いのちの水の泉

KASUMIGAOKA
2017/07/30 SERMON:「いのちの水の泉」 “The Spring of the Water of Life” 
TEXT: ヨハネの福音書4:1-15   

I. INTRODUCTION  イントロダクション

あなたはどのようにしてクリスチャンになりましたか?このような質問をされたことがありますか?この質問に対して、全く同じ答えをする人は、この部屋に二人としていないと思います。しかし皆さんの答えに共通することが一つあるはずです。それはこういうことです。誰かがイエス・キリストを信じて従う時、その人はまずイエス・キリストを信じる信仰を通して救われるという福音を聞かなければなりません。言い換えるならば、誰かに対して福音を語るメッセンジャー(or使者)が必要であるということです。もちろん、その希望のメッセージが伝えられるのには、さまざまな手段があります。「口から出る言葉」によって語られることもあります。また、本やトラクトや、もちろん聖書の書かれた言葉によって語られることもあります。また、テレビや映画、インターネットのソーシャルメディアのようなメディアによって語られる場合もあります。しかしすべての場合、神様は人を用いてキリストを通しての救いのメッセージを他の人にお伝えになります。ある人は、自分の友人や家族に、なぜ自分が信じているのかということを自分の言葉で語ります。ある人は本やトラクトを書いたり、ギデオン協会のように聖書を配ったりします。またある人は映画を作ったり、インターネットのブログで信仰について書いたりするかもしれません。

はるか昔、神様は時折「御使い」、つまり神様の使者(メッセンジャー)を用いて、特別なメッセージを民に語りました。しかし、最も偉大なメッセージである、イエス・キリストを通しての救いという福音については、私や皆さんのような普通の人間に委ねられたのです。イエス様は普通の人間をご自分の弟子としてお選びになり、彼らを「行って、 あらゆる国の人々を弟子としなさい」と送り出されました。彼らは、イエス様が私たちのあがない主として成し遂げられたすべてのことの「証人」としてエルサレムから出ていったのです。ローマ人への手紙10:13-15で、キリスト教会の最初の偉大な宣教師はこのように述べています。「主の御名を呼び求める者は、 だれでも救われる」のです。 しかし、 信じたことのない方を、 どうして呼び求めることができるでしょう。 聞いたことのない方を、 どうして信じることができるでしょう。 宣べ伝える人がなくて、 どうして聞くことができるでしょう。 遣わされなくては、 どうして宣べ伝えることができるでしょう。」誰かが行って、神様がキリストを通して与えてくださる救いについて人々に伝えなければならないのです。このことを、聖書は「伝道」という別の言葉でも表しています。この言葉は使徒の働き8:4や11:19-20で用いられています。これらの聖句は、キリストを信じないユダヤ人たちが、エルサレムの教会への迫害を始める中で、一般のクリスチャンたちが散らされていく様子を表しています。行く所行く所で、そのクリスチャンたちは人々に救い主なるイエス様が、人間の罪のために死に、三日目によみがえられたという素晴らしい良い知らせを宣べ伝えました。今日においても、キリストは普通の人々を彼の証人として送り出し、地の果てにまでキリストにある希望という良い知らせをもたらしてくださるのです。これは今日における私たちの、キリストの弟子としての責任であり、特権です。しかし私たちの多くはこのことをしっかりと出来ていません。今日の箇所を見ていく中で、神様の福音のメッセージを他者に伝えるという大切な働きについて幾つかの重要な点を学ぶことができます。今日の箇所のイエス様とサマリヤ人の女性との会話から、どのようにキリストの証人としてより効果的に働くことができるかを学びましょう。まずその会話の最初の部分を今日学び、ヨハネ4章の残りの箇所を次の2週間で学んでいきたいと思っています。

今日の箇所について、3つのことに注目してみたいと思います。まず第一に、イエス様がどのように門戸を開き、神の良い知らせをサマリヤ人の女性に伝えたか。そして第二に、イエス様が福音のメッセージの中心をどのように理解しておられたか。そして第三に、イエス様がこの女性に与えようとしておられる賜物の素晴らしさをイエス様がどのように評価しておられたか。これらの点についてより注意深く見ていきたいと思います。    

