恐怖を乗り越える神様への信仰

KASUMIGAOKA

2017/06/11

SERMON: 「恐怖を乗り越える神様への信仰」“Faith That Overcomes Fear” 

TEXT: I Sam. 17: 1-32   

I. INTRODUCTION  イントロダクション

ダビデはイスラエルの長い歴史の中で、最も有名な戦士の王でした。今日はダビデの人生の中で、一つのもっとも重要な戦いについて考えていきます。これは聖書に記録されている中で、最初のダビデの戦いで、その結果はダビデが勇敢な戦士としての、そして人々のリーダーとしての名声を立てることになります。先週私たちは、どのようにしてダビデを神様が召された王の職務へと主の御霊が整えられたかについて学びました。神の御霊の御業はダビデをサウル王の宮廷へと導きました。今日は、神の御霊がどのようにしてダビデをイスラエルの油注がれた王として戦う最初の戦いに整えられて行ったかを見ていきます。来週はダビデとゴリヤテの具体的な戦いについて見ますけれども、その前に、ダビデは心理的な、もしくは霊的な戦いをしなければなりませんでした。彼は、ペリシテ人がイスラエルを意気消沈させようとした恐れに打ち勝つ必要があったのです。これはどのような戦いにおいても、勝利をおさめるための最初の段階になりうることです。恐れは成功までの道に立ちふさがることがあります。しかし神の御霊はダビデが恐れに打ち勝つことができるようにされました。彼自身の恐れ、そして他の兵士たちの恐れを乗り越えるようにされ、ダビデがイスラエルを勝利に導くようにされたのです。

今日は、ゴリヤテとの戦いの直前にダビデが直面した恐れと、それにどのようにして彼が打ち勝ったのかについて考えます。なぜ恐れは忠実なクリスチャンの生活において危険なものとなるのでしょうか。そして私たちはクリスチャンとしての歩み
を制限するような恐れにどのようにして打ち勝つことができるのでしょうか。    

II. ダビデが直面し、打ち勝った恐れ

  A. 恐れを戦略として用いたペリシテ人

今日の箇所は、ペリシテの軍隊がダビデの所属していたユダ族の領地に侵攻して来たところから始まります。「ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。 彼らはユダのソコに集ま」った(v.1)。この時代、ペリシテはいくつもの都市国家からなる国で、それぞれの都市をそれぞれの王が治めていました。ですから、このような小さい国家が連合してイスラエルを攻撃したのです。イスラエルは一人の王によって統一して治められていましたが、サウル王はイスラエルのそれぞれの部族に市民軍(今日は自衛軍と呼ばれるかも知れません)を組織させ、敵からイスラエルを守るようにしなければなりませんでした。サウルやこれらの市民軍は、侵略者に対して抵抗するために集まり、「ペリシテ人を迎え撃つため、 戦いの備えをした。」と2節にあります。互いの軍隊が相対したとき、それぞれは谷で隔てられた山の上に陣を敷きました。そしてペリシテ人たちは「代表戦士」(チャンピオン)を送り、宣告をだしてサウル王の軍隊を驚かせました。この代表戦士の名前はゴリヤテで、ペリシテの都市ガテの出身でした。

理屈で言えば、「代表戦士」(ヘブル語ではもともと「間に立つ」の意味)が軍隊を代表して戦うというのは慈悲深い戦術です。もし両陣営が最もすぐれた戦士を送り、その二人の戦いの結果によって戦争の結果が決まるなら、どちらか一人の戦士が死ぬだけで戦いが決着します。これがゴリヤテの提案でした。8,9節でこうあるとおりです。「「おまえらは、 なぜ、 並んで出て来たのか。 おれはペリシテ人だし、 おまえらはサウルの奴隷ではないのか。 ひとりを選んで、 おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、 おれを打ち殺すなら、 おれたちはおまえらの奴隷となる。 もし、 おれが勝って、 そいつを殺せば、 おまえらがおれたちの奴隷となり、 おれたちに仕えるのだ。」当時、代表戦士を用いて戦うことがよくあったとは考えにくいと思います。今回のケースでも、仮に代表戦士が敗れたとしても、ペリシテ人はすぐにイスラエルに降伏し、イスラエルの奴隷になったわけではありませんでした。その代わり、彼らは自分の武器をとって、戦場から逃げようとしました。このことは来週また詳しく見ていきます。

