キリストにあって実を結ぶこと

KASUMIGAOKA  
2017/12/31 
SERMON: 「キリストにあって実を結ぶこと」 “Bearing Fruit in Christ”
TEXT: John 15:1-8    

 I. INTRODUCTION イントロダクション

イエス様は、ご自身がこの世に来たのは、彼に従う者が「いのちを得、またそれを豊かに持つため」であると言われました(ヨハネ10:10)。イエス様が従う者に約束されている、この「豊かないのち」とは何でしょうか。先週の箇所で、イエスさまは、「群れ」に属する「羊」と比較して、人々が受け取る恩恵を強調しました。今日、ほとんどの人々は、おそらく羊と比較されたくないでしょう。羊は愚かで、騙されやすく、傷つきやすいような動物です。このことは、一部の人がイエス様の教えについて真剣に考えることを妨げる障害の一つです。誰も、自分が簡単に間違うと思いたくはありません。ほとんどの人は、彼らの考え方や生活において自立したいと考えています。しかし、イエス様は、人間の自主性に対するこのような思いは、人間の驕りであり、人間の堕落の結果の一つであると説明しています。イザヤはこう言いました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)。「ある人」だけではなく、すべての人がさまよい、すべての人が羊飼いの助けを必要としているのです。この羊飼いの助けなしには、神がキリストを通して私たちに与えてくださる、豊かないのちを経験することはできません。 「良い羊飼い」として、イエス様はご自身の羊を群れに集め、危険や敵から守ってくださいます。イエス様は、羊が満足や幸せを得るために必要としているものを与えて下さいます。詩篇23篇はこう言います。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ」てくださいます。イエス様は、「羊」、すなわち、イエス様に信頼を置き、その声を聞く人々の世話をしてくださることを約束します。この、羊飼いに従う羊の群れのイメージは、ご自身の教会についてのキリストの比喩です。羊飼いであるイエス様に従う者は、ともに集められ、保護され、養われ、そしてイエス・キリストに導かれます。そして彼らは、イエス様の臨在の中で豊かないのちを楽しむのです。しかし、キリストが私たちに与えてくださる物質的、感情的、そして霊的な恩恵を楽しむこと以上のものが、豊かないのちにはあるのです。豊かないのちの約束には、他人が楽しめるような「実を結ぶ」ことも含まれます。キリストにある豊かないのちを楽しむクリスチャンは、他者にとってのいのちや祝福の源になるのです。

古いハリウッド映画で「It’s a Wonderful Life!」(日本語では「素晴らしき哉、人生」)という映画を見たことがありますか。 1946年に制作されたもので、いまでは古い映画です。この映画は、天使については、ばかばかしくて非聖書的な考え方を示しています。しかし、この映画には真実のメッセージが1つあります。それは次のようなものです。「すばらしい人生」は、裕福で豊かになること、あるいは若い頃の夢を実現することにはよりません。すばらしい人生は、他の人に利益をもたらすような実を結ぶ人生です。映画の主人公の、ジョージ・ベイリーは、自分の夢ではなく、他の人の利益を優先する、良い人でした。彼は自分自身が失敗したわけでではないのに、深刻な財政難に陥り、自殺まで考えました。しかし、映画の終わりに、ジョージは彼の家族と彼を助けるために来たすべての友人に囲まれていました。ジョージは、彼が長年にわたって助けてくれた友人が「豊か」にいたので、自分の人生は失敗ではないことに気付いたのです。彼は数多くの人を助け、本当に「すばらしい人生」を送りました。それはこの映画の主なメッセージでした。水曜日の夜にこの映画を見て、前日に木谷精吾長老の葬儀に参列したすべての人たちのことを考えました。私は木谷さんが若い頃に抱いていた、「演劇界」という叶わなかった夢と、彼が人生で直面した困難のいくつかを思い出しました。しかし、確かに、木谷精吾長老は、ジョージ・ベイリーと同じように、「すばらしい人生」を経験したんだと思います。多くの人が木谷長老の人生によって祝福されました。しかし、映画のジョージ・ベイリーの友達とは違って、これらの友人たちは今、木谷さんを助けることができませんでした。キリストのみが木谷さんを「死の陰の谷」を通して永遠のいのちに導くことができたのです。そしてキリストはそうしてくださいました。木谷精吾長老は、自分のいのちを羊飼いであるイエスの保護のもとに置いたので、彼はこの世界でも永遠でも、豊かに生きることができたのです。彼の人生は本当に「すばらしい人生」でした。それでは、他者のために実を結ぶ、この「豊かないのち」について聖書が教えてくれることを見ていきましょう。
II. LIFE IN CHRIST, “THE TRUE VINE”「まことのぶどうの木」なるイエス様にあるいのち ヨハネ15章で、イエス様は新しい比喩を用いて、イエス・キリストとの関係による、一致した、実りあるクリスチャンのいのちを描いています。羊飼いと羊の代わりに、実り多い枝をたくさん持つぶどうの木をイエス様はイメージされます。 1節でイエス様はこうおっしゃいます。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」農夫はこのぶどうの木を植え、ぶどうの木を世話する者です。そしてぶどうの木は自分のためにではなく、農夫のために果物を生産します。このたとえ話の目的は、ぶどうの木の枝が実を結ぶことが、どのように可能であるかを示すことです。このイエス様のたとえ話には3つの異なる登場人物がでてきます。まず、イエス様が、ご自身を「まことのぶどうの木」と表現されています。イエス様がまことのぶどうの木であるのは、ご自身がぶどうの中心の茎(または「幹」)だからです。イエス様は、枝のそれぞれが成長し、外に広がるための支えであります。そしてまたイエス様は、それぞれの枝が必要とする栄養を供給します。そして、「真のぶどうの木」としてのイエス様は、深い地下から水を吸収する根を持っています。その根によって、葉や実を持つ枝は、うるおい、保たれるのです。 このたとえに登場する最初の人物は、「真のぶどうの木」なるイエス様です。

