変えることのできない二つの事がら

KASUMIGAOKA  
2018/02/18 
SERMON: “Two Unchangeable Things”「変えることのできない二つの事がら」
TEXT: Heb. 6:11-20

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日の箇所は、神がアブラハムと結ばれた約束で始まり、神がすべてのクリスチャンと結ばれる約束で終わります。神がアブラハムに与えた具体的な約束は14節に書かれています。神はアブラハムにこうおっしゃいました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」そして15節では「こうして、アブラハムは、忍耐の末(すえ)に、約束のものを得(え)ました。」と言われています。それでは、後半の、すべてのクリスチャンとの約束とはどのようなものでしょうか。 18節と19節は、「私たちのたましいのための、安全で確かな錨(いかり)」として与えられている「前に置かれている望み」について語ります。この大きな望みは、クリスチャンとして私たちに与えられた神の約束に基づいています。この望みとは、「永遠にメルキゼデクの位(くらい)に等(ひと)しい大祭司となられた」(20節)イエス・キリストによって、私たちのために成就(じょうじゅ)された約束に基づく希望です。今日は、神が私たちに与えてくださったこの望みについて考えたいと思います。そして、ヘブル書が神の約束について何を教えているかを学ぶ必要があります。さらに、私たちの希望が失望におわらないために、キリストがどのように保証してくださるのかを考えます。ヘブル書がこれらをどのように説明しているか、それぞれについて考えてみましょう。今日の箇所はこれらの事柄(ことがら)を紹介していますが、続く5つの章で、それらはさらに展開(てんかい)されています。

II. OUR CHRISTIAN HOPE, GOD’S PROMISES, AND THEIR FULFILLMENT BY CHRIST

私たちのクリスチャンとしての希望、神の約束、そしてキリストによる成就

今日の箇所で「希望」という言葉が最初に出てくるのは11節です。ヘブル書の著者は、手紙の読者が熱心であり、希望について十分な確信を持ち続けてくれることを願っています。言い換えるならば、彼はどんな信者も怠惰(たいだ)で忘れっぽくなるのではなく、自分たちの希望に注目し続けることを望んでいるのです。それでは、彼らの希望とは何でしょうか。12節はこう言います。「それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続(そうぞく)するあの人たちに、ならう者となるためです。」この手紙の読者は、「約束のもの」が成就するのを熱心に待ち望むように勧められているのです。13-15節では、約束の成就を忍耐を持って待ち続けた、ある人物の例が示されます。それは、イスラエルの民の父祖(ふそ)であるアブラハムです。神様はアブラハムに、彼が数(かぞ)え切(き)れないほどの子孫の父となる、と約束されました。そして15節で言われているように、長い間待った後、「約束のものを得た」のです。

それでは、私たちが熱心に求め、希望を置くべき約束とは何でしょうか。18節の後半には、私たちの希望の対象に関する手がかりがあります。「前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たち」と18節は言います。つまり、私たちは、何かひどいことから逃(のが)れて来て、「前に置かれている望みを掴(つか)みたい」と願っているのです。つまり、私たちが逃れたひどいことからの「安全」または「救助(きゅうじょ)」を望んでいるのです。この「救助」、もしくは「救い」が、神様が私たちに約束してくださったものです。これが、神様が私たちの前に置いてくださった、偉大な希望なのです。すなわち、それは救いの希望です。

それでは、私たちは、何から救われることを望んでいるのでしょうか。ヘブル2章1-3節を少し見てください。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰(しょばつ)を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」私たちが「逃れる」ことを願っている恐ろしいこととは、神に対する不従順のために私たちが当然受けるべき刑罰(けいばつ)です。私たちは皆、神の律法に違反しているので、神様の「義なる刑罰」を受けなければなりません。これは恐ろしいことです。私たちが逃れようとしなければならないのは、神の裁きなのです。しかし、神様ご自身が、私たちに逃れる方法を教えてくださっています。ご自身の、おそろしく、完全に公正(こうせい)な刑罰からの「救い」の手段を提供してくださったのです。これが私たちの前に置かれた「希望」です。これが、神様の約束してくださった「救い」なのです。神の義なるさばきから逃れる希望は、他(ほか)にはありません。唯一の問題は、私たちがそれを受け入れるか、もしくは神様が教えてくださったこの偉大な救いを無視するか、ということです。ヘブル書が語るのは、もし私たちが「最後まで熱心さを示さ」ないなら、「約束のものを相続する」ことはないということです(6:12)。もし私たちの救いが、究極的(きゅうきょくてき)には私たち自身の熱心や私たち自身の「信仰」に依存(いぞん)していたなら、誰もこの希望の実現(じつげん)を見ることはできないと思います。しかし、神様は、必要なすべての助けを私たちに提供してくださいました。私たちは離れて、このような救いの偉大な希望を失うことはないために、神様は私たちに特別な励ましを与えてくださったのです。

