学者たちに議論の論点を与えています。その提題はもともとラテン語で書かれ、それは学術的な言語であり、当時の一般的な言語ではありませんでした。実際、ルター自身はこの論点を出すことで、ヨーロッパ全体を駆け巡ったプロテスタント宗教改革の火をつけることを意図したわけではなかったのです。しかしルターは、自分の提題が正確に聖書の教えを表しているという確信を持っていました。それから数年にかけて、徐々にルターは、ローマ・カトリック教会の教えの改革が必要であると気付いていきます。カトリック教会の行いだけでなく、根本的な教えそのものが変えられなければならないという風にです。カトリック教会は、信頼できる聖書の教えの基礎へと回復させられなければならなかったのです。 今日から何週間かにかけて、500年前にルターが掲げた95箇条の中のいくつかの主なテーマを取り上げたいと思っています。様々な意味で、今日においてもそれらは重要なテーマです。それらは、悔い改めの真の意味、善い行いでなく神の恵みによる信仰を通しての救い、完成されたイエス・キリストの贖いの御業、そして聖書の絶対的な権威などです。今日はその中で、福音が真のクリスチャンにもたらす、根本的な変化について考えてみたいと思います。ルターの時代において、この点が95箇条の提題の基本的な挑戦でした。神の真理と御力によって、行ないだけでなく心においても変えられるように神に自分を委ねるか。それとも神の御言葉によらない、人間の生み出した、聞き慣れた教えにしがみつくのか。ルターは使徒パウロがエペソ4:17-18で書いている言葉を信じました。「もはや、 異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、 その知性において暗くなり、 彼らのうちにある無知と、 かたくなな心とのゆえに、 神のいのちから遠く離れています。」むしろ、キリストの教えとは、「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、 新しい人を身に着るべきことでした。」ということでした(4:23-24)。言い換えるならば、完全に心が変えられない内は、真実なクリスチャンの信仰はありえないということです。イエス様は同じように律法学者やパリサイ人にマルコ7:6-8でこうおっしゃいました。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、 こう書いているが、 まさにそのとおりです。『この民は、 口先ではわたしを敬うが、 その心は、 わたしから遠く離れている。 彼らが、 わたしを拝んでも、 むだなことである。人間の教えを、 教えとして教えるだけだから。 』あなたがたは、 神の戒めを捨てて、 人間の言い伝えを堅く守っている。 」これはイエス様の時代においてもそうでしたし、ルターの時代にもそうでしたし、そして今の私たちの時代にも言えることです。多くの人は神を知っていると言いながらも、真の信仰の最初の一歩すら踏み出していません。彼らが、周りの社会のようにではなく、キリストのように考え始めることができるように、神に心を変えてくださるように願っていないのです。彼らは依然として、「異邦人がむなしい心で歩んでいるように(エペソ4:17)」歩んでいるのです。しかし、キリスト教の本質は、キリストのように考え、キリストのように生きることを学ぶことです。心の改革から始めないといけないのです。これが、マルティン・ルターに改革がもたらされた道でした。そして500年前にローマ・カトリック教会や西洋の世界にもたらされた改革の道だったのです。社会は一人ずつ、心において新しくされることで、変えられていったのです。このようにして、教会が改革され、西洋の歴史が大きく動きました。私たちにもそのような変化が必要なのです。

II. THE BEGINNING OF TRUE REFORMATION 真の宗教改革の始まり

このような改革には何が必要なのかを考えてみましょう。エペソ4:17-24を開いて下さい。この箇所を考えていくなかで、使徒パウロの言葉と私たち自身の経験を比較してみましょう。パウロはこの箇所でエペソのクリスチャンたちに対して、6つのことをおごそかに宣言し、要求しています。

まず第一に、パウロは「もはや、 異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」と書いています。この箇所の中心は、真のクリスチャンは、周りの未信者たちとは異なる歩みをしなければならないということです。私たちの行動は、私たちが何を考え、何を信じているかを反映します。真のクリスチャンは他の人達と同じものを信じてはいません。だからこそ、彼らと同じようには考えません。未信者たちの心は「むなしい心」であるとパウロは言います。彼らの考え方は、たとえ彼らがこの世の目で見ればとても賢かったとしても、真の神を知り、神に仕えることには結びつかないのです。しかしクリスチャンは違います。クリスチャンは「世の光」を見ているのです。パウロはコリントの教会にこう書きました。「光が、 やみの中から輝き出よ」と言われた神は、 私たちの心を照らし、 キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(2 Cor. 4:6)。だからこそ、私たちは未信者たちのように、むなしい暗やみの心で歩むことはもうないのです。クリスチャンは未信者のように行動してはなりません。皆さんの周りの人達と「違う」ということに恐れてはならないのです。

