どのように神の安息に入れるのか

KASUMIGAOKA  
2017/12/10 
SERMON: 「どのように神の安息に入れるのか」 “How to Enter God’s Rest”     
TEXT: Hebrews 3:7-19     

I. INTRODUCTION イントロダクション

先週はヘブル書3章の1-6節を見て、私たちが信仰によって主イエス・キリストに全生涯を通して従い続けるように、与えられる積極的な励ましについて考えました。その箇所で、イエス様は、イスラエルを捕われの状態から約束の地の自由へと導くために神様が立てられた偉大なリーダーであるモーセと比較されていました。モーセは当時、忠実な主のしもべとして、偉大な働きを成し遂げたのです。しかしヘブル書が語るのは、イエス様はモーセよりはるかに優れており、はるかに大きな栄誉を持つにふさわしいということです(3:3)。今日の箇所である7-19節では、ヘブル書の記者は詩篇95篇を用いて、なぜ信仰によって神に従うことから離れてしまうことが危険であるかを説明しています。この箇所は、神に対して私たちの心をかたくなにしてはならないと警告しているのです。

詩篇95篇は、どのようにしてイスラエルがモーセに従いエジプトから出て、神がイスラエルに与えると約束された新たな家への旅を始めたのかを思い起こしています。しかしその約束の地に着くはるか前から、イスラエルの民はその旅に疲れ果て、途中で遭遇した多くの困難に苦しんでいました。彼らはモーセと、彼らを導いた主なる神に対して不平を言うようになりました。彼らはこう言い始めたのです。「私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」(出エジプト14:12)神と主の僕であるモーセを信じる信仰が民に欠けていたため、イスラエルはその世代が死ぬまで、40年間荒野でさまよわなければなりませんでした。皮肉なことに、彼らが実際に恐れたことが起こったのです。つまり、彼らは恐れたとおり荒野で死んだのです。それは神が彼らを守ることに失敗したからではありません。むしろ彼らが神を信じ、信頼することを拒んだのです。これは、今日の箇所の歴史的かつ霊的な背景です。

ヘブル書はすべての信者に対する警告として詩篇95篇を用いています。イスラエルの父祖たちがずっと昔にしたように、「あなたの心をかたくなにしてはならない」。神があなたに与えてくださった、約束された「安息」という素晴らしい希望をあきらめてはいけないのです。今日は、ヘブル書が詩篇95篇を通して示している教訓について考えたいと思います。まず、この詩篇を見て、そこで与えられた警告をしっかりと理解しましょう。次に、イスラエルの父祖たちの悪い例に従わないためにはどうすればよいのかを考えてみましょう。

II THE WARNING IN PSALM 95:心をかたくなにしてはならない!(7-11節)

ヘブル書が詩篇95篇から引用している主な教訓はこのように肯定的に表現できます。「もしあなたが本当の信仰を持っていれば、諦めることなく神に従う。」しかし、詩篇95篇はこれを否定的な警告として述べています。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」(7-8節)。詩篇95篇を見ると、心のかたくなさや不信仰に対する警告からこの詩篇が始まるわけではありません。実際、詩篇95篇は、神を礼拝するための非常に積極的な招きのことばから始まります。最初の節は、今日私たちが歌いましたが、ユダヤ教やキリスト教における礼拝の「招きのことば」として読むことがよくあります。「さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」 この詩篇の後半に入って、ようやく心のかたくなさに対する警告を見ることができます。 7-11節は、主を「礼拝する」者たちへの警告が含まれています。神を礼拝する者は、神の声に耳を傾け、神に従わなければなりません。私たちが告白する宗教的な信仰と、私たちがどのように生きるかのあいだに、隔たりがあってはいけないのです。このことはこうも言えるかもしれません。もし皆さんが日曜日に神を礼拝するなら、一週間をとおして神に忠実に従うことで、神の栄光を表さなければならないのです。もし私たちの心が神に従う準備ができていないならば、私たちが礼拝するとき、神様はお喜びになりません。イスラエルにとって、このことは、毎日謙虚に神の言葉に服従して生きていかない限り、宗教的儀式、(例えば安息日の礼拝や、いけにえ、祭りなど)は彼らを助けないということを意味しました。詩篇95:8は、イスラエルが避けなければならない「心のかたくなさ」もしくは不信仰の具体例を示しています。「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」神がイスラエルに行うように命じ、彼らが拒んだこととはなんでしょうか。簡単に言えば、神はイスラエルに、ご自身を信頼するように命じたのです。神はイスラエルを気にかけ、食べ物、飲み物、衣服、健康、保護など、民が荒野にいた時に必要としたすべての物を提供されました。イスラエルは神を信じて、神に従わなければなりません。しかし、イスラエルの民は神に対して心をかたくなにし、神が彼らに命じたことを行うのを拒んだのです。

