無駄な論争を避けましょう

KASUMIGAOKA
2017/09/24 
SERMON: 「無駄な論争を避けましょう」
“Avoid Empty Controversies”
TEXT: Titus 2:15-3:15  

I. INTRODUCTION: Seek Peace イントロダクション

イエス様は逮捕されて十字架にかかられる直前、不安な弟子たちに対してこう励まされました。「わたしは、 あなたがたに平安を残します。 わたしは、 あなたがたにわたしの平安を与えます。 わたしがあなたがたに与えるのは、 世が与えるのとは違います。 あなたがたは心を騒がしてはなりません。 恐れてはなりません。」(John 14:27)イエス様はご自身の教会に対して、「思いの平安」だけをお与えになったわけではなく、教会における平安な生き方をたてあげる道を与えてくださったのです。イエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたは、 世にあっては患難があります。」しかし、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、 あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。」(ヨハネ16:33)互いに一致し、キリストと結合しているクリスチャンは、信仰によって平安を持つのです。使徒パウロのテトスへの手紙は、キリストの平安がどのように獲得されるかを示しています。キリストのからだである教会の中の平和は、実現されるものですが、それを保つのは簡単なことではありあせん。教会の平安や調和は、口論や反抗によって、簡単に妨害されます。パウロはテトスに1:10でこう警告しました。「実は、 反抗的な者、 空論に走る者、 人を惑わす者が多くいます。 特に、 割礼を受けた人々がそうです。彼らの口を封じなければいけません。 彼らは、 不正な利を得るために、 教えてはいけないことを教え、 家々を破壊しています。」教会は、このような論争に対して、ふさわしい方法で取り扱わなければなりません。使徒パウロはエペソの教会にこう書きました。「謙遜と柔和の限りを尽くし、 寛容を示し、 愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」今日は、キリストの教会において、色々な論争に対してどう対応すればよいのか、そして平和を求めるにはどうすればよいのか、テトスに対して与えられた教えから学んでいきたいと思います。クレテの教会が平安や成長を求めるために、5つのことをパウロはテトスに対して勧めています。    

II. DEALING WITH CONTROVERSY IN THE CHURCH  教会で論争を取り扱うために

第一に、パウロはテトスに対して、教会員たちはキリストが長老もしくは監督と呼ばれる教会のリーダーを、教会のために任命されたということを覚えないといけないと言っています。長老の正当な権威は神の御言葉に基づいたもので、軽視されるべきではありません。パウロが2:15で書いたように、長老が、「十分な権威をもって話し、 勧め、 また、 責め」る時、その言葉は聞き入れられなければならないのです。この権威は神ご自身から来るものであり、この世においても教会においても正当なものです。全ての権威はキリストに属するからです。しかし、イエス様はローマの総督であったポンテオ・ピラトにこうもおっしゃいました。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、 あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネ19:11)もし私たちが、政治的なリーダーに同意しないとしても、彼らの権威が神から与えられたものであることを認め、彼らに従わないといけないのです。しかし彼らの権威には制限があります。神の御言葉こそが、私たちが生きる上で究極の規準にならなければならないのです。

教会にも、キリストから権威が与えられたリーダーがいます。パウロはテトスに3:1でこう言います。「あなたは彼らに注意を与えて、 支配者たちと権威者たちに服従し、 従順で、 すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。」私たちは、常に100%完全に教会のリーダーに同意するわけではないかもしれませんが、彼らの職務を尊重し、彼らの指導に従うべきなのです。もちろん、長老たちの権威も聖書によって制限されています。もし、あなたが、長老が神の御言葉に従っていないという過ちに陥っていると思うならば、その長老に神の御言葉が何と言っているか示さなければなりません。これは論争ではありません。むしろ、共に神の御言葉から学ぼうという姿勢です。キリストの教会の中の平和を求めるために、まず、互いに神の御ことばに服従するように思い起こさせなければなりません。教会の長老たちが聖書に従って指導してくれるために彼らを尊重し従いましょう。3:2の教えは、教会員に対して、どのようにリーダーと関わるかを教えているものだと思います。もしあなたが長老たちと意見が合わなかったとしても、その長老を中傷したり、争ったりしてはいけません。むしろ、理にかなった、思いやりのある態度を全ての人に示すべきです。教会で平和を求めるためには、このことも覚えないといけません。パウロは、テサロニケ教会の長老たちについて、こう書き送っています。「その務めのゆえに、 愛をもって深い尊敬を払いなさい。 お互いの間に平和を保ちなさい。」(Iテサロニケ5:13)

