よみがえられたイエス・キリスト

KASUMIGAOKA
2018/04/01
SERMON: 「よみがえられたイエス・キリスト」 “He Is Risen” 
TEXT: Mark 15:42-16:8

I. INTRODUCTION イントロダクション

私たちの主イエス・キリストが死人のうちからよみがえられたことは、キリスト教信仰のかなめです。使徒パウロは、ローマのクリスチャンに次のように語っています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」復活がなければ、キリスト教には、世界に対しての「良い知らせ」がなくなります。これは大胆な発言ですが、事実なのです。私たちのクリスチャンとしての希望は、この真理の上にあります。イエス様はこう言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」イエス様の最初の弟子たちの多くは、命をかけて、イエス様の復活という真理の証人として迫害されて、最後に殺されたのです。彼らは、いわば最初のキリスト教の「殉教者(じゅんきょうしゃ)」でした。なぜなら、ギリシャ語で「殉教者」という詞(し)は、「忠実な証人」を意味するからです。そして今日(こんにち)においても、キリスト教が禁じられている国々では、復活された主イエスを信じる信仰を放棄(ほうき)することを拒んで、迫害され、殺されている人たちがいます。それでは、なぜクリスチャンは、このような変わった教えを信じているのでしょうか? 今日はそのことについて考えたいと思います。

II. WHY DO CHRISTIANS BELIEVE IN JESUS’ RESURRECTION? なぜクリスチャンはイエス様の復活を信じるのか?

もうすこし具体的な問いを考えてみましょう。最初のクリスチャンたちは、なぜイエス様が死人のうちからよみがえったということを信じたのでしょうか。イエス様の復活を最初に知った女性たちは混乱し、恐れました。マルコは、イエス様の遺体(いたい)に油を塗るために、墓に 行った3人の女性について言及します。彼女たちは、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」と伝えられました。そして彼女たちは、ペテロや他の弟子たちにイエス様の復活を伝えるように言われましたが、恐ろしかったので、最初は誰にも言わなかったと書かれています(8節)。そして、そのうちの一人が弟子たちに伝えた時、弟子たちはどのように反応したでしょうか。 11節を見てください。「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。」実際、イエス様に最も近かった友人であっても、最初はイエス様が死者の中からよみがえられたと信じることを拒否したのです。他の2人の弟子たちは、復活後にイエス様ご自身に会いました。マルコ16:13ではこう書かれています。「そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。」弟子たちが要求したのは、イエス様の復活の直接(ちょくせつ)の証拠(しょうこ)でした。彼らは他者(たしゃ)の証言では満足していなかったのです。仲間の使徒の証言に対するトマスの反応は、イエス様の復活の知らせに対する彼らの態度を示しています。トマスはヨハネ20:25でこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」最初のクリスチャンたちは、「証言」では満足しなかったのです。彼らは、実際にイエス様が死者の中からよみがえられたという、物理的な証拠を求めたのです。そして、彼らがすべて、イエス様が死から復活されたことを確かに確信したという事実は、彼らに必要な証拠が与えられたことを示しています。それでは、どのような証拠が彼らを納得(なっとく)させたのでしょうか。

最初に、彼らは空(から)の墓という「消極的(しょうきょくてき)な証拠」が与えられました。十字架にかけられて死なれたイエス様の体は、もはや墓の中にはありませんでした。この証拠について考えてみましょう。金曜日の午後遅く、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を墓に置きました。ローマの法律に基づいて十字架に掛けられた犯罪者の体は、ローマの権威の下にありました。なのでヨセフは、ピラトにイエスの体を埋葬(まいそう)する許可(きょか)を求めなければなりませんでした。しかし、まず、ピラトは、イエス様が本当に死んでいることを確かめる必要がありました。そこで、イエス様の十字架刑を監督(かんとく)した百人隊長に、イエス様が既に死んでいるかどうか尋ねました。マルコ15:45はこう言います。「そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。」いわば、ローマの将校(しょうこう)は、イエス様の死亡診断書(しぼうしんだんしょ)にサインし、ピラトはそれを承認したのです。間違いなく、イエス様は本当に死なれたのです。

イエス様の体は、十字架から慎重(しんちょう)に降ろされ、亜麻布(あまぬの)で包(つつ)まれ、ヨセフが自分の家族のために用意した墓に置かれました。「墓の入口には石をころがしかけておいた。(15:46)」ヨセフは、動物や墓荒(はかあ)らしが、イエス様の体を汚すために、墓に入ることはできないと確信していました。しかし、イエス様の死の責任を負うユダヤ人の指導者たちには疑いがありました。彼らは、3日目に死人のうちからよみがえるというイエス様の主張を覚えており、イエス様の弟子の中に、イエス様の体を盗んで、イエス様が生き返ったと主張する人がでてくることを恐れていました。イエス様の友人と敵の両方が、復活についてのイエス様の預言を聞いていましたが、どちらのグループも、イエス様が約束されたことを実際に行われていたことを信じなかったのです。マタイ27:63-66では、ユダヤ人の指導者によって、墓の入り口に番兵(ばんぺい)が手配(てはい)されたことを記録しています。彼らはこう言った。「閣下(かっか)。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後(のち)によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印(ふういん)をし、番兵が墓の番をした。」しかし、何の予防措置(よぼうそち)も、神様が行おうとされていることを防(ふせ)ぐことはできませんでした。 3日以内にこの墓は開かれることになりますが、人によってではありませんでした。そして、キリストの体は、自分の力で墓を去るでしょう!

