神は愛です

KASUMIGAOKA 2017/04/09
SERMON: 「神は愛です」 “God Is Love” TEXT: 1 John 4:7-21

I. INTRODUCTION: 愛―誤解されるテーマ
   「愛」というものは誤解されるテーマです。多くの人は「愛」ということばを聞くと、すぐにロマンスを思い浮かべます。彼らにとって、愛はロマンスと等しいのです。しかし「愛」ということばは、異なる文化の中でさまざまに用いられることばです。例えば、家族の中にも愛があり、親子の間に愛があり、兄弟姉妹の間にも愛があります。アメリカでは、「愛」はよく生き物以外の物や活動を「好んでいること」を表す表現として用いられます。野球のファンは、「アイ・ラブ・ベースボール」、「私は野球を愛している」と言うかもしれませんし、「桜を愛している」、「お好み焼きを愛している」という人もいるかもしれません。
   しかしこのヨハネの手紙の7節を読むとき、私たちはどう思うでしょうか。ヨハネはこう言います。「愛する者たち。 私たちは、 互いに愛し合いましょう。」ここで「愛し合いましょう」と言われているのは、どういうことでしょうか。もちろん、女性に対してプロポーズをしているわけではありません。ロマンチックな愛について語っているわけではないのです。しかし、生き物以外の物や活動に対して「愛」ということばを使っているわけでもありません。ヨハネは人々に、彼を愛するように、そして互いに愛し合うように求めているのです。先週私たちは3:23を読みました。そこでヨハネはこう書いています。「神の命令とは、 私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、 キリストが命じられたとおりに、 私たちが互いに愛し合うことです。」「互いに愛し合うこと」は神の命令です。「愛」が単なる感情の反応ではなく、意識や体の行動であるからこそ、この命令は意味が通るのです。もし私の息子がほうれん草を食べたくないと言ったら、私は息子に「ほうれん草を食べなさい」という事ができます。なぜなら、「食べること」は息子が私の命令を守るために息子が行うことができる行動だからです。しかし私は息子に「ほうれん草を好きになりなさい」と言うことはできません。ほうれん草に対する息子の感情の反応は、彼の意識がコントロールできるものではないからです。
   ヨハネが「愛する者たち。 私たちは、 互いに愛し合いましょう。」というとき、彼は手紙の読者に、互いをある方法で取り扱うように求めています。それは、家族の愛という発想に最も近いかもしれません。ヨハネはこの手紙の読者を「愛する者たちよ」「子どもたちよ」と呼び、教会のメンバーのことも「兄弟姉妹」と呼んでいます。しかしヨハネはこの手紙を自分自身の家族、つまり親や子どもたちや兄弟に書いているわけではありません。ここでヨハネが与え、求めている愛は、家族の中の愛情以上のものです。家族の中の愛は時には失敗します。ちょうどヨハネが3:11-12で言及したカインとアベルの話のようにです。兄弟愛とは違い、ヨハネがクリスチャンの間に求めている愛は、尽きることのない愛です。特別な愛です。ヨハネは今日の箇所で2回もこう言っているほど、これは特別な愛なのです。8節、16節で「神は愛です。」と言っている通りです。
   今日は、まず第一に、神と愛を等しいものとする、とても奇妙な命題について考えたいと思います。「神は愛です」というヨハネの意図はなんなのでしょうか。そして次に、7-16節で神がどのようにしてその愛をお示しになるかということを考え、最後に17-21節で、神の愛が神の民にもたらす結果について見たいと思っています。

