キリストによる豊かないのち

KASUMIGAOKA  
2017/12/24 
SERMON: 「キリストによる豊かないのち」  “Abundant Life in Christ”  
TEXT: John 10:1-10    

 I. INTRODUCTION

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を記念するものとして、世界中で祝われています。多くのクリスチャンでない人たちでさえ、これは当然のことだと考えます。なぜなら、イエス様は非常に影響力のある人であり、キリスト教の創始者だったからです。アメリカの大統領や日本の天皇の誕生日を祝うなら、ナザレのイエスの誕生日をなぜ祝わないのか。多くのクリスチャンは、マタイとルカの福音書に記されているイエス様の誕生の話を振り返ってクリスマスを祝います。今日は、なぜイエス様が私たちの世界に来てくださったのかを考えてみたいと思います。イエス様ご自身は、ヨハネ10章10節でこうおっしゃっています。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

この意味を考えたことはあるでしょうか。イエス様が来て、私たちに授けてくださった「豊かないのち」とは何でしょうか。この間、私は自分の人生のグラフを描くように頼まれました。人生の重要な「上り」と「下り」をグラフに描きました。そのグラフを見ると、一つのことが明らかでした。私の人生は最初から今に至るまで、直線ではなかったのです。皆さんのほとんどは、自分の人生について同じことを発見するでしょう。喜びや平安、満足を感じる時もあれば、不安や悲しみ、落胆を感じる時もあります。それでは、私たちの生活に幸せと満足をもたらすのは何でしょうか。イエス様は、私たちに、考えうる最高の人生、「豊かないのち」をもたらすために来られたとおっしゃいます。イエス様が私たちに与えてくださる、この「豊かないのち」とは何でしょうか。このことについて考えつつ、イエス様の言葉をもっと詳しく見ていきましょう。この「豊かないのち」が何であるかを理解していない限り、なぜイエス様が来てくださったのか、なぜ皆がイエス様の誕生を覚えているのかを理解することはできないのです。

II. “SOMETHING” THAT EVERYONE NEEDS 皆が必要な「なにか」

イエス様はおっしゃいました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ビートルズはかつて「All you need is love!」「あなたが必要なものはすべて愛だ!」と歌いました。これはキャッチーなメロディーと歌詞でしたが、明らかに真実ではありませんでした。人生では多くのものが必要です。誰もが何かを求めています。私たちは皆、食べ物や水、衣類や住む場所など、物理的な必要を抱えています。薬やその他の医療が必要な場合があります。しかし、私たちの物理的な必要のほかに、感情的、心理的、そして霊的な必要があります。私たちが悲しくなったり怖がったりすると、慰めてくれる家族が必要になります。私たちが孤独を感じる時、友達が必要になります。しかし私たちは時折、自分が最も必要とするものを理解していないことがあります。何かが私たちの必要を満たし、虚しさを埋めてくれると考えるかも知れませんが、それが私たちを満たしてくれないことに、後で気付くのです。預言者イザヤは、はるか昔、このことについて書きました。主なる神は、イスラエルの民に対して預言者を通してこう語りました。イザヤ55:2。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」この箇所は、肉体のためのパンや食べ物について言っているわけではありません。むしろ、神様との永遠の交わりにおける、いのちの豊かさについて語っているのです。次の節であるイザヤ55:3は、このことを確かめています。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」神はご自身の存在で私たちのいのちを満足させ、私たちに平安と喜びを与えてくださいます。それは、たとえ必要性を認識しなくても、すべての人々が必要とするものなのです。

今日のヨハネの箇所のすぐ前の箇所は、「豊かないのち」についてイエス様がおっしゃっていることを理解する背景を私たちに与えてくれています。ヨハネ9章には、イエス様が盲人を癒やす、有名な話が記録されています。盲目の人は、幸せで豊かないのちのために何が必要か理解していると思うかも知れません。もちろん、その人は見ることができるようになる必要がありました。しかし、この男の人の状況は通常とは異なっていました。彼は生まれつき盲目だったのです。彼は自分の目で何も見たことがありませんでした。花や青い空、壮大な山、緑の畑、美しい夕日を見たことがなかったのです。彼は自分が経験したことがない、あるいは想像したことのないようなものを、どうして望むことができるでしょうか。彼は視力を得る必要があることを知らなかったのです。それにもかかわらず、イエス様は彼に必要なものを与えました。彼に見るための目を与えたのです。イエス様が彼の目を開かれて初めて、彼はすべてをはっきりと見ることができました。