第二に、パウロは18節で神を信じない異邦人たちは「その知性において暗くなり、 彼らのうちにある無知と、 かたくなな心とのゆえに、 神のいのちから遠く離れています。」と書いています。これはとても重要な箇所です。なぜならここでは、罪が人々の考え方や、悪に対する感覚を傷つけていると言われているからです。まずパウロは、未信者たちは、彼らのうちにある無知のゆえに、神のいのちから遠く離れていると言っています。言い換えるならば、彼らは神様の事実、つまり神の完全な義、聖、真理、憐れみ、愛を知らないのです。多くの人は神様の実在すら認めようとしません。だとすれば、彼らは神の力を認識できるはずはありません。しかし、彼らが神のいのちから離れているのは、無知のゆえだけではありません。18節は、彼らの無知は、「意識的な無知」であると言います。彼らは、神を知りたがろうとしないので、神を知らないのです。「かたくなな心」のゆえにです。ある人の心がかたくなな時、その人は道徳的に間違ったこと(悪いこと)をしても、それを悔いることがありません。私たちは罪を繰り返し犯す時、心が「かたくなに」なるのです。人間の良心がかたくなになるという一つの例があります。戦争の時、兵士たちは敵を殺すように命じられます。しかし彼らはまず、他の人間を殺すという行動に対して心が「かたくなに」ならなければなりません。そしてそのような兵士たちは心をかたくなにした後で、日常の社会に戻ることが困難になる場合があります。他の人間を殺すことが、彼らにとっては生活における通常の行ないになってしまうのです。これと同じように、多くの人は罪を犯す時、良心を静め、無感覚にしてしまうのです。繰り返し罪を犯すことで、良心の声に対して、心がかたくなになっていくのです。悪を行う時、悲しむことができなくなります。そして最後には何が正しく、何が悪いことなのかさえ判別できなくなってしまうのです。これが、人々が神を知ることができない一つの理由です。彼らは、すべての罪を裁かれる正しい神を知りたがらないのです。かたくなな心が神を知ることを抵抗するのです。クリスチャンは、罪が暗やみをもたらし、私たちの自身の心にすら、かたくなさをもたらしたということを認識しなければなりません。そして、力と恵みに満ちた神の助けなしには、この問題を解決することはできません。しかし感謝なことに、神様は、私たちが必要とするその助けを与えてくださったのです。 神様は私たちにイエス・キリストを送ってくださいました。そしてキリストは私たちが知っている他の誰とも異なっています。クリスチャンはキリストから学び、キリストに従うように召されています。キリストから、神様がどのようなお方なのかを学ぶのです。私たちは神の善、聖さ、そして御力を学びます。そして神がまず私たちを愛してくださったように、私たちもまた神様を愛するように教えられるのです。私たちはキリストを通して、神とともに歩み、自分自身ではなく神を喜ばせるために歩むことを学びます。私たちは、何が正しく、何が間違ったことなのかを見分けることを学び、正しいことを選んで行うことを学ぶのです。それがイエス様が歩まれた道であり、イエス様は弟子たちにも同じように歩むように教えられました。ヘブル書には、キリストは神の御子であり、御子は「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、 その力あるみことばによって万物を保っておられます」(Heb. 1:3)とあります。コロサイ2:9はこう言います。「キリストのうちにこそ、 神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」未信者は「むなしい心」で、「道徳的に無感覚となって」(Eph. 4:19) 歩んでいるかもしれませんが、それはクリスチャンが彼らの主イエス・キリストから学んだことではないのです。エペソ4:21でパウロは驚くべきことを言います。クリスチャンは「キリストに聞き、キリストにあって教えられている」とパウロは言います。言い換えるなら、クリスチャンはイエス・キリストとの個人的な関係が与えられているのです。キリスト「について」教えられただけではなく、キリスト「にあって」、すなわちキリスト自身から教えたれたのです。これはクリスチャンの信仰についての驚くべき事実です。このような信仰や生き方に導き入れられた者は、新しい哲学や考え方を受け入れただけではありません。そのような者たちは、イエス・キリストとの真の関係性の中に受け入れられるのです。これが、クリスチャンとなった時に、私たちの生き方がどのように変えられるかの3つ目の点です。

