神の教えを飾るようになる

KASUMIGAOKA
2017/09/17 
SERMON: 「神の教えを飾るようになる」
“Adorning the Doctrine of God”
TEXT: Titus 2:1-15

I. INTRODUCTION  イントロダクション

テクノロジーの進歩は、過去100年にわたって驚くべき速さですすんでいます。その結果として、殆どの国では寿命が伸び、余暇を楽しむ時間が増え、富も増し加わりました。しかし、人間の社会の基本的な問題は、ずっと変わらずにあるのです。犯罪や暴力、人種差別、競争相手への憎しみがはびこるのを私たちは目にします。飢餓や貧困、社会の中の対立、戦争といった、人間の悲惨を依然として目のあたりにするのです。この100年間は、人間の歴史の中で最も血に汚れた時代であると言われます。そしてこれらのことは、これから先も続いていきそうに見えます。この悲しい状態が続く理由は、人間の悲惨さや社会の混乱の根本的な原因が、世界の為政者たちや一般市民たちから無視され続けてきたことによります。それではこの悲惨のもともとの原因とは何なのでしょうか。それは、人間の根本的な弱さです。高ぶり、自己中心、貪欲、情欲です。人間の社会の中の問題は、人間の魂にかかわる、深い問題なのです。どれだけテクノロジー、医学、心理学、教育、政治、富の貯蓄が進歩したとしても、堕落した人間の本質という基本的な問題は残り続けるのです。このことに関して、一人を除いてだれも解決への道を示しはしませんでした。はるか昔、一人の人が解決を携え、その解決をこの世と分かち合われたのです。ある人たちは彼の解決を喜びとともに受け入れましたが、この世の殆どの人はそれを聞くのを拒んだのです。

この人間の根本的な問題に解決を与えてくださったのは、イエス様で、キリストとも呼ばれたお方です。それではイエス様は、この人間の魂の堕落という問題をどのように解決されたのでしょうか。このことが、2:11でパウロがテトスに対して伝えていることです。「というのは、 すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、 不敬虔とこの世の欲とを捨て、 この時代にあって、 慎み深く、 正しく、 敬虔に生活し、祝福された望み、 すなわち、 大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、 私たちをすべての不法から贖い出し、 良いわざに熱心なご自分の民を、 ご自分のためにきよめるためでした。」ここに、人類の問題を解決する神様の一貫したご計画があるのです。このテトスへの手紙の中で、パウロは、どのようにして人間の堕落した本質が明らかにされ、解決されなければならないのかを説明しています。そしてキリストの解決を私たち人間の状態に当てはめるためには、3つの段階が必要です。パウロがその友人テトスに宛てたこの手紙の中から、この段階についてより深く見ていきましょう。

II. 3 STEPS TO SOLVE THE PROBLEM OF MAN’S FALLEN NATURE 人間の堕落した性質に対する解決の3つの段階   

 A. 認識:これは私の問題でもある!

問題の解決の最初の段階は、それを明確にすることです。ほとんどの人は、色々な意味でこの世界がとても楽しい場所ではないことを認識しているようです。しかし多くの人は、社会の問題が、他の人々、他の団体や、他の分派によって引き起こされていると考えます。「他の人」が、社会における不幸の原因だからこそ、それに反対しなければいけない。このような考え方は、社会の中の分裂や二極化に結びつきます。世界中で、多くの国々とその国民は政治や富、人種や宗教によって分裂しています。社会の問題は、政治の右翼や左翼思想によるものだ。自分以外の人種や自分以外の宗教によるものだ。問題は富裕層や貧困層によって引き起こされている。このように考えるのです。しかし、人間に根をはる根本的な問題を解決する最初のステップは、その問題の原因が私たち全員の中にあるということを認識するところから始まるのです。単純に問題の責任を他人に押し付けることはできないのです。