II. THE MEANING OF “GOD IS LOVE” 「神は愛です」という意味
 
ヨハネは8節でこう言います。「愛のない者に、 神はわかりません。 なぜなら神は愛だからです。」そして16節ではこう書いています。「私たちは、 私たちに対する神の愛を知り、 また信じています。 神は愛です。 愛のうちにいる者は神のうちにおり、 神もその人のうちにおられます。」最初の所では、ヨハネは消極的に考えを述べています。愛さない者は神を知らない。なぜなら神は愛だからです。ある人達はこの箇所を、「他人を愛することで、神を知ることができるようになる」と理解します。しかし直前の7節はこの解釈を否定します。「愛のある者はみな神から生まれ、 神を知っています。」言い換えるならば、「新しく生まれ」、「神を知っている」者でなければ、他人を愛することは不可能であるということです。神との関係がまず第一にある必要があり、そうしないと誰も他人を愛することはできません。7-8節を通して読むと、適切に他人を愛するためには、まず第一に神を知り、神からの賜物である新しいいのち、新しく生まれることを経験する必要があるということです。16節の「神は愛です」という箇所も、他人を愛する愛の源は神ご自身の中にあるということを言っています。神が私たちに示してくださった愛を知り、それを信じることで、私たちは神のうちにおり、神が私たちのうちにいてくださることを通して、私たちは「愛のうちにいる」ことができるのです。
  「神は愛です」という表現の主な意味は、神の愛が人間に神様のご性質を明らかにするということです。神を知ることによって、私たちは愛を知り、神の愛を他者に示すようになるのです。別の方法で「神は愛です」という表現を考えてみましょう。ウエストミンスター小教理問答の問4を覚えていますか。「神はどのような方であるか」という問に対する答えはこうです。「神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」小教理問答はヨハネの「神は愛です」という定義に言及すらしません。どうしてでしょうか。おそらくそれは、これが同じことを表しているからだと思います。神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の愛を示される。神の愛は、神の完全な善の伝達手段です。神の愛は、神様の完全のご性質を私たちに明らかにするための手段なのです。神の愛は神のうちに瓶詰めされて保管されているわけではありません。神はご自身の愛を明らかにされるのです。神は私たちへの愛を、その御言葉と御業のなかに示されるのです。「神は、 実に、 そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。(ヨハネ3:16)」「しかし私たちがまだ罪人であったとき、 キリストが私たちのために死んでくださったことにより、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)」
   このように神がまず私たちを愛してくださった愛で、あなたが愛する人がいるでしょうか。あなたの妻や夫をこのように愛しているでしょうか。子供をこのように愛しているでしょうか。彼氏や彼女をこのように愛しているでしょうか。神があなたを愛されたように、あなたが愛する誰かがいるでしょうか。どうしていないのでしょうか。なぜなら、私たちの人としての性質は罪の影響を受けているからです。自己中心、虚栄、貪欲、嫉妬、不品行、無慈悲などです。私たちは神ほど善い存在ではないので、神が愛するように愛さないのです。神から離れては、私たちは完全な愛を知る手段がありません。しかし神は私たちにご自身の愛を示してくださったのです。

III. HOW GOD SHOWS US HIS PERFECT LOVE (9-16節)
 
9-16節でヨハネは、神がどのようにご自身の愛を私たちに示されたのかについて説明しています。「神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。 ここに、 神の愛が私たちに示されたのです。」愛の本質は「受ける」ことではなく「与える」行為であると言われています。神は私たちにいのちを与えるために、御子を遣わすことで私たちにご自身の愛を示されたのです。「その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。」これは人類にとって自然なものではありません。たしかに、母親はその子供を愛し、その小さな命を育て、悪を行うことではなく、善を行おうとするでしょう。そういう意味では、子供を愛する母親の愛は、民を愛される神の愛に最も近いものかもしれません。しかし母親の愛ですら完全ではないのです。母親ですら、ひっきりなしに子供が泣くと、疲れ、忍耐を失い、いらいらするのです。しかし神は決して疲れること無く、いらいらすることなく、神の愛は絶えることがないのです。
   このような愛を神様が私たちに示してくださったからこそ、私たちは新しい愛を理解することが可能になるのです。それは超自然的な愛であり、家族の愛よりもすぐれた愛です。ヨハネは10節でこう言います。「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」もしあなたが「愛」を知りたいと思うなら、恋愛の小説やマンガで見つけようとしてはいけません。映画からでもありません。完全な愛をあなたの周りの世界から見つけようとしてはいけないのです。その代わり、神がイエス・キリストを遣わされたことを通して示された愛を見ましょう。愛は受けることではなく与えることである、と先程申し上げましたが、イエス・キリストが私たちから受け取られるものがあります。それは私たちの罪です。イエス様は私たちの罪をその身に引き受けられ、十字架の上で死なれたのです。イエス様は私たちの罰を引き受けてくださったのです。イエス様が私たちの罪と死を引き受けてくださったからこそ、イエス様は私たちにいのちを与えてくださったのです。これがヨハネが10節で言っていることです。ここに愛があるのです。11節。「愛する者たち。 神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、 私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
   ここに進展が見られます。まず、私たちは神の愛がどのようなものであるか学ばなければなりません。そして、その後に私たちは同じように他者を愛することを始めるべきなのです。これがヨハネが語っている、キリストの命令なのです。イエス様は弟子たちに、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」これは従うのが不可能な命令であるように見えます。しかし、私たちは神が私たちを愛してくださったように他者を愛するために、自分自身の善さや力に頼る必要はないのです。ヨハネは12-16節で、神様ご自身が私たちを助けてくださると語ります。「いまだかつて、 だれも神を見た者はありません。 もし私たちが互いに愛し合うなら、 神は私たちのうちにおられ、 神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」神が私たちを愛したように他者を愛することを私たちが決意する時、神ご自身が私たちのうちにいてくださるのです。神の愛を他者に示すのを御霊が助けてくださるのです。神様が私たちのうちに働いてくださり、助けてくださるということを私たちが知ることができる、2つの方法があります。まず一つ目は、私たちがイエス・キリストが神の御子であると告白することです。そして第二に、私たちへの神の愛を信じ、私たちが同じように他者を愛することを神が助けてくださることを信じることです。16節。「私たちは、 私たちに対する神の愛を知り、 また信じています。 神は愛です。 愛のうちにいる者は神のうちにおり、 神もその人のうちにおられます。」私たちが自分自身で成し遂げられないことも、神様が私たちのうちで成し遂げてくださるのです。