II. JESUS’ APPROACH TO EVANGELISM  イエス様の伝道へのアプローチ(ヨハネ4:1-15)

 A. まず、イエス様がどのように神様の良い知らせについての話を始められたかを考えてみましょう。ヨハネは、イエス様が計画的にサマリヤを伝道の場所に選ばれたとは書いていません。むしろ、逆でしょう。ヨハネが言うには、イエス様がパリサイ人の注意やおそらく敵意を避けるためにユダヤからガリラヤに行かれたのです。イエス様はその道中でサマリヤを通って行かなければならなかったのです。しかし、そこにはイエス様が直前の章で説明され、そして明らかにイエス様ご自身が従っておられるような、霊的な原則があるのです。その原則とは、神の御霊が人の心の信仰の門を開かなければならないということです。そしてその神の御霊は予測できるものではありません。「風はその思いのままに吹き、 あなたはその音を聞くが、 それがどこから来てどこへ行くかを知らない。 御霊によって生まれる者もみな、 そのとおりです。」(ヨハネ3:8)私たちは、いつ、どこで、どのように神の御霊が人の信仰の門を開かれるかを知ることはできません。しかし、イエス様のように、私たちはまず祈り、そして神様がそのような機会を与えてくださるように望まなければなりません。御霊はその信仰の門の鍵を内側から開けることができ、その人は福音を聞きたいと望むようになるのです。使徒パウロもこの原則を理解していました。使徒14:27では、パウロが第一次伝道旅行の後にアンテオケの教会に対して神が「異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」を報告しています。もし私たちが神様に、私たちと他者との関わりを祝福してくださるように願い、救いのメッセージを届けるような機会を求めるならば、それを神様が実際にしてくださる時を待ち望むことも出来るでしょう。

サマリヤ人の女性は、福音のメッセージに対して積極的に応答しそうな人には見えませんでした。特に、そのメッセージがユダヤ人から語られる時にはなおさらでしょう。ヨハネはこのことを9節でこう説明しています。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。」しかし神の御霊が信仰の門を開かれる上で、外見は関係ありません。「風はその思いのままに吹く」のです。神の御霊は、人間の慣習に基づく意見に左右されません。むしろ、神の御霊はこの福音を聞かなさそうな女性の心を準備され、イエス様がもたらされた良い知らせに応答できるようにされたのです。そして主なるイエス様はこの機会を予期しておられました。だからこそ、イエス様が話し始められた時、信仰の門は開かれたのです。

 B. 第二に、イエス様がどのように福音の中心を理解されていたかについて見ていきましょう。もし私たちが福音の要点を理解しているなら、私たちは自由に、その福音のメッセージを聞く人の必要に応じた形で語ることができるはずです。それでは、イエス様がこのサマリヤ人の女性に語られた福音の中心の要素はなんだったでしょうか。10節を見て下さい。ここでイエス様は、彼女が知るべき2つのことと、行うべき1つのことを述べておられます。もしこの女性がこの2つのことを理解し、ふさわしく行動するなら、彼女はとても良いものを受け取ることになる。まず彼女はなによりもまず、「神の賜物」が何かを知る必要があると言います。イエス様はこんなふうに言っているようです。「神様はあなたに与えようとする賜物を持っておられます。あなたはそれが何であるかを知りたいですか。」この女性に対して神様はどのような賜物を与えられるのでしょうか。直後にイエス様は女性にこうおっしゃいます。「あなたのほうでその人に求めたことでしょう。 そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」この「生ける水」がなんなのかについては後でもう少し考えますが、まずイエス様が女性におっしゃったのは、「もしあなたが神の賜物が何であるかを知るなら、あなたはその賜物を求めないといけない」ということです。神様は本当に善いお方であり、価値のない賜物を誰かに与えるようなお方ではありません。この賜物はとても価値のある賜物なのです。実際、どれほどお金を出しても買うことはできないほど、貴重なものです。しかしこの賜物は無償で、どのような代償も要求されること無く与えられるものです。この賜物が何であるか、あなたは興味がありますか。その賜物が何であるかを尋ねたいと思いませんか。もしそれがイエス様のおっしゃるように良いものであるなら、それを求めようとは思わないでしょうか。これが福音の最初の中心のテーマです。神様が「生ける水」という良い賜物を持っておられ、恵みによってそれを求めるものには全て与えられるということです。

