モーセの生涯に見える信仰と従順

KASUMIGAOKA   2018/05/27 
SERMON: 「モーセの生涯に見える信仰と従順」 “Faith and Obedience in the Life of Moses” TEXT: Hebrews 11:23-31   

I. INTRODUCTION イントロダクション

23-31節の中でへブル書は信仰によって生きることについての重要な具体的な事柄を教え続けます。今日の箇所はイスラエルの最初の偉大なリーダーであるモーセの生涯とその業を中心としています。モーセを含めて、大勢の人たちの信仰と従順によって、神様はイスラエルの民を惨めな状態から救い出して、自由に導き、住まいとしての地を彼らにお与えになりました。ご自分の民の信仰によって神様は彼らを贖ってイスラエルの地に住まわせてくださいました。これは神様を信じて従っていった普通の人々の物語です。普通の人々なのにもかかわらず、彼らの信仰によって神は偉大なことを成し遂げられたのです。今日、モーセとその回りの人たちの生涯は、神様を信じる信仰によってどのように変えられたかを見て行きたいと思います。真の生ける神に対する本当の信仰は常に人々の人生行路をいろいろな重要な面で変更するのです。 

 II. THEIR LIVES WERE CHANGED “BY FAITH”

「信仰によって」という表現は、すでに11回ほどこの章で用いられています。今日の箇所の中でもう7回見えるのです。モーセの人生は神様を信じて、その信仰によって生きている人々から深い影響を受けました。そしてモーセ自身の信仰生活は回りの人々や後に生きて来た人々に影響を与えたのです。特にイスラエル人の独立運動を指導していた時、モーセは信仰の重要性を示したのです。しかし、モーセの生涯における信仰の物語は、それよりはるか前に始まります。その物語を見て行きましょう。

今日の箇所は23節で、「信仰によって、モーセは」という言葉で始まりますが、この節が指している信仰はモーセの信仰ではありません。その両親の信仰です。「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」モーセ自信は、神様を信じるようになる前に、自分の両親の信仰によって安全に守られました。イスラエル人のエジプトに寄留している歴史をご存知かも知れません。昔は、ヤコブの息子ヨセフは飢きんの間、父親とその家族を皆イスラエルからエジプトに移動するように招きました。そこでその家族とその子孫は、ほぼ400年間住んでいました。長い間エジプトの国で平和のうちに過ごしました。しかしその幸せと平和が続けませんでした。出エジプト記1:8はこう言っています。「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。」そのパロと呼ばれた新しい王は、エジプトの地でおびただしくふえて、繁栄しているイスラエル人のことを恐れていました。ですから、その民族を抑制(よくせい)するために残酷な手段を講(こう)じました。パロは、へブル人の女に「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」と命じたのです。しかし、信仰によってモーセの両親はパロの命令に従うのを拒否しました。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神を信じて、自分のかわいい生まれたばかりの息子の生命を守るように神様が助けてくださることを信頼しました。ですからお母さんが「三か月の間その子を隠しておいた。しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製(せい)のかごを手に入れ、それに瀝青(れきせい)と樹脂(じゅし)とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸(きし)の葦(あし)の茂(しげ)みの中に置いた」(Ex.2:3)。しかしそこで彼を見捨ててしまったわけではありません。その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて残っていました。やがて、パロの娘(むすめ)が水浴(みずあ)びをしようとナイルに降(お)りて来た。「彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。それをあけると、子どもがいた。」「彼女はその子をあわれに思い」、自分の息子とするように決めたのです。そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、へブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」それで、その子の母を呼んで来ました。そういう風にモーセは自分の母に乳を飲ませていただき、少し大きくなったとき、パロの娘のもとに連れて行かれて、彼女の息子として育てられました。神様は、本当に驚くべき方法でモーセの両親の信仰に応じて助けてくださいました。

神様の御前で正しいことをするために、モーセの両親に勇気を与えたのは、彼らの信仰でした。パロの命令を恐れませんでした。なぜなら、どのように分からなくても、きっと神様がどうにか助けてくださることを確信していたからです。だからこそ、彼らは神様を信頼し、王の命じた悪事に抵抗することができました。信仰によって彼らは神様の祝福を得て、愛する子どもの命が保たれたのです。モーセの両親がその信仰によって行動しました。両親は、モーセが育っている間、その信仰を彼に示していました。へブル書11章の次のエピソードはその信仰がモーセの心にも根ざしたことを示すのです。

