あなたがたはどの神に仕えるのか

KASUMIGAOKA 2017/04/30
SERMON: “Whom Will You Serve?” 「あなたがたはどの神に仕えるのか」
TEXT: 1 John 5:14-21
I. INTRODUCTION: ヨハネの手紙の意外な終わりかた 
  今日、ヨハネの手紙の最後の部分をむかえます。そしてこの手紙は意外な終わりかたをします。新約聖書の他の手紙は、結びの挨拶で終わります。例えば、「すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています」、または、「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」、等です。しかしヨハネは手紙を次のような言葉で結んでいます。「子どもたちよ。 偶像を警戒しなさい。」なぜヨハネはこのような意外な警告で手紙を締めくくっているのでしょうか。何日か前、スーザンとケアリーと私は加藤長老ご夫妻と三木の公園へ散歩に出かけました。そこで、このような看板がありました。「スズメバチやマムシに注意!」なぜこれらのものが危険なのか、私は理解しています。しかし、なぜ偶像は危険なのでしょうか。どのように偶像は人を害するのでしょうか。そのことをまず少し考えてみたいと思います。
II. THE DANGER OF IDOLS 偶像の危険性
  日本は偶像で満ちています。おそらく日本ではマムシよりも偶像のほうが多いでしょう。誰しもがどこででも偶像を見ることができます。公共の場所でお地蔵さまがあり、観音像があり、仏像があり、お寺があり、神社があります。そして個人の家の中にも神棚や仏壇があります。しかし日本だけでなく世界中に偶像礼拝があるのです。実際、アメリカにも日本と同じくらい偶像がたくさんあります。全ての国は、自分自身の偶像を持っています、偶像とは、私たちが人生において最も重要であると思っているものです。まことの神ご自身以外の、「究極的な価値」のあるものを偶像というのです。ある場所では、「人間」自体が偶像になります。ある人達は人間以上の存在はないと信じています。そしてまたある人は、人間が作ったものを礼拝し、それに仕えます。2000年前にイスラエルの民は「死海文書」という巻物を残しました。そこには、「自分の心に偶像を立ててはならない」という警告が書かれていました(クムランの「共同体の規則」)。そしてその1500年後、ジョン・カルヴァンは人間の心は「偶像の製造工場」であると言いました(キリスト教綱要I.11.8)。私たちは自分たちの周りの偶像だけでなく、自分たちの中の偶像を認識し、それを排除しないといけないのです。なぜ偶像は危険なのでしょうか。それはそれ自体に力があるから危険なのではなく、それが偽りであり、まことの神から人間を遠ざけるから危険なのです。
  偶像は人々の人生の中心を神様から他の物に置き換えようとします。第1コリント10:14で使徒パウロはこう言います。「ですから、 私の愛する者たちよ。 偶像礼拝を避けなさい。」そしてその何節かあとでこう説明しています。「私は何を言おうとしているのでしょう。 偶像の神にささげた肉に、 何か意味があるとか、 偶像の神に真実な意味があるとか、 言おうとしているのでしょうか。 いや、 彼らのささげる物は、 神にではなくて悪霊にささげられている、 と言っているのです。 私は、 あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」(10:19-20)言い換えるならば、偶像はそれ自体に力はないが、悪魔やそのしもべたちには力があるということです。この世の悪魔の力ある者は偶像を用いて人々を欺き、わなにかけようとします。エデンの園においてアダムとエバに起こったのがまさにこのことです。創世記の3章の話を覚えているでしょうか。エバは、神様の代わりに他の物を神の位置に置くように誘惑されたのです。真の造り主なる神様の命令を聞く代わりに、エバは自分自身の考えや希望や意見をその代わりに於いてしまったのです。エバは善悪の知識の木を見て、その木の実は神様から禁止されていたにもかかわらず、「そこで女が見ると、 その木は、 まことに食べるのに良く、 目に慕わしく、 賢くするというその木はいかにも好ましかった。 それで女はその実を取って食べ、 いっしょにいた夫にも与えたので、 夫も食べた」(創世記3:6)のです。私たちは、エバが蛇、すなわちサタンに誘惑されたとよく聞きます。しかしエバの罪の中に偶像礼拝があったことを私たちはしばしば見過ごすのです。エバの偶像礼拝とは何だったのでしょうか。エバが神様の代わりに仕えた偶像とは何だったのでしょうか。蛇はエバを誘惑し、彼女自身を礼拝し、仕えさせようとしたのです。創世記3:5で蛇は女にこう言います。「あなたがたがそれを食べるその時、 あなたがたの目が開け、 あなたがたが神のようになり、 善悪を知るようになることを神は知っているのです。」エバは自分が神のようになろうとしたのです。