しかし、福音の中心となる2つめの要素もあります。イエス様は女性にこうおっしゃいます。「また、 あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、 あなたのほうでその人に求めたことでしょう。 そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエス様がおっしゃっているのは、「私を知りなさい」ということです。もしあなたがイエス様がどんなお方なのか知らないのであれば、イエス様の賜物を求めようとはしません。この問いは、彼女の興味をひいたようです。会話のこの段階から、サマリヤ人の女性はイエス様にどんどん集中してきているように見えます。「あなたは、 私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。(12節)」後に、この女性はイエス様がまことの預言者であることに気付きます。しかしそれすらも、イエス様がどんな方であるかを説明するには充分ではありませんでした。イエス様は預言者以上のお方です。イエス様はキリストなのです。イエス様は約束された救い主なのです。これが、この女性の証やイエス様自身の話から多くのサマリヤ人が受け入れた、イエス様についての真の知識なのです。「自分で聞いて、 この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(42節)

神からの恵みの賜物を知り、それを信じ、その賜物を与えてくださるお方であるキリストご自身を知り、信じることで、この女性は理解をもって「生ける水」という賜物を求めることができるようになるのです。しかし、既に、彼女の理解がまだ未熟であったにもかかわらず、彼女の心のなかに信仰の種は蒔かれ、15節の段階で女性はイエス様にその賜物を求めているのです。「先生。 私が渇くことがなく、 もうここまでくみに来なくてもよいように、 その水を私に下さい。」
 C. サマリヤ人の女性に対するイエス様の福音のメッセージについて私たちが気付くべき第三の点は、イエス様ご自身がその良い知らせについて明らかに重要なものであると評価されているということです。イエス様ご自身が、水を求めて乾くことがどのようなことなのかを理解されていました。イエス様は肉体の弱さや飢え、悲しみや痛み、そして乾きという人間の弱さを共有されました。イエス様はサマリヤ人の女性に、井戸の水を飲ませてくれるように頼んだのです。しかしイエス様が強調されたのは、イエス様ご自身のみが与えることができる、それよりはるかに価値のある「生ける水」でした。女性との会話は、イエス様のからだを癒す井戸の水をイエス様が女性に求められたところから始まっています。しかし、イエス様はその水を受け取ることはありませんでした。それよりはるかに重要なテーマが、イエス様の精神や心に満ちたのです。そのテーマとは、魂の渇きを満たすことができる「生ける水」でした。13-14a節でイエス様はこうおっしゃいます。「この水を飲む者はだれでも、 また渇きます。しかし、 わたしが与える水を飲む者はだれでも、 決して渇くことがありません。」イエス様は、永遠に満たすことができるような水をお与えになることができるのです。からだはまた乾きますが、イエス様がお与えになることができる「生ける水」は、井戸や湧き水や川から汲む、からだのための水以上のものなのです。

