ダビデのゴリヤテに対する勝利

KASUMIGAOKA
2017/06/18

SERMON: 「ダビデのゴリヤテに対する勝利」 “David’s Victory Over Goliath”   

TEXT: I Sam. 17: 32-51       

I. INTRODUCTION  イントロダクション

初期のキリスト教会においては、罪と救いについてが争点となっていました。どちらの立場も人間の基本的な問題が罪であることは認めていました。しかし、ある人は、罪は人々の悪い決断の結果であると言いました。もし人間がより良い教育を受けたら、罪を犯さずに神にしたがうことを選び取ることができるというのです。一方で、人間の罪はもっと根深い問題であると言った人たちもいます。人間の罪深い心は良い教育で治すことはできない。人間の本性の全ての部分は罪によって堕落しており、人間の考える能力や理性もそうであると言います。5世紀の最初、このような2つの意見はペラギウスとアウグスティヌスによってそれぞれ教えられました。ペラギウスの見解は最終的には5世紀に行われた教会会議によって異端とされました。しかし、今日の殆どの人々、そしてクリスチャンさえも、ペラギウスのように考える傾向があります。彼らは、私たちの考える能力が罪によって堕落していることに気付かないのです。アウグスティヌスはこの人間の本性の堕落を「原罪」と呼びました。そして宗教改革の時代、カルヴァンはこのことを「全的堕落」と表現したのです。

それでは、このような人間の罪深い性質と今日の聖書箇所には繋がりがあるのでしょうか。あると思います。ペラギウスのように考えるような人たちは、人間の知性は正しい行動を自由に選ぶことができると信じます。悪い助言を受けることがない限り、私たちの知性は私たちを賢く、良いものを選ぶように導くと彼らは考えるのです。しかし、アウグスティヌスのように考える人たちは、私たちは神の御霊の助けなしには、常に義ではなく罪のほうを選んでしまうと信じます。私たちは、自分の知性を信じるのではなく、神に信頼しなければなりません。サウル王はもしかするとペラギウスのような存在だったかもしれません。サウルは自分の知恵に信頼することで良い決定をすることができると考えました。しかしダビデは違いました。ダビデの人生を診る時、彼は、他の人がほとんど選ばないようなことを選ぶ時があります。このような意味でダビデはアウグスティヌスのようです。ダビデは、自分の堕落した本性に単に従うわけではなく、神に従うことを求め、神の栄光を表すことを選ぼうとしました。これがダビデの「神の心にかなう人」(1サムエル13:14)としての特徴的な性質です。私たちのうち何人が、ダビデのように行ない、ゴリヤテと戦うことができるでしょうか。

今日、巨人ゴリヤテと若いダビデの戦いを考える中で、ここに記録されているダビデの経験を通して神様が私たちに何を教えておられるのかを考えましょう。私たちは神に信頼し、神に従うでしょうか。それとも自分の知恵や経験を信頼することを選ぶでしょうか。今日はまず最初に、ダビデの戦いへの備えについて見たいと思います。次に、戦い自体を簡単に見て、最後に結論として、私たちがこれらの教訓を、この21世紀に生きる私たちにどのように適用するかを考えたいと思っています。