今日の箇所の中で「信仰によって」という表現が記されている次の3回は、大人になったモーセ自身の信仰を指しているのです。24-28節はその信仰がモーセに深い影響を与え、その人生の方向を転換(てんかん)させた三つの方法を示します。まず、24-26節で、へブル書は、どのように神様を信じる信仰がモーセの考え方を変化させたかを示します。新約聖書のローマ書12:2節にこう書いてあります。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」モーセはそのような「心の一新」を大昔に経験しました。モーセの信仰によって、自分自身についての考え方は変えられました。神様への信仰によって、モーセは単に「パロの娘の子」ばかりではないことを学びました。すなわち、モーセの身分は、エジプトの姫(ひめ)に養子(ようし)にされた時に受けた社会の高い地位(ちい)だけに基づいていないことが分かりました。信仰によって、モーセは、エジプトの王家(おうけ)に属することよりも神様の民に属することがはるかに貴重(きちょう)な特権だと理解できるようになりました。現在では多くの人々は自分の家族や人種(じんしゅ)、性別、社会の低い地位などで劣等感(れっとうかん)で悩んでいるでしょう。他の人は同じような理由で高ぶった態度を示すでしょう。そのように思う者は、自分の人間としての真の価値(かち)は自分を造られた神との関わりに基づいていることが分かりません。彼らは、その創造主なる神様が、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、ご自分を愛するように私たちを召してくださっていることを知りません。この真の神様を知り、神に属し、神に仕えるという偉大な特権を理解しません。こういうわけで、多くの人は、莫大(ばくだい)な金(かね)や社会の高い地位、他者(たしゃ)を支配する権力などが、人に価値や意味を与え、その身分を定義すると思うようです。しかし、それは聖書の教えではありません。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」信仰によって、モーセは、社会的な関わり、人種、仕事や、教育さえも、真の神とその民に属するほど重要ではないことが分かるようになりました。神様を信じる信仰は、モーセの考え方に深い影響を及ぼしたのです。

さらに、信仰によってモーセの人生の目的についての考え方も変えられたのです。26節は、モーセは「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」と言います。信仰によって、キリストに仕えることは、モーセの人生の真の目的であると教えられました。幾人の人々は富や名声を盲目的に追求しながら、一生を尽くしてしまうでしょうか。そして成功に至っても、満足しません。信仰によって、モーセは最も大切な報いは神様のみがお与えになるものだということが分かるようになりました。神は最後の日に、人生を主イエス・キリストに仕えるために捧げたすべての人々に「義の栄冠(えいかん)」という報いを与えてくださいます。モーセは、その最も価値のある報いを求めていました。モーセは、そしりや迫害を受けても、神様を無視してこの世のはかない快楽(かいらく)を楽しむことより、真の神に仕えながら人生を過ごした方がはるかにまさっていることが分かりました。モーセは、人生観(じんせいかん)や価値観(かちかん)が信仰によて変えられ、新しい目的が与えられたのです。この「心の一新」について使徒パウロはピリピ人への手紙で次のように説明しました。「しかし、私にとって徳(とく)であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損(そん)と思うようになりました。」(3:7)「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神のの栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(3:13b-14)誰であっても、信仰によって、自分についての考え方も人生の目標もすっかり変えられることが可能です。