ともかく、ゴリヤテの提案は慈悲深いものではありませんでした。彼の提案の目的は、イスラエルの軍隊を怯えさえ、怖がらせるというものだったのです。敵が立ち上がって戦う戦意を失うとき、その敵を打ち負かすのは簡単になります。恐れは戦意を失わせ、混乱を生みます。これはペリシテ軍の戦略だったのです。彼らは偉大な「代表戦士」である巨人ゴリヤテを送り、イスラエルの軍隊を怯えさせようとしたのです。彼はペリシテの秘密兵器であり、ペリシテの武器庫の核兵器のようなものでした。今日の箇所では、ゴリヤテについて書かれているすべてのことは、彼はイスラエルの軍隊に恐れを与えるために遣わされたことを示しています。まず第一に、彼の代表戦士としての大きさと力強さが書かれています。聖書には何人もの2メートル40センチを超えるような巨人が登場しますが、ゴリヤテの身長はおよそ3メートルにもなりました。パレスチナでは実際、同じ時代にゴリアテくらいの身長であったと思われる人の骨が発掘されています。第二に、彼の防具や武器は彼が無敵であることを示しています。彼の鎧は、肩から膝までで約60キロ(5000シェケル)もありました。青銅のかぶととすね当てを着け、頭から足までを守っていました。武器では剣以外にも、槍や投げやりを持ち、彼の大盾は前を歩く盾持ちによって運ばれていました。ゴリヤテの姿は敗北を知らないような姿でした。誰がこのような力に打ち勝ち、このような防御を貫くことができるでしょう。第三に、ゴリヤテの姿が充分でなかったとしても、彼の挑戦の言葉はイスラエルを怯えさせるのに充分だったでしょう。ゴリヤテはこう叫びました。「きょうこそ、 イスラエルの陣をなぶってやる。 ひとりをよこせ。 ひとつ勝負をしよう。」ゴリヤテは40日間、朝と夕にこの力の誇示と嘲りをしつづけたのです(16節)。ペリシテ軍は、ゴリヤテによってイスラエルの軍隊を驚かせ、士気を挫くという戦略を実行し、大きな成功をおさめました。「サウルとイスラエルのすべては、 このペリシテ人のことばを聞いたとき、 意気消沈し、 非常に恐れた。」と11節にあります。

この40日間、イスラエルの軍隊は恐れで麻痺し、ペリシテ人を彼らの国から追い出すために動くことができなかったのです。ダビデの上の3人の兄はサウル王の軍隊で仕えていました。彼らが帰って来ず、戦いの報告がベツレヘムに届かなかったため、父エッサイはダビデに食べ物を持っていかせ、前線から知らせを持ってくるためにダビデを行かせました。ダビデはイスラエルの次の王として油を注がれていましたが、一番下の息子であったダビデは家に残り、父に忠実に仕え、羊の世話をしていたのです。しかし父エッサイがダビデを戦場に送ったので、ダビデは朝早く起きてイスラエルの陣営に急ぎました。そこに着くとダビデはゴリヤテの姿を見、イスラエルに対する蔑みを聞きました。そしてダビデはゴリヤテによってイスラエルの軍隊に生み出されていた恐れをも見たのです。24節でこう書かれているとおりです。「イスラエルの人はみな、 この男を見たとき、 その前を逃げて、 非常に恐れた。」

