神のみことばと我らの信仰

KASUMIGAOKA  
2018/01/21 
SERMON: “The Word of God and Our Faith”「神のみことばと我らの信仰」
TEXT: Hebrews 4:12-16

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日からヘブル人への手紙の学びに戻りたいと思います。前回最後にヘブル書を学んだ時には、神の約束の「安息」に、イスラエルが入ることに失敗したことを見ました。ヘブル3:19にはこうあります。「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」ヘブル書の著者は、自分の世代がそうだったように、ユダヤ人のかつての父祖もまた、神の救いの「良い知らせ」を聞いていたと言います。しかし、彼らの父祖たちは心をかたくなにし、神の御言葉を信じなかったのです。そのため、その世代のイスラエル人は、神が約束された祝福を楽しむことなく、荒野で死にました。ヘブル4:2はこう言います。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」今日もまた、神様はご自身の御言葉を信じて従う人々に「安息」を与えて下さいます。ヘブル書は4:11でこう勧めます。「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」ヘブル書を読み進めていくなかで明らかなのは、今日神様が私たちに与えてくださる「安息」は、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる永遠のいのちという約束です。

今日の箇所で、ヘブル書は2つのことを強調しています。それは、神の御言葉である聖書に従うことと、救いの祝福のすべてを受けるために、イエス・キリストに信頼することの必要性です。12-13節は、神の御言葉の固有の力と権威を説明しています。そして、14-16節は、わたしたちがなぜ、偉大な「大祭司」であるイエス・キリストへの信仰から離れるべきではないかについて語ります。キリスト教は「真理」と「イエス様という人格」の両方に関係しています。この二つは切り離すことができません。もし私たちが、聖書が神の御言葉であると信じるならば、それを真実として受け入れ、その教えに従うのです。そして聖書が教えることを学ぶにつれて、私たちはイエス・キリストを知り、愛し、私たちの救いのためにキリストのみに頼るようになります。さて、それでは今日の箇所は、神の御言葉について、そして私たちの救い主なるイエス・キリストについて、なにを語っているのでしょうか。    

 II. THE WORD OF THE LIVING GOD 生ける神の御言葉

ヘブル人への手紙の著者は、イエス様が聖書について語ったことに確実に同意するでしょう。ヨハネ17:6,8 で、イエス様は弟子たちのために天の御父に祈りました。イエス様はおっしゃいました。「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。…それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」そして17節でイエス様はこう祈られました。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」イエス様の言葉は、神の民に対する真実の神の言葉でした。しかしイエス様もまた、聖書の全てを神の絶対的な言葉として受け入れておられたのです。この理由で、ヨハネ10:35でイエス様は「聖書は廃棄されるものではない」とおっしゃったのです。そしてイエス様が死者のうちからよみがえられたとき、二人の弟子たちを叱って、こうおっしゃいました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:25、27)聖書は成就されなければなりません。なぜなら、聖書は私たちのための、誤りなき神の御言葉だからです。イエス様の弟子は、聖書を受け入れ、聖書が教えることを信じなければなりません。復活された主イエスは、驚く弟子たちに、ルカ24:44-45でこう説明しました。「『わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。」イエス様が死者の 中から復活された後、最初にされたのは、弟子たちに、誤りなき神の御言葉である聖書に書かれているすべてのことに敬意を払い、それを信じるように教えることだったのです。このことは、私たちが聖書の教えを信じることがいかに重要であるかを示しています。

ヘブル書はまた、聖書は誤りない神の御言葉であると教えています。ヘブル書の一番最初の箇所は、聖書の内容について説明しています。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1-2a)ユダヤ人はすべて、神が父祖たちに「語られた」ことを知っていました。なぜなら、その言葉が聖書に書かれているからです。神が御子イエス・キリストを通して語った言葉は、四つの福音書、使徒行伝、そしてキリストが任命した使徒たちによって書かれた手紙などにすでに記録されています。なので、この手紙の初めの言葉は、聖書に記録されている神の御言葉のことを言っているのです。

