選挙の結果

KASUMIGAOKA
2017/10/08 
SERMON:  「選挙の結果」 “Election Results”
TEXT: Matthew 16:13-24; 1 Cor. 1:10-17

I. INTRODUCTION イントロダクション

この教会の小会は長い間、長老や執事を増やす必要性について考えてきました。木谷長老のご病気もあり、しばらくの間治会長老が一人の時期も続いています。そして加藤執事も、加藤家のご高齢の方々のお世話をするために、執事の仕事を少し減らす必要があります。ですから、私たちの教会により多くの長老や執事が必要なのは明らかなようでした。小会は6ヶ月以上、この必要性について相談し、計画を建て、祈っていました。そして最終的に、みなさんご存知のように、先週私たちは教会の役員選挙を行なったわけです。選挙の結果はある人にとっては驚くべきものだったかもしれません。ある人は結果に満足しているかもしれませんし、他の人は落胆しているかもしれません。今日は、先週の選挙の結果について、そしてそこから私たちが何を学ぶべきかを考えたいと思います。

II. LESSONS TO LEARN FROM THE ELECTION RESULTS 選挙の結果から学べる教訓   

選挙の結果が私たちに教えてくれる第一のことは、私たちは常に神のご計画を知ることはできないということです。ある人は、私たちが同意して一人の長老を選ぶことができなかったり、執事に一人しか選ばれなかったということに驚いているかもしれません。しかし、覚えないといけないのは、神様は驚かれていないということです。そして神様は落胆しておられないのです。神様は、誰が選挙で選ばれるかをはっきりとご存知でした。「神を愛する人々、 すなわち、 神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださること」を忘れないでください。私たちは常に神様のご計画の細かい所を知ることはできません。しかし神様が誤りを犯されないということは確実です。先週の選挙で、神様は一人の人(岩山姉)を執事の職務に当選させられました。そして神様は長老職には誰もお選びにならなかったのです。今日、私たちはここで、全ての人生の一つ一つのことにまで主権を持っておられる神様を礼拝しています。神様は私たちが驚くようなことをなさることもあります。実際、今日私たちがここに集まっている理由は、2000年前にご自身の御子を十字架の上で死ぬように選ばれた驚くべき神の恵みによるのです。

このことは、私たちが選挙の結果を通して覚えるべき2つめのことに繋がります。それは、神様のご計画は私たちの計画より素晴らしいということです。はるか昔、神様は預言者イザヤを通してこう語られました。「わたしの思いは、 あなたがたの思いと異なり、 わたしの道は、 あなたがたの道と異なるからだ。 −−【主】の御告げ−− 天が地よりも高いように、 わたしの道は、 あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、 あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:8-9)」これを学び、覚えるのはとてもむずかしいことです。私たちは、自分が思ったように神様もお考えになることを期待しますが、そうではないのです。マタイ16章によい例があります。ペテロはイエス・キリストの正直な弟子で、イエス様を信じる真の信仰を持っていました。イエス様が弟子たちに「あなたがたは、 わたしをだれだと言いますか。」と聞かれると、ペテロは「あなたは、 生ける神の御子キリストです。」(16:16)と答えました。しかし神様のお考えはペテロの考えよりも偉大で、神の道はペテロの道より偉大だったのです。イエス様が、ご自分がエルサレムに行って、 長老、 祭司長、 律法学者たちから多くの苦しみを受け、 殺され、 そして三日目によみがえらなければならないこと」(16:21)を注意深く説明された時、ペテロは怒って神様のご計画を退けたのです。そしてペテロは主イエスをいさめたのです。ペテロは言いました。「主よ。 神の御恵みがありますように。 そんなことが、 あなたに起こるはずはありません。」(16:22)日本語訳の言葉よりも実際はもっと強い言葉でペテロは言っています。「そんなことはあなたに絶対起こりません!」しかしペテロは間違っていました。それはまさに神様がご計画されたことであり、それを神様は必ず実行されるのです。だからこそ、イエス様はペテロにこう言いました。「下がれ。 サタン。 あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、 人のことを思っている。」(16:23)

ペテロは人が思うように考えたのです。それは、ペテロの考えが小さなものだったということです。しかし、神様のご計画は、私たちの計画より遥かに大きく、神様のお考えは、私たちの考えより遥かに超えたものなのです。イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちを集めて、最後の過越の食事をされる時、弟子たちは誰も次の24時間の間に何が起こるのかを想像することはできませんでした。しかしイエス様は細かいところまで何が起こるかを既にご存知でした。なぜなら、世界の基の置かれる前から、神様がそれを計画されていたからです。神様の間違いではありません。むしろ、私たちの贖いのための、神様ご自身の完全なご計画だったのです。そしてペテロや他の人間の誰もが、罪に堕ちた人類を救うこれ以上の計画を考えることなどできなかったのです。