まず第一に、特別な励ましとして神様は私たちに約束を与えてくださいました。神様がアブラハムに多くの子孫の父となることを約束してくださったように、私たちが自らの罪のために受けなければならない刑罰から救われると約束してくださったのです。さらに、神様はあることをしてくださいました。誓(ちか)いによって約束を保証してくださったのです。なぜ神様は約束についての誓いをされたのでしょうか。神様の言葉は不十分だったのでしょうか。もちろん、神様の言葉はそれだけで十分なものです。神様は決して嘘(うそ)をおつきになりません。実際、神様は嘘をつくことはできません。神様ご自身のご性質は、欺瞞(ぎまん)を許さないからです。それでは、なぜ神様は約束に誓いを加えられたのでしょうか。神様は私たちにさらに励ましを加えるために、誓いで約束を保証してくださったのです。神様がアブラハムに、多くの子孫の父となることを約束したとき、創世記15章6節はこう言います。「彼[アブラム]は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」しかし、アブラハムの信仰はあまり強くありませんでした。次の節で、神はアブラハムにカナンの地を全部与えることを約束されました。しかし、アブラハムは、神様が本当に全ての土地を与えてくださるとは信じられませんでした。それで彼は神にこう言いました。「神、主よ。それが私の所有(しょゆう)であることを、どのようにして知ることができましょうか。」つまり、アブラハムは神様の約束が信頼できるものであることを証明するための、さらなる証拠を神に求めたのです。そこで神様はアブラハムと契約を結び(創世記15:18)、祝福の意向(いこう)を繰り返されたのです。それから30年も経ってから、アブラハムは、神が与えてくださると約束された「多くの子孫」の最初の息子である、イサクの父となりました。アブラハムは信仰において、より強くなっていました。実際、神様が捧げ物としてイサクを捧げるように言われたとき、それに従うほど、アブラハムの信仰は強くなっていたのです。その時、アブラハムは既(すで)にかなり年を取っていました。それでも再び、主はアブラハムに対して、ご自身に信頼を置くように励まされました。創世記22章16節で、主の御使いがアブラハムに現れてこう言いました。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜(お)しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多(かずおお)く増し加えよう。」神様はアブラハムに必要な励ましを与えてくださったのです。そして、神様は私たちに、信仰と神に対する信頼とを、より強くするように励ましてくださるのです。

ヘブル書は17-18節でこう言います。「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、−−神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません−−前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」神様は私たちを、二つの変わらないことを通して励ましてくださいます。約束と誓いです。ここまで、神様がアブラハムに対して、どのように約束と誓いを与えてくださったのかを見てきましたが、その励ましをどのように神様は私たちに提供してくださるのでしょうか。