他のすべての本のように、聖書は人間の手によって書かれ、著者の経験や思考を反映しています。しかし、ヘブル書は、聖書が、人間が書いた他のすべての本とは異なると教えています。普通の本は、著者や書かれた期間の社会について学びたい研究者が、細かく分析することができます。聖書と比べてあまり広く知られていない多くの本は、そのような研究の対象になっています。そして本は、その構造を研究している学者の文学的な理論に従って、時には「断片化され」、再編成されてしまいます。 18世紀や19世紀にこの文学批評の前提を採用した多くの学者は、聖書の「断片化」を試み、それぞれの部分を再編成しようとしました。彼らは、聖書の特定の教えを好み、他の部分を嫌い、それを捨てたのです。しかし、これらの聖書の存在を説明しようとする試みは、どれも成功しませんでした。聖書は、このような「解剖」、すなわち科学者が生物の標本を研究するかのような試みに対して、耐えてきました。ヘブル書は、なぜこのような試みが失敗したのかを教えています。聖書は普通に人間が構成したものではないのです。聖書は、解剖による人間の研究に服従するものではありません。ヘブル書によれば、聖書は人間の研究の「受動的」な対象ではありません。むしろ、聖書は神の「生きていて、力のある」神の御言葉です。開かれた心でそれを読む者に対して、誰にでも変化をもたらす「神の御言葉」なのです。その知らせを聞いて信じる意思がなければ、だれも聖書を正しく理解することができません。理解することを求めながら聖書を読むと、聖書は私たちに挑戦を与え、召し出し、罪を告白させ、神と人間とに関する真の知識に導くでしょう。「神のことばは生きていて、力がある」からです。
聖書はどのようにして、この働きを達成するのでしょうか。ヘブル書は、神の言葉が「両刃の剣よりも鋭い」と語っています。聖書は神のご性質と人間の真の状態とを正確に描いています。聖書の言葉は、人の良心に深く浸透し、自分自身の考えや動機を明らかにすることができます。 聖書は「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。だからこそ、聖書を神の御言葉として読むと、人生の物質的そして霊的な現実に直面していきます。私たちは、聖書に記されている人物の中に自分自身を見出すことができます。そして、自分のような動機や価値観を持つ人々を、神様がどのように裁かれるのかを見ることができるのです。神の言葉は鋭く、人間の魂に深く浸透していきます。ペテロがペンテコステの日にエルサレムのユダヤ人の集会で神の御言葉を説教したとき、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」(使徒2:37)とありますが、これもこのことが理由です。その日、神の御言葉の説教を聞いた人のうち、3000人が改宗し、救い主であるイエス・キリストに信仰を置きました。しかし、神の御言葉を聞く人が全員、その御言葉の力で救われるわけではありません。パウロとバルナバがピシデヤのアンテオケの会堂で福音を宣べ伝えたとき、多くのユダヤ人は彼らのメッセージに反対しました。「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。』…異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」(使徒13:46,48)神の御言葉が宣べ伝えられると、神の御霊の鋭い剣は、しばしば人々の間に分裂を引き起こします。御言葉を聞いて信じる者は、キリストの永遠の御国の安全の中に入れられます。しかし心をかたくなにし、御言葉を拒む者は、神の御国の外に締め出され、永遠の命の希望を失うのです。

しかし、一つのことは確かです。すべての人の心をご覧になる神は、間違いをされません。 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」神の御言葉が宣べ伝えられると、神が救いに選ばれた人は全員が救われます。私たちを召し出して、新しく生まれ変わらせるのは、「生きていて、力のある神の御言葉」です。ペテロは小アジアの町々に散らされていたクリスチャンにこう書いています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。…あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Iペテロ1:23,25b)神の御言葉は、驚くべき、私たちを変える力を持っています。そして御言葉は神が達成しようとされていることを、正確に達成するのです。神の御言葉は私たちの心の真の状態を示し、頑固な誇りを打ち砕きます。人間の魂の堕落を露わにし、神のあわれみとゆるしがどれだけ必要なのかを示すのです。神様は預言者エレミヤにこう言われました。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。−−【主】の御告げ−−」(エレミヤ23:29)同様に、主はイザヤにこうおっしゃいました。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10-11)これを行なうのは、普通の言葉ではありません。生きていて力のある神の御言葉なのです。私たちが聖書の教えに耳を傾け、それを人間の部分的で不完全な言葉としてではなく、「神の御言葉」として受け入れるならば、御言葉は私たちに挑戦を与え、私たちを変え、私たちに希望を与えるのです。

