敵に立ち向かう時

KASUMIGAOKA   2017/03/05

SERMON: “Facing the Enemy”  「敵に立ち向かう時」
      
TEXT: 1 John 2:15-27

I. INTRODUCTION:

 
ヨハネは手紙の中で「私たちには、 御父の前で弁護する方がいます。 義なるイエス・キリストです。」(2:1) と書いていました。しかし私たちには危険な敵がいます。ヨハネは2:13-14でそれを「悪い者」と呼び、3:8では「悪魔」と呼んでいます。キリストに従う決心をした人はだれでもこの敵に出会います。そのとき、私たちはその敵に打ち勝つでしょうか。それとも負けてしまうでしょうか。エバはエデンの園で、その敵がずる賢いことを学びました。私たちはそのずる賢さに注意しなければなりません。さもなければ、わたしたちは簡単にその敵からの予期しない霊的な攻撃に負けてしまうでしょう。今日の箇所でヨハネは、悪魔がクリスチャンを負けさせるために好んで用いる二つの手段を指摘します。私たちが抵抗すべき「魅力」や、避けるべき敵について説明しています。15-17節でヨハネは世俗的な偶像によって誘惑される危険性について語ります。そして18-27節ではキリストやその民に対して危険な敵となる具体的な人たちの警告をしているのです。これらの箇所をより深く見ていきましょう。

II. THE ATTRACTIONS WE MUST RESIST 抵抗すべき魅力(vs. 15-17)

まずヨハネは15節で、「世をも、 世にあるものをも、 愛してはなりません。」と 言い、16節では、「すべての世にあるもの、 すなわち、 肉の欲、 目の欲、 暮らし向きの自慢などは、 御父から出たものではなく、 この世から出たものだからです。」と言っています。これはなんとなく、仏教の教えのようにも聞こえます。私が聞いたことがあるのは、仏教の教えでは、「欲」は全ての苦しみの源であり、だからこそ「欲」は悪の根源として取り除かれなければならないものなのです。しかし注意深く読むと、ヨハネは決してここでそのようなことを言っているわけではありません。この世のものに対する欲求自体が悪いわけではないのです。覚えていらっしゃるでしょうか。神はお造りになった世界をご覧になり、「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)とおっしゃいました。使徒パウロはテモテへの手紙で「神が造られた物はみな良い物で、 感謝して受けるとき、 捨てるべき物は何一つありません。」(1テモテ4:4)と書いています。この世の全ての良いものは、私たちがそれを用い、それを楽しむために神がお造りになったものです。そして福音書は「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)と語ります。なのになぜ私たちは世や世にあるものを愛してはいけないのでしょうか。

ヨハネは今日の箇所の15節の後半でこの問いに答えています。「もしだれでも世を愛しているなら、 その人のうちに御父を愛する愛はありません。」ここでヨハネは、「神への愛」の代用品となってしまうような「この世への愛」について語っているのです。神は全てのものを私たちに与えてくださるお方です。しかし多くの人々は、世や世にある全ての良い物を愛しながら、それを私たちにくださった創造主なる神を拒んでいます。神自身を求めることなく、この世のものを求める人はだれでも偶像礼拝の罪を犯しているのです。ローマ1:25aではこのような人のことをこう言っています。「それは、 彼らが神の真理を偽りと取り代え、 造り主の代わりに造られた物を拝み、 これに仕えたからです。」「こういうわけで、 神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」(1:26a)

私たちの欲求が向かう先の物が神ご自身の代用品となってしまうとき、どのような欲も罪になりえます。ヨハネは「肉の欲」、すなわち不純な性的欲求、そして「目の欲」、つまり嫉妬や貪欲について述べています。そして「暮らし向きの自慢」という、自分が持っているものや成し遂げたことを誇ることについても述べます。このような「欲望」や「自慢」は罪なのです。これは「御父から出たものではなく、 この世から出たもの」(16b)なのです。悪魔は、私たちが愛しているものを用いて私たちを「支配」します。つまり、悪魔は私たちが全ての造り主なる神を愛するよりも、この世界の「何か」や「誰か」を、より愛するように説得してくるのです。アダムとエバがエデンの園で最初に誘惑されて以来、悪魔が世や世のものを用いて私たちを誘惑する試みは大成功しています。この理由で、ヨハネは5:19で「世全体は悪い者の支配下にある」と言っているのです。しかし私たちはその「悪い者」の誘惑に決して屈するべきではありませんし、もし誘惑に負けたとしても絶望することはありません。なぜなら、私たちには、 御父の前で弁護する方がいてくださるからです。その方は、 義なるイエス・キリストです。キリストは「悪魔のしわざを打ちこわすため」(3:8)にこの世に来られました。そしてキリストはあなたが神の代わりに他の物を愛するという誘惑を退ける助けをしてくださいます。そのようにその助けをしてくださるかは、また後で考えますが、その前に、悪い者が用いる二つ目の手段について考えてみましょう。   