第二の登場人物は農夫です。「わたしの父は農夫です」とイエスは言います。農夫はぶどうの木が豊富な収穫を生産させる役割を持ちます。だからこそ、2節でイエス様はこう言われます。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」農夫は、枝が結ぶ実にもとづいて、残す枝と取り除く枝を注意深く選びます。実を結ばない枝は、単純に切られ、取り除かれます。実を結ぶ枝はより多くの実を結ぶために農夫が「刈り込み」をします。農夫の目的は、もちろん、できるだけ多くの実を結ばせることです。

第3の登場人物は、ぶどうの木の枝によって現されます。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とイエス様は5節でおっしゃいます。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」イエス様は、これらの枝、つまりイエス様の本当の弟子たちは、「イエス様にとどまる」とおっしゃっています。彼らは「刈り込まれ」、「多くの実を結ぶ」のです。まず、イエス様は2節で、農夫は実を結ばないすべての枝を切り落とすと言います。実のない枝は、まことのぶどうの木に結びついたままでいることを認められないのです。実を結ばない枝は切り取られ、枯れ、燃え尽きるのです(6節)。農夫のために実を結ぶことができる枝、すなわち弟子たちだけが、ぶどうの木に留まります。そして3節で、イエス様は弟子たち、すなわちぶどうの木にとどまっている枝についてこう言われます。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」「きよい」と訳された言葉は、 2節の「刈り込む」という動詞がもとになっている言葉です。原語の言葉の意味は「きよめる」なのです。キリストのことばは彼らの罪を示し、彼らはそれを悔い改めたのです。だからこそ、イエス様は、彼らがご自身のことばによって「きよめられた」もしくは「刈り込まれた」とおっしゃったのです。最後に、イエス様は、ご自身ととどまっている弟子たちだけが実を結ぶことができる枝であるとおっしゃいます。彼らはまことのぶどうの木にとどまっているので、枝が再び刈り込まれ、さらに多くの実を結ぶのです。主イエスに従う弟子たちは、みことばを聞き従うことによって、だんだんきよめられていき、霊的に成長しながら、ますます実を結ぶはずです。ですから、イエス様は、このぶどうの木のたとえの中で、クリスチャンの生活について、次の3つの面を強調しています。信仰によって、イエス様にかたくとどまり続けること、イエス様の言葉によってきよめられること、そして、父なる神が私たちにお求めになる、豊かな実を結ぶことです。

この比喩の要点は、キリストにとどまることによって、弟子たちがますます多くの実を結ぶことができるということです。キリストにしっかりとつながり実を結ぶことは、枝にも利益をもたらします。イエス様は弟子たちに7節でこう忠告されます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」神様はイエス・キリストを通して、皆さんのすべての必要を、豊かに与えて下さいます。実を結ばない枝は切り取られ、焼かれます。しかし、イエス・キリストの真の弟子としての希望と目標は、多くの実を結び、父なる神の栄光をあらわし、それによって自分自身を忠実な主の弟子とすることです(8節)。これが、キリストご自身が、私たちの中で、そして私たちのために行なってくださることです。キリストは私たちに豊かないのちを与え、ご自身の栄光をあらわす多くの実を私たちに結ばせてくださるのです。神様はこの目的のために、私たちをお造りになり、私たちを贖ってくださいました。イエス様はヨハネ15:16でこうおっしゃいます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