IV. THE RESULTS OF GOD’S LOVE IN US (17-21節)私たちのうちの神の愛の結果
 
ヨハネは、神の愛が私たちの生活のうちに大きな変化をもたらすと語ります。まず第一に、神の愛が私たちのうちに完全なものとされ、私たちは、「さばきの日に大胆さを持つことができる」と語ります。私たちのうちの神の完全な愛が、神のみ前で大胆さを与えてくださるのです。完全な愛は恐れを追放します。12節のように、ヨハネは私たちのうちで働く神の愛について語ります。私たちは生きている限り、私たちの神への愛、そして他者への愛は成長し、他の人に届き、多くの人を取り囲むべきです。私たちの愛はまだ完全ではありません。しかし私たちへの神の愛は既に完全であり、神の愛は完成し、なにも欠けるところがありません。神の愛が私たちのうちにある時、私たちはもはや罰せられることを恐れる必要はありません。ヨハネは、御父の前で弁護する方、すなわちイエス・キリストのことを既に私たちに語ってくれました。2:2でヨハネは、イエス様は私たちの罪のための「なだめの供え物」であると語りました。このことばが4:10で再びイエス様を表すために用いられます。神が私たちを愛されたので、神は御子を私たちの罪のための「なだめの供え物」として私たちに与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を取り去り、彼の義を私たちに与えてくださいました。それは、私たちがさばきの日に、キリストにあって大胆さを持つためです。使徒パウロはクリスチャンが「キリストを着た」、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、 新しい人を身に着た。」と書きました。(ローマ13:14; ガラテヤ3:27; エペソ4:24)ガラテヤ2:20ではパウロはこう書きます。「私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が肉にあって生きているのは、 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」短く言えば、聖書は私たちがキリストを信じる信仰を通して義と認められた、と語ります。神様が私たちをご覧になる時、イエス・キリストの義をご覧になるのです。おそらく、これがヨハネが17節を書いた理由でしょう。「このことによって、 愛が私たちにおいても完全なものとなりました。 それは私たちが、 さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。 なぜなら、 私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」私たちは、キリストが彼の完全な愛を信仰によって私たちのうちにおらせてくださることで、「キリストと同じような者」となるのです。私たちへのキリストの完全な愛が、恐れを追い出し、神のみ前で大胆さを満たしてくださるのです。
   もう一つ、神の完全な愛を知ることによる重要な結果があります。ヨハネは20-21節で、私たちのうちの神の完全な愛が、憎しみを追い出すと語ります。恐れと憎しみはしばしば同時に起こります。しかし、神の愛はその両方を私たちの生活から追い出すのです。もしあなたがキリストを通して神が示された愛を知っているなら、あなたは神を愛するはずです。そしてあなたは他者を愛し始めるはずです。なぜでしょうか。まず、あなたが愛すると言う神があなたに他人を愛するように命じておられるからでしょう。しかし、そこにはもっと深い理由があります。もし神の御子があなたのうちに住まわれるなら、そこに憎しみの入る余地はないのです。神は愛なのです。神の御業はすべて愛の御業です。そしてあなたもまた、神の作品なのです(エペソ2:10)。「だれでもキリストのうちにあるなら、 その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、 見よ、 すべてが新しくなりました。(IIコリント5:17)」愛である神があなたのうちに住まわれる時、兄弟を憎むことは、過ぎ去るべき「古いもの」です。IIコリント5:14でパウロは「というのは、 キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と書きました。キリストの愛があなたのうちにあるとき、あなたは兄弟や、その他のどんな人をも憎むことができなくなるのです。「難しい」人や敵を見る時、あなたは自分自身がそうであるように、その人にも神の愛が必要であると思うのです。あなたはその人に善い行いをしたいと思うはずです。なぜなら、そのことを通して私たちは神の愛を、行ないと真理によって示すべきだからです。憎しみは過ぎ去らなければなりません。なぜならキリストの愛が来たからです。

V. CONCLUSION 結論
 
最後に、エペソの教会に対してパウロが祈った祈りを、説教の締めくくりに祈りたいと思います。おそらくヨハネもこの手紙をエペソ教会に送ったでしょう。「どうか父が、 その栄光の豊かさに従い、 御霊により、 力をもって、 あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 こうしてキリストが、 あなたがたの信仰によって、 あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。 また、 愛に根ざし、 愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、 その広さ、 長さ、 高さ、 深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 こうして、 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、 あなたがたが満たされますように。」アーメン。

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