なぜ神を信頼することが難しいのでしょうか。それは私たちが罪人であるからです。ユダヤ人であるか他の人種や国であるかを問わず、私たち全員は、神様ではなく、むしろ自分自信に信頼を置くのです。私たちは、自分たちが神様よりも道徳性を判断するのに優れていると思っています。クリスチャンである私たちでさえ、神様の言葉から謙遜に教えを受けるよりも、私たち自身の理解や良心をむしろ信頼しているのではないかと恐れます。神様に耳を傾けるのではなく、自分の罪深い心を信頼することは、愚かで、傲慢で、無駄です。しかし、人々は世界中のすべての世代がすべての国で、それを続けています。詩篇14:2-3でダビデはこう言います。「【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」神様を求めて神の声に従うのではなく、私たちは自分自身に自信を持つのです。私たちは、エバがエデンの園で行なったように、神の簡単な指示を聞くのではなく、自分の判断を信頼します。このことが、詩篇95篇の言う、「心をかたくなにしてはならない」の意味です。
詩篇95篇は、イスラエルの人々の心が神に対してかたくなになったことを示す一つの具体的な出来事を述べています。詩編95では、それは8-9節で言及されており、ヘブル書3:8-9で引用されています。ヘブル書は「メリバ」と「マサ」という二つの地名を翻訳しています。これらの地名はヘブル語で「争う」、「試す」という動詞から来ている言葉です。詩篇95:8はこう言います。「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」メリバやマサは、イスラエルの人々が神への信頼を失い、モーセと争った2つの場所に与えられた名前でした。(出エジプト記17:7)。イスラエルは神が導かれたレフィディムで宿営しましたが、そこには民の飲む水がありませんでした。出エジプト記17章2節にはこうあります。「それで、民はモーセと争い、『私たちに飲む水を下さい』と言った。モーセは彼らに、『あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか』と言った。…そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」すると、主はモーセにすべての民の前に出て、杖で特定の岩を打つように命じられました。そしてモーセがそうすると、神の特別な指示に従って、水はすぐに岩から流れ出したのです!人々は神を信頼せず、モーセと争ったにもかかわらず、神は彼らに水を飲ませてくださったのです。しかし、出エジプト記17:7はこう語ります。「それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。」

この経験を思い起こしつつ、聖霊はこの詩篇を通してもっと後の世代のイスラエル人に、「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と言われているのです。「あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。」そしてヘブル書の記者は、自分の世代にも同じことを言います。「きょう、もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」これは、神様を信じるのを拒否し、神の預言者モーセと争った時のことです。ヘブル書は、詩篇95篇の言葉は、イエス様に従う者に対して聖霊が語っている警告であると言っています。つまり、イスラエルの民が荒野で誘惑されたように、私たちもみな誘惑され、神の言葉に対して心をかたくなにし、私たち自身の知恵や能力を信頼するように誘惑されるということです。
III. THREE HELPS TO SUSTAIN YOUR FAITH 信仰を保つための3つの助け ヘブル書は、神に対して心をかたくなにしてはならないと警告しているだけではありません。手紙の記者はまた、困難な時に私たちの信仰を保つための助けを与えてくれています。まず第一に、私たちが神から離れて自分自身を信じるように誘惑するのは罪であることを思い起こさせます。第二に、神に耳を傾け、忠実に彼に従うために、互いに助け合わなければならないと言います。そして第三に、私たちが神を信頼し始めるだけでは不十分であることを思い起こさせます。私たちはすべての人生を通して神を信頼し続ける必要があるのです。これらについてもう少し注意深く考えてみましょう。