III. THE ENEMY WE MUST AVOID 避けるべき敵(vs. 18-27)

18-27節でヨハネは「反キリスト」と呼ぶ特定の人による危険を警告しています。ギリシャ語では単純にイエス・キリストの「相手」という意味の言葉です。パウロはよくキリストの再臨のときに滅ぼされる「不法の人」について語りました。第二テサロニケ2:9-10ではこのように言っています。「不法の人の到来は、 サタンの働きによるのであって、 あらゆる偽りの力、 しるし、 不思議がそれに伴い、 また、 滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。」この「不法の人」はサタンの「使徒」のような存在で、人間に対するサタンの支配を広げようとする者のようです。「サタン」という名前はヘブル語では「相手」という意味で、ちょうど「反キリスト」が「キリストの相手」という意味なのと同じです。もしかするとヨハネは、パウロの予測を思い起こしながら18節を書いたのかもしれません。「小さい者たちよ。 今は終わりの時です。 あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、 今や多くの反キリストが現れています。 それによって、 今が終わりの時であることがわかります。」しかし、ヨハネはここで、一人ではなく、多くの「反キリストが現れている」と言っています。この「多くの反キリスト」の存在は、今が「終わりの時」だということを示します。それは、悪魔のキリストに対する最後の必死の抵抗です。ヨハネはここで、キリストの敵に言及することでキリストの再臨の具体的な時を予想しようとしているわけではありません。ヨハネは単に、愛する教会をこの「反キリスト」の悪い影響から守ろうとしているのです。それでは、この「反キリスト」とは誰のことなのでしょうか。

この「反キリスト」が「悪霊」ではなく、悪い者の霊に動かされている、身体を持った生きている人間なのは明らかだと思います。ヨハネはこの「反キリスト」について2つのことを言っています。まず第一に、19節では「彼らは私たちの中から出て行きました」と言われています。彼らはもともとクリスチャンの教会に属しており、キリストやその御国について学び、教会の交わりを楽しんでいました。しかし彼らは教会に残ることや使徒の教えを受け入れることでは満足しませんでした。彼らが離れていったことから、彼らは真のクリスチャンではなく、一時期そう見えただけだったということがわかります。「しかし、 そうなったのは、 彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」(19b)とあるとおりです。

第二に、ヨハネは22節で、この「反キリスト」が信徒でないだけでなく、「偽り者」であると言っています。これは、彼らが基本的なキリスト教の教えに対する偽りを広めようとしていたということです。26節ではこう言われています。「私は、 あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。」彼らはイエス様がキリストであることを否定しました。彼らは御父と御子の両方を否定したのです。従って、彼らはキリストの受肉、代償的贖罪、そして復活も否定しました。そしてもちろん彼らはキリストの力と栄光の証人である使徒の証言と権威を否定していました。それでも、ヨハネはこの「反キリスト」が「教会から追い出された」とは言いません。「私たちの中から出て行きました」という言葉を用いています。ここから推察されるのは、彼らが教会で支持を得ることに成功せず、自発的に教会を去ったということです。彼らは教会から「出て行き」、彼らの独立した「教会」のような働きを立てあげました。ヨハネはこの手紙を受けた信徒たちが用心するように警告しています。このような「反キリスト」を交わりに迎え入れてはならない。彼らの偽りに欺かれてはならない。このキリストの敵たちは、にせ教師であると認識され、摘発されなければなりません。彼らは、福音を聞く必要のある未信者として扱われるのではなく、教会から避けるべきなのです。

ある人は、ここでヨハネはちょっと臆病になっていると考えます。なぜ「反キリスト」を話し合いによって励まし、真実な議論によって回心へと導こうとしないのか。ヨハネはこの頑ななキリストの敵が、キリストが愛された教会を害することを心配しているのです。イエス様も福音の敵について、マタイ7:15でこう警告しています。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 あなたがたは、 実によって彼らを見分けることができます。」このにせ教師が自分の「変装」をとき、「狼」であることを現した場合、その人は、悔い改めと信仰の明確な証拠が見られない限り、キリストの民の「群れ」に迎え入れられるべきではありません。ヨハネの時代、キリスト教会の内部で偽りの教えが現れ、それはやがて「グノーシス主義」という異端として広く広まります。この異端の誤った教えの中に、キリストは私たちのような本当の人間にはなることができない。なぜなら神の霊は人間の肉体という汚れたものとは関わりを持つことができないというのです。初期のグノーシスの指導者であったケリントスという人物は、ヨハネと同世代の、1世紀後半の人物でした。スミルナの教会の司祭(主教)だったポリュカルポスは、使徒ヨハネとケリントスがエペソにいた時の出来事を詳しく述べています。「主の使徒ヨハネがエペソの浴場に行ったとき、ケリントスを見つけると、風呂に入らずに走り出て、『浴場が崩れ落ちる前に逃げ出せ!真理の敵であるケリントスがいるからだ』」と叫んだ」(Eusebius’ Eccles. History, Bk. IV, ch. 14, p. 142)