テトスがすべき第二のことは、へりくだって、自分自身の過去を思い起こすということです。パウロが3:3で与えている教えは、特にテトスと全ての教会のリーダーたちとに与えられているものだと思います。ある教会においては、長老や牧師が、教会員の霊的な成熟度の低さに対して批判的だったりします。長老たちは、自分と同じレベルの霊的な成熟度を全ての教会員に強制しないよう注意しなければなりません。そして長老たちは、自分を義とするようなおごりという、霊的な罠に陥らないようにも注意しないといけないのです。使徒パウロはしばしば、かつての自分を、キリストと彼の教会への熱心な敵であると振り返ります。パウロは自分自身のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼び、「私は使徒の中では最も小さい者であって、 使徒と呼ばれる価値のない者です。 なぜなら、 私は神の教会を迫害したからです。」とも言います。そしてIテモテ1:15でパウロはこう言います。「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた。...私はその罪人のかしらです。」長老たち一人ひとりは、自分がかつてどのような人物であったかを覚える必要があります。自分自身にキリストから与えられた救いの恵みを忘れない長老のみ、教会の若いクリスチャンたちにへりくだりと恵みとを持って仕えることができるのです。このことが、パウロがテトスに3:3で言っていることの理由だと思います。「私たちも以前は、 愚かな者であり、 不従順で、 迷った者であり、 いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、 悪意とねたみの中に生活し、 憎まれ者であり、 互いに憎み合う者でした。」 第三に、教会の中の論争を取り扱うために長老は、神のあわれみと愛を自分で経験した者でなければなりません。長老は、パウロが5節で言う言葉を同じように言えないといけません。「神は、 私たちが行った義のわざによってではなく、 ご自分のあわれみのゆえに、. . . 私たちを救ってくださいました。」長老が自分のことを単なる罪人であると自覚し、神の恵みによってのみ救われたことを知る時、その長老は他のクリスチャンたちとの霊的な「きずな」を結ぶことができるのです。その長老は、自分自身に永遠の救いを計画し、それを実現させてくださったのと同じ神様が、教会の他のクリスチャンの人生に置いても恵みの御業を行なってくださることを知ります。テトスは、かつて自分の人生を変えた福音が、教会の他の人の人生をも変えることができるということを、その人達に宣べ伝えないといけないのです。パウロはローマ人への手紙1:16でこう言いました。「私は福音を恥とは思いません。 福音は、 ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、 信じるすべての人にとって、 救いを得させる神の力です。」そしてパウロはテトスにこう言います。「神は、. . . 聖霊による、 新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(3:5)」神の救いによって、人々は本当に新しくされ聖められるのです!だからこそ、すべてのクリスチャンは新しい命を目指さなければいけません。「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、 新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:24)頑固で頑なな心を持った人々、誇り高く傲慢な人々、厳しく論争的な人々はみな、「聖霊による、新生と更新との洗い」によって変えられるのです。だからこそ、私たちは同意できない人たちの心を変えてくださるように主に仰ぎ見るのです。全ての信徒たちが神の御言葉を正しく理解するように神に求めるのです。「平和のきずなで結ばれた御霊の一致」を私たちの教会に与えてくださるように神に信頼するのです。人を説得するような議論だけで、教会に平和や一致をもたらすことはできません。しかし神様はそれがおできになるのです!

パウロがテトスと全ての教会のリーダーたちに教えている4つめのことは、愚かな論争を避けるように注意することです。議論に飛び込み、その議論に勝利することよりも、その論争自体を避けることのほうが賢いことはよくあります。多くの論争は、貴重な時間や労力をむだにする、愚かなものです。1世紀のクレテにおいて、具体的にどのようなことを人々が議論していたのかが分かりませんが、パウロはそれを「愚かな議論、 系図、 口論、 律法についての論争」(9節)と呼んでいます。おそらくあらゆる世代、あらゆる場所の教会は、虚しく愚かな論争に直面してきたことでしょう。その論争が終わり、教会はそれを振り返りこう思うかもしれません。「どうして私たちはこんなばからしいことに、これだけの時間を費やしたんだろう。」しかし、論争は悪魔がキリストの教会を弱らせ、分裂させるために用いる、最も得意の手段の一つです。だからこそ、サタンがこのような生産性のある誘惑の手段を、これからも用い続けることを予想しなければなりません。知恵のあるリーダーたちは、多くの論争の愚かさを理解し、それに加わることを単純に避けるのです。