しかし、クリスチャンも他人に責任を押し付けていないでしょうか。使徒パウロでさえ、クレテの人々の社会的な問題を、厳しく責めているように見えます。1:12でパウロは「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」といい、1:13で「この証言はほんとうなのです」と付け加えているのです。これは、教養のあるタルソ出身のローマ市民が、クレテの劣った人たちを下に見て、自分たちの社会の問題の責任を彼らに押し付けているのでしょうか。パウロがそうしているとは思えません。ここでパウロはテトスに対して、キリストの良い知らせを受け取るための最初のステップを示していると思います。彼らは自分たちでその問題を認識しなければなりません。10節のパウロの言葉は、彼自身の言葉ではなく、クレテ人の詩人エピメニデスの言葉です。エピメニデスは、クレテの人々の問題が、彼ら自身の堕落した人間の本質によるものであることを理解していました。彼は、自分もクレテ人の一員としてこの言葉を残したのです。彼は「同国人であるひとりの預言者」でした。だからこそ、この言葉は引用される価値があったのです。彼は、他の人の堕落した本質を語っているのではなく、自分自身、そして同じ国の人々の本質について語っているのです。

人々は、自分自身が人間の社会の問題の原因であることを認めない限り、キリストがこの世にもたらした解決に、彼らは興味がありません。イエス様はマルコ7:20-23で弟子たちにこうおっしゃいました。「人から出るもの、 これが、 人を汚すのです。 内側から、 すなわち、 人の心から出て来るものは、 悪い考え、 不品行、 盗み、 殺人、姦淫、 貪欲、 よこしま、 欺き、 好色、 ねたみ、 そしり、 高ぶり、 愚かさであり、これらの悪はみな、 内側から出て、 人を汚すのです。」ここで言われているのは外側の問題、つまり私たちの敵によって引き起こされている問題ではありません。むしろとても個人的な問題、自分たちの心から始まる堕落です。このことを認識しない限り、キリストが与えてくださる解決に私たちがあずかることはできないのです。 B. 神の御言葉を全ての人に教える

キリスト教会の歴史の最初の頃、教えと説教によってキリスト教信仰は異教のローマの世界の中で急激に広まっていきました。神の御言葉を教えることで、宗教改革以降、ヨーロッパやアメリカで社会が良い方向に変わっていきました。世界中どこででも、神の御言葉が教えられるところでは、社会に重要な改革が起こっていったのです。しかし、「教育」だけが人間の心を改革したり堕落させたりするわけではありません。人間の罪深い心が変えられるためには、特別な種類の教えが必要です。それは、パウロがテトスに2:1で言っているように、「健全な教えにふさわしいこと」です。パウロが言っているのは、聖書の教えのことです。「神のことば(2:5)」、すなわち「私たちの救い主である神の教え(2:10)」でなければなりません。私たちの日々の生活に適用された聖書の教えでなければならないのです。これが人の心を変えるのです。「教育」そのものが人間の根本的な問題の解決にはなりません。神の御言葉の真理を教えることだけが、人の心を変える力があるのです。

それではなぜ御言葉を教えることが必要なのでしょうか。まず第一に、聖書が人間についての真理、神についての真理、そして私たちが住むこの世界の真理を示しているからです。聖書の教えは本当に独特なものです。しかし、聖書について、もう一つ見過ごしてはならない重要なことがあります。聖書の健全な教えが教えられるとき、神様ご自身がそのみことばの教えに、聖霊の力を伴わせてくださるのです。パウロがコリントの教会に書き送った言葉を聞きましょう。(1 Cor. 2:4-5)「そして、 私のことばと私の宣教とは、 説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、 御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」使徒パウロ自身が、神の御言葉が人の心を変える力があるという良い例であり、証拠でもあるのです。パウロはかつて、自尊心が高く、クリスチャンを嫌い、迫害していました。しかし神の御言葉が彼の心を変えたのです。彼の心にかつてあったクリスチャンへの憎しみは、深い尊敬と愛に変えられました。彼の変えられた人生が、神のことばが人の人生を変えることができる証拠なのです。神の御言葉を聞き、聖霊の力の働きによって、パウロはどれだけ変えられたのでしょうか。パウロ自身の言葉を聞きましょう。(Phil. 3:7-8) 「しかし、 私にとって得であったこのようなものをみな、 私はキリストのゆえに、 損と思うようになりました。それどころか、 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、 いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、 それらをちりあくたと思っています。 それは、 私は、 キリストを得るためでした。」パウロの価値観は完全に変えられたのです。神の御言葉が忠実に教えられるとき、真の霊的な力は解き放たれるのです。