金曜日の午後遅くから日曜日の早朝(そうちょう)まで、イエス様の体は墓の中に置かれていました。マルコは、「安息日が終わったので、」イエス様の体に油を塗るために3人の女性が香料(こうりょう)を持ってきたことをマルコは記録しています。(ルカ23:55-56参照)。それまでは、イエス様の友人たちは愛する主の体を、適切に世話することができませんでした。しかし、ローマの番兵や石の封印によって、慣習(かんしゅう)に従ってイエス様の体に油を塗ることが妨(さまた)げていたわけではありません。安息日だったので、そうすることができなかったのです。クリスチャンとして、私たちは安息日に慈善(じぜん)のわざを示し、苦しみを和(やわ)らげることが常に適切であると信じています。そしてもちろん、私たちは安息日に、神様を礼拝する教会として集まるように命じられています。あるクリスチャンたちは、安息日に行われる「良いわざ」は、キリスト教会に役立(やくだ)つ限り、常に神様を喜ばせると考えていることがあります。しかし、イエス様によって教えられたこの忠実な女性たちは、注意深く安息日を覚え、礼拝と安息によってその安息日を守るようにつとめたのです。埋葬(まいそう)のためのイエス様の体の準備さえ、安息日における適切な活動ではありませんでした。私たちがこの弟子たちの立場にいたら、どうしたでしょうか?とにかく、3人の忠実な女性たちは、日(ひ)の出直後(でちょくご)に墓に来ましたが、そこで困っていました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と彼女たちは困っていたのです。しかし、神様はすでに問題を解決されていました。石はすでに転(ころ)がされていたのです。しかし、イエスの体は墓にはありませんでした。このことが、イエス様の復活の第一の証拠だったのです。

イエス様の復活の第二の証拠は、神様が彼らと話すために送られた使者でした。墓は完全に空ではありませんでした。女性たちが墓に入ったとき、白い衣を着て、イエス様の体が置かれていた、岩(いわ)に刻(きざ)まれた「台」の右側に座っていた一人の人を見ました。マタイはこの人を「主の使い」と表現しています。「その顔(かお)は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震(ふる)え上(あ)がり、死人のようになった。(マタイ28:3-4)」女性たちがこの御使いを見たとき、彼女たちは驚きました。しかし、御使いは彼女たちに親切に話しました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜(さが)しているのでしょう。(マルコ16:6)」それはまさに真実でした。女性たちは、多くの傷があり、冷たく、死んでいるイエス様の体を見つけると思っていました。しかし、この見知らぬ人は、なぜ彼女たちが墓に来たのかを知っていたのでしょうか。そしてなぜ彼はここにいたのでしょうか。私たちの主の体はどこに行ったのでしょうか。御使いはこう続けました。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」女性たちが油を塗りに来たイエス様は、もはや死者のための場所にはいませんでした。イエス様は、もはや埋葬のために香料(こうりょう)や香油(こうゆ)を必要としませんでした。「あの方はよみがえられました!」それは、神様が使者を送って彼女たちにお伝えになった、シンプルで素晴らしいメッセージでした。この御使いとその驚くべきメッセージが、イエス様が死人のうちからよみがえられたという第二の証拠でした。

弟子たちが、イエス様が死人のうちからよみがえられたということを理解し、信じるのを助ける、もう一つの証拠がありました。御使いはこの証拠を、7節で述べました。御使いは女性たちにこう言いました。「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」イエス様は弟子たちに前もって、死人のうちからよみがえられた後、彼らにガリラヤで合うことを、お告げになっていたのです。彼らは、最初にそのことを言われた時、それが何を意味したのかを理解していませんでした。しかし、後で、彼らは思い出したのです。マルコは14:28でイエス様のこの約束を記録しました。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」マルコの福音書によると、イエス様はご自身が苦しんで死ななければならないことを、繰り返し弟子たちにお伝えになっていました。しかし、イエス様は、死人のうちからのご自身の復活についても、あらかじめおっしゃっていたのです。例えば、マルコ8:31にはこう書かれています。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後(のち)によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」また、9:31や10:34にも同様の預言の言葉を見ることができます。イエス様は、これから何が起こらなければならないかを、弟子たちに正確に伝えました。イエス様は、ご自身の民の罪のための代理のいけにえとして、苦しみ、死ぬ必要があったのです。しかし、イエス様は再びよみがえられるのです。ちょうどイエス様の苦しみが本当に、痛(いた)ましい肉体的な苦しみと、魂における精神的な苦しみであったのと同様に、イエス様の復活もまた、本当の、肉体を伴う復活だったのです。死によって引き裂かれたイエス様の肉体と魂は、復活によって再び一つとされました。イエス様は魂のない「ゾンビ」でもなく、幽霊(ゆうれい)のような肉体のない霊でもありません。よみがえられた主イエスは、弟子たちが以前から知っていた「人の子」と同じですが、イエス様の苦しみの跡は、その犠牲な愛のしるしとして残るでしょう。イエス様は、ご自身が苦しみ、死なれ、そして再びよみがえられることを約束されました。イエス様は復活の後、弟子たちが初めてイエス様に会ったガリラヤで、再びイエス様を見ることを約束されたのです。イエス様が苦しみと死について預言していたことはすべて、言われたとおりに起こったのです。それは、イエス様の復活に対する預言が信頼できるものであったという証拠でした。イエス様はご自身の復活について頻繁(ひんぱん)に弟子たちに話していたので、実際に死人のうちからイエス様がよみがえられた時に、彼らは驚くべきではありませんでした。しかし、彼らは驚いたのです。