次にパウロは、真のクリスチャンは信仰についての教えを学ぶだけではなく、クリスチャンとしての生活を実際に生きるように、自分の身を置くのです。これがクリスチャンの信仰の本当のテストです。その人が真のクリスチャンであるかどうかは、「どれだけ知っているか」ではなく、「どのように生きたか」が大事なのです。真のクリスチャンであるかどうかを示す、続く3つの特徴は22-24節に書かれています。パウロは「あなたがたの以前の生活について言うならば、 人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」と言います。これは、以前の考え方や生き方を、もはや続けてはならないということです。パウロはここで悔い改めの必要性を語っています。つまり、堕落、罪の性質を認識し、意識的にそれを捨てることです。真の悔い改めは、はっきりした意思を伴う行動です。しかし、聖霊の力強い助けなしには、それは有効にはなりません。この理由で、悔い改めは神が真のクリスチャン一人ひとりに聖霊を通して与える「賜物」であると言われるのです。エルサレムの使徒たちが使徒11:18でこう宣言した通りです。「それでは、 神は、 いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」真の悔い改めは神からの賜物で、それ抜きには誰も全ての罪とともに「古い人を脱ぎ捨てる」ことはできないのです。

真のクリスチャンの信仰に要求される5つめのことは、24節で説明されています。過去の罪を悔い改めるだけでは充分ではありません。クリスチャンははっきりと、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、 新しい人を身に着る」ことを求められているのです。「新しい人」とは、イエス・キリストご自身の中にのみ認められる完全な「神のかたち」のことです。だからこそ、ここでパウロは、私たちがキリストと結合していくということを言っているのだと思います。そのことをパウロはローマのクリスチャンたちにローマ13:14で語っています。「主イエス・キリストを着なさい。 肉の欲のために心を用いてはいけません。」キリストのみが、私たちが純粋で聖い歩みをすることを可能にしてくださいます。神を喜ばせるような生き方をする上で、キリストのみが私たちの唯一の希望です。この二つのはっきりした行動、つまり古い人を脱ぎ捨て、新しい人であるキリストを身に着ることは、人が「新しく生まれる」ときに起こることです。それは、私たちが自分の善い行いに信頼することがなくなる悔い改めと、私たちがキリストのみが唯一の救いの希望であると告白する信仰の両方の行為なのです。

パウロは23節で、真のクリスチャンの変化について、もう一つの要求を示しています。パウロはエペソのクリスチャンにこう言います。「またあなたがたが心の霊において新しくされ」この要求と、22及び24節にある別の二つの要求との間には、重要な違いがあります。新生、新しく生まれることの経験とは異なり、心を新しくするということは、私たちの生活の中で繰り返し起こり続けなければなりません。この動詞がギリシャ語においては現在形であることから、継続する動作であることが分かります。皆さんの心は日々新しくされているでしょうか。それはどのようにして起こるのでしょうか。神様は、私たちが神の御言葉を読み、その真理を思い巡らすことを通して、心を新しくしてくださるのです。皆さんが聖書を開き、注意深くそれを読む時に、神の御霊が新しい、生き方を変えるような真理を、御言葉を通して示してくださるのです。神の御言葉に常に注意を払うことが霊的な成長、そして心を新しくすることの秘訣です。       

 III. CONCLUSION  結論

500年前にマルティン・ルターがヴィッテンベルグに打ち付けた95箇条の提題は、当時のローマ・カトリック教会や社会の現状に挑戦を与えました。クリスチャンに心を吟味するように要求したのです。ローマ・カトリック教会の人々は、聖書が要求したとすれば、彼らの考え方や生き方を変えようとしたでしょうか。人間の伝統や習慣は、私たちの生き方に大きな影響を与えます。しかし神の御言葉はそれよりもっと力強いものです。パウロはローマのクリスチャンにこう書きました。「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、 むしろ、 神のみこころは何か、 すなわち、 何が良いことで、 神に受け入れられ、 完全であるのかをわきまえ知るために、 心の一新によって自分を変えなさい。」神の御言葉は心を一新し、思いを変えることができるのです。500年前もそうでしたし、今日もそうなのです。

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