私たちの選挙の結果から学ぶべき三つ目のことは、選挙は「コンテスト」ではないということです。これは忘れやすいことですが、私たちはしばしば選挙というものを、対立するグループや派閥の意見の相違を解決するための手段であると考えてしまいがちです。この世の政治において、選挙は敵同士の「戦い」のようです。どちらもの側が戦いやコンテストに勝つことを望み、あらゆる武器を使って相手を傷つけようとします。わいろや詐欺によって、自分の代表を勝たせようとするかもしれません。しかし、私たちは選挙をこのようなものとして考えては行けません。選挙は、人々の意思を知るための手段なのです。選挙は、民主主義の政治において必要不可欠なものです。民主主義の観念は、もともと古代ギリシャ世界で産まれました。「民主主義」を意味する英語の「democracy」という言葉は、2つのギリシャ語の単語から来ている言葉で「一般の人による支配」という意味です。民主主義においては、国や町は上流階級の「エリート」ではなく、一般市民によって治められます。人間の罪からくるプライドによって、教養が高かったり、お金持ちだったりと言った、社会のステータスを持つ人達は、自分は他の人を支配する権利があると考えてしまいます。しかしそれは民主主義的な考え方ではありません。民主主義の目標は、「一般の人たち」の意思を知るということです。選挙の目的は、そのコンテストに勝つことではなく、むしろ、多くの人たちがどう考え、何を望んでいるかを学ぶということなのです。しかし、民主主義と、キリスト教会に置ける長老や執事選挙との間にどのような関係があるのでしょうか。私たちは、キリストが王であると言いますが、選挙で選んだ「大統領」であるとは言いません。教会は、民主主義ではなく、むしろ「王国」なのではないでしょうか。

それは正しいことです。私たちは、ご自身の御国に私たちを導いてくださった王に仕えます。イエス・キリストの教会は、厳密に言えば、民主主義の団体ではありません。しかし、教会の構造をご計画されたのは神様ご自身です。そして神様ご自身が、キリストの教会の役員を選挙で決めるように定めておられるのです。これはすぐに理にかなっているようには見えないかもしれません。教会のリーダーは他のリーダーたちによって選ばれたほうがいいのではないか?私は、神様のお考えが私自身の考えを遥かに超えているので、これは神様の知恵に任せるべきだとしか言えません。しかし、神様がはるか昔に、誰が神の民を導き、彼らに仕えるのかを選ぶ責任を一般の人達にお与えになったことは明らかです。幾つかの例があります。神様は預言者モーセを通してイスラエルにこうおっしゃいました。「あなたがたは、 部族ごとに、 知恵があり、 悟りがあり、 経験のある人々を出しなさい。 彼らを、 あなたがたのかしらとして立てよう。」(申命記1:13)イスラエルの民は、自分たちの中からリーダーを選ぶように命じられたのです。なぜ単純にモーセが彼らを選ばないのか?なぜなら、人々が選ぶというのが神様のご命令だったからです。それに、使徒6:3では、使徒たちがエルサレム教会の教会員たちにこう言っています。「そこで、 兄弟たち。 あなたがたの中から、 御霊と知恵とに満ちた、 評判の良い人たち七人を選びなさい。 私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」使徒たちは、キリストご自身が任命された、教会の最初の監督でした。だったら、なぜ単純に使徒たちが最初の執事を選ばなかったのでしょうか。繰り返しますが、彼らが従ったのは、人間の計画ではなく、神様のご計画でした。使徒たちは、教会員が彼らを導くのに誰を選ぶのかを知るために待ったのです。もう一つの例は2コリント8:19に見ることができます。この状況では、パウロは「この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けた」一人の仲間のことを言及しています。「任命を受けた」という言葉で用いられているギリシャ語は珍しいもので、聖書の中には2回しか出てきません。この意味は、この人物が「挙手で選ばれた」ということを表しています。言い換えるならば、この人は「教会によって選挙された」ということです。彼は、この職務が大変重要だったため、こういう方法で当選したのです。彼は、パウロやテトスに同行し、マケドニアとアカヤの教会での献金を運び、ユダヤの教会を支援する役割を担いました。20節でパウロは、なぜこの兄弟が加わったのかを説明しています。「私たちは、 この献金の取り扱いについて、 だれからも非難されることがないように心がけています。」この箇所で用いられている言葉は、使徒の働き14:23でもう一箇所だけ用いられています。殆どの翻訳はこの使徒の箇所では「選ぶ」と訳しています。「また、 彼らのために教会ごとに長老たちを選び、 断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。」しかし、この単語は特に、「挙手で選ぶ」、すなわち「選挙をする」という意味です。つまり、それぞれの教会が自分たちの長老を選び、それを使徒パウロやバルナバが按手によって職務につけていたようです。これらの例を全て見てきた中で分かるのは、教会の一般の信徒たち、すなわち教会員たちがリーダーを選んでいたようだということです。