エバは神の知識や神の知恵を欲しがりましたが、へりくだって神様ご自身にその知識や知恵を頼むことはしなかったのです。ここにエバの堕落という悲劇のなかの皮肉があります。その皮肉とは、神様ご自身もエバに神のような存在になって欲しいと思っておられたということです。神様は私たち全員に神様ご自身のような存在になって欲しいと願っておられます。しかし、私たちは神の御前にへりくだって、神が与えてくださる救いに信頼し、神に従うことでそれを目指さなければならないのです。神を信じ、神に従う代わりに、エバは自分自身の意思をそれに代えてしまったのです。人間は今日も同じようにし続けています。神の命令に服従する代わりに、人間は個人や社会のために自分自身のルールを作りたがるのです。はたして何人の人がエバとアダムの例にならい、自分自身という偶像に従っているのでしょうか。
III. CONFIDENCE IN KNOWING AND SERVING THE TRUE GODまことの神を知り、まことの神に従う者の自信
  この手紙の中でヨハネはまことの神のちからを示しています。手紙の書き出しの1:1-3でヨハネは自分が宣べ伝えている神のリアリティーを強調しています。「私たちが聞いたもの、 目で見たもの、 じっと見、 また手でさわったもの、 すなわち、 いのちのことばについて。」このことをヨハネは読者たちに宣べ伝えているのです。それは何か空想の「存在」や哲学や「新しい宗教」のようなものではありません。ヨハネのメッセージの中心は概念ではなく、イエス・キリストという一つの人格なのです。この人格を知っている者、つまりイエス様がどのようなお方で、何をされたお方なのかを知っている者は、いのちを持つ者なのです。5:11でヨハネは、全てのクリスチャンのあかしはこうであると言います。「そのあかしとは、 神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、 そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、 神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」ヨハネにとって、人生における究極の問いは、「あなたは神の御子をもっているか?」ということでした。これ以上に重要なことはないのです。神の御子なるイエス・キリストを知ること以上に重要な知識はないのです。神の御子を持つこと以上に貴重な持ち物はないのです。「御子を持つ者はいのちを持っている」のです。
  なぜヨハネはここまで自信を持てるのでしょうか。ヨハネは「この宗教は本当に良い宗教だ。この宗教を学べばしあわせな人になれる。私が見た中で最も良いシステムの宗教だ」などということは言いません。ヨハネはこう言います。「この方こそ、 まことの神、 永遠のいのちです。」(5:20)ヨハネはイエス・キリストについて絶対的な自信を持っています。なぜなら、ヨハネは自分の言っていることがすべて真実で信頼できるものであることを知っているからです。これはとても驚くべきことです。これは全く超自然的なことです。実際、神様ご自身がこのことをヨハネや他の使徒たちに啓示されなかったとしたら、このような宗教や救い主を想像することすらできなかったでしょう。しかし神様は実際にこれらのことを全てヨハネや他の使徒たちに啓示してくださったのです。キリスト教は真実です。しかしそれは「自然なもの」ではありません。ある人々は、宗教は「自然なもの」でなければならないと思っています。つまり、宗教は不自然なものや奇跡を含んではならないと言うのです。しかし、なぜこの世界の造り主なる方が自分自身を「自然なやりかた」に閉じ込める必要があるのでしょうか。私たちの救いは全く神の超自然的な御業によるものであり、人間のわざでは決してありません。神はご自身の御子を救い主として送ってくださることを通して私たちを救ってくださったのです。神は御子イエスを送り、そのいのちを「なだめの供え物」としてくださり、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」てくださったのです。それでは私たちは何をすることができるのでしょうか。ヨハネは1:9でこう言います。「もし、 私たちが自分の罪を言い表すなら、 神は真実で正しい方ですから、 その罪を赦し、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」神が私たちに望んでおられることは、私たちが自分たちの霊的な状態の事実に「目覚める」ことです。私たちは自分の罪を言い表し、救い主に信頼しなければならないとヨハネは言うのです。罪人として、私たちは本当に自分の罪と罪過の中に死んでいた者たちでした(エペソ2:1)。しかし神様は私たちをその霊的な死という「眠り」から目覚めさせてくださるのです。パウロはエペソの教会にこう書き送りました。「しかし、 あわれみ豊かな神は、 私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 −−あなたがたが救われたのは、 ただ恵みによるのです−− キリスト・イエスにおいて、 ともによみがえらせ、 ともに天の所にすわらせてくださいました。」