パウロが後にテサロニケを訪問した時、そこで彼は福音を説教し、神のことばを教えました。後にパウロはその1回目の訪問について、このように書いています。(Iテサロニケ1:5)「なぜなら、 私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、 ことばだけによったのではなく、 力と聖霊と強い確信とによったからです。」聖霊による力と確信に基づいて神の言葉が教えられる時、人々は変えられるのです。それは語る人の力によるのではなく、聖霊によって人々の心に届けられるメッセージの力です。このことが起こる時、人々の心は新しくされ、考え方は変えられます。そして彼らの行動も変わるのです。この教えこそ、私たちの人間社会が真に必要としている教えです。この教えこそ、社会の中で老若男女、あらゆる人種や職業の人にもたらされるべき教えです。人が神のことばを聞く時、その思いは新しくされ、社会は改革されるのです。これが、パウロが大都市ローマのクリスチャンたちに求めていたことでした。聖書の教えによってローマ帝国を変えることです。ローマ12:2のパウロのことばを聞きましょう。「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、 むしろ、 神のみこころは何か、 すなわち、 何が良いことで、 神に受け入れられ、 完全であるのかをわきまえ知るために、 心の一新によって自分を変えなさい。」人々が、「心の一新によって変え」られるとき、その周りの人々もまた、変えられるのです。クリスチャンの軍隊ではなく、神のことばの教えによって、異教のローマ帝国はキリストのために勝ち取られたのです。

神の言葉が忠実に教えられる時、聖霊がそこに力を与えます。だからこそ、パウロのテトスへの教えは虚しいことばではないのです。「老人たちには、 自制し、 謹厳で、 慎み深くし、 信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」とパウロは書きました。そしてパウロは、この教えを聞いた老人たちが、聖霊の力によって実際にこうなることを知っていたのです。彼らの心と生活は変わるのです。同じように、健全な神のことばの教えを聞く「年をとった婦人たち」の心も変えられます。彼らが、かつては不敬虔で、悪口をいい、大酒のとりこになり、仕事に怠慢だったとしても、これからはそうではないのです。年を取った人たちが変われないと思ってはいけません。神の言葉は、かたくなな心を和らげ、がんこな意思を曲げることができる力があります。神の言葉には、心や生活を変える力があるだけでなく、周りの人達を変える力があります。家族の生活、隣人との関係、そして住んでいる社会を変えることができるのです。しかし覚えておいて下さい。あなたやあなたの主張が人々を変えるのではなく、神の真理こそが、心を変える力を持っているのです。そして、あなたの変えられた心の、静かで一貫した証こそが、他の人達に神のことばの力を示すことができるのです。

年を取った婦人たちは若い婦人に影響を与えます。そして若い婦人は、年上の婦人のことばと模範から、「夫を愛し、 子どもを愛し、慎み深く、 貞潔で、 家事に励み、 優しく、 自分の夫に従順である」ことを学ぶのです。そして彼女たちの誠実で正しい行いが、隣人たちに神の言葉の実践的な知恵を受け入れさせます。「同じように、 若い人々には、 思慮深くあるように勧めなさい。」とパウロはテトスに言います。テトスは若い人々に、自分自身が模範として、どのように生きるべきかを示す必要があるのです。テトスは彼らに、言葉だけではなく「良いわざ」や「健全な教え」、威厳や健全な言葉を持って、彼らも変わることができるということを教えないと行けなかったのです。私たちの社会には、若い人たちがすすんで従う「悪い模範」に満ちあふれています。しかし、社会に必要なのは良い模範です。パウロがクレテの若い者たちに示すようにテトスに勧めたような、良い模範です。