III. JESUS OUR GREAT HIGH PRIEST  私たちの偉大な大祭司なるイエス様 (14-16節)

神の御言葉は皆さんの心を刺し通し、皆さんの誇りを打ち砕きます。しかし、御言葉はこれを達成すると、次に皆さんを福音の輝かしい希望へと導くのです。その希望は、神の御子、イエス・キリストの人格に根ざしています。イエス・キリストは、私たちを、イスラエルの聖なる方である全能なる神の御前に、安全に導く事ができる、「偉大な大祭司」です。祭司の目的は、人間と創造主との間の和解を求めるという、非常に「危険な」仕事を引き受けることです。司祭は根本的には「仲保者」です。ヘブル書は、続くいくつかの章で司祭の役割について、さらに多くのことを述べています。しかしここでは4章の締めくくりとして、私たちを助けるために来てくださった、この大祭司がいるということだけが伝えられています。神の御子なるイエス様は、私たちの代わりに神の御座の前に来てくださいます。イエス様は私たちをよく理解され、不従順によって私たちが神様をどのように怒らせたのかをご存じです。しかし、イエス様は誘惑の力も知っておられ、「私たちの弱さに同情する」ことができるのです。しかし、私たちとは違って、イエス様はあらゆる誘惑に耐えられ、悪の力によって決して敗北したことはありません。イエス様は「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」 実際には、私たちの誘惑とは比べ物にならないほどの誘惑を経験されました。しかし、イエス様は、決して、ただ一度として、御父に対して罪を犯されませんでした。この御方が、天の御父の御座の前で、私たちのためにあわれみを求めてくださる、「偉大な大祭司」なのです。来週は、キリストが私たちの代わりに成し遂げてくださった祭司としての業が、なぜよしとされたかについて考えます。今日は、この偉大な大祭司が、罪の恐ろしい結果を逃れるための唯一の希望であることに注目したいと思います。それゆえヘブル書はこう勧めるのです。「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(14節)聖なる創造主なる神の怒りを逃れるための唯一の希望は、イエス様を信じる信仰です。信仰によって、私たちは大祭司なるイエス様の保護の下に身を置くのです。イエス様ご自身が私たちの希望です。そして、イエス様は私たちと共にいてくださり、私たちを守り、私たちを天の御父と和解させることを約束してくださいます。私たちが自分で達成できないことを、すべてイエス様は私たちのために成し遂げてくださいました。このイエス様のゆえに、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただき、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

IV. CONCLUSION 結論

結論として、イエス・キリストを信じる信仰が、私たちが大胆に神の御座に近づくことができる理由であることを覚えましょう。イエス様は私たちより先に、御父の前に進まれました。「[御子は]罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3)。御子は御父が要求するすべてのことを成し遂げられたので、御父によって歓迎されました。御子はこの堕落した世界で、一人の人間として経験されたすべての誘惑にもかかわらず、罪を犯しませんでした。キリストはご自身の民を贖うための御業を完了され、私たちの信仰と希望はキリストのみにあるのです。私たちのクリスチャンとしての信仰は、イエス様という一人の救い主を信じる信仰です。単に教えや教理の体系を信じる信仰ではありません。私たちが礼拝し、仕えるのは、イエス・キリスト、神の御子、救い主です。

しかし私たちは、聖書と、聖書が教える教理の体系を信じています。イエス様に対する信仰が、私たちが聖書を信頼する理由です。イエス・キリストが聖書を信頼しておられたので、私たちは聖書の中に宣言された良い知らせを信じるのです。イエス様は弟子たちに、聖書は「廃棄されるべき」ではなく、「成就されるべき」、神の誤りのない御言葉であることを受け入れるように教えられました。イエス様が聖書を信頼されたからこそ、私たちもそうするのです。これは、聖書の一部だけでなく、聖書の全てが含まれます。私たちは、聖書を神の誤りのない御言葉として受け入れる前に、自分自身の批判的な「フィルター」を通そうとする誘惑を退けなければなりません。預言者の言葉やイエス様ご自身が語られた言葉のみを神の御言葉として受け入れるのではありません。私たちの意見と一致する聖書の箇所のみが、神の権威ある御言葉ではないのです。聖霊の霊感によって与えられ、御子イエス様が従ったのは、「旧約新約からなる聖書」という神の御言葉です。使徒パウロがテサロニケの教会へ書いた言葉を決して忘れないようにしましょう。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(Iテサロニケ2:13)

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