ヨハネは自分自身の救いについて確かな確信を持っていました。なぜなら、それはヨハネ自身の功績ではなく、完成した神の御業によるものだったからです。そしてヨハネは自分自身の救いだけではなく、神の御子の御名を信じるもの全ての救いをも確信していました。御子を信じる全てのクリスチャンは、同じ確信を持つべきです。それがこの手紙が書かれた目的なのです。ヨハネが5:13で書いているとおりです。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、 あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、 あなたがたによくわからせるためです。」神の御子ご自身があなたに永遠のいのちを与えてくださったからこそ、あなたの救いは確実なのです。この聖書のメッセージはとても奇妙で予期しないものですが、真実なのです。
  キリスト教の本質はヨハネが5:20でまとめてこう書きました。「しかし、神の子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」神の御子イエス・キリストがご自身の恵みとまことによって、神の栄光をあらわしてくださったのです。そのイエス・キリストを知っているなら、あなたは虚しい偶像を代わりに選ぶでしょうか。
IV. CONCLUSION  結論
   この説教の結びに、ヨハネがここで教えていることをよく思い巡らしていただきたいのです。ヨハネは、クリスチャンがまことの神を知り、まことの神に仕えているということを示しています。人間の好き勝手な礼拝は偶像を中心とします。ある偶像は木や石で造られたでしょう。ほかの偶像は金や銀で作られたかもしれません。それにほかの偶像は、はるか昔に私たちの父祖の最初の罪を犯させた偶像のように、人間の心の中の考えなのです。しかし、どのような物質で作られても、すべての偶像はむなしいものです。真の創造主なり、救い主なる神様と違って、偶像は人間の私たちのために良いことをほんの少しもしてくれません。真の主なる神は違います。 詩篇135篇5節で言っているように、「まことに、私は知る。主は大いなる方、私の主はすべての神々にまさっておられる。主は望むところをことごとく行われる。」他のどんな神やどんな宗教も偽りです。WSC(問5)に書いてあるように、「唯一の神がいますだけで、それは生ける真の神である。」同じように、イエス様もこうおっしゃいました。「わたしが道であり、 真理であり、 いのちなのです。 わたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)これは自慢ではありません。他の宗教を侮辱する意図でもありません。事実を述べているだけです。あるものはそのあかしを信じ、あるものは拒みます。しかし全ての人はこのことを注意深く考えるべきです。もしイエス・キリストを知っているなら、あなたはまことの神を知り、永遠のいのちというたまものを持っているのです。そのいのちは神の御子のうちにあります。来週主の晩餐にあずかる備えとして、そのいのちのたまものが神の御子キリストを通して私たちのうちに神によって与えられていることを覚えましょう。あなたにいのちを与えるために来られた神の御子を、あなたは知っていますか?
主の晩餐にふさわしく与るために私たちは自分の心を吟味しなければなりません。私たちが心の中で、真の神なり、救い主なるイエス・キリストを遠ざける偶像を立てたことがあるかどうかを調べなければなりません。主イエスの称賛や報酬よりも求めているものがありますか。たとえば、妻、または夫からの称賛、両親からの誉れ、職場の社長に認められること、または同僚からの称賛をまず第一に求めるべきだと思いますか。あなたが目指しているものは、キリストに従わないように誘惑していますか。愛する皆さん、心の中の偶像を警戒しなさい。使徒ペテロは、その第一の手紙3:15でこう言っています。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」皆さん、どう思いますか。ご自分の心の中で、人生の主としてだれをあがめるのでしょうか。あなたにとって、いのちの希望はいったい何にかかっていますか。もし、いのちの希望を主イエス・キリストにおいたのなら、心の中で偶像ではなく、キリストのみあがめるでしょう。信仰によりキリストがあなたの心に住んでおられるのなら、すでに永遠のいのちを持っています。キリストは人間の作る偶像のようなものではありません。偶像には、いのちも、力もありません。しかし、主イエス・キリストはいのちの主、いのちの源であられます。主イエス・キリストこそ真の神、永遠のいのちです。こういうわけで、主の御名を讃美し、主に感謝し、主に仕えましょう。

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