なぜ神は人となられたのか

KASUMIGAOKA
2017/11/26 
SERMON: 「なぜ神は人となられたのか」 “Why God Became a Man”   
TEXT: Hebrews 2:1-18

I. INTRODUCTION イントロダクション

今日私たちが聞くニュースのほとんどは、よくないことに関することです。自己中心で残酷で、不品行な行いが、個人や会社、国によって行われています。世界中の人々、少なくとも西洋の人たちは、「道徳的なコンパス」を失っているという状態であると言われます。それは、私たち人間の社会が、どのように行動すればよいのかという共通の基準をもはや持っていないという意味です。もちろん、全員が従うべき共通の基準を持つことに合意したとしても、その合意が、全員がその道徳的なコンパスに従うことを保証するわけではありません。そのような合意ができないことは、より深い不確実なものに根ざしています。それは、人間とはどのようなものかという不確実さです。人間という種についてどう考えるのかが、人々の生き方に影響を与えます。人間とはどのような存在なのでしょうか。現在の私たちの道徳的な混乱は、私たちが成し遂げられる精一杯のものなのでしょうか。それとも私たちは「より良い」存在になりうるのでしょうか。

人間の歴史を振り返ると、楽観主義ではいられません。そこには常に、人間というものに高い価値を認め、人間の社会を「より良く」しようとした人たちと、単純に自分の利益のために社会を支配しようとした人たちとの間の「綱引き」がありました。一方では人間には本質的な価値が備わっていると信じる人達がおり、もう一方には人間は単に実用的な価値しかなく、より強く賢い人達によって利用されるべきだと考える人達もいました。

しかし、キリスト教は人間の価値について全く異なる見解を持っています。聖書は、人間の重要性は人間自身によるものではないと教えます。私たちは、神がお造りになった完璧な被造物では、もはやありません。私たちの最初の先祖の罪によって、私たちは堕落しており、造り主なる神の完全性をあらわすことはできないのです。しかし依然として、私たちは人間として、独自の価値を持っています。それは私たちの「生産性」によるものでなく、ばからしい社会進化の教えによるものでもありません。人間は、私たちの造り主に与えられた価値を持っているのです。そして私たちは、その造り主から与えられた道徳的な基準も持っています。それは創造主自らがお造りになったもので、人間の啓蒙された理性によるものではありません。これが聖書の根本的な教えです。そしてこれはヘブル2:1-18の語るメッセージでもあります。人間は本来あるべき被造物としての姿を保ってはいませんが、歴史という「ゴミ箱」に捨てられるべき失敗作でもないのです。人間は神様にとって、特別な興味、そして愛情の対象だったのです。神の目から見て、人間はとても貴重な存在で、神は私たちを単にお見捨てにはなりませんでした。むしろ、神様は人間が本来の栄光や誉れを回復する道を備えてくださったのです。この、神が人間を救い、栄光と誉れを回復される驚くべきご計画について、ヘブル書が何を語っているのか見ていきましょう。まず、1-4節では、なぜこの救いの知らせが無視されるべきではないかについて語られます。そして5-18節でヘブル書は、人間を救う神のご計画の要約が示されます。この計画の全ては、神が私たち人間の状況に介入してくださることによるのです。

II. MAN’S HOPE OF SALVATION 人間の救いへの希望

A. God’s Unique Plan 神の独自のご計画(2:1-4)

 ヘブル2:1では、この救いの計画が警告から始められています。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」神様ご自身が啓示してくださった「救いの道」について、誰もそれを軽視してはいけません。私たちはそれを無視してはいけないのです。なぜならこれは、神ご自身が備えてくださった、唯一の救いの計画だからです。他に可能性はありません。人間の根本的な問題がここに示されます。ヘブル書1:8-9が語るように、私たちの創造主なる神は、完全な正義の神であり、義を愛し悪を憎まれます。神の律法を知らなかったから、それを破ったなどとは誰も言うことはできません。神は繰り返し繰り返し、人間がどのように生き、造り主なる神にどのように従うべきかを示してこられました。イスラエルの民は、もちろん、「預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」神の言葉を受け取りました。イスラエルは神の律法を知りながら、それを堂々と破ったのです。しかし異邦人でさえ、知らなかったから神の道徳の基準を破ってしまったということはできません。パウロはローマ書でこう書きました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。(ローマ1:20-21)」ユダヤ人であれ異邦人であれ、過去であれ現在であれ、次のことは、共通する人間の問題です。「義人はいない。ひとりもいない。…   すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10,12)。人間の長い歴史の中で神が繰り返しおっしゃってきたのは、「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた」(2:2)ということです。全ての人間が全ての世代において死んだだけでなく、全ての文明、偉大なバビロン帝国ですら、「はかりで量られて、目方が足りない」のです。これは、私たちの社会に待つ、厳粛な結果でもあります。私たちをお造りになった神は、私たちをお裁きにもなるのです。