イエス様が私たちに与えてくださる豊かないのちは、ある意味で、この目の見えない人に与えられた視野のようなものです。私たちがそのいのちを体験し始めるまでは、それがどれほど素晴らしいものなのかを理解することができないのです。私たちは自分たちに何が欠けているのか分かりません。イエス様が癒した人は、彼が人生を通して必要としていたものを、この瞬間に理解したのです。イエス様が彼に必要なものを与えられたことを、彼は理解していました。パリサイ人がイエス様について彼に尋ねたとき、その人はこう答えました。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)イエス様が彼を癒したとき、その瞬間に彼は、自分が目が見えなかった時に何を必要としていたのかを理解しました。そして彼は、イエス様が彼に与えた賜物がどれほど素晴らしいものかを理解しました。イエス様は新しいいのち、豊かないのちを彼に与えたのです。そして、イエス様が彼に見るための目を与えることができたとすれば、もっと大きなものもお与えになることができたのです。生まれつき盲人だったその人は、今や見ることができ、そしてイエス様がキリスト、すなわち彼の救い主であることを信じ、彼を拝したのです(9:38)。

この盲人の癒しの奇跡を目撃した人が他にもいました。しかし、彼らは、見ることができるようになった人の喜びを共に分かち合いませんでした。彼らはイエスを信じたり信頼したりしませんでした。パリサイ派はユダヤ教の中でもっとも「義なる」宗派であると考えられていましたが、彼らはイエス様が盲人に与えたものを受け取ることができなかったのです。イエス様は、彼らの罪深さを「盲目」であると言いました。この盲人のためにイエス様が行ったすばらしい御業を見ても、自分たちのためにイエス様に何も求めなかったのです。もしパリサイ人がイエス様に、彼を信じるように助けを求めたとしたら、イエス様は彼らを助けることができたでしょう。しかし、彼らはイエス様に助けを求めることはしませんでした。彼らはイエス様からはなにも受け取る必要がないと考えたのです。最後にイエス様はパリサイ人にこう言われました「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです(9:41)。」

イエス様は全ての人が必要とするものをお持ちですが、皆が、自分がそれを必要としていることを理解しているわけではありません。イエス様に従う者だけが、イエス様の賜物がどれほど偉大であるかを学ぶのです。もし皆さんがイエス様に従うならば、神の御国を見るための目と、その御国の民としてのあなたの新しいいのちの中で、喜ぶ心を与えるでしょう。しかし、イエス様を信頼して従う者だけが、与えられた豊かないのちを経験することができるのです。

III. NEW LIFE IN GOD’S COVENANT LOVE 神の契約の愛における新しいいのち

ビートルズは1つのことについてはほとんど正しいと思います。それは、「愛」なしでは完全で、豊かないのちを楽しむことは不可能である。つまり誰かとの関係性が必要であるということです。しかし、人生における永遠の充実感をもたらすのは、単に他の人との関係性ではありません。ヨハネ10章では、豊かないのちとは神に信頼を置くいのちであるとイエス様は説明しています。この箇所で、イエス様は、羊の群れと羊飼いの関係に基づいて、旧約聖書で頻繁に見られるたとえをお用いになっています。1-10節で、イエス様は、羊が羊飼いをどのように信頼しているかについて考えるように、パリサイ人に言います。この信頼に基づいて、羊は羊飼いに従い、羊飼いが与える豊かないのち、もしくはみどりの牧場を楽しむのです。

イエス様がこのたとえで最初に示している点は、群れの安全の必要性です。 1-5節でイエス様は安全な羊の囲いを描いています。通常、羊たちは、毎晩出入り口が1つしかない囲いの中に集められ、羊飼いがその門を守ります。このようにして、羊は野生の獣や人間の盗人から守られたのです。イエス様は、羊飼いは正しい門を通って囲いの中に入ると言いますが、他の者達、すなわち他のところから入ろうとする盗人や強盗がいるともおっしゃいます。そして本当の羊飼いは、羊だけではなく、門番からよく知られ、信頼されていています。なので、羊飼いが来ると、3節にあるように、「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」本当の羊飼いと盗人との対比は、羊と羊飼いとの間の親密で信頼で結ばれた関係を強調します。羊は彼の声を認識し、彼に従います。一方、彼はそれぞれの羊を知っていて、名前で呼びます。羊飼いの存在によって、羊は安心するのです。「しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」羊飼いと羊との間のきずなは、羊たちを一つの群れとして本当の羊飼いと結びつけ、本当の羊飼いと偽りの羊飼いとを区別するのです。6節はこう言います。「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」