II. DAVID’S PREPARATION FOR BATTLE ダビデの戦いへの備え(33-40節)

ダビデがサウル王に、ゴリヤテと戦う準備ができていることを伝えた時、明らかにダビデとサウル王は戦いについて全く異なる意見を持っています。両者ともこの戦いがいのちをかけた戦いであると理解していました。しかしサウルはこう思っていました。「ゴリヤテは普通の兵士が戦うには強すぎる。ゴリヤテは巨大でダビデは小さい。ゴリヤテは戦士として長年の経験がある。しかしダビデはまだ新米の兵士だ。ゴリヤテを一対一の戦いで倒すことは不可能だ。ダビデは必ずこの戦いに負けるだろう。」なのでサウルは33節でダビデにこう言いました。「あなたは、 あのペリシテ人のところへ行って、 あれと戦うことはできない。 あなたはまだ若いし、 あれは若い時から戦士だったのだから。」実際、人間の理性のみに立つとすれば、サウルは正しいのです。ダビデは自分の技術や力のみに頼るだけでは、ゴリヤテを倒すチャンスは全く無いでしょう。もしかするとサウル王は、ダビデの無謀な勇気は、イスラエルの軍の、より適任の戦士を勇気づけると思ったのかもしれません。ともかく、サウルの理由については聖書に述べられていませんが、サウル王はダビデがゴリヤテに挑戦することを許可したのです。

しかし、ダビデの考えはサウル王の考えとはかなり違っていました。ダビデがそびえ立つゴリヤテを見、イスラエルをあざける挑戦の言葉を聞いた時、ダビデはこう思いました。「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。 生ける神の陣をなぶるとは。」(26節)ゴリヤテは人間をあざけっただけではなく、生ける神をあざ笑ったのです。ゴリヤテがこれ以上神の御名を冒涜することを許してはならない。ゴリヤテは止められるべきだ。ダビデの考えは人間の栄光ではなく神の栄誉に注目していました。ダビデは自分がゴリヤテを自分自身の技術や力で打ち破れないことを知っていました。しかしダビデは神が助けてくださることを信頼していたのです。ダビデはその自信を37節で示しています。「獅子や、 熊の爪から私を救い出してくださった【主】は、 あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

サウルとダビデの考え方の違いは、戦いのための武器や防具についても表れています。38節では、サウル王が自分のよろいと青銅のかぶとをダビデに着けさせたと言われています。最後にダビデに剣を与えました。サウルは、ダビデが敵と同じような武器や防具を使わなければならないと思ったのでしょう。ダビデはこの防具をつけて歩こうとしましたが、自由に動けませんでした。「こんなものを着けては、 歩くこともできません。 慣れていないからです。」39節の「慣れていない」というヘブル語は「試す」という意味の言葉です。ダビデがここで言っているのは、彼がこのような武器や防具を試していないから、ゴリヤテとの戦いでこれらに信頼できないということです。そして驚く王の目の前で、ダビデは王のよろいやかぶとを脱ぎ、剣を置きました。そしてダビデは「自分の杖を手に取り、 川から五つのなめらかな石を選んできて、 それを羊飼いの使う袋、 投石袋に入れ、 石投げを手にして、 あのペリシテ人に近づいた。」(40節)ダビデは、試していない武器や防具に信頼を置かなかったのです。その代わりに、ダビデは羊飼いとして使っていた道具に信頼したのです。そしていままで危険から助けてくださった神に信頼を置いていたのです。彼は神が約束に忠実でいてくださることを「試し」、神が常に完全に信頼に値する方であることをダビデは知っていました。

III. THE BATTLE 戦い(41-51節)

ダビデは明らかに、恐るべきゴリヤテから神が助け出してくださることを信頼していました。しかしダビデは単に座って、神の奇跡を祈っていただけではありませんでした。彼はサウルのよろいを脱ぎ、石投げと5つのなめらかな石といった羊飼いの道具を取り、ダビデは巨人に相対するために出ていきました。49節で実際の戦いに移るまで、この話ははらはらする展開を見せます。第一に、ゴリヤテとダビデは短い言葉を交わします。ゴリヤテは自分の対戦相手を見て、ダビデを見くびり、自分の神々によってダビデを呪いました。ゴリヤテは、イスラエルが本当の「代表戦士」を送って来なかったのに怒っていたのです。ゴリヤテにとって、ダビデは棒を持った少年以外の何者でもありませんでした。ゴリヤテはこのような地味な対戦相手と対面しなければならず、侮辱されているように感じたのでしょう。怒りに満ちた誓いと共にゴリヤテはダビデに言います。「さあ、 来い。 おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