空の墓を見て、主の使いによる知らせを聞き、イエス様の復活の宣言を思い出しても、なおイエス様の弟子たちは困惑(こんわく)しました。彼らの混乱は、彼らの誰もが、本当にイエス様が死人のうちからよみがえられるとは思っていなかったことを示しています。それでは、何が彼らの心を変えたのでしょうか。イエス様の肉体を伴う復活を弟子たちが事実として受け入れることを可能にしたのは何だったのでしょうか。それをされたのはイエス様ご自身でした。イエスは弟子たちとの約束をお守りになったのです。イエス様は死人のうちから復活された後(のち)、ご自身の弟子たちの前にお現れになりました。イエス様は以前約束されたように、ガリラヤで彼らとお会いになったのです。しかし、イエス様は復活された日、十字架につけられた後の日曜日から、何度かエルサレムでも弟子たちの前にお現れになったのです。他の福音書の記事(きじ)(マタイ、ルカ、ヨハネ)を見ると、イエス様がいろいろな場面でさまざまな弟子たちの前にどのようにお現れになったかが記されています。ルカは使徒1:3で、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多(かずおお)くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」と書いています。もっと後に、使徒パウロはコリントの信徒たちにこう書きました。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬(ほうむ)られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足(つきた)らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」(1コリント15:3-8)。人々にご自身の復活を確信させたのは、イエス・キリストご自身だったのです。そして、イエス様は今日も人々を信じることに導いておられるのです。    

III. CONCLUSION 結論

今日の学びから私たちは何を学ぶべきでしょうか、そしてそのことが、日常生活の中でどのように役立つでしょうか。まず第一に、神様が私たちに求めておられることを理解する必要があります。神様は、イエス様の死と復活についての真実を信じるように私たちにお求めになっています。キリスト教の「福音」のメッセージが「良い知らせ」であるのは、それが真実だからです。神様は、誰かにおとぎ話や神話(しんわ)を信じ、信頼するようにお求めになることはありません。イエス様は私たちの罪の代償(だいしょう)として死んでくださり、死に打ち勝たれ、この世界の悪の力に打ち勝たれたのです。そして神様は、イエス様がすべての敵を打ち負かし、今も生きて天と地のすべてのものを支配しおられることを信じるように、私たちにお求めになるのです。そして神様は、イエス様が実際に死人のうちからよみがえられ、これらすべてのことを成就されたという証拠を私たちにお与えになりました。

第二に、信じようとしない限り、証拠そのものが誰かを信じさせることはできないということを認識しなければなりません。私たちは、証拠や、それが示している真実を、すすんで信じなければならないのです。証拠を見た人が全て信じるわけではありません。私たちは、復活の証拠を信じるために、神様に信頼する準備ができていなければなりません。ヘブル11:6はこう言います。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

第三に、イエス様の弟子たちでさえ、復活した救い主に出会うまで、イエス様が死人のうちからよみがえられたことを信じなかったのです。私たちは、イエス様ご自身と、顔と顔を合わせて出会わない限り、堅く揺らぐことのない信仰を持つことはできません。クリスチャンの信仰の歩みは、皆さんがイエス様を求め、イエス様に自分の救い主、自分の主になっていただくように願うところから始まります。イエス様は死人のうちからよみがえられたので、皆さんを助けることがおできになるのです。イエス様はすべての敵、そして死そのものさえも克服(こくふく)されました。そして、この復活されたイエス様には天と地の全ての力が与えられたのです。

最後に、イエス様の復活は、私たちの希望が虚(むな)しく、愚かな希望ではないという、神様が与えてくださる証です。もしイエス様が死んで再びよみがえられるならば、そのイエス様に信頼を置く私たちも同じようになると聖書は言います。Iペテロ1:3-5はこう言います。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽(く)ちることも汚(けが)れることも、消えて行くこともない資産(しさん)を受け継ぐようにしてくださいました。」皆さんはこの希望をもっているでしょうか。イエス様の復活は、私たちの永遠のいのちへの希望が、失望で終わらないことを保証してくれるものなのです。

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