このことを心に留める者はみな、福音の計り知れない重要性を理解するべきです。福音の「良い知らせ」とは、そこに救いの希望があるということです。私たちの深く堕落した、罪深い状態にもかかわらずです。私たちがしきりに捕えるべき、救いの方法なのです。これを「あと回し」にしてはいけません。私たちには神の救いが必要なのです。ヘブル書は、神はこれ以外にどのような救いの手段をもくださらないと語ります。私たちはみな、自分に「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」(2:3a)と聞かなければいけません。私たちは提供されているこの救いを真剣に受け取らないといけないのです。これは「最初主によって語られ」ました。つまり、神の御子ご自身によってです。そしてこの救いを「それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し」(2:3)ました。つまり、主イエスが証人として送り出された、使徒たちによってです。「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(2:4)この救いの知らせを、ますますしっかり心に留めていなければいけません。そしれ喜びを持って受け取るべきなのです。

B. Salvation Through God’s Son Jesus Christ 神の御子イエス・キリストによる救い (2:5-18) それでは、神はどのようにして、人間をかつての栄光と誉れへと回復させるこのご計画を実行に移されるのでしょう。そのご計画の概要が、5-18節で示されています。このご計画の全ては、自ら進んで「私たちと同じ人間」になられた神の御子のお働きにかかっているのです。人間に対する神の目的が、この御子によって実現するために、神の御子は私たちのような人間になられました。この箇所は、御子の受肉について、三つの視点から述べています。

まず第一に、5-9節は、どのようにして永遠なる神の御子が、へりくだって人間となられ、人間の「栄光と誉れ」を回復するという目的を達成されたかを説明しています。ヘブル書1章は、御子が力と栄光において神の御使いにはるかにまさっていることを示しました。そしてヘブル2:5-9は詩篇8篇を引用することで、神が万物を人間の主権的な保護と管理の下に置くことで、神が人間にお与えになった栄誉について説明しています。創世記1:28は、神がアダムとエバにこうおっしゃったことを記録しています。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神はこの誉れと権威を、力ある御使いにではなく、人間にお与えになりました。「御使いよりも低いもの」であるにもかかわらず、それは偉大な力と栄光の役割だったのです。人間をその主権的な権威の位置に置くことで、「神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです」(2:8)と言います。しかし、アダムとエバは神に反逆することで、この栄光に満ちた高い地位から転落します。だからこそ、8節にはこうあるのです。「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」この瞬間、人間の失敗があらわされた時、「イエス」という名前が初めてヘブル人への手紙に登場します。この名前は、ベツレヘムに生まれ、貧しさと暗さの中に育った一人の人間に与えられた名前です。9節では、この人間、すなわちイエス様が、「御使いよりも、しばらくの間、低くされた」と語ります。しかし、イエス様はいまや、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」私たちが理解すべき重要な点は、イエス様は「御使いよりも低くされた」立場を、神様が人間に対して持っておられた、もともとの目的を達成するためにお取りになったということです。イエス様というお方は、アダムが失敗したことを達成するために、へりくだって人間となられたのです。イエス様は地上で御父に栄光を帰されました。そして父なる神はイエス様を、御使いを含む全ての被造物よりはるかに高く上げられ、栄光と誉れの冠をお与えになったのです。

そしてヘブル書は、受肉についての二つ目の点を10-13節で語ります。この箇所では、イエス様がお救いになる者たちとご自身との間に立ててくださる、家族の関係性について焦点を当てています。受肉された御子は、人間の完全な代表になられました。なぜなら、彼は人間の人生の「必要な要素」を全てご経験されたからです。受肉された御子であるイエス・キリストは、お救いになる全ての者たちの本当の「兄弟」になってくださいました。10節では、神様は、救いの創始者であるイエス様によって「多くの子たちを栄光に導く」と言います。そして11節では、主イエスは「彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあり、12節でも、「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。」とあります。重要な点は、御子が完全に人間の家族となってくださり、人間が受けるべき苦しみや悲しみを受けてくださったということです。人間の家族の一員として、私たちも互いの重荷を負い合うことを学ぶのです。イエス様は私たちの病を担って下さいました。私たちと同じ弱さを味わってくださり、全ての人間が経験しないといけない飢え乾きや、肉体の病や痛みに耐えてくださったのです。マタイ8:17にはこうあります。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」言い換えると、イエス様は人々の病を癒されたにもかかわらず、ご自身でその痛みを味わわれたのです。このことによって、イエス様は人間の「兄弟姉妹」に対して本当の同情をすることができるようになるのです。なぜなら、イエス様ご自身が私たちの肉体の苦しみをご経験されたからです。ヘブル書の10節はこう言います。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」御子は常に道徳的に完全であり、だからこそ、他の人間と一緒に苦しみを通して道徳的に完全になったわけではありません。これは、イエス様が私たち人間と同じように苦しみを経験されることで、人間を代表するのに完全にふさわしい者になられたという意味だと思います。

