神様の御前に立つガブリエル

KASUMIGAOKA   2016/12/11

Sermon: 「神様の御前に立つガブリエル」 “Gabriel Who Stands Before God”

Text: Luke 1:5-38

I. Introduction:  クリスマスと主の御使い

再来週はクリスマスですね。この季節に関して色々な特別な行事が計画されていますね。子どものクリスマス会や母と子のクリスマス会、ぶどうの木のクリスマス、教会のクリスマスなどが12月に行われます。西洋でだけではなく、現在日本でもどうしたことか、クリスマスを覚えて祝いたい人たちが増えて来ました。もちろん、クリスマスは、神様のみことばによって毎年必ず祝うべき安息日とか祭りとして命じられたわけではありません。しかし、キリスト信者でなくても、多くの人々が、クリスマスが興味深いと思っているので、この季節に神様の永遠の御子キリストが人となられたことは特にふさわしい主題と思います。ですから、キリストのご生誕に関するいろいろな詳細を取り上げて、クリスマス会で話をさせていただきました。たとえば、教会学校のクリスマス会で、イエス様のご生誕によって神様の光がこの暗い世界にもたらされたので、主の「光」はその話の題になりました。先週の母と子の会のクリスマスの話として、主イエスのご生誕に関してマリヤとヨセフが合うべきいろいろな実際的な問題を考えてみました。今日は、キリストのご生誕を用意するために神様が遣わされた御使いということを考えて行きたいと思います。まず、神様の御使いとその役割について聖書が教えていることを探りたいのです。それから、主イエスの御生誕に関して特にガブリエルとこのクリスマスの物語に出るほかの御使いを考えて行きたいと思います。    

II. 神様に仕える御使いの役割  The Role of Angels in God’s Service

この説教の題はルカの福音書1:19に書いてあるガブリエルという御使いのことばに基づいています。その時、ザカリヤという祭司は神殿に入り、香をたく奉仕をしていました。突然、主の御使いが現われて、香壇の右に立ちました。御使いは、「こわがることはない。ザカリヤ。」と言って、それから神様からのすばらしいメッセージを伝えました。ザカリヤとその妻エリサベツは、高齢であっても神様の御恵みによって、子どもを生むということでした。しかも、その子はまだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、「整えられた民を主のために用意するのです。」と17節に書いてあります。その驚くべき知らせをすぐ受け入れて信じることのできなかったザカリヤは、18節で「私は何によってそれを知ることが出来ましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」そこで、御使いは自己紹介して言いました。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。」ガブリエルの自己紹介を見て、次の三つのことに気づいたらいいと思います。まず、ガブリエルは神様とともにいる者です。神様の御用にどこかへ遣わされていなければ、この三つかいは、いつも神様の御前に立っているのです。神様の王座の前に立っている使いは、神様との親しい関係を経験したものです。そして、心の汚れたものは聖なる神様に近づくことは出来ません。ガブリエルは、神様のようにきよい、罪のない者です。それに、第二に、ガブリエルは神様の御前に立つ者です。彼は座ることもなく、神様の指示をいいかげんに待つわけでもありません。ガブリエルはいつも神様の御前にちゃんと立っています。神様のみこころを行なうように、彼は主のみことばを注意深く待っております。彼は、いつでもどこへでも、神様が言われる瞬間にそのご命令を執行するように出かける用意をしております。神様の忠実なしもべです。特に神様のみことばを伝えるしもべなのです。それは「使い」という原語の言葉の意味です。第三に、ガブリエルの名前の意味も、覚えてください。ガブリエルという名前は、「神の力強い人」という意味です。神様の御使いは驚くべき不思議な力があります。神様のみことばを伝える御使いは、主のみこころを執行する力も持っているのです。