  B. どのようにダビデは恐れに打ち勝ったのか

ダビデが全く恐れなかったというのは正しくないと思います。ダビデもまたゴリヤテを見て恐れていたイスラエル人の一人だったと思います。しかしダビデは他のことも見据えていました。彼はこの大きなペリシテ人の戦士を打ち負かす可能性を見ていたのです。ダビデは勝利のヴィジョンを持っていました。26節からそのことが分かります。「ダビデは、 そばに立っている人たちに、 こう言った。 『このペリシテ人を打って、 イスラエルのそしりをすすぐ者には、 どうされるのですか。 この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。 生ける神の陣をなぶるとは。 』」なぜダビデは、他の誰もがなしえなかった、この無敵の戦士を破る想像ができたのでしょうか。それは、ダビデがイスラエルの契約の神の約束を覚えていたからだと思います。他の兵士は恐ろしい戦士の姿を見ていましたが、ダビデは「生ける神の軍隊」の前に立つ一人の肉体を持ったペリシテ人の男を見ていたのです。ゴリヤテは大きな人でしたが、彼は人間に過ぎませんでした。一方で、イスラエルの軍隊とともに立っておられるのは生ける神だったのです。ゴリヤテはイスラエルを嘲っているだけではなく、彼は生ける神を嘲っていました。ダビデは神が義なる方であり、このゴリヤテが神の裁きから逃れられないことを知っていました。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(ヘブル10:31)」「思い違いをしてはいけません。 神は侮られるような方ではありません。(ガラテヤ6:7)」これは聖書の中の基本的なテーマの一つです。誰も神の義なる裁きから逃れることはできません。ダビデはこのことを信じていました。ダビデは、この巨大な神の敵対者が、やがて神の前に敗北することを知っていたのです。この理由で、他の人が無敵の戦士を見ている中で、ダビデは生ける神の大変な裁きをこうむっている愚かな一人の人間をゴリヤテに見ていたのです。このペリシテ人を打ち負かす上で、ダビデは神に信頼しました。神の義というご性質を信じる信仰は、ダビデに恐れに打ち勝つ勇気を与えたのです。

そしてイスラエルの他の兵士や、サウル王ですら恐れで動けなくなっている中で、ダビデは「このペリシテ人を打って、 イスラエルのそしりをすすぐ者には、 どうされるのですか。」「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。 生ける神の陣をなぶるとは。」と言い続けていました。ダビデは、彼らがあきらめずに、むしろ勝利を考えるように静かに励ましたのです。報いを考えなさい!イスラエルのために立てる名誉、神のために立てる栄誉について考えなさい!とダビデは言ったのです。ダビデは自身の名誉について言っているわけではありません。むしろ、かつてヨシュアがイスラエルの軍隊を励ましたように、周りの人々を励ましたのです。「わたしはあなたに命じたではないか。 強くあれ。 雄々しくあれ。 恐れてはならない。 おののいてはならない。 あなたの神、 【主】が、 あなたの行く所どこにでも、 あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)

ゴリヤテだけが、ダビデの信仰や勇気に挑んだわけではありませんでした。ダビデが直面しないといけないもう一つのことがありました。それは彼自身の家族からの反対や非難でした。ある意味で、これはダビデにとって取り扱うのがもっとも難しいものだったかもしれません。多くの人にとって、家族や友人から反対されるという恐れが、神の目に正しいことを行うことを妨げます。ダビデは彼自身の兄から、不当な非難を受けます。「兄のエリアブは、 ダビデが人々と話しているのを聞いた。 エリアブはダビデに怒りを燃やして、 言った。 『いったいおまえはなぜやって来たのか。 荒野にいるあのわずかな羊を、 だれに預けて来たのか。 私には、 おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。 戦いを見にやって来たのだろう。』」おそらくエリアブは、かつてサムエルが彼の弟をイスラエルの次の王として油を注いだことの激しい落胆をこの時も引きずっていたのでしょう。今、ダビデが人々の中に立ち、強くあって恐れに打ち勝つように励ましているのを見て、エリアブの嫉妬や怒りが溢れたのでしょう。エリアブは品位を落とすような偽りの批判をもって、彼の弟に恥をかかせようとしました。それに、ダビデを小さい子供のように扱い、わずかな羊を荒野に放棄し、責任を果たさなかったことを責めたのです。未成熟なダビデは本当の兵士たちがペリシテ人と戦うことを見るために来ただろうとエリアブが嘲って言いました。この言葉はダビデを深く傷つけたことでしょう。この言葉は鋭く、また不当で真実に反するものでした。そしてダビデにとって、なによりもがまんしがたいのは、この批判が彼自身の家族からのものだったということです。ダビデは少ない言葉でこう答えました。「私が今、 何をしたというのですか。 一言も話してはいけないのですか。」しかし、兄からのあざけりや屈辱にもかかわらず、ダビデは勇気を失わなかったのです。後にダビデは詩篇27篇を書きました。もしかすると彼は、この詩篇を書く中でこの経験を思い起こしているのかもしれません。「【主】は、 私の光、 私の救い。 だれを私は恐れよう。【主】は、 私のいのちのとりで。 だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、 私の敵、 彼らはつまずき、 倒れた。たとい、 私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。(詩篇27:1-3a)」ダビデは具体的に兄からのひどい言葉をこの詩篇で言及しているわけではありません。しかし、彼の家族からの反対については言及しています。詩篇27:10でダビデはこう言っています。「私の父、 私の母が、 私を見捨てるときは、【主】が私を取り上げてくださる。」ダビデの自信は他の人によっていたわけではなく、主なる彼の神によっていたのです。ダビデは神に信頼していたからこそ、人間の非難を恐れなかったのです。 そしてダビデは他の人たちを励まし続けました。「ダビデはエリアブから、 ほかの人のほうを振り向いて、 同じことを尋ねた。すると民は、 先ほどと同じ返事をした。(30節)」ダビデは神の勝利のヴィジョンをたずさえ、彼らの恐れと戦い続けたのです。もしかすると、兵士たちのなかにはダビデの問いかけによって励まされた者もいたかもしれません。しかし依然として、だれもペリシテ人の代表戦士と戦おうとはしなかったのです。そしてついにダビデの言葉は王のもとに報告されました。王の前に呼び出されたダビデはこう言いました。「あの男のために、 だれも気を落としてはなりません。 このしもべが行って、 あのペリシテ人と戦いましょう。」ダビデはすすんで自分自身の奉仕、自分のいのちをも捧げました。それは彼の神への信仰が言葉だけのものではないことを示すためでした。若いダビデがいのちを捧げてゴリヤテの挑戦を受けることを誰も求めていませんでした。しかし、もし必要であればダビデはそうするように整えられていたのです。彼は主が共にいてくださる限り、死の影の谷を歩む準備ができていました。それがまさに「信仰によって歩む」ことです。神を信頼していることを語るだけでは充分ではありません。その信仰を行動に移すことが必要なのです。ダビデの神への信仰は、ペリシテ人に対する恐れに打ち勝つ勇気を与えたのです。    