11節には、ヘブル書が説明するもう一つの重要な点があります。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」イエス様は、私たちを神の家族に迎え入れるために、私たちを聖としてくださいました。イエス様は私たちを、かつての、みじめで罪深く、孤立した状態のままにはしておかれません。イエス様は私たちを「聖なる民」としてくださるのです。罪だらけの状態でだれも聖なる神様との交わりを持つことは出来ません。でも主は、私たちを、「再生」と呼ばれる霊的な方法を通して(私たちを新しく生まれさせてくださることによって)、神の家族として迎えて下さいます。ローマ8:29はこう言います。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」そしてへブル2:11b-12で、「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』」イエス様は人の子として、ご自身の兄弟姉妹を神の家族へと導かれます。イエス様は家族に対して、神様を知り、神様を礼拝することをお教えになります。実際、ヘブル書は私たちに、私たちが礼拝する時、(今この礼拝の時にしているように)、イエス様ご自身が私たちとともに礼拝してくださり、聖書を通して語ってくださり、私たちの声を通して父なる神に賛美を捧げてくださるのです。キリストはこの家族の長男であり、ご自身が常にそうされたように、私たちが神様に信頼を置くように導いて下さいます。私たちが神様を自分の「お父さん」と呼ぶ権利を与えてくださいます。全ての人が、この「クリスチャンの家族」としての生活を理解するわけではありません。これは信仰と愛のきずなであり、神が選ばれた、イエス・キリストに信頼を置く人のみが経験することができるものです。イエス様が13節で言われるように、「神が御子に賜った子たち」だけが、御子イエス様が獲得してくださる、神との完全な平和を知ることができるのです。

今日の箇所の最後の部分である2:14-18は、御子が人間となることで、私たちの死の身代わりになってくださったということを語ります。血と肉を持つ者のみが、この堕落した世界における人間の人生の最後の行為を経験することができます。それはもちろん、死ぬということです。ヘブル書は9:27でこう言います。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」御子は次の理由で人間となられました。それは、人間として死ぬためにです。しかし人間としてのイエス様の死は、他の全ての人間とは異なる点があります。それは、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼす」(14節)ということです。「死の力」とは何でしょうか。1コリント15:56は「死のとげは罪である。」と言っています。イエス様は私たちの代わりに死なれた時、この「とげ」を感じられたのです。イエス様は、この「死の力」、すなわち私たち全ての不義に対する神の怒りを経験されたのです。イエス様は、この痛みを担われました。「永遠の苦しみ」や「地獄の炎」とも表現される苦痛です。イエス様はこの罰を、私たちのために受けてくださったのです。私たちが自分自身でそれを受けなくても良いようにです。ヘブル書は15節で、御子が私たちのような人間になられたのは、その死によって私たちが悪魔の力から解放されるためだったとも言います。悪魔、もしくは「サタン」は誘惑する者であり、「兄弟たちの告発者(黙示録12:10)」とも言われます。私たちがサタンの誘惑に陥る時、サタンは私たちが神に対して犯した全ての罪を告発するのです。私たちが神の天の御国の栄光ではなく、この世の人生の楽しさを求めるように誘惑するのはサタンです。この理由で、多くの者はサタンの奴隷となり、この人生に縛られ、死んだ後に何が待ち受けているのかを恐れるのです。しかし、死は最終的に私たち全てにやってきます。その時が来ると、御子だけがご自身の永遠の王国の喜びと栄光に、あなたを安全に導いてくださるのです。主の者にとって死は恐るべきものではありません。パウロが言ったとおり、むしろ、「死ぬことも益(ピリピ1:21)」なのです。

この2章の最後の部分は、ヘブル書の最も重要なテーマに私たちを導きます。それは御子の祭司としての務めです。私たちの大祭司として、イエス様はご自身のいのちを、贖いのいけにえとして私たちの罪を覆うために差し出されたのです。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」このイエス・キリストの大祭司としての御業は、次週以降にヘブル書を続けて見ていく時に学んでいくことになります。   

 III. CONCLUSION 結論

このヘブル書2章は、福音の広いまとめを含んでいます。この世界の悲惨や混乱から私たちが救い出される希望があるのです。しかし、その希望は、私たちが自分自身のために何かできることにかかっているわけではありません。私たちの救いは、神の御子なるイエス・キリストの御手によるのです。イエス・キリストは、私たちにかつて神が意図された栄光と誉れを再び戻してくださるために、人間となってくださいました。イエス様を信じ、信頼を置きましょう。それが神の意図されたことであり、私たちの唯一の希望です。この福音を決して忘れてはいけません。

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