また、イエス様が与えてくださる、豊かで実を結ぶいのちについて、弟子たちにおっしゃっているもう一つのことに気付かなければなりません。それは、彼らが自分自身に仕え、自分自身の安心と救いのために利益を得るだけでなく、他者のために実を結びたいと考えることです。彼らは、自分の心を満たす神の愛によって、他者の利益となる実を結ぶことを望むのです。イエス様はヨハネ15:9でこうおっしゃいます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」信仰によってキリストにしっかりと結ばれている弟子たちは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合う」(12節)というキリストのおきてを守るのです。イエス様は、彼に従う者の恩恵のために御自身のいのちをおささげになったことによって、ご自身の愛の力をお示しになりました。その同じ愛が、ご自身にとどまる弟子たちに、力を与えるのです。人々に仕える動機は、私たちの中で働いているキリストの愛です。豊かないのちとは、キリストの愛によって治められる人生です。使徒パウロはこのいのちをピリピ人への手紙2:3-5の中で述べています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」これは生けるぶどうの木の枝のようにキリストにとどまる、イエス・キリストに本当に従う者の姿勢です。これが、神の栄光をあらわす、多くの実を結ぶような、いのちです。本当に「豊かないのち」です。

III. CONCLUSION   結論

イエス様は、ご自身がこの世に来たのは、彼に従う者が「いのちを得、またそれを豊かに持つため」であると言われました(ヨハネ10:10)。皆さんは自分のいのちに何が見えますか?キリストが「自分の牧場の羊」に約束された、永遠のいのちの平安、安心、安全、そして希望を見つけましたか?あなたは、キリストの群れの中の羊、つまりキリスト教会に仕える一員であることに、慰めと励ましを感じますか?あるいは、あなたは自分の羊飼いの安全な囲いの中に住む必要がないと考え、彼の群れから迷い出ますか?その不完全さにもかかわらず、教会はこの良い羊飼いの群れの囲いです。キリストは、ご自身の羊のための安全の場所となるように、ご自身の教会を立てられました。そしてキリストは私たちを取り巻く霊的な危険や敵から私たちを守るために、教会にご自身の言葉と律法をお与えになりました。この世界はクリスチャンにとって危険な場所です。しかし、羊飼いの囲いの中で、彼の羊は安全で豊かないのちを楽しむのです。ぶどうの木のたとえで、イエス様は同じことを教えています。イエス様が約束してくださる豊かないのちを楽しむためには、私たちはキリストの教会の忠実で、実りの多い一員でなければなりません。私たちは、信仰によってキリストとの絶えない交わりにとどまり続けなければなりません。そしてもし私たちがキリストにとどまるならば、私たちはキリストを通して、ぶどうの木の他のすべての枝とも結び付けられるのです。

さらに、ぶどうの木のたとえは、私たちが実を結ばなければならないことを教えてくれます。ぶどうの木が自分のために実を結ぶわけではないのと同じように、クリスチャンは自分自身のためだけに奉仕するのではなく、自分自身の楽しみのためだけに実を結ぶわけでもありません。クリスチャンの人生は自己中心的なものではないのです。あるいは、別の言い方をすると、自己中心的な人生は、クリスチャンの人生ではありえないのです。まことのぶどうの木であるキリストに、信仰によって結びつけられている人は、常に自分の豊かさを他の人と分かち合う方法や機会を求めます。私たちは自分のうちに働く、キリストの愛によって動かされるのです。

私たちがキリストの愛に満たされ、キリストの祝福を他の人と分かち合いたいと思う時、その人は私たちのうちにキリストが産みだす実を見るのです。伝道は、私たちがキリストの豊かさを他の人々と分かち合いたいという願いから生まれるとき、クリスチャンの日常生活の普通の部分になるのです。クリスチャンはしばしば、キリストの大宣教命令に従うことを語りますが、この「まことのぶどうの木」のたとえは、ちょっと異なったことを教えています。それは、枝の実が私たちのうちを流れるキリストのいのちによって生み出されるということです。キリストから離れては、誰も実を結ぶことはできません!伝道の実りは、キリストのいのち、すなわちキリストのうちにある、いのちの御霊が私たちの中で働いてくださる時に生み出されます。私たちがキリストに結び付けられているとき、キリストがは私たちの中に多くの実を生み出してくださるのです。キリストの言葉は私たちに挑戦を与え、私たちの罪を示し、悔い改めに導くでしょう。このようにして、農夫が私たちをきよめてくださり、実を結ぶのを妨げるものをすべて刈り込んでくださるのです。そしてキリストは、天の御父の栄光をあらわすために、私たちの中にご自身の実をもたらしてくださいます。主のみこころであれば、来週、キリストが私たちに与えてくださった豊かないのちを生きる中で、キリストが私たちにもたらしてくださる、伝道の他の「御霊の実」についてみたいと願っています。

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