III. CONCLUSION  結論  

ダビデの経験について考える中で神は私達自身が恐れに直面することに関して何を教えておられるのでしょうか。私たちはみな恐れを持ちます。恐れが危険を回避させるとも言われます。しかし、恐れは、イスラエルの軍隊に影響を与えたように私たちにも影響を与えうるものです。恐れは私たちを弱らせ、傷つきやすくします。恐れは私たちを動けなくします。恐れについてダビデの経験が私たちに教えることをわすれてはなりません。
まず第一に、あなたが恐れるとき、神が常に支配しておられることを忘れないようにしましょう。神は常にご自身のご計画を成し遂げられます。そして主イエスキリストは既に罪、死、そして悪魔に対する勝利を勝ち取られたのです。あなたが恐れる時に、キリストがあなたと共にいてくださることを覚えましょう。キリストの力があなたを保つのです。
第二に、あなたの恐れをよく吟味しましょう。私たちはしばしば、私たちが恐れることを行うことを避けた方がいいです。モーセは恐れを抱いた者が戦いに参加することを許しませんでした。モーセはこう言いました。「つかさたちは、 さらに民に告げて言わなければならない。 『恐れて弱気になっている者はいないか。 その者は家に帰れ。 戦友たちの心が、 彼の心のようにくじけるといけないから』 (申命記20:8)」言い換えるならば、私たち自身の恐れが他者の自信をなくし、危険にさらさせることがないようにしなければなりません。

第三に、私たちは恐れに、神に従うことを妨げさせてはなりません。神は私たちに命令されたことを行うことを可能にしてくださいます。私たちは単純にこのことを神に信頼しなければなりません。私たちは恐れによって動きを止めること無く、信仰によって歩まなければなりません。パウロがテモテにこう書いたとおりです。「神が私たちに与えてくださったものは、 おくびょうの霊ではなく、 力と愛と慎みとの霊です。」神に忠実に仕えるには、私たちは多くの恐れに打ち勝ち、神の聖霊の助けにより頼まなければなりません。もし神のみこころを行なうように決心するのなら、神様が必要な勇気と力を与えてくださいます。それはダビデの経験でした。神様の聖霊によってダビデは恐れを打ち負かして、ゴリヤテの挑戦を受けることができました。詩篇34:4でダビデが言っている通りです。「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」主イエス・キリストが弟子たちに言われた最後の励ましのことばを覚えてください。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(Matt. 28:20) 圧倒的な勝利を得た主イエスと共に歩む者は誰でも、恐れる必要はありません。お祈りします。

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