それで、聖書を全体見れば、御使いについて何を学ぶことが出来るのでしょうか。神様の御使いは聖書のどこに最初に書いてあるかをご存知ですか。実は、それは創世記16章です。創世記3:24に、神様はエデンの園から「人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」と書いてあります。 ある人は、ケルビムは神様の使いだと思うでしょうが、ケルビムは御使いとは呼ばれません。それは、その生きものは別の機能を果たすからでしょう。ケルビムは神様が置かれた所から動かないようですが、主の御使いは神様のみことばを持って遣わされたところどこへでもさっそく行くのです。ところが、創世記16:7に、「主の使いは、荒野の泉のほとりで」女主人サライのもとから逃げ去ったハガルを見つけたと書いてあります。聖書の中で初めて現れる使いはそこで神様のメッセージをハガルに伝えました。ハガルは女主人サライのもとに帰って、仕えなければなりません。「また、主の使いは彼女に言った。『あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。』さらに、主の使いは彼女に言った。『見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。』」すなわち、聖書に出る最初の御使いに委ねられた最初の御用は、子どもを無事に産むという良いおとずれをある女性にもたらすことでした。神様の代弁者としてその使いは、主のみことばを彼女に直接に伝えたのです。

神の御使いはもう一回女性に子どもを産むという良い知らせを伝える世に遣わされました。それは士師記13章に記されたのです。マノアというイスラエル人は、子どもを産んだことのない、不妊の女と結婚していました。しかし、「主の使いがその女に現れて、彼女に言った。『見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。』それから、「その女は夫のところに行き、次のように言った。『神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いの姿のようで、とても恐ろしゅうございました。』」しかし、その女もその夫も彼が本当に神様の御使いであることを知りませんでした。そこで、マノアは全焼のいけにえと穀物を主にささげようとした時、「主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。炎が祭壇から天に向かって上ったとき、マノアとその妻の見ているところで、主の使いは祭壇の炎の中を上って行った。彼らは地にひれ伏した。―—主の使いは再びマノアとその妻に現れなかった。―—そのとき、マノアは、この方が主の使いであったのを知った。」

イスラエルの歴史の中で、危機の際に主なる神様は、特別の知らせを伝えるように御使いを遣わされました。たとえば、創世記22:11—18で、神様は御使いを通して、アブラハムに次の重要な命令を与えられたのです。アブラハムはモリヤの山に自分の愛する子イサクを連れて行き、そこで彼をいけにえとしてほふろうとしました。ちょうどその時、「主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。この子に何もしてはならない。今、私は、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」「それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで仰せられた。『これは主のみ告げである。私は自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」それは、非常に大切な出来事でした。神様は、御使いによってそのメッセージをアブラハムに伝えられたのです。 

モーセがどのようにエジプトに戻ってイスラエル人を指導するように召されたかを覚えておられるでしょう。荒野の中で不思議なことを見ました。ある柴が火で燃えていたのに、焼け尽きなかった。モーセはその大いなる光景を見に行きました。「すると主の御使いが彼に現れた。」それから、神様は「柴の中から彼を呼び、「モーセ。モーセ。」と仰せられた。モーセは、「はい。ここにおります。」と答えた。その時、神様は多くのことをモーセに教えられてから、最後にエジプトに遣わされました。モーセが召されたことは、贖いの歴史の中の最も重要な出来事の一つでした。その時、神様が御使いの代弁者をとおして燃えている柴の中からモーセに話されました。主の御使いは燃えている柴の中から話したり、祭壇の炎の中を上ったりすることが出来て、何と不思議な恐るべき力があるでしょう。

ギデオンの物語の中でも、主の御使いが遣わされました。ギデオンは、神様に召された時、イスラエルの敵ミデヤンから隠れて、ぶどう酒の酒船の中で小麦を打っていました。その時、神様の御使いが「彼に現れて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」ギデオンは、その時、ミデヤンの圧制の中からイスラエル人を救い出すように、召されたのです。ところが、彼は主の御使いを通して呼ばれました。

最後のたとえとして、次の本当に面白い出来事を考えてみてください。民数記22章に記されています。それはバラムの話です。バラムはモアブの王によってイスラエルの民を呪うように雇われたが、主なる神様はバラムがイスラエルを呪うのを赦されませんでした。バラムはろばに乗って、モアブの王のところに出かけたが、そこに行く途中で、神様の御使いが現われ、「彼に敵対して道に立ちふさがった。」「ろばは主の御使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。」三回ほど、同じように道に立ちふさがった御使いの恐ろしい姿を見たろばは、そのみ使いを避けようとしました。しかし、御使いを見ることのできないバラムは、ますます起こりました。やがて、神様はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」バラムとそのろばとの会話の面白いことは、ろばが主人バラムよりも賢いということです。ろばの方が主のみこころを知り、それに反対したくないということです。ろばのほうは神様のみこころが分かったが、バラムは全然分かりませんでした。けっきょく、「主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。」すると、バラムは「ひざまずき伏し拝んだ。」この出来事から、学び得ることは何でしょうか。今日、ただ一つのことを覚えていただきたのです。それは、神様の御使いが目に見えなくても、その存在と働きを否定するなら、バラムのような者であるかも知れないということです。目に見えない霊的な世界もあるので、それを認めるように、心の目が開かれるように神様に願いましょう。