これは私たちにとって変に思うかもしれません。なぜ、神様は教会の重要な決定を普通の教会員におまかせになったのでしょうか。モーセは、それぞれの部族の人たちよりも賢くイスラエルの各部族からリーダーを選べたのではないか。使徒たちは、誰が最も効果的に長老や執事として教会に仕えることができるのかを知っていたのではないか。しかし神様はこの決定を教会の普通の教会員たちに委ねたのです。これは実際驚くべきことではありません。パウロが1コリント1:26-31で書いた言葉を聞いて下さい。「兄弟たち、 あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。 この世の知者は多くはなく、 権力者も多くはなく、 身分の高い者も多くはありません。 しかし神は、 知恵ある者をはずかしめるために、 この世の愚かな者を選び、 強い者をはずかしめるために、 この世の弱い者を選ばれたのです。 また、 この世の取るに足りない者や見下されている者を、 神は選ばれました。 すなわち、 有るものをない者のようにするため、 無に等しいものを選ばれたのです。これは、 神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、 神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。 キリストは、 私たちにとって、 神の知恵となり、 また、 義と聖めと、 贖いとになられました。まさしく、 『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」なぜ神様は教会の役員を選ぶ責任を一般の教会員に与えたのか。それは私たちが罪による人間の誇りに誘惑されないためです。神様は、この世界の中で賢く、力のある人に対してのみご自身のご意思を明らかにされたわけではありません。神様がご自身のご意思を明らかにされる一つの手段が選挙なのです。知恵ある者は、神様が選挙を通して何を教えておられるかを聞くのです。          

 III. CONCLUSION 結論

先週の選挙から私たちが学べることをまとめましょう。まず第一に、選挙が私たちの期待したとおりの結果でなかったとしても、それは間違いではないということです。嬉しい人もいるかもしれませんし、落胆している人もいるかもしれません。しかし、私たちが尋ね求めていた結果を、神様はお与えになったのです。私たちは、「私たちの教会に長老や執事として仕えるために、あなたが備えられた人を示して下さい」と祈りました。そして神様は答えをくださったのです。そのことを喜び、自身を持って進んでいきましょう。このような態度は、殆どの政治の選挙の後に見られるものではありません。アメリカでは大統領選挙の結果「トランプ大統領」が誕生したことについて、ずっと今まで人々は口論を続けています。しかし、彼はアメリカの法律に基づいて、適切に大統領として選ばれたのです。アメリカの政党は愚かな口論をやめて、福利のために共に働くべきなのです。私たちはクリスチャンとして、神様が私たちの教会に仕えるために立てられた人を示してくださることに、ずっと大きい自信があるのです。神様は間違うことのないお方です。

第二に、神様が先週の選挙を通して私たちに与えられた指導は、私たちのために益するものです。神様のご計画は私たちの計画より優れています。もし神様が一人だけ忠実な執事を与えてくださるなら、その一人の執事によって神様は私たちを祝福してくださるのです。将来、また長老や執事を選ぶ選挙を行うことがあるかもしれません。しかし現段階では、神様は私たちが必要なものをまさにちょうど与えてくださったのです。神様はずっとそうしてくださったように、私たちの必要を全て満たして下さいます。そして神様は、この選挙を通して長老や執事を与える以外の方法をお持ちなのかもしれません。神様の御力によって驚くべきことが起こるのです。私たちの神様の御力と善を疑ってはなりません。私たちは神様のご計画を常に知っているわけではありませんが、それが善いものであることは知っています。

第三に、選挙は敵同士の戦いではないということを覚えなければなりません。選挙は敵や政党同士のコンテストではないのです。神様はキリストの教会の選挙を通して、教会に対する神様のご意思を学ぶ機会をお与えになっているのです。私たちを導き、私たちに仕えるために神様が整えてくださっているのが誰なのか知りたい時、教会員にそれを示すように尋ねるのです。それが選挙の目的です。選挙は神様のご計画によるもので、人間の計画によるものではありません。私たちの目標は、神様のご意思を知り、それに従うことです。だからこそ、私たちは「みこころの天になる如く地にもなさせたまえ」と祈るのです。

最後に、私たちは選挙を通して、私たちが一人の救い主、一人の主のもとにある一つの教会であることを学ばなければなりません。私たちは、政党の集まりのような、互いに競い合うような集団ではありません。私たちには一人の贖い主がおり、私たちはその御名によって洗礼にあずかったのです。私たちは、その福音を宣べ伝えるために世に遣わされているのです。その御言葉によって、私たちは命と希望が与えられたのです。その御方は教会のただ一人の主です。この主イエス・キリストが一度きり私たちのためにご自身をささげられたことによって、私たちは救われたのです。私たちの計画をはるかに超えた神様のご計画があることに感謝しましょう。私たち個人の計画が実現しなかったとしても、主イエスが今も教会を守り、建て上げてくださっていることに感謝しましょう。主の晩餐は私たちのイエス・キリストとの霊的な結合を記念する礼典です。ただ今、私たちの主キリストとの礼典的な結合を確認するために、心の備えをしましょう。

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