イエス様はそれゆえ、彼らにたとえの意味を説明しようとされます。イエス様の最初の言葉は、パリサイ人がイエス様の言葉の意味を理解することがどれほど重要であるかを示しています。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。」そして9節でも、イエス様は「わたしは門です。」と繰り返されます。ある聖書学者たちは、イエスは自分自身が自分の身体で羊の囲いを守る羊飼いだということをおっしゃっていると考えます。もし羊飼いが入り口に自分の体を置くと、羊飼いの許可がなければ、誰もそこから出入りすることができません。イエス様がパリサイ人たちに説明していることは、明らかです。それは、イエス様は自分の命を危険にさらしてでも、ご自身の羊のいのちを守られるということです。しかしイエス様は、敵から守るために見守っている羊について話しているわけではありません。イエス様は、彼に信頼を置くすべての人々をどのように守られるのかについて話しておられるのです。イエス様は彼に従う一人ひとりをご存じです。そして、彼はご自身の民を守るために、必要なことはなんでも行なってくださるのです。

しかし、イスラエルの初期のリーダーの場合はそうではありませんでした。エゼキエル34章の段階で、イスラエルのリーダーたちは、自分の群れを捨てて、それを野生の獣の危険にさらした不忠実な「羊飼い」と表現されました。そのようなかつての「羊飼い」たちは自分自身のためだけに気を配りました。それゆえ、エゼキエル34:2-5節ではこう言われます。「イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。」しかし、イエス様はこのようなかつてのイスラエルのリーダーたちとは違います。8節でイエス様はこう言われます。「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。」イエス様の声を聞いて信頼し、従う者は安全なのです。その者たちはイエス様に従い、満足する牧草を見つけます。イエス様が用いられている言葉は、詩編23篇のダビデの言葉を思い起こさせます。「【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」イエス様は10節でこう結論づけています。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

これがイエス様が世に来られたことの理由です。これが神の御子の受肉の理由です。イエス様は、ご自身の善と恵みと真理で私たちのいのちを満たすために来てくださったのです。イエス様は、私たちがいつも望みつつも、決して想像することのできないいのちを、私たちに与えるために来てくださったのです。そして最も重要なことは、イエス様は私たちを神の御国の安全の中に入れるために来てくださったのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」すべての喜びと平安の中のこの「永遠のいのち」は、イエス・キリストを信じる人のためのものです。これは、イエス様に希望と信頼を置く私たちのための賜物なのです。

IV. CONCLUSION  結論

この単純なたとえの中で、イエス様は次の3つのことを説明しています。まず第一に、イエス様だけは私たちに与えることができる、豊かないのちがあります。この世界では、神様が私たちに楽しむために与えてくださる喜びや平安の、わずかな影が見え、かすかな響きが聞こえるだけかもしれません。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(Iコリント2:9)。それはイエス様が皆さんに提供してくださる「豊かないのち」なのです。

第二に、イエス様だけが私たちを守ることができるような、危険や敵があることを認識しなければなりません。イエス様が私たちを守り、安全に保ってくださるので、私たちはダビデとともにこう言うことができます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩編23:4)。イエス様はご自身のいのちをかけて私たちを守ってくださるので、私たちは永遠のいのちを持ち、豊かにそれを持つことができるのです。私たちの最後の大敵は死です。しかし主イエス・キリストはその最後の敵にさえ圧倒的に打ち勝ってくださいました。

第三に、この世で私たちを脅かす危険を避け、キリストと共に安全で豊かな人生を楽しむ唯一の方法は、私たちの人生をキリストに委ねることです。私たちはイエス様を信じて、従わなければなりません。イエス様はヨハネ6:47でこうおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」人々は人生で多くの良いものを求めます。愛、家族、生産的な仕事、良い収入、健康、美しさ、友人、名誉などです。しかし、イエス様は、これらのどれにもよらない「豊かないのち」を約束されます。イエス様ご自身も、妻も子供も家もなく、特にハンサムであったとも言われていません。イエス様は当時のエリートたちによってあざけられ、軽蔑されました。しかし、イエス様は、神の御国の栄光をご存知で、天の御父との絶え間ない交わりという豊かないのちを楽しまれたのです。神が目を開いてくださり、私たちをイエス様と共にご自身の御国に導いてくださるまで、私たちはその素晴らしいいのちの平安、喜び、栄光、そして満足を想像することさえできません。信仰も神の賜物です。神が与えてくださる信仰によって、私たちはキリストを信頼し、いのちの賜物を受けます。皆さんも、キリストが彼を信じるすべての人に与えてくださる豊かないのちを知ることができるようにお祈りします。

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