ダビデもまた、ゴリヤテや他のペリシテ人に聞かせる短い言葉を話しました。45-47節にはダビデの信仰告白が含まれています。この短い言葉は、神の真実と救う力へのダビデの個人的な証です。まず、ダビデはゴリヤテよりも自分が戦いに準備できていると宣言します。「ダビデはペリシテ人に言った。 『おまえは、 剣と、 槍と、 投げ槍を持って、 私に向かって来るが、 私は、 おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、 万軍の【主】の御名によって、 おまえに立ち向かうのだ。』」(45節)次に、ダビデは彼が何をゴリヤテに行うか、はっきりと宣言しています。「きょう、 【主】はおまえを私の手に渡される。 私はおまえを打って、 おまえの頭を胴体から離し、 きょう、 ペリシテ人の陣営のしかばねを、 空の鳥、 地の獣に与える。」そしてゴリヤテだけではなく、全てのペリシテ人の軍隊が完全に滅ぼされるというのです。最後に、ダビデは敵に、なぜこのようなことが起こるのかを伝えます。神がこうなさるのは、ダビデが46節の後半で言っていることが理由です。「すべての国は、 イスラエルに神がおられることを知るであろう。」神はご自身の主権と、救う力をこの戦いを通して示されます。47節は、後に書く詩篇でも繰り返し見られるテーマを述べています。「この全集団も、 【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。 この戦いは【主】の戦いだ。 主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」神にとっては、人間の武器や人間の力などは必要ではありません。神はこのような手段で神の民を救い出されません。ダビデが後に124篇で書いている通りです。「『もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。』さあ、 イスラエルは言え。 『もしも【主】が私たちの味方でなかったなら、人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、 そのとき、 彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。 彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、 そのとき、 大水は私たちを押し流し、 流れは私たちを越えて行ったであろう。 そのとき、 荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。』」「私たちの助けは、 天地を造られた【主】の御名にある。」(1-5; 8)私たちもまた、ダビデのように主に従い、信頼する時、ダビデのように「この戦いは【主】の戦いだ。」と言えるのです。この話のクライマックスは実は47節にある、ダビデの神への素晴らしい信仰告白だと私が思います。ダビデは単に主のしもべで、主の指示を実行しているに過ぎません。「この戦いは主の戦いです。」勝利は主にあり、人間にあるのではありません。

この自信に満ちた信仰告白のあと、ダビデとゴリヤテは実際の戦いに入ります。ダビデは躊躇せず、「すばやく戦場を走って行き、 ペリシテ人に立ち向かった。」(v.48)そしてその戦いはゴリヤテが武器を振り上げる前に終わりました。戦いは全て49節に記されています。ダビデは持ってきた5つの石全てを必要としませんでした。「ダビデは袋の中に手を差し入れ、 石を一つ取り、 石投げでそれを放ち、 ペリシテ人の額を打った。 石は額に食い込み、 彼はうつぶせに倒れた。」(49節)この大変な戦いはこのようにすぐに終わったのです。「こうしてダビデは、 石投げと一つの石で、 このペリシテ人に勝った。 ダビデの手には、 一振りの剣もなかったが、 このペリシテ人を打ち殺してしまった。」(51節)