社会においてあまり影響力を持たないような人でさえ、社会的に上の地位にいる人に対して模範となることができます。奴隷たちでさえ、自分たちの変えられた生活による証によって、周りの人達に影響を与えます。パウロは、奴隷たちに「すべての点で自分の主人に従って、 満足を与え、 口答えせず、 盗みをせず、 努めて真実を表すように勧めなさい。」と言っています。このことによって、奴隷でさえ、「私たちの救い主である神の教えを飾る」ことができるのです。もし主人が信仰的でなかったとしても、神の真理の実践的な価値を受け入れることができます。神の言葉は心を変え、考え方を変え、行動を変え、さらに社会を変えます。今日の私たちの社会には奴隷はいませんが、パウロが奴隷たちに対して言っている神の言葉の教えは、私たちの仕事にもあてはめられるものです。私たちは、職場に良い影響を与えるのに、上の地位にいる必要はないのです。私たちの生き方が、神の御言葉を聞き、それに従うことによって変えられていくとき、福音の影響は私たちを通して、周りの社会に広がっていきます。単純に言えば、私たちの生き方が「私たちの救い主である神の教えを飾」り、神様の御名に栄光を帰すのです。

キリストは私たちに、人間の堕落した性質という問題への解決と、私たちの社会の問題をどのように処理すべき方法を与えてくださいました。しかし、まず第一に、私たちはその問題の原因が私たち全てのうちにある罪深い堕落した性質にあるということを認識しなければなりません。そして第二に、私たちは、力のある、心を変えることができる神のことばを人々に教えなければなりません。そして最後に、私たちは、イエス・キリストによって与えられた神の救いの賜物を受け取らなければならないのです。11節でパウロは、すべての人を救うのは「神の恵み」であると言っています。私たち自身のよい行いによっては、誰も救われることはありません。私たちの変えられた生き方が社会を良くすることはあったとしても、私たちの行うことが世界を「救う」わけではありません。神様ご自身のみが、そのことをおできになるのです。そして神様は、どのようにしてそれを行われるかを、私達に示してくださいました。神様は、人間を救うために、ご自身をお捧げになったのです。パウロが14節に書いているとおりです。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、 私たちをすべての不法から贖い出し、 良いわざに熱心なご自分の民を、 ご自分のためにきよめるためでした。」私たちの「良いわざ」は神様のご計画の中にありますが、キリストご自身こそが、この世界における唯一の希望なのです。   

 III. CONCLUSION  結論

聖書の中心のメッセージは、神の無償の恵みという驚くべき話です。神様は私たちに、新しい心、新しいいのち、新しい希望、そして永遠のいのちを与えて下さいます。そしてこれらは全て、私たちが受けるに値しない、恵みの賜物です。この世のあらゆる誘惑を退けるように教えるのも神の恵みです。この時代に新たな生き方をし、主の再臨という祝福に満ちた現れを待ち望むように教えるのも、神の恵みなのです。人間がこの世界に招いたわざわい、悲しみ、罪、混沌は永遠につづくことはありません。キリストは定められた時に、その完全なご計画に従い、この堕落した世界に終わりを与え、私たちに義と平和と喜びに満ちた新たな世界を与えて下さいます。これはイエス様がなさることで、私たちがすることではありません。私たちは、単にその日を待ち望む、そのことが行われるようにイエス様に信頼するのです。なぜなら、イエス様のみがそれを実現することができるお方だからです。私たちのすべての希望はイエス様にかかっています。それが、聖書が言うところの「私たちは信仰によって、恵みのゆえに救われた」という意味です。私たちの救いは神からの賜物です。私たちが理解し、心から信じ、周りの全ての人達に伝えるべきものは、この「神の教え」です。パウロが15節で言っているとおりです。「あなたは、 これらのことを十分な権威をもって話し、 勧め、 また、 責めなさい。 だれにも軽んじられてはいけません。」これは、失われた人類に対する神の賜物のメッセージです。そして私たちが言葉によっても行ないによっても、この困った世界に伝えないといけないメッセージなのです。

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