さらにイエス様は14節でこうおっしゃいます。「わたしが与える水は、 その人のうちで泉となり、 永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエス様が与えてくださる水は、奇跡的な力のあるものです。イエス様の「生ける水」は、井戸のどんな水よりもはるかに価値のあるものなのです。イエス様は後に、公に、ユダヤ人の仮庵の祭りの際にこのことを説明されています。ヨハネ7:37-39を開いて下さい。「さて、 祭りの終わりの大いなる日に、 イエスは立って、 大声で言われた。 『だれでも渇いているなら、 わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、 聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、 生ける水の川が流れ出るようになる。 』 これは、 イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、 御霊はまだ注がれていなかったからである。」イエス様がサマリヤ人の女性に、そして信仰によって求める者全てに約束された「生ける水」とは、聖霊という賜物だったのです。聖霊は、求める者の疲れた魂を癒やし、新しい命を与えてくださるお方です。イエス・キリストに来て、キリストを信じる者はすべて、魂をきよめ、いのちを与える水である聖霊を受けるのです。そして全ての信じるものは、満ち満ちた聖霊によって満たされるだけでなく、生ける水が「湧き出て」、その信じる者から溢れ出るのです。それによって、周りの者たちもまた、その同じ御霊によって癒やされるのです。これが、イエス様がヨハネ4:14で女性に説明している水です。「しかし、 わたしが与える水を飲む者はだれでも、 決して渇くことがありません。 わたしが与える水は、 その人のうちで泉となり、 永遠のいのちへの水がわき出ます。」

イエス様が確信を持って語られるのを見、また聞いて、この女性はイエス様が本気であることに気付きます。イエス様は疲れ、渇いていました。しかし、イエス様ははっきりとした確かさをもって、イエス様に信仰を持って求める者に与えてくださる「生ける水」の価値と必要性をお語りになったのです。だからこそ、サマリヤ人の女性は、まさにそのとおりにしたのです。その女性はイエス様だけが与えたくださるものをイエス様に求めました。彼女は「生ける水」の完全な意味を理解していたわけではありませんでした。しかし、イエス様が確信を持って、そして権威を持ってこの「生ける水」についてお語りになったので、神様が彼女の受けたい賜物をお持ちであることを否定できなかったのです。そして彼女はイエス様がその賜物をお与えになることができる方であることを信じました。だからこそ、彼女はこう言ったのです。「先生。その水を私に下さい。」    

III. CONCLUSION AND APPLICATION  結論と適用

イエス様の伝道の方法は、多くのクリスチャンの手段とはかなり異なっています。ある人は注意深く選んだ幾つかの文書を繰り返すことしかできません。またある人は、福音の短い「プレゼンテーション」を聞いてくれそうな人を選ぼうとするかもしれません。そしてもしそのような人を見つけ、自分のセリフを話せば、自分の目的を達成したと感じるのです。しかしそれはイエス様の手段ではありませんでした。イエス様はまず第一にサマリヤ人の女性に対して、完全なへりくだりをお示しになりました。イエス様は、この世界の困難を共有する者として、彼女のところに来られたのです。しかしイエス様は、その女性が持っていないものを持っておられました。イエス様の心はきよい御霊で満ちており、その御霊はイエス様に困難の中での喜び、試練の中での勇気を与えたのです。にもかかわらず、イエス様はサマリヤ人の女性に対して、上から目線で語られたわけでもなく、恩着せがましく語られたわけでもありませんでした。イエス様はこの女性に、自ら神の賜物を求めてほしかったのです。そして自らイエス様にその賜物を求めてほしかったのです。アメリカの古い格言にこのようなものがあります。「馬を水の所まで連れていっても、水を飲ませることはできない。」あるクリスチャンたちは、キリストにある生ける水に他の人を連れて行くだけでなく、自分の語るメッセージを無理やり飲ませようとします。しかし、それはイエス様がお示しになった伝道の方法ではありません。むしろ、毎日祈ることからはじめ、いのちのメッセージを他者に語る機会を神様が与えてくださるように祈るべきです。神様に状況をゆだね、神様の完全な御旨に従い、聖霊が信仰の門を開いてくださることに信頼するのです。貴重な神様の賜物と、私たちの贖い主なるイエス・キリストのご人格という福音の中心を知るようにしましょう。そして、神の救いの喜びと平安を感謝しましょう。永遠のいのちにまで湧き出る水のような、あなたのうちにあるキリストの御霊以上にすばらしい賜物はありません。

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