詩篇34:7でダビデが言ったように、「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」ダビデはその御使いを自分の肉体の目で見たわけではありませんでした。しかし、神様がいつも守ってくださり、助けてくださり、良い道に導いてくださることをダビデは信じました。この世界の中で敵対に会って、全く負けてしまうと思った時も恐れる必要はありません。ローマ書8:31に書いてあるように、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」列王記第二6:15-17に記録された出来事から私たちは大切なことを学べます。その時エリシャは彼を殺そうとしているアラムの軍隊に囲まれました。エリシャの召使は「朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、『ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう』と言った。すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから』と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」

この例を考えてみれば、神様の御使いは神様のみことばを伝えるためだけではなく、ほかの目的も達するように遣わされることが分かります。預言者エリヤは鬱病になったとき、イゼベルから逃げて、荒野で隠れていました。その時、神様は御使いを送られて、食物と飲み物をエリヤに与えてくださいました。同じように、主イエスが荒野で悪魔に誘惑されたが、誘惑に負けなかったので、悪魔はイエスを離れて行きました。すると、「御使いたち近づいてきて仕えた。」とマタイ伝4:11に書いてあります。さらに、主の選ばれた使徒たちが福音を伝えたので、ユダヤ人の祭司長や長老たちに逮捕された時、使徒の働き5:19でこう言っています。「夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し」ました。使徒ペテロも主の御使いによって、ヘロデ王の牢の中から不思議な方法で釈放されました。初代教会の信者たちは、主の御使いによく助けてもらったので、へブル人への手紙1:14に次のように書かれたのです。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」主の御使いは神様のみこころに従って、主に仕えることです。主の愛される民を見守って、祝福して、救い出してくださることは確かに主のみこころです。しかし主の御使いの根本的な責任は、人ではなく、神様に仕えるということです。主イエスのご生誕の夜、「多くの天の軍勢」が現われたのです。その天の軍勢は、主に仕える御使いの軍隊です。主キリストのご栄光とその力、すなわちキリストの偉大さを示すために、行列のようにキリストのご生誕を祝うのです。主イエスは、この世に送られて、堕落した人間の間にとどまっておられても、天の御使いとその忠実な奉仕をお忘れになりませんでした。ゲッセマネの園で主が敵の手に渡された夜、弟子たちに言われました。「剣をもとに納めなさい。...それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」(Matt. 26:53)

主の御使いの根本的な責任は神様に仕えるということです.しかし、御使いの最も大切な務めは真の神様を拝むということです。ヨハネの黙示録5:11—14をご覧ください。「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは、大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこういうのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』三位一体なる真の神様を礼拝することは、確かに、神の御使いの一番重要な働き、または彼らの貴重な特権ではありませんか。

さて、主の御使いは主イエス・キリストのご生誕の際に、どのような務めを持って遣わされましたか。まず、主のお母さんマリヤとその養子関係のお父さんヨセフが来るべき試練に会ったとき、励ましと慰めを持ってがまん出来るように、ガブリエルは彼らに遣わされたのです。前もって、いのちを与えてくださる神様が彼らとともにおられることを確信するためでした。

それに、主の御使いが主イエス・キリストのすぐれた力と、誉れと、栄光と、賛美がふさわしく与えられますように主イエスのご生誕にベツレヘムに集められたでしょう。へブル人への手紙1:6に書いてあるとおりです。「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」御使いの最もすばらしい奉仕は、神礼拝です。だから、御子がこの世界に送られた時、「たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、みこころにかなう人々にあるように。』」御使いたちは本当に驚くべき生き物です。栄光に満ちたものです。その御使いの存在とその働きによって、真の神様の栄光が反映されています。私たちも主の御使いの模範から神様をふさわしく仕えることを学び、主の忠実なしもべになるように祈りましょう。  

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