さて、神様がモーセの人生を彼の信仰によって変えられた第二の方法は何だったでしょうか。27節を見てください。「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」信仰は、新しい人生行路(こうろ)を始めるための勇気を与えて、モーセの人生を変えたのです。へブル書においても出エジプト記の記録においても、なぜモーセがエジプトの王家(おうけ)における生活の様式を「罪の楽しみ」と思ったかは説明されません。しかしモーセは自分の生活が罪深いものだと思ったことが明らかです。でも、自分の生活はよくないと自覚してもかかわらず、なじみのある生活様式を変えることが非常に難しいです。神様の助けが必要です。モーセの場合は、罪深い生活や自己破壊的(はかいてき)な習慣(しゅうかん)に背(せ)を向けて新しい生活を始めるための勇気は信仰によって与えられました。へブル書11:1と同じように、27節も「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」という真実を示しているのです。信仰によってモーセはエジプトを立ち去り、遠くのミデヤンの地に出かけました。出エジプト記の記録でモーセの出発のための具体的な理由が示されたのです。モーセは、その同胞(どうほう)のへブル人を打っているエジプト人を殺しましてしまいました。しかしモーセはパロの刑罰を恐れたのでエジプトからのがれたわけではありません。へブル書によれば、モーセは「王の怒(いか)りを恐れないで、」ただ神様を信じる「信仰によって」エジプトを立ち去りました」ということです。先祖のアブラハムのように、モーセはなじみのあるところと心地(ここち)の良い家とをうしろに置いて、神様に従って出かけました。神様を自分の目で見ることができなくても、モーセは信仰によって神様がともに行って、新しい人生行路(こうろ)を歩むように助けてくださるのを知っていました。その信仰が生活様式(ようしき)を変える勇気をモーセに与えたでしょう。信仰によって、モーセはエジプトを出て、長年の間ミデヤンの地に住んでいました。そこで、新しい友だちが出来て、羊飼いとしての新しい職業(しょくぎょう)を学び、ミデヤン人の女と結婚して、子どもを産みました。そこで40年ほどたったと聖書が言います。ついに神様がモーセに現(あら)われて、全く異なった使命をお与えになりました。 28節はその新しい使命を指しているのです。神様は、エジプトに戻って、そこの奴隷の状態の中から神の民を連れ出して、アブラハムに約束された地に導くようにモーセをお召しになりました。それは非常に困難(こんなん)な努(つと)めでした。しかしモーセは信仰によって忍(しの)び通(とお)して成功(せいこう)しました。モーセの最初の問題は、神様が彼らをエジプトから救い出すためにモーセを遣わされたことを説得することでした。その民は、武装(ぶそう)した反逆によって、奴隷の状態から逃(のが)れることが不可能でした。神様を信じて従うことによってのみ、成功できるでしょう。すなわち、その民は自分たちを救うことができません。神様のみ彼らを救うことがお出来になりました。おそらく、モーセの最も難しい仕事は、彼らを解放(かいほう)するようにパロを説得することではなく、神様を信頼するようにイスラエル人を説得することだったかも知れません。信仰によって、モーセは両方の重要な仕事を完成しました。もちろん、神様が助けてくださいました。実際に、イスラエルの民をエジプトの中から救い出したのは、モーセではなく、神様でした。神様はエジプトに対して災(わざわ)いを繰り返してお送りになりました。しかし、災いが与えられた度に、イスラエル人だけ大変な損害(そんがい)を避けたのです。そして、救助(きゅうじょ)の晩(ばん)になると、イスラエルの民は進んでモーセの模範に従いました。モーセと同様に彼らは最初の過越(すぎこし)の晩餐(ばんさん)を行なって、ほふられた子羊(こひつじ)の血を取り、羊を食べる家々(いえいえ)の二本の門柱(もんちゅう)と、かもいに、それをつけました。その付(つ)けた血は、ある意味で、モーセの信仰のしるしでした。そのしるしによって、イスラエル人の家とエジプト人の家とは区別(くべつ)されたのです。モーセは信仰によってその過越(すぎこし)と血の注ぎを行ないました時、神様の御使いがイスラエル人の家を過ぎ越したので、その家の中で初子(ういご)が亡(な)くなりませんでした。しかし、ほかの家々は悲しみで溢(あふ)れていました。なぜなら、エジプト人のすべての家族——パロの家から最も低いしもべの家まで―初子が失われたからです。その最後の災いは、やっとモーセとその民をエジプトの奴隷の状態から解放するようにパロを説得しました。その晩までは、神様が彼らを救い出してくださることを信じる信仰を示した人はモーセでした。しかし次の節を見ますと、イスラエル人も結局(けっきょく)神様に信頼を置き始めていることが分かります。モーセの信仰によって回りのイスラエル人も神様を信じるように導かれました。