まず第一に、ヘブル書は、私たちの信仰を損わせ、神に従うことから離れさせるのは罪であると警告しています。われわれは罪の欺きの力を過小評価してはならないのです。 12節はこう 言います。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」私たちは、自分がこのような心を持っているかどうか、どうしたら分かるでしょうか。私たちの心が神の御言葉の教えに抵抗し、神様から離れて行くときはいつでも、自分の心が自分自身を欺いているのです。罪はキリストを信じる信仰と相容れません。信仰は私たちに神のみこころを行うように促し、罪は私たちにこの世の道に従うように促します。信仰は、私たちに、キリストの御国という目標に向かって、私たちの考え、言葉、行ないのすべてで神の栄光を表すように励まします。しかし、罪は、私たちに、この世の過ぎ去っていく幸福を追い求めるように勧めます。信仰は、私たちがイエス様に従うために十字架を背負うように促します。しかし、罪は、私たちが地上で自分自身のために栄誉や宝を獲得するよう促すのです。皆さんはどちらの道に行きますか。荒野で誘惑されたとき、主イエスが悪魔にどのように答えたかを覚えましょう。マタイ 4:8-10。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」」罪が私たちの心をかたくなにしようとするときでもなお、どのように神の御言葉に信頼すべきかをイエス様は示しておられるのです。私たちが信仰を持ち、神の御言葉を信頼して、神に近づくとき、神様は私たちに近づいて下さいます。(ヤコブ4:7-8)。そして、神があなたと共におられるなら、悪魔は逃げるのです。欺かれてはいけません。

第二に、ヘブル書は繰り返しクリスチャンの交わりの必要性を思い起こさせます。すべてのクリスチャンは、罪の魅力に抵抗するために、仲間の信徒の助けと励ましが必要です。13節はこう言います。「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて、かたくなにならないようにしなさい。」クリスチャンはお互いが必要なのです。これが、キリストがこの世でご自身の教会をお建てになった理由の一つです。私たちは他の信徒を励まし、また励まされなければなりません。毎日この励ましが必要なのです。初代教会の驚異的な成長の秘訣の一つが、使徒2:46-47で説明されています。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」クリスチャンが日曜だけでなく頻繁に会うとき、彼らは互いを励まし、罪は魅力的ではなくなっていきます。私たちの信仰が仲間のクリスチャンによって励まされる時、罪の力は打ち負かされるのです。ヘブル書は10:23-25 で再びこのテーマを取り扱います。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

第三に、ヘブル書は、クリスチャンとしての良いスタートは、後に神様から離れ、心をかたくなにすることがないということを保証するわけではないと言います。私たちは、神様が私たちの前に用意された「競争」を終わりまで忍耐を持って走らなければならないのです。ヘブル書は、荒野で死んだイスラエル人の世代が、神に従うことから始めたことを思い起こさせます。しかし旅のどこかで彼らは信仰の歩みをあきらめました。彼らの信仰が「試された」とき、それは失敗し、彼らは主に反抗してしまいました。16節はこう問います。「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。」荒野で死んだ人々はすべて、彼らが信仰だと思っていた「何か」をもって旅をはじめました。しかし、神の召しに従うことで旅を始めた者たちは、神を信頼し続けなかったのです。これが彼らが荒野で死んだ理由です。神は真実な信仰、すなわちずっと続く信仰を持つ者のみを祝福します。荒野で失敗した者たちは、「彼らの不信仰」のために神の安息に「入ることができなかった」のです(19節)。

神の安息に入るためには、信仰によってしっかりとキリストに結ばれないといけません。イエス キリストはモーセよりはるかに優れた先導者なのです。キリストはこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)。私たちは、毎日御言葉を読み、それに従い、祈ることによって、キリストとの関係を育まなければなりません。単に信仰を表明したり、洗礼を受けたりするだけでは、競争の終わりまであなたが保たれ、神様が約束した完全な安息に入ることを保証されるわけではありません。神様の安息に入るためには、キリストと共にずっと歩み続けなければなりません。

IV.CONCLUSION  結論

私たちが旅の終わりまで信仰を保ち続けることを確実にする可能性はあるでしょうか。ヘブル書が私たちに語る3つのことを覚えましょう。1)罪は欺くものです。なので、その見た目を信じてはいけません。神様は真実であり、嘘をつくことができません。神様の言葉は完全に信頼できるものです。しかし、罪は悪魔、すなわち「偽りの父」のものです。2)他の信徒との交わりを求め、毎日互いを励ましあいましょう。出来る限り、教会に通ってクリスチャンとの交わりを求めましょう。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって、ますます互いに励まし合おうとしましょう。3)「きょう、もし御声を聞くなら、」イエス様のもとに来てください。イエス様は今日にもあなたに安息を与えて下さり、永遠の安息に入るまでも守ってくださいます。

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