この出来事は、ケリントスの「真理の敵」であるという評判から、ヨハネが公の場所でですら彼を避けていたということを現しています。ケリントスは、当時キリスト教会から離れ、嘘の教えを広めていた「多くの反キリスト」の一人だったのでしょう。今日の世界でも、このケリントスのような「反キリスト」は大勢います。彼らと関わりをもつよりも、むしろ避けるべきなのです。このような「反キリスト」は、悪い者によって送られ、可能ならイエス・キリストの教会を破壊しようとする者です。キリスト教会は彼らを認識し、偽りの教えを退け、彼らと関わりをもつことすら避けなければならないのです。

IV. APPLYING GOD’S INSTRUCTIONS FOR RESISTING OUR SPIRITUAL ENEMY 

私たちの霊的な敵に対抗するための神からの教えの適用

悪魔を退け、その攻撃から身を守るために、私たちがすべき幾つかのことをヨハネは述べています。まず、私たちは「世をも、 世にあるものをも、 愛さない」ように注意しなければなりません。この世にあるものと、それを与えてくださる神様を混同してはいけません。神は私たちを「ねたむ愛」で愛される方です。そして私たちに「心を尽くして」神を愛するようにお求めになる方です。主が私たちに用意してくださった物を喜びましょう。しかし、神がお求めになるように、常に神ご自身に賛美と感謝を捧げましょう。この世のすべてのものは一時的なものであり、神様のみが永遠なるかたであることを忘れてはなりません。「世と世の欲は滅び去ります。 しかし、 神のみこころを行う者は、 いつまでもながらえます。」(17節) この世ではなく神に心を捧げましょう!神に仕え、神のみこころを行ない、神を愛しましょう!神への愛を心に抱けば、偶像が心に占める余地はなくなります。

第二に、真理と偽りを注意深く見分けましょう。福音の中心的な教えを受け入れない、「指導者」と呼ばれる人々に従うのを拒みましょう。キリストに積極的に反対し、キリストの言葉を拒む人々とつきあうのはやめましょう。「光と暗やみとに、 どんな交わりがあるでしょう。」(2Cor.6:14)彼らの友好的な表情や心地よい言葉が、その奥にある暗闇の危険な目的を覆っているかもしれません。注意して真理を知り、不法をなす、偽りを広める者たちとかかわるのをやめましょう。

第三に、ヨハネは24節でこう言っています。「あなたがたは、 初めから聞いたことを、 自分たちのうちにとどまらせなさい。」イエス・キリストの真理を堅く保ちましょう。ヨハネが20節で言っているように、「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、」あなたは真理をもっているのです。旧約聖書では、注ぎの油はしばしば、聖霊の豊かさを表す象徴でした。神様はこの「油注ぎ」を、イエス様のお生まれになる800年も前から、預言者ヨエルによって語られていました。「神は言われる。終わりの日に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒2:17;ヨエル2:28)神の民への「油注ぎ」は神の聖霊の注ぎ出しであり、これを受ける者は神の真理を知り、それを他の人にも宣べ伝えるのです。この聖霊の油注ぎによって、私たちの心は福音の真理を受け入れるように整えられます。この聖霊の油注ぎによって神のみことばを大胆に語ることができるようになります。そしてこの聖霊の油注ぎによって、私たちはすべての真理に導き入れられるとイエス様は語られました(ヨハネ16:13)。ですから、偽りに聞き入ることなく、可能な限り論争を避けましょう。でも議論が必要であるなら、「御霊の与える剣である、 神のことば」(エペソ6:17)を堅く保ちましょう。

最後に、ヨハネは27節でこう言います。「あなたがたの場合は、 キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。 それで、 だれからも教えを受ける必要がありません。 彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、 −−その教えは真理であって偽りではありません−−また、 その油があなたがたに教えたとおりに、 あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」クリスチャンとしての歩みがうまくいくようになる、唯一の最も大きな鍵は、あなたとイエス・キリストご自身との個人的な交わりです。御霊によってキリストにとどまり、キリストとともに歩み、キリストに信頼する限り、サタンの罠に陥ることはありません。神がご自身を信頼する者に与えられるいのち、平和、愛、そして喜び以上のものを欲することはなくなります。キリストに毎日聞いているならば、新しい預言者や教師を必要とすることはありません。終わりに、イエス様が弟子たちに語られた言葉をもう一度聞きましょう。ヨハネ15:5です。「わたしはぶどうの木で、 あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、 わたしもその人の中にとどまっているなら、 そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができないからです。」大敵なる悪魔に立ち向かって誘惑された時、勝利を得るためにイエス・キリストとあなたとの交わりこそが秘訣なのです。

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