IV. CONCLUSION 結論

このダビデの人生の記録の中で神が私たちに教えておられることを、21世紀に生きる私たち自身の生活にどのように適用すべきでしょうか。3つの具体的なことを思い起こします。まず第一に、私たちは自分に挑戦してくる敵について認識しなければいけません。日本に生きるクリスチャンとして、私たちは圧倒的な敵と出会います。クリスチャンは人口の1%以下で、つまり私たちの敵は私たちより100倍大きいのです。皆さんは「私の仏教徒の隣人は敵ではない」と思うかもしれません。それはたしかに正しいかもしれませんし、そうあってほしいと思います。しかし、そのあなたの隣人のいのちを支配している霊は神の敵です。イエス様は未信者の魂の支配者を「この世を支配する者」(ヨハネ12:31; 16:11)と呼びました。パウロはこれを「空中の権威を持つ支配者」、つまりこの世界の見えない力の支配者と呼びました。この支配者は力強い敵で、主イエス・キリストにつかえていない全ての人のいのちを支配する者です。この支配者は私たちをあざけり、軽蔑します。この支配者は冷酷でひどい者です。多くの人はこの支配者が無敵であると考えます。私たちのような乏しい、弱いクリスチャンが、どうやってこの力強い敵に勝つことができるのでしょうか。ダビデが答えを示しています。まず私たちは、ダビデがゴリアテに立ち向かったように、私たちの敵と向かい合わなければならないのです。神が勝利を与えてくださることを信じて、ゴリヤテに相対したダビデのようにです。

第二に、私たちが目の前の戦いに向かい合うとき、私たちは自分たちの目標を理解しなければなりません。私たちの目標はその敵を打ち破ることです。この戦いは、いのちをかけた戦いでなければなりません。ダビデのように、私たちはその敵に死を与えることで戦いに勝利しなければなりません。もちろん、私たちは人間の敵を滅ぼし、殺すために戦うのではありません。使徒パウロがエペソの教会に書いたとおりです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、 主権、 力、 この暗やみの世界の支配者たち、 また、 天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)私たちの目標は、この敵を完全に打ち滅ぼすことです。

この世の支配者との間に平和はありません。和解もありえないのです。その敵に死を与えない限り、あなたが死ぬのです。その大敵を滅ぼすことはあなたの目標であれば、この戦いのために神様が備えてくださる防具や武器を利用しなければなりません。この敵を倒し、滅ぼすことができる武器は「聖霊の剣」と呼ばれる神のみことばのみです。もし神のみことばを信頼しないなら、必ず負けてしまいます。大敵と相対する時、ダビデのようにこの世界のよろいや武器に頼ってはいけません。あなたは自分自身の知恵や知性、経験などだけに頼るなら、サウル王のよろいを着て、サウルの剣を持っていたダビデのような状態です。この世の支配者とその影響に対して戦うためには、そのようなものは無駄です。ただ自分自身の知性だけは、頼りになりえないのです。これもダビデがゴリヤテと対峙したことから学ぶべき教訓です。あなたは神のみことばを信頼し、それに従って歩みますか。それとも、自分の目に正しいと思うことを行ないますか。あなたの大敵を打ち破ることを目標としていますか。それとも、その敵との間に平和をつくりたいと思いますか。主イエス・キリストに仕える者は、肉の行いやこの世の知恵に死を与えなければなりません。悪魔と和解することはありえないのです。

最後に、私たちの恐ろしい霊的な敵と戦う時に、神に信頼しなければなりません。私たちは神に信頼し、神に従わなければならないのです。私たちが神に信頼するのは、神様のみがこの戦いに勝利できる方だからです。私たちは自分自身では勝利できません。ダビデはゴリヤテとの戦いに入るにあたり、自分の力や技術が全く不十分であることをよく理解していました。しかし、神様は決して不充分ではありません。神様にとって全てのことは可能です。実際、神様は私たちの力強い敵である「この世の支配者」にすでに打ち勝たれました。イエス様が無償でご自身のいのちを贖い主としてゴルゴタの十字架で2000年前に捧げてくださった時に、この世の支配者は敗北したのです。イエス様は弟子たちにおっしゃいました。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝ったのです。」この言葉をもう一度聞きましょう。イエス様は言われました。「私は世に勝ったのです。」この戦いは主の戦いです。あなたは主に信仰によって従いますか。日本もイエス・キリストのものです。イエス様が勝ち取られたのです。もし私たちが主に信頼し、主に従うなら、主の勝利にもあずかるのです。そして世界中が、主の勝利を知るのです。なぜなら、主のみが神なのです。

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