ヘブル書はこのことを次の7章でもっと詳しく説明しますが、今は19-20節で言われていることを見てみましょう。そこには、私たちの望みが「幕(まく)の内側に入るのです。イエスは私たちの先駆(さきが)けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位(くらい)に等(ひと)しい大祭司となられました。」とあります。すなわち、私たちの救いの希望はイエス様の大祭司として成し遂げてくださった御業にかかるのです。大祭司は、自分だけができる、非常に特別な働きを担(にな)っていました。大祭司は毎年1回、民のために、特別な役割(やくわり)を果たしたのです。贖罪(しょくざい)の日に、大祭司は主の神殿に入り、天幕(てんまく)の先の神の臨在(りんざい)のもとに入りました。そこで、大祭司はいけにえの血を、契約の箱(はこ)の「贖いのふた」に振りかけます。この行為によって、大祭司は民の罪のための贖いをしました。大祭司、そしてイスラエルのすべての祭司たちは、レビ族(ぞく)に属(ぞく)していました。しかしイエス様はユダ族(ぞく)に属(ぞく)し、ダビデ王の子孫でした。イスラエルの祭司で、ユダ族から出たと言われている人は一人もいません。ヘブル書の著者(ちょしゃ)がイエス様についてここで言っていることは、ユダヤ人からすれば、衝撃的(しょうげきてき)な主張だったのです。
どのような背景(はいけい)で、ヘブル書はこのような驚くべき主張をしているのでしょうか。答えは詩篇110篇に示されています。この詩篇の前半では、救い主キリストを、天の主なる神の右の手に座(ざ)しておられる王として描いています。しかし、詩篇の後半では、キリストは祭司として描かれています。詩篇110:4の御言葉を聞いてください。「【主】は誓い、そしてみこころを変えない。あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」主なる神は、最も権威のある方法で、すなわち、変わることのない誓いという形で、キリストが祭司であると宣言されています。しかし、キリストは「通常の」レビ族の祭司ではありません。キリストは祭司という特別な「位(くらい)」に属しています。それは「メルキゼデクの位」です。ヘブル書7章を見ていく時には、メルキゼデクの重要性について、さらに考えていくつもりです。しかしここで注目すべき重要な点は、主なる神が、イエス・キリストについて「誓い、そしてみこころを変えない。」という点です。イエス様はご自身の民のために、大祭司に任命されました。神様の特別な命令によって、イエス様は大祭司の働きを実行(じっこう)する権限(けんげん)を与えられたのです。イエス様は、ご自身の民の罪の贖いをすることによって、ご自身の働きを全うされました。イエス様はすでに天幕の後ろの至聖所(しせいじょ)に入られました。そして、イエス様はもはや他の大祭司に置(お)き換(か)えられることはありません。なぜなら、イエス様が永遠に私たちの大祭司だからです。
これらの理由から、私たちの救いの希望は確かなものなのです。私たちの希望は、最終的かつ完全な贖い主として、永遠に働いてくださるように任命された大祭司であるイエス様の、完了(かんりょう)した御業によっているからです。これはユダヤ人たちの期待(きたい)していたこととは違いましたが、誓い、そしてみこころを変えない神様のご計画であり、目的だったのです。イエス様は大祭司としての働きを完了され、いまは「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3)イエス様は義なる裁き主である神様の臨在のもとに入られ、そこで私たちのために、続けてとりなしてくださっているのです。この理由で、私たちは「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく」(ヘブル4:16)ことができるのです。イエス様は神の約束と誓いを成就されたお方です。イエス様はご自身の体と血をいけにえに捧げ、私たちの罪のために贖いをしてくださったのです。イエス様は私たちの救いを確保(かくほ)してくださいました。そして、神様の変わらないご計画と目的を成就することによって、イエス様は天の父の栄光をあらわされたのです。

III. CONCLUSION 結論

もしイエス・キリストが、神様がご計画され、お命じになったとおりに、これらすべてのことを成し遂げてくださったのだとすれば、私たちは何をすべきでしょうか。まず第一に、アブラハムのように、私たちは神様を信じるべきです。神はご自身の目的を明らかにされました。神様は、ご自身の約束を、誓いによって保証されたのです。(18節)「それは、変えることのできない二つの事がらによって、−−神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません−−前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」神様は、私たちの神への信仰を励ますために必要なことを、すべて行なってくださいます。
第二に、私たちは一人ひとりが、「前に置かれている望みを捕らえる」べきです。私たちの大祭司であるイエス様のゆえに、私たちは真の希望を持って毎日を生きることができます。私たちの罪が贖われたという認識(にんしき)の中で、私たちは安全なのです。私たちが神様に負(お)った負債(ふさい)は、キリストによって支払われました。これが、キリスト教の福音の良い知らせなのです。すべての人々にとっての、良い知らせであり、大きな喜びなのです。私たちには、全能の神の怒りから私たちを救い出してくださった、救い主がいてくださるのです。この偉大な救いを無視しないでください。神様が皆さんの前に置いた希望を、獲得(かくとく)してください。この希望を捕らえてください。今も将来(しょうらい)も、これは皆さんの人生にいける唯一の希望なのです。
そして第三に、「熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けて」(11節)ください。私たちの大祭司であり王である主イエスへの従順(じゅうじゅん)に熱心でいてください。そして互いへの愛について、熱心でいてください。ヘブル書10:23-25は、私たちが示すべき熱心さを、よく要約(ようやく)しています。「約束された方は真実(しんじつ)な方ですから、私たちは動揺(どうよう)しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧(すす)め合(あ)って、愛と善行(ぜんこう)を促(うなが)すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」 このような熱心さを最後まで示し、私たちの救いの希望が完全に実現するまで、主の力強い励ましを覚えてキリスト・イエスを仰ぎ見ながら進歩しましょう。

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