しかし、全員が論争を注意深く避けるわけではありません。実際、自分の教会の中で論争を起こすことを楽しむような人たちもいます。単純に議論したいような人たちです。またある人は、自分に注意を引きたいために、空想を持ち出したり、異論を唱えたりします。パウロは、このような人たちに気を付けるように、エペソの教会の長老にこう警告しました。「あなたがた自身の中からも、 いろいろな曲がったことを語って、 弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:30)忠実な教会の長老たちは、このような分裂を起こすような人たちに対して、忍耐と愛と確固たる態度を持って接しなければなりません。10-11節でパウロはテトスにこう言います。「分派を起こす者は、 一、 二度戒めてから、 除名しなさい。このような人は、 あなたも知っているとおり、 堕落しており、 自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」このような人は、男性であれ女性であれ、聖書に基づく長老の教えや勧告を聞き入れることを拒む場合、最終的には「黙らせられ」なければいけません。なぜならこのような人たちは教会全体の平和や健康を損なっているからです。究極的には、彼らが罪深く、分裂を招くような行為を改めることを拒む場合、教会から除名されないといけないかもしれません。もしこのようなことが起こったとしても、それは愛と優しさで取り扱われなければいけません。教会が最小限の分裂で済むためにです。

最後にパウロはテトスへの手紙の締めくくりとして、いくつかの個人的なお願いと、クレテの聖徒たちへのあいさつを書いています。しかし、この最後のお願いの部分にすら、キリストの教会の中の論争を取り扱う重要な方法を示していると思います。パウロはこの締めくくりの箇所で、どのようにクリスチャンがお互いに思いやるべきかを教えています。クリスチャンが互いに積極的に仕え合い、祈り合っている時、論争の火をかきたてるのは困難です。人々が真面目に神の御国を建てあげようとしないときにこそ、論争はより深刻になってくるようです。パウロはテトスに論争を避けるように勧め、そのかわりに「あなたは、何としてでも、 ニコポリにいる私のところに来てください。」(12節)そして「ぜひとも、律法学者ゼナスとアポロとが旅に出られるようにし、 彼らが不自由しないように世話をしてあげなさい。」(13節)最後に「私たち一同も、 なくてならないもののために、 正しい仕事に励むように教えられなければなりません。 それは、 実を結ばない者にならないためです。」(14節)と言っています。愚かな論争に時間や労力を費やすこと以上に「実を結ばない」ものはほとんどありません。私たちの教会を、互いを助け合い、励まし合うために努力し、福音を携えて新しい場所に教会を建てあげ、姉妹教会の必要のために助けるようなクリスチャンが満ちるような場所にすべきです。そうすれば、私たちは実を結び、論争によって妨げられることはなくなっていくでしょう。   

 III. CONCLUSION 結論

殆どのクリスチャンは、論争が自分の教会の健全さや存亡すら脅かすような経験をしていたり、これからすることになると思います。教会自体は失敗に終わるわけではありません。なぜならそれは主イエス・キリストに属するからです。しかし、個々の地域教会は失敗することがあります。教会は決して、論争の危険性を軽視してはいけないのです。テトスに与えられた教えを注意深く聞き、私達自身もそれに従うように努力しなければいけません。まず第一に、神様が私たちを牧するために与えられた長老たちの正当な権威を私たちは聞かなければなりません。そして第二に、私たちは全員罪人であり、自分たちの行いではなく、神様の恵みによってのみ救われた者たちであることを覚えなければなりません。第三に、神様は今日でも、キリストにある贖いと、聖霊の力によって私たちの生き方を変え続けてくださっていることを覚えなければなりません。第四に、私たちは「党派心の強い」人々を、優しさと忍耐と確固たる態度をもって取り扱わなければなりません。そして第五に、私たちは、互いをクリスチャンの愛で建てあげ、あわれみと励ましの実を結ぶ働きに積極的に携わっていなければなりません。これが、むだな論争の脅威に対して私たちが取るべき態度です。そして、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つ」(エペソ4:3)ための態度です。

私たちの教会は、今現在、論争を招くような幾つかの課題に直面していて、群れの平和が脅かされる危険性もあります。例えば、来週の教会の役員選挙があり、教会堂の改修についての課題もあります。これらはすべて、私たちが考えないといけない重要な課題です。それらに直面するにあたり、クレテの教会で平和を保つためにテトスに与えられた教えを覚えましょう。私たちがこの教えに従って、これらの課題に安心して向き合い、論争や分裂を避け、御霊の一致を熱心に保ちましょう。

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