「信仰によって」という表現が次に用いられるとき、そのイスラエル人自(みずか)らの信仰を描くのです。29節はこう言っています。「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」ここで、最初に、へブル書はイスラエルの民もモーセの信仰を持っていると語っています。その時、イスラエル人は自分の生命をかけて、神様が開いてくださった道に踏(ふ)み出しました。その時、彼らは自分のいのちを神様にゆだねたのです。神様の保護(ほご)を信じたので、前進(ぜんしん)するための自信が与えられました。その信仰のために彼らは追求していたエジプト人の軍隊から守られたのです。 信仰によって、神の民がエジプトから救い出されましたが、アブラハムに約束された地に入り、それを所有(しょゆう)することも信仰によらなければなりませんでした。30—31節は、神様がどのように彼らをその地に導いてくださいましたかを示します。もちろん、その地と町をイスラエルに渡(わた)してくださったのは、神様です。しかし、神を信頼し、神に従う人々のためにのみ、ご自分の約束を守ってくださいます。イスラエル人は、エリコの大きくて強い城壁(じょうへき)を見ると、がっかりだったでしょう。いったいどのようにこんなに強い町を打ち勝つことができるのでしょうか。しかし、信仰によって、イスラエルの民は神様の指示に従いました。七日間イスラエルの祭司たちが戦士(せんし)とともに、エリコの城壁(じょうへき)を歩き回(まわ)りました。七日目には、祭司たちが角笛を吹き鳴らして、イスラエルの民はみな、大声で叫びました。すると、町の城壁がくずれ落ちたのです。神様がその大勝利をイスラエルにくださいました。信仰によってその民が神のみことばに従った時、神様は弱い人々を用いて、力強い町の城壁を打ちこわされたのです。 神様は「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かの者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。...これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(1Cor. 1:27-29)今日の箇所の最後の信仰の例は31節で見えます。エリコの中の一人の見下(みくだ)された女の信仰さえも、神様が見逃(みのが)されませんでした。彼女の神への信仰のために、遊女(ゆうじょ)ラハブはイスラエルの歴史の中の大切な役割(やくわり)が与えられました。イスラエルの神に対する信仰のために、ラハブはヨシュアがエリコに偵察(ていさつ)に遣(つか)わした人たちを受け入れて助けてくれました。イスラエルがエリコを打ち勝ってから、ラハブはイスラエルの民に迎えられて、その仲間になりました。彼女は、異なった人種も文化もあったのに、神様を信じる信仰によってラハブはイスラエルの民と結び付けられたのです。ついにラハブはイスラエルの指導者の一人と結婚しました。しかしラハブの信仰によって、イスラエルの歴史の中の優れた名声が彼女にもたらされました。このラハブという女性は聖書の系図の中でボアズのお母さんとして記されています。ボアズはイスラエルの王になったダビデのひお祖父(じい)さんでした。こういうわけで、このラハブは救い主イエス・キリストの系図に載っています。信仰によって、ラハブは、以前は遊女(ゆうじょ)であったのにも関わらず、世の救い主の先祖になりました。

このような人物はみな、神様を信頼し、服従したモーセの信仰によって影響を受けたのです。信仰によってモーセのいのちは、赤ちゃんの時、守られました。信仰によって、成人になったモーセは、罪深い生活様式を捨てて、新しい方向に向かって歩み始めました。信仰によって、忍び通して、神様がお与えになった使命を全(まっと)うすることができました。モーセの信仰のために、神の民は奴隷の状態の中から救い出されて、結局約束された地に入ることができました。    

 III. CONCLUSION     結論

今日の信仰の学びの締めくくりに参りました。特に、モーセの人生は、信仰によってどのように変えられたかを考えていました。しかし、それより重要な質問は、あなたがたの人生は信仰によってどのように変えられているかという問いです。モーセの物語から学び得る一つの点は、真の信仰はモーセと同様に私たちの人生にも大きな変化をもたらすということです。信仰によってモーセの考え方と人生の目的は一新されました。信仰によって、モーセは新しい生き方への道を選びました。モーセは信仰によって行動した時、神様は常に助けてくださり、励ましと慰めを与えてくださいました。信仰によってモーセは他の人々を神様を信頼するように導きました。信仰によって生きることは、常に他者にとっては、賢くて論理的であるように見えません。しかし、信仰によって目に見えない神様が一緒にいてくださり、守ってくださり、導いてくださることを確信します。ご自分の創造されたすべてを支配しておられる神さまを見る目を与えてくれるものは、信仰です。

信仰によって、神の民は新しい生き方、すなわち、未信者と全く異なった生活、を選ばなければなりません。信仰はあなたをこの世の者と区別するのです。信仰の道はどこに導くかを誰も知れません。しかし、神様がともにいてくださる限り、悪を恐れる必要がないという自信を持っています。信仰によって歩むのなら、神様が与えてくださる完全の計画を成し遂げることができます。信仰によって歩むなら、神様は歴史の流れを変えられるのです。キリストを信じる信仰は